戦場にかける橋

 
 

 戦争映画の名作「戦場にかける橋」の舞台となったのは、全長400kmにもおよぶ泰面鉄道のタイ−ミャンマー(ビルマ)国境の険しいクワイ河渓谷にかけられる木造橋でした。この鉄道建設には連合軍の捕虜のほか、多数の現地人労働者も動員され、建設道路やトンネル、多くの木造橋、鉄橋を築きました。
 私が最初にタイを訪れた当時(1981年)、ミャンマー政府は鎖国政策をとっていた時期で、国境の密林へ分け入ることは到底不可能で、そこで仕方がなくバンコクからバスで2時間程にあるクワイ河下流のカンチャナブリ鉄橋を
訪れることにしました。

 
 

 タイ側の橋の終端よりミャンマー側をローアングルで望んだ写真。この旧泰麺鉄道の線区は、現在では使用されておらず、付近の住民の歩道橋として役立っています。レールと木材は、まだ使用可能なぐらい状態は良いようです。

 
 

 ミャンマー側へゆっくりと歩いて渡ります。もちろん、「クワイ河マーチ」の口笛を吹きながら歩くのが鉄則です(笑)
 私は最初、間違えて大脱走マーチを吹いてしまいました(爆)

 
 

  ミャンマー側の橋の終端。これを見てもわかる通り、鉄道はここから熱帯雨林が多くなり、遥かに望む国境の険しい山岳地帯を越えなければなりません。カンチャナブリの郊外には、一見掘っ立て小屋のような粗末な体裁のJEATH戦争博物館があるのですが、そこには次のような説明文が書かれてあります。

 「泰麺鉄道―――太平洋戦中の1942年、日本軍はタイ=ビルマ間にインパール作戦遂行のため全長415kにおよぶ鉄道の建設に着手した。これは当時の日本軍が救援物資輸送網として完成を急いだため、本来ならば5年かかる工事を1年3ヶ月で築きあげられた。この建設にあたって連合軍の捕虜、タイ人、マレーシア、ビルマ人などたくさんの労働者が狩り出され酷使されたため栄養失調、伝染病(コレラ、マラリア)等多くの犠牲者をだした。その数は連合軍捕虜15000人、現地労働者30000人にも及んだ。犠牲者の数は泰麺鉄道の枕木の数のように多いため「枕木一本、人一人」と言われた」

 「インパール作戦のために」というのは疑問ですが、一瞬、多大な犠牲を払った貴重な戦略鉄道をどのように使うと、ああいう結果になるのかと考え込んでしまいました。泰麺鉄道の行き先が白骨街道というのは、あまりにも恥の上塗りのような気がします。


 
 

 タイ側の岸は、すぐカンチャナブリ村です。現在ではクワイ河沿いにリゾートホテルが立ち並び、橋の付近には御土産物屋が軒先を並べていると言いますが、19年前はご覧の通り何もないのんびりとした農村でした。
 

 
 

 今もコンクリート橋脚が、橋梁を支え続けています。クワイ河の流れはゆったりしており、水牛が水浴びし、水遊びする村の子供達の嬌声が今でも耳元に残っています。
 

 
 

 唯一、戦争当時の様子を伝えるオブジェがクワイ河の手前にあります。連合軍がこの橋を目標として投下した不発爆弾のようです。「Those days never return(戦争の日々は二度と御免だ)」というフレーズは、少々あざといような気もしますが、無理やり同盟国となって戦争に駆り出されたタイの国民にとっては、偽らざる心境かもしれません。


 
 

 19年前の私はスマートで髪の毛も一杯ありました(笑)。後ろにいるオバチャン達は、ミャンマー側からカンチャナブリへ買出しに来た地元の人たちです。 
 戦跡巡りをすると平和を実感することしきりなのですが、ここカンチャナブリ橋は、私が訪れた数ある戦跡の中で一番平和な、いや平和そのものが河にかかっているような、そんな思いがしました。