● 本格とは何か?

   “本格”ミステリとは何か?これは非常に盛んに議論されていることで、あさはかな 私の知識どころで偉そうなことはとてもとてもとても言えない。私の初めて出会ったこういった議論は もちろん島田荘司氏の「本格ミステリ宣言」である。大学2年ぐらいであったと思う。その後「本格 ミステリ館にて」「本格ミステリ宣言U〜ハイブリッド・ヴィーナス論」「奇想の源流」などに つながっていく。しかし、氏の提唱したこの論は様々な議論を巻き起こし、その方法・内容に問題点が 多々指摘されたという。その内容はよく知らないが、そういう議論を起こす土壌を築いたという点だけでも 意義深いと思われる。

   ここでは氏の“本格ミステリ”論を要約した形で少しずつまとめてみたい。それは私なりの 意見というのを言えるほど深く知ってはいないのもあるし、信奉者ゆえ氏の言ってることはすべて正しい ような気がしてしまうのもある(まあそれは冗談だが)。


1、「本格」という言葉の起こり

   ミステリなり推理小説というものは無論明治以降に本場アメリカから“輸入された”もの である。故にもともと“輸入品”のこれらの言葉群(探偵とか推理とか)は元の言葉の翻訳であった。 しかし、「本格」という言葉に関しては、実は英語にはそれにあたる言葉がない。つまりミステリ・ 推理小説において「本格」という表現は日本で以外使われない、存在しないのである。
   そもそもこの表現は作品の優劣を表すために創られた言葉ではなく、単に作品の作風を説明し、他の作品群から区別分類する ために登場してきた言葉である。つまり「ある傾向の推理小説」「ある条件を満たす推理小説」などをこう 呼ぼうということであった。古くから推理小説・ミステリ界の人々、甲賀三郎氏、木々高太郎氏、江戸川乱歩氏などが こういった提唱を繰り返してきた。
   島田荘司氏は「本格ミステリー宣言」中の「本格ミステリー論」の中でこう述べている。

   「本格」とは推理小説・ミステリという特殊な文学を発生せしめた原点である。 この精神を正しく継承する作家が、歴史上の各地点において連綿と本格作品を産み出しつづけており、 これらの本格作品の発散するスピリットが本格以外の「応用的推理小説」を常に誘発し続けてきている、 〜(中略)〜 この意味において本格は貴重なのである。本格のスピリットを持つ作家が文壇より消滅 すれば、推理小説は背骨を失うも同然である。

   つまりこの原点におけるスピリット、この精神への日本人の理解・愛情がこの「本格」と いう決して翻訳ではない日本語を生み、現在本場で消え失せた「本格物」を発展させつづけているというのが 氏の意見である。この「本格」という言葉の起こりには「原点の精神を忘れまじ」という主張が込められている、と。

   つまり様々な議論や紆余曲折を経て生まれたこの「本格」という言葉、ある時はその「本格」 と分類するものを推理小説の中で最も価値のあるものとして定義したいというような意図があったり、明治 以降、一般の文学より一段低く置かれていた探偵小説を文学たらしめようという意図があったり、島田氏の いう通りこの「本格」なるものを愛し、理解していた故に生れた主張 → 精神であるというのは非常に 魅力的で説得力のある考え方である。つまりそんな風にして「本格」という言葉が起こったというのは 間違いがない。


2、「本格」という概念

   ここまで「本格、本格」と言葉を先行して使っているが、「じゃあ『本格』って何?」 ということになる。つまり「本格」の定義である。しかし、そもそも「本格」が精神である、ということ になれば、それを定義するというのは非常におかしな作業となる。しかしまあどんな概念なのか?という ことを考えていくこととしよう。しかし、この概念を追っていくには推理文壇における「呼称」の変遷 の歴史、「探偵小説」〜「本格推理小説」をみていく必要があるようだ。以下、島田氏の文を要約する形で すすめていく。

   「探偵小説」とかいう言葉は英語でいう detective story の翻訳語である。この 「探偵小説」という言葉が生れたのは明治23年2月 黒岩涙香氏の「無惨」の序文にて梅廼家かほる氏なる 人物が使った表現からであるという。
   この「探偵小説」が一般に普及し人気を増すにつれ、怪奇・幻想小説、空想科学小説、 冒険秘境小説など様々なエンターテインメント小説もこのただし書きで刊行されるようになる。つまり “便乗”である。そこでこういった出版ジャーナリズムは仕方ないものとし、論理性に重点をおいた エドガー・アラン・ポーなどの原点に忠実な作品群は「探偵小説」の名のもとに同居する他の小説群とは 区別しようという運動がおこりはじめる。
   大正13年、佐藤春夫氏が論理的な推理と合理的な解決を持つものを「純粋な探偵小説」 と呼び、14年に甲賀三郎氏が「純粋探偵小説」という言葉を世に提示したらしい。これは「探偵小説」同様 英語の pure detective を翻訳した語である。しかしこの翻訳語は推理文壇には充分定着しなかった。 この pure detective という言葉は所謂「倒叙」に対する区別用語で、明らかに使用意図が異なっていたのも ポイントであろう。適切な日本語の発明の必要を感じた甲賀氏は翌15年、異常心理や病的な事柄を扱う探偵 小説を「変格」、純粋な論理的興味を重んじる探偵小説を「本格」と命名する。ここで大正15年にして 日本語「本格」が登場する。この語は分類に非常に便利であったので、たちまち定着して現在にいたる。

   一方“探偵”ではなく、「“推理”小説」という言葉に関してだが、この語がこの世に 登場したのは戦前の昭和17年と言われている。しかし甲賀三郎氏はこの言葉を「本格探偵小説」とは全く 解釈の重なるものと定義したらしく、特に世に定着させようという意図はなかったようだ。
   しかし、戦後になり、木々高太郎氏があえてこの呼称を提唱した。これが昭和21年7月の ことである。この提唱の意図は、単に「本格探偵小説」をそう呼び換えようというものではなく、「推理と 思索を基調とした小説」“全般”をこう呼ぶことを意図、つまり広く文学の領域に含まれるものをも取込んで 探偵小説事体も文学たらしめようという意図が見える。江戸川乱歩氏や大坪砂男氏も「推理小説」という言葉を 提唱したが、これはむしろ甲賀三郎氏寄りで、「探偵小説」にあまりに同居者が多い為、エドガー・アラン・ポー の流れを汲む「本格探偵小説」をより一層明確に区別するために「推理小説」と別称で呼ぼうというもの であった。

   しかし、ここでそんな議論をよそにとんでもないことが起こる。昭和21年11月、 「当用漢字表」なる怪しいものが内閣訓令で告示公布される。昔から変わらぬ日本のジャーナリズムは それに意味もなく自主的に従った。しかししかし、なんとそこに「偵」の字が含まれていなかったのである。 そこで「探偵小説」は「探てい小説」と表記するしかなくなった。・・・・・・この事件を契機に全く意図とは 関係なく「推理小説」という言葉は代用語として定着するにいたる。「偵」の字が補正で加わっても 既に「探偵小説」を一世代前の低俗なものというイメージが定着し、二度とこの「探偵小説」という 言葉が復活することは起こっていない。
   つまり「推理小説」という言葉は木々氏側にしろ、甲賀氏側にしろ、「探偵小説」から 「本格」と呼べるようなものを切り分けようと創られた言葉であるにもかかわらず、「探偵小説」全体を 表現する言葉になってしまったのである。

   歴史は繰り返す。「推理小説」にも実に様々な小説が同居するようになる。江戸川乱歩氏 などからすれば、そもそも「“本格”探偵小説」を切り分ける意味で提唱した「推理小説」であるが、 そこから再び「本格」を切り分ける必要が生じた。ここで再び「本格」の言葉が登場することになる。 つまり「本格推理小説」という言葉の誕生である。言ってみれば「本格本格探偵小説」であり、この 「本格推理小説」という言葉はその発生の歴史や意味をまるで理解されぬまま現在使用されるにいたって いると言えるだろう。

   こうして見てきて「本格」という言葉の概念はお分かりいただけると思う。はっきり 定義できるものではないが、つまり「本格」という言葉の必要性は様々な作品群から“論理性”とか“思索性” とかを持った作品、すなわち原点のエドガー・アラン・ポーの「モルグ街の殺人」の生まれ落ちた瞬間の 精神を純粋に継承する作品を切り取ろうという作業からきていることがみてとれる。


3、「本格」という言葉の意味の歪み

   1999/11/21ここまで。(次回 Update へ続く。)


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