津軽民謡

十三
市浦村十三は、津軽半島の西北部に位置し、東側にはシジミで有名なじゅうさん十三湖が広がります。
13の河川が流れ込んで出来た潟湖が由来で「じゅうさん」と呼ばれていましたが、何時の頃からか「とさ」とゆう地名で呼ばれるようになり、さらに後、元禄13(1700)年に、津軽家5代藩主・津軽信寿が土佐守に任じられたことから、それをはばかり「十三」は「とさ」から「じゅうさん」に改めたといいます。
またトー・サム(湖・のほとり)というアイヌ語を語源とする説も有るそうです。

十三湊
十三は、鎌倉時代から江戸時代まで、さんしん三津しちそう七湊の一つといわれ、三厩、深浦、鰺ヶ沢とともに「津軽四浦」の1つとして知られ、日本海を航行する北前船の「弁財衆」が集まって大変に賑わいましたが1340年8月には、この地を襲った大津波によって一瞬にして廃墟となり、この地を支配していた安藤氏が南部氏との抗争に敗れ蝦夷地への敗退した事と相まって、衰退が進み、栄枯盛衰を極めた中世海運の中心都市「十三湊」を偲ぶべきもなく、荒れ果てた砂浜になってしまいました。
現在発掘調査中の十三湊遺跡は、港湾施設が南北に約200m以上にわたって広がり、町並みも2キロ以上に渡り続いた大規模なもので、幅約7mのメーンストリートや、外敵に備え、幅2m、深さ0.5m程の堀を巡らした領主館や家臣団館跡が発見されており、館跡からは、往時の繁栄振りが偲ばれる青磁、白磁、珠州焼、越前焼、常滑焼、信楽焼等の大量の陶磁器、漢、武帝時代から明代までの膨大な中国銭等が多数発掘されています。
(弁財衆とは、船頭衆の責任頭のこと)。

津軽民謡
北前船(弁財船)が松前から蝦夷地の物資を日本海経由で内地、上方へ運んでいました。陸運による大量の物資の移動手段が無い時代は、この船による交易が盛んに行なわれていましした。このとき同時に宗教、文化、芸術も一緒に伝えられました。このとき北前船の船乗りがうたった唄が日本海沿岸の各地の港町に聞き伝わり、それが更に本州北端の地、津軽にまで伝わりさらに、津軽独特の文化風土で昇華され現在の津軽民謡の姿になりました     。 
(主に離れゴゼが伝えたとの説も有リます) 
(民謡の起源由来には数々の言い伝え、諸説があります)

あどはだり
津軽三味線奏者は流派、個人により曲が違う為、他流派との合奏が難しかったため
故山田千里さんが皆で合奏出来る様、作曲した合奏曲
津軽弁でおかわり、再びねだるの意味

りんご節
津軽民謡の大家、名人・故成田雲竹翁が青森市の要請により、りんご作りの作業唄として、昭和29に作詞作曲され、曲調は埼玉県入間の「麦踏唄」からとり、故高橋竹山師が三味線伴奏をつけました。

十三の砂山
元々は「酒田節」と呼ばれる日本海沿岸では歌われていた「舟唄」*が伝わったもので、砂山節、または砂山踊りといわれており、楽師、館山翁(大正初年亡)父子の手によって継承されました。
太鼓だけの伴奏による素朴な盆踊りの唄ですが、昭和26年、故成田雲竹翁が、編曲し、故高橋竹山師が三味線伴奏をつけ現在の形に至っております。
*酒田で酒田興屋(こや)の浜 米ならよかろ 西の弁財衆に ただ積ましょと唄われ、各地に伝えられたようです。
新潟では「弁財衆」の転訛である「米大舟(べいだいしゅう)」という曲が伝承されています
(山王坊という僧侶が作曲した説も有るそうでです?)

あいや節
北前船の船乗り達によって九州の「はいや節」が日本海経由の港々へ運ばれて各地に定着し、新潟で「佐渡おけさ」更に北上して津軽では「津軽あいや節」となりました。
曲調には陰調律と陽調律があります。
「あいや」の語源は、「みなみかぜ(南風)」のことを「はえ(南風)」と読み、この「はと言う事です。え(南風)」という言葉が地方で変化し 「はえ→はえあ→はえや→はいや→あいや」と変化したそうです。
ちなみに、琉球の言葉で「南風」は「ぱいかじ」


じょんから節(起源)
津軽民謡の三大節の一つ、上川原節とも書かれ、起源は慶長二年 (1597年)二月二十八日、大浦為信(津軽家初代)に攻められ、家中五百余軒、農家八百軒、350年間十一代にわたって津軽平野の東で繁栄してきた南部藩、浅石城主千徳家が滅亡し、このとき千徳家の菩提寺の神宗寺、朝辻堂の僧、常椽(じょうえん)和尚は山伏姿となり、先祖代々の位牌を背負い、南部領に逃げようとしました、しかし捕らえられそうになり、白岩の断崖の頂上から浅瀬石川に身を投げ、命を絶ちました。数年後の夏の日、川原で水遊びをしていた村の子供達が、砂の中から、常椽和尚の変わり果てた屍を見つけた村人達が、その場所に墓を作り、手厚く葬り「常椽の墓」と名付けたので、この辺一帯を常椽川原(じょうえんかわら)と呼ばれる様になり後に、この辺りを「じょうかわら」(上川原)と呼ぶようになり、じょんから節の名の由来となりました。
 それから毎年お盆になると、村人は「常椽の墓」に集まり、供養をし、無き千徳家をしのび、先祖の霊を慰める盆踊りを行って、即興の唄をうたったのが「じょんから節」であると伝えられています。

(じょんから節はちょんかれ(坊)節、新保広大寺を起源とする等の諸説があります。)


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