修大バスの沿革


1,修大バスとは

「修大バス」と聞いてすぐ解る方は、広島の人だろう。修大バスとは、広島修道大学のスクールバスのことで、

修大生だけでなく、広く広島市民の間にも修大バスという名称は、浸透していた。

ちなみに修大バスは、広島電鉄のバスで運行されていた。

2.修大バスの歴史・開設の経緯

修大バスの歴史は、1974年に遡る。広島修道大学が、広島市内の観音(現在の西区)から、

沼田町(現在の安佐南区)に移転したのだ。しかし、当時の沼田方面の交通事情は悪く、

公共交通機関は、広島駅から安古市を経由し、大塚に至るバス路線のみであった。

しかも、片道約22キロ、所要時間70分から100分、通学定期で月5760円

という時間的にも経済的にもかなりの負担であった。そこで、大学側は、

学生・職員の通学・通勤の手段を確保する必要性に迫られた。

そこで登場となったのが、「修大スクールバス」、通称「修大バス」だ。

修大バスは、大学の「動く施設」として広島電鉄の運行で走り始めた。

スクールバスの運営費用は、大学構成員で一律に負担した。当時一人当たり25200円で

月換算すると2100円であった。ちなみに、運行終了時は、年間72800円であった。

このとき登場した路線が、当時まだ路線バスのなかった「己斐峠線」と前述した「安古市線」である。

便数は、開設当時66本で、運行終了時は133本であった。

3.修大バスの歴史・運行終了まで

その後修大バスは、学生の増加とともに、路線・便数も拡大していった。

五日市町(現佐伯区五日市)への、「五日市線」、西広島バイパスの開通に伴い「田方新道線」と

4路線まで増加した。運行終了直前まで、安佐北区可部方面の路線開設を望む声が多かったが、

ついに、幻となってしまった。

以来、広島の風物詩とまでなった、修大バスであるが、

大学を取り巻く環境が、アジア大会開催決定を機に大きく変化する。山陽道の開通、周辺道路の整備、

そして「アストラムライン」の開通、また「車の修大」といわれるほどのマイカーによる通学。

このような状況の中で「修大バス」は1994年9月30日、20年の歴史の幕を閉じた。

バックは現在の広域公園。当時、何も無い。


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