扉を開けた途端、まるで襲われるように甘い匂いに包まれる。
覚悟していたこととは言え予想を上回る強烈な香りに、赤野は一瞬気が遠くなった。
クリスマスにケーキに挑戦した弾道が今日のこの日にチョコレートを作らないはずがないのだ。ましてクリスマスには失敗しているので尚更である。今度こそ成功させてみせると意気込んでいることだろう。
赤野は覚悟を決めると、扉を閉めて靴を脱ぎ、甘く澱んだ空気をかき分けてリビングへ向かった・・・。
〜甘い誘惑〜
「たーくーさんっ♪」
がばっ、と。
リビングに入った途端、勢い良く弾道に抱きつかれた。てっきり弾道はキッチンに篭もっているものと思い込んでいたので、油断していた赤野は反動で一歩下がってしまう。もちろん弾道はしっかり抱えたままだったが。
「おかえりなさ〜い〜〜拓さん〜〜」
「ああ。ただいま、ダンドー」
妙に間延びした弾道の声を多少疑問に思わないでもなかったが、顔を見れば何やら上機嫌でニコニコしている。弾道が笑っていれば何も問題ない、とばかりに赤野もついつられて笑う。
しかし次の瞬間、赤野の笑いはフリーズした。
「拓さん、チューしてv」
ぴきーん、と音をたてて石になった赤野に構わず、弾道はぴょんと赤野の首に飛びつく。そしてちゅっと軽く唇に唇を合わせた。
「お帰りなさいの、チューv」
「―――――――・・・・・・・・?」
思わず呆然としてしまった赤野だが、不意に感じた微かな芳香にペロリと自分の唇を舐める。それは確かに酒の味がした。
「ダンドー!おまえ、チョコ作ってたんじゃなかったのか?」
なんで酒なんか・・・、と続けようとした赤野は次の瞬間、ぎょっとする。
弾道がいきなり涙をぽろぽろと零し出したのだ。
「うわあああ〜〜ん」
「ダ、ダンドー??」
突然泣きじゃくり始めた弾道に赤野はあたふたと動揺して右往左往する。
「すまん!怒鳴って悪かった!」
オロオロと謝罪しながら、泣く子供の頭を撫でたり背をさすったりして必死にあやす。そんな彼の姿はとても他の人間には見せられたものではなかった。
「オレが悪かった!だから泣くな!」
「拓さんは悪くなか!」
赤野の台詞に、それまでわんわんと泣いていた弾道がピタッと泣き止んだ。
「拓さんは悪くなかよ!!」
再びそう言いながら弾道は赤野の手を掴むとズンズンと歩き出す。
一体、何なんだ・・・と疑問符だらけの赤野をよそに、弾道はぐいぐいとその手を引っ張りながらキッチンの扉を勢い良く開けた。
「・・・うっ」
キッチンは玄関の比ではない程、甘い空気が充満していた。気のせいか重力まで違うように感じる。
そんな中、赤野が目にしたのは皿の上に並べられたゴルフボールよりはやや小さいくらいの、でこぼこしたチョコレート。その周りには生クリームの入ったボウルやらジャムの瓶やらが散らばっている。そこまでは特に何ということもないのだが、更にその横に転がっている空き瓶を見つけて赤野は仰天した。
「なんでこんなとこに酒があるんだ!」
「買って来たばい」
そんな馬鹿な。未成年の飲酒が法律で禁止されているように、未成年は酒類の購入もできないはずなのだ。
「お菓子売り場に売っとったばい」
このラム酒をはじめ、ブランデー等お菓子に使われる酒は多い。赤野はがっくりと肩を落とした。
「拓さん?オレ、お酒なんか飲んどらんよ」
「・・・嘘つくんじゃねェ」
弾道の今までの様子からいって酔っ払っていることは間違いない。未成年のくせになんてことだ。思わず保護者のように叱る口調になってしまった赤野に、弾道はキッ、と顔を上げる。
「嘘じゃなか!オレはチョコ食べただけばい!」
拓さんのばかー!と再び泣き出してしまった弾道に赤野も再び激しく動揺する。説教そっちのけで弾道をあやす姿はまったくもって以下同文であった。
「だって、だって、チョコは甘いから、拓さん甘いの好きじゃないし、だからお酒入れたのに・・・」
ひっくひっく、と弾道は泣きながら喋り続ける。
「でも味見したけど何だか美味しくなくて、だけどオレが子供だからわからんだけかもしれんし、いっぱいお酒入れた方が拓さん喜ぶと思って・・・」
つまり味見のし過ぎで酔っ払ってしまったというわけらしい。
「ああ、わかったわかった。オレが言い過ぎたよ。悪かった」
「拓さんは悪くなか!」
先程と全く同じ台詞を言って弾道はがばっと起き上がった。
「拓さんは悪くなかよ!」
繰り返す弾道に赤野は溜息を吐いた。何でこんなになるまで酔っ払えるんだろう、たかが菓子に入れた酒くらいで。しかし、とはいえ一瓶空けてしまっているのだ。相当の量のアルコールがこのチョコレートの中に入っているに違いない。
これを、オレも食べなきゃ・・・いけないんだろうか。やはり。
酒は嬉しい。好きだ。だが、酒は酒、飯は飯、甘い物は甘い物と単品で楽しみたい赤野だった。そしてできれば最後の甘い物はできれば避けたい物のひとつなのである。
そんな赤野の心の内をまるで読み取ったかのように、弾道が俯いて呟く。
「やっぱり、いらないよね、チョコなんて・・・・・・」
「そ、そんなわけあるか!スゲェ食いたいぜ!」
「ホント?」
慌てた赤野に弾道は嬉しそうに笑った。その笑顔を見て赤野は「本当はチョコよりもおまえを食べたい」と危うく本音を漏らすところだったが、もちろん素面な赤野は思っただけで実行はしない。酔っ払った相手を押し倒すというのは赤野の主義に反するのだ。
しかし弾道はいそいそとチョコをひとつ摘まむと、それを赤野の口ではなく自分の口に放り込んだ。首を傾げる赤野の前で弾道は「ん」と口を突き出す形で目を閉じる。
「食べさせたげるv」
ぴきーん、と。
赤野は本日二度目の硬直を経験した。そして今度は弾道は大人しく待っている。目を伏せて、照れているせいか酔っているせいか(恐らく後者である)ほんのり頬を赤くしている弾道に赤野の理性も一瞬彼方へ飛びかけたが、危ういところでぐっと堪えたのは大人の余裕というべきか、それとも意地というべきか。
「・・・ダンドー。オレは別に食べさせてくれなくてもだな・・・」
努めて平静を装って弾道に話し掛ける。
しかしゆっくりと開かれた弾道の目から大粒の涙がぽろ、と零れたことに赤野は三度動揺した。
「やっはりたべれふれらいんら〜〜」
チョコを含んでいるため、弾道の舌はうまくまわらない。
「たくさんはひっとほかにもいっはいちょこれーともらったんら〜〜」
「な、何言ってんだ、弾道!貰ってねェよ、チョコなんて!」
ホラ、と空の両手を掲げてみせる赤野を弾道は赤い目で見上げた。
「そうなの・・・?」
「ああ、一個も貰ってないぜ」
嘘である。
実はファンだと名乗る女性多数からチョコやらプレゼントやらを受け取っていた。正確には断る間もなく押し付けられたのだが。しかしそんなものを持って帰って弾道に見られるわけにはいかないし、かといって捨てることも出来ない赤野は、新庄に無理矢理押し付けて来たのだ。どうせ新庄も山のようにチョコレートを受け取っているのだ。ひとつやふたつやみっつ・・・とにかく多少増えたところで問題ないだろう、といたって楽観的な赤野は、もちろんホワイトデーに新庄から3倍返しをされるということに全く気づいていなかったのだが。
「オレにはおまえがくれるんだろう?」
赤野の言葉に弾道はこくんと頷いて涙をごしごしと擦る。そして気を取り直すと再び目を閉じた。
「ハイ」
「・・・・・・・・・・・・・・」
結局、先程とは何も変わらない状況が訪れただけで、赤野は目眩を覚えた。しかし待ちくたびれた弾道の瞳が再び、じわ、と滲むのを見て赤野はぎくりとする。
「たくさんはおれのつくったちょこなんていらないんら〜〜」
「そんなこと言ってねェだろ!」
「うそら〜らってたべれふれないもん〜〜」
「食べるよ!食べたいんだ!食わせてくれ!!」
泣く子と酔っ払いには勝てない。赤野の前にいる弾道は今まさに無敵状態であった。
そんな無敵の恋人は、じゃあ、食べてvとにっこり笑う。赤野は溜息を深く吐いてから唸るように呟いた。
「・・・・・・・・・いただきます」
合わせた唇からそっと舌を滑り込ませて口内を探る。チョコはすぐに見つかった。長い間、口に含んでいたせいでとろとろに溶けている。ほとんど形を失ったそれを赤野は舌で器用に絡め取った。
・・・・・・こりゃ、ほとんど酒だな・・・。
そこらで売っているウィスキーボンボンなんかよりよっぽど強いんじゃないだろうか。いや、これはウィスキーじゃないからラムボンボンとでも言うのだろうか、日本酒が入っていたら日本酒ボンボンなんだろうか、そもそもボンボンて何なんだ・・・と、赤野の思考もちょっとかなり酩酊していた。けして酒に酔っているわけではない。酔っているとすれば、それはこの小さな恋人に、なのだろう。
「・・・ん・・・・・・」
唇と唇の隙間から漏れる弾道の声がやけに大きく聴こえて、赤野の鼓動がひとつ跳ねた。目当てのものは全て舐め取ってしまったというのに舌の動きは止まらない。チョコレートが溶けてもまだ尚甘い弾道の舌を、赤野はなかなか離すことが出来ずにいた。
「・・・・・・ふ、ぅ・・・」
向きを変えて口付ける際に、吐息のような声が弾道の口から零れ落ちる。赤野はそれさえも掬い取るように深く唇を合わせた。
「・・・ん・・・・・・・・」
ゆっくりと口付けを解くと、弾道がくたっと身体を預けてきた。その小さな身体を赤野はしっかりと、けれど優しく抱きしめる。愛しくて愛しくてたまらない身体。普段よりも高い子供の体温を感じながら、赤野は己のポリシーを遥か遠くへ投げ捨ててその耳元に囁いた。
「ダンドー・・・・・・ベッド、行くか?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・」
「ダンドー・・・?」
返事のない弾道に再び呼びかける。赤野は嫌な予感がした。そして嫌な予感は大抵当たるようにできているものなのだ。
「ダンドー・・」
名を呼んでその顔を覗きこめば・・・愛しい恋人はそれはそれは安らかな寝息をたてていた。赤野はがっくりと、これ以上ないくらい深く肩を落として項垂れる。
これだから酔っ払いってヤツは・・・!
自分が以前その酔っ払いの仲間であったことは既に棚上げである。
しばらく悪態をついた後、やれやれと気を取り直すと、赤野は弾道の身体を横抱きにしてベッドへと運んだ。
図らずもベッドに弾道を横たえているこの状況に再び気持ちが昂ぶりかけたが、罪な恋人はくぅくぅとあどけない顔をして眠っている。赤野は溜息を吐いて苦笑した。
ま、いいか・・・。
布団を肩まで掛けてやり、部屋を出ようとした赤野は微かな声に呼び止められた。
「ダンドー?」
起きたのか?と近寄れば弾道は変わらず眠っている。しかししばらくして小さく口が開き、今度ははっきりと聞き取ることができた。
「たく、さん・・・」
「なんだ?」
寝言だとわかっていながらそれでも赤野は返事をした。届いているのかいないのか、弾道は嬉しそうに笑って再び口を開く。
「ちゅ・・・して・・・・・・」
赤野は今度こそ、今度こそ苦笑した。
酒も飲めない子供の癖に、オレをその気にさせるのだけはしっかり一人前なのだ、この恋人は。
「ホントに食っちまうぞ・・・」
呟きながら大きな手を伸ばしてその頬を撫でると、弾道はくすぐったそうに笑った。そんな様子に赤野は目を細めて笑いながら枕元に両手をつくと、そっとその唇に触れるだけのキスを落とす。
唇からは、まだチョコレートと酒の香りがした。
「・・・ごちそうさん」
キッチンに戻った赤野は、今度はちゃんと固形のチョコをひとつ口に放り投げた。さっきと同じ味だ。酒にシロップをぶち込んだような、何とも表現し難い味。
しかしそれは決して不快なものではなかった。先程の弾道とのキスを思い出すから。チョコより甘い弾道の舌を思い出させてくれるから。
「これは、さすがにオレでも酔っちまうかもな・・・」
その通り、翌日はふたりして仲良く二日酔いになってしまうわけなのだが・・・。
とりあえず、今はチョコで酔っ払ってしまおう。
恋人の甘い香りがちょっと心をくすぐるけれど。
そんなほろ苦ささえも幸せな気分だから。
幸せな人はより幸せな・・・
今日はバレンタイン・デー
fin.
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