● パワーポップはいいのか?
で結局のところ Power POP はいい音楽であるのかというと、個人の好みを外すと、
かなり苦しいのは確かである。いや決して悪い音楽ではないけれど。
それとされるバンド群のほとんどが革新的とかそんなことはほとんど何もしていないし、毒も害もない
POPな音楽、、、、つまり毎日聴きつづけたら飽きるであろうバンドがほとんどであることは
認めざるを得ない。(私とて THE KNACK の「GET THE KNACK」を毎日聴くのはつらいだろう・・・。)
「今それを聴くことに何の意味があるの?」「みんな“例の4人組の子供たち”みたいな
曲ばかりじゃん」「退屈。つまらない。ダサい。」・・・もしあったとして、そういう意見には全く異論の
余地が無い。
しかしである。「つまらない、とるにたらないなんてことない音楽。」と思われることは多い
かもしれないが、曲を聴いていて「不快だ。」と感じる人は少ないのではないかと思う。つまり言ってる
ことは上と変わらないのだが・・・つまり“毒も害も無い”ということか。これはどういうことか?
ここで私は“例の4人組”The Beatles を引き合いに出してみたい。Beatlesというのは改めて言うまでも
なく有名なバンドである。(これにケチをつける人はあまりにひねくれ者です、話が先に進みません。)またよく言われることで
あるが、有名な曲というのは Paul McCartney の曲であることが多い。“Yesterday”、“Hey Jude”、
“Let It Be”、“Here, There And Everywhere”、“Hello Goodbye”、“Lady Madonna”、
“When I'm Sixty-Four”、などなど。しかし少しだけでも踏み込んで聴いてみると Beatles はそれだけの
バンドではないことがわかる。デビュー時と解散時は全く違うバンドだと思っても差し支えないぐらい
変化している。「彼らは結局ブルーズバンドだった」とか「一生涯フォークのカリスマだった」とか
いうことが全くない。かといっていろんなことを中途半端にやった、というイメージも抱かせない。
ちょっと音楽知ってる人なら「そんなこと言われんでもわかっとる」ということだろうが、
ここは重要である。時代ゆえ、というのもあるのであろうが、ありとあらゆることをやっている。それこそ
'50 スタイル R&R・R&Bやポップスタンダードカバーからはじまり、モータウン風、ボブ・ディラン風
フォークスタイル、ビーチボーイズばりのコーラス、カントリー、スキッフル、4ビート風、自己感情吐露、
POPスタンダード、ヘヴィ・メタル、ハード・ブルーズ、ギター弾き語り、ピアノ弾き語り、ラーガ・ロック、
前衛音楽、ドラッグソング系、サイケ、ハリウッド風オーケストアレンジ、フィードバックギター、
テープ操作、様々なSE、宗教音楽、レゲエ風、伝承音楽系、様々なバラード、・・・本当に何でもやっているのだ。
今からすれば何てことないのかもしれないが、やっぱり最初にやった人はすごい。(“R&R”ではなく、)
“Rock”を造った・・・というか結果として整理整頓、体系づけたのは彼らだ、と強引に言いきってしまえるかもしれない。だからこそこれだけ支持され
続けるのであろう。
しかし大して音楽を聴かない人にとってはやっぱり有名なのは POPな曲であり、
名曲バラードであり、、、広く認知されるものに必ず価値があるなどとおしつける気はさらさらないが、
「毒も害もない、ただいい曲」であることはこうしたスタンダードになる一つの条件であるように
思う。しかしそれだけではだめで、「いい曲」が広く「いい曲」だと認知されるには+α、それを
支えるバックボーンが必要であるように思う。Beatlesで言うならJohn Lennonを核としたBeatles
という存在そのもの。ただメロディがいいだけの曲ならきっとこの世にゴロゴロあるだろう。
それが「いい曲」たるためには音符や歌や演奏といったような表面にあらわれるもの以上の
何かがやっぱり必要なのだと思う。
まさにパワーポップとはその“何か”が欠けているものだと思う。いやこれは
全く批判でも何でもない。「ただいいもの」だけ取り出したのがパワーポップなのだ。ただただ音楽が
好きで、若い頃聴いたすばらしい曲のような曲を、こういう音楽をつくって演奏したい、というような・・・。
Beatlesはいろんなことをしていると先述したが、その中からPOPな、メロディアスな、元気な、部分を
抜き出した感じ・・・というか。非常に一本調子であり、極端な Beatles 解釈ではあるがやはり一番的を
得ている解釈をして、それを体現しているのがパワーポップバンド群であると思う。もちろん
パワーポップとされるバンド全てがこれで説明できるわけではないが、基本となる部分に必ず持っている
と思う。逆にそうでないバンドは私からすると、パワーポップではない。
少々話が反れたか。パワーポップはいいのか、というタイトルであった。よくない
はずは・・・ないと思う。(ちょっと自信ない・・・)それは上記理由による。しかし、再三繰り返すようだが、
ただ「つまらない」とか「古臭い」とか感じる人も必ずいるはずである。例えば Beatles の中で今聞いても
非常に進歩的な“Tomorrow Never Knows”がFavariteだと言ってる人にいくらパワーポップの良さを説いた
ところで心から好きにはなるまい。しかしパワーポップに関してはその「つまらない」はただ個人の好みの
範疇云々だけではなく、上記理由に起因していると思う。「何か」が足りないのだ。
では「何か」が足りないのはよくないことなのか?確かに世紀の名曲はできないのかも
しれない。典型的な「“パワーポップの”名曲」というのはことごとく「何か」が欠けている。しかしまあ
それは楽曲が悪いというのではない。ただ型通りPOPであることだって誰にでもできるわけではない。しかし
何かを切り開かなければそれは真の意味で「名曲」たりえない。パワーポップはそれを突き詰めれば
突き詰めるほど、言い換えればその純粋培養を進めれば進めるほどある終息点に近づく、つまり「名曲」
たりえない地点に向かう、何とも矛盾を抱えたものであると思う。
それでいいのである、というのがパワーポップバンド群のつまりスタンスであろう。
いや無論公言したりはしないであろうが。だって好きなのだ、そういうのが。売れなくてもいい、っていう
つもりはない、というか売れなければ POP MUSIC としての価値がないのは重々承知であろう。POPが売れない
のは信者がいない宗教と同じである。しかし、こういうのが好きなのだ。こういうことをやってることに
自信があると、誇りがあると、これらのバンド群の方々は言うであろう。あたりまえだが、愛聴する人
だってただ好きだから聴くのだ。しかし本当に自信があるのか?好きなのか?・・・そういった疑問はおそらく
こういった楽曲を聴くことで、創ることで一発で氷解する。「ああ、私はこれが好きだなあ。」と。どんな
音楽だってそうに決まってるではないか、とケチをつける向きもあるかもしれない。しかし、パワーポップは
こういった傾向が非常に強いと思うのだ。少なくとも私自身にとってはそうである。多くの(ブーム便乗でない)
パワーポップ好きにとってもきっと似たような思いがあるのではなかろうかと想像するがどうか?(いや
別にブームではじめて耳にした人を差別しているわけではありません。勘違いなさらないように。私とて
大して詳しくもありません。)
The Knack '98再結成アルバム「ZOOM」の“POP IS DEAD”を聴いて「ああKNACKって、パワーポップって
すばらしい」と手放しで感激した人は私だけではないと思う。あの“感じ”は非常に「パワーポップはいいか?」
の回答になっていると思う。
これでは私は何も言っていないか?もう一押し付け加えよう。今まで述べたことより
言えるのは、つまりパワーポップは「ちょっと音楽聴きます」、というだけじゃなかなか巡り会わない、
いってみればマイナーなものばかりである。それどころか「かなり音楽聴きます」という人からは逆に
見向きもされない可能性が大きいのもまた真である。何かきっかけがあって、かつ聴こうと思わなければ
なかなか直球で触れることがないと思う。聴かせてもらったところで、「ああ、いい曲だね」「なつかしい感じだね」
で終わることは間違い無い。しかし私的にはハマッた時の爽快感は他の私の愛するバンド群では味わえないもので
ある。人生の何かを変えたりする力を持っているような感じはほとんどのバンドにない。
しかしこれをベースに音楽を聴く限り、一生Rockを聴くことができるような“感じ”を私にもたらしてくれる。
歳をとったからといってRockを聴くのをやめたりはしたくない、まただんだん聴かなくなっていくようなのも
嫌だと思う。そんなことを考えるとき、パワーポップを聴くと私は50になったって Rock を聴いていられる、
と感じる。
私がパワーポップバンド群を聴けなくなるとき、それは私が POP Music を聴けなくなる
ときである。きっと間違いないと思う。それは私がBeatlesの何が好きか?という問いにも連動している・・・
つまりそういうことだ。
ああ、パワーポップってすばらしい!
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AZUMA.Yoshikazu(C)1999