Remagen鉄橋

 
 

 私がRemagenを訪れたのは1978年のことですが、このルーデンドルフ鉄橋跡(俗称はレマーゲン鉄橋)に関しては周囲の環境はあまり変化がなく、私が感じた21年前の感慨を今なお味わうことができます。なお、上の写真は戦前に写された在りしのルーデンドルフ鉄橋ですから勘違いしないで下さい。
 

 
 

レマーゲンはコブレンツからボン行きのライン河下りの観光船を利用すると、途中で通りますから誰でも見ることができます。しかし、高速観光船だとレマーゲンには止まりませんから、降りて辺りを散策する場合は、各駅停車の一般船を利用しなくてはなりません。レマーゲンの街並と 船着場は西岸ですから、西側の橋脚跡は簡単に見ることができます。
 

 
 

 しかし、東岸は地形も険しく渡し舟もありませんから、行くのは大変です。有名な映画「レマゲン鉄橋」に出てくる国民突撃隊などが立てこもったトンネルが、崖の中腹にあるのが確認できますが、私が行った当時は閉鎖されて立ち入り禁止となっていました。
西岸の橋脚付近は材木置き場となっており、クレーンなどが据え付けられていて往年を偲ぶものは残されていませんが、橋脚上に翻る星条旗とドイツ国旗が55年前にここで何があったかを示す唯一の証となっています。
   

 
 


 

西岸橋脚の真正面  

橋脚アーチの基礎付近 

在りしの戦闘を記念して2つ国旗が翻る

 船着場から写した現在のレマーゲン 

米第1軍に奪取されたばかりの鉄橋を東岸の
トンネル側から撮影した写真

工兵が補強作業を行っているが、この写真撮影
から4時間後に橋は崩壊した。(1945. 3.7)

鉄橋の対空任務に就く米軍ハーフトラック

倒壊した鉄橋の様子    


 ドイツ軍レマーゲン守備隊は、実質的にはプラートケ大尉指揮の中隊で僅か36名の兵員であった。重火器はMG34およびイギリス製ブレン機関銃が2挺づつ、ポーランド製重機関銃3挺、ソ連製迫撃砲3門であり、前年の12月にイタリア製ブレダ高射砲1門を支給されて全員嬉し涙にくれたという、語るは涙、聞くは笑いの戦力であった。この他に、橋の爆破のためにフリーゼンハーン大尉の工兵1個中隊約120名あった。その他は紙上の存在であり、約180名のヒトラーユーゲントと120名の東方大隊が周辺に散在し、空軍高射砲部隊ほかが220名ほど配置されていた。さらに、ライン河両岸の村々の国民突撃隊が約500名ほどが名目的には存在していたが、戦力とはならなかった。
 
 1945年3月7日正午過ぎ、アメリカ第1軍の先鋒部隊の攻撃が始まった時、これに対処できる部隊はプラートケ中隊とフーゼンハーン工兵中隊の一部であり、この100名足らずの兵士がレマーゲン防衛隊のすべてであった。
 
ドイツ工兵部隊は午後3時頃、橋に仕掛けた爆薬に点火したが、支給されたのが600kgの軍用火薬ではなく300kgの工業火薬であったため破壊力が弱く、橋の爆破に失敗し、貧弱な装備の守備隊員36名の健気な抵抗も空しく、ルーデンドルフ鉄橋は1945年3月7日午後3時30分頃、米軍第9機甲師団第27機甲歩兵大隊A中隊によって奪取された。最初の24時間の間に、アメリカ軍は約8000名と大量の物資、車両を渡河させた。

 しかし、橋の余命は短かった。以前より連合軍の爆撃により数発の直撃弾を被り、その後、ドイツ軍側の爆破により損傷していた橋は、その後のドイツ軍の砲撃、爆撃、そして12基のV2号の至近弾による振動で痛めつけられた。そして、3月17日の午後3時過ぎ、突如として200名の米軍兵士と伴に倒壊して水没した。

 そして、鉄橋は戦後もついに再建されず、今なお当時の姿のまま、橋脚だけが東西の岸にそびえているのである。