〜雨の散歩道〜
「まったくよく降りやがるなあ。カビでも生えちまいそうだぜ」
梅雨も終わりそうでなかなか終わらない、そんなある日。
コンビニからマンションへ帰る途中に、赤野がそう呟いた。独り言のつもりだったのだが、隣を歩いていた弾道はそんな赤野のセリフに顔を上げて返事をする。
「カビ生えんようにパンはケースに閉まってあるよ?あのね、ブランデーと一緒に閉まっておくとカビが生えんって聞いたから、ちゃんと一緒に入れてあるばい!」
得意そうに話す弾道に赤野は今朝の食卓を思い出す。なるほど言われてみれば、パンが微かに酒くさかった。昨夜のアルコールが抜けてないせいだとばかり思っていたのだが、違ったようだ。しかしおかげで今朝のメニューはトーストと味噌汁だった。二日酔いの自覚はないが二日酔いかもしれないという赤野の呟きを耳にした弾道が、止める間もなく味噌汁を作ってしまったのだ。ミスマッチな組み合わせの食事を、しかし赤野は黙って平らげたものである。
そしてもちろん赤野はここでも余計なことは言わず、ただ弾道の頭に大きな手をぽんと置いた。
「物知りだな」
そう誉め言葉だけ告げると、弾道を促して公園の中へ入る。マンションへ帰るには多少遠回りになるが、次から次へとすれ違う車に水飛沫を跳ね上げられる歩道よりはいいだろう。
普段は子供たちの笑い声が絶えない公園も、さすがにこんな雨の日では誰もいなかった。雨の音とふたりの歩くたびに跳ねる水音だけが聞こえる。
パシャパシャと半ば楽しそうに長靴で水を踏んでいた弾道が、ふいにその足を止めた。
「ダンドー?」
突然、隣にいるはずの弾道が立ち止まって屈み込んでいるので慌てて赤野は大股で戻った。二人でひとつの傘をさして、その傘は赤野が持っているのだ。赤野は弾道に傘をさしかけてやりながら、一体どうしたんだと訊ねようとしたが、立ち上った弾道の指先を見たらその必要はなくなってしまった。
弾道の小さな指先には小さなカタツムリがちょこんと乗っていたのである。
「……言っとくが飼わねェぞ」
捨て犬を拾って帰ってきた子供に先手必勝を浴びせる母親のようなことを赤野が言った。赤野のマンションはペットを飼うことを禁止されている。吠えもせず咬みもせず抜け毛も飛び散らないカタツムリならばこっそり飼っても他の住人に迷惑をかけることはないだろうが、しかし赤野にカタツムリを飼う趣味はない。
「飼ったりなんかせんよ。そんなことしたらカタツムリが可哀相ばい」
若干理由は違えども、結果的には弾道も赤野と同じ趣味だった。
「こいつ、こんなとこにいたら誰かに踏まれるとよ……」
言いながらキョロキョロと辺りを見回す。ちょうどすぐ側にベンチを発見して、弾道はカタツムリをそっとその上に移動させた。名残惜し気に弾道がちょんと触覚をつつくとカタツムリは慌ててそれを引っ込める。しかしそれ以上何もされないとわかったのか、再び触覚を伸ばすとのろのろと雨に濡れたベンチの上を這い始めた。
「ここなら誰にも踏まれんばい」
安心したように弾道が呟く。確かに濡れたベンチに座るような酔狂な人間はいないだろう。
「ま、こんな天気が悪けりゃ、公園に来るヤツもそうそういないだろうけどな」
何気なく言ったセリフに、それまでカタツムリを目で追っていた弾道がいきなりぐるりと勢いよく振り返る。
「雨は悪くなかよ」
「あん?」
唐突に言われて赤野は眉を顰めた。そんな赤野に向かって弾道はもう一度繰り返す。
「雨は悪くなかよ。雨が降ってると悪い天気っていうのはオレ達人間が決めたことばい。雨の方は自分が悪いなんて思っとらんよ」
まるで雨の気持ちが分かっているかのように訴える。実際分かっているのかもしれない。何しろこいつは風の精霊の姿さえも見ることができるのだから。
「でも、そうは言ってもなァ」
雨が降るイコール天気が悪いというのは気がついたら既に当り前のことになっていて、長年そう思い込んできたことを今更変えるのは難しそうだ。それに雨が降ってよかったと思ったことはあまり無い。ゴルフをするのも大変だし、それこそまだ赤野がゴルフと出会う前のほんの子供の頃だって、雨のせいで楽しみにしていた遠足や運動会が台無しになったという嫌な思い出ばかりだ。
そんな赤野の気持ちももちろん弾道は分かる。同じゴルファーとして、また現役中学生として。それでも弾道は、少し拗ねたように俯いてぼそぼそと呟いた。
「オレだって雨の日はゴルフできんから残念だなって思うけど、でもこうやって拓さんと傘さして歩けるし……」
こういうのアイアイガサって言うんでしょ?と顔を上げて照れたように笑う。その笑顔とセリフは、赤野の雨へのマイナス意識を引っくり返すのに絶大な効果を示した。
「そうだよな。雨が降らなきゃお百姓さんは困るしな。雨は大切だ」
うんうんと肯きながら赤野はがらりと意見を変える。さすがにきょとんと首を傾げた弾道だが、しかし赤野が自分の意見に賛同してくれたのは嬉しかったようで、再び花開くように微笑った。
「……………」
弾道が自然を解するように、こんな時だけは赤野も自然の気持ちが分かるような気がする。花の匂いに誘われて、甘い蜜に誘われる蜜蜂の気持ちが……
とは言え、実際のところ蜜蜂は雨に弱い習性なので、こんな雨の日は巣の中で大人しくしているのである。所詮、赤野の自然に対する認識はその程度のものだったのだ。
けれど赤野はすっかり蜜蜂の気分で、誘われるまま弾道の唇を掠め取った。
触れるだけの口付けだったが、弾道は充分驚いたようでぱちぱちと瞬きを繰り返した。いきなりキスされたことよりも、赤野の大胆な行動に驚いているようだ。
たしかにちょっと衝動的だったかな、と赤野は自分の行動を省みる。一応これでも弾道の保護者を自負しているので、普段こういうことには慎重なのだ。恋人兼保護者としては、やたらめったら手を出すことはよろしくないと思っている。決して出さないわけではないが。とりあえず今まではその度に弾道の了承を得てから行動してきた理性の男・赤野だった。
しかし今は雨の公園に人影は見当たらず、しかも傘で隠すことさえ出来てしまうのだ。
まあいいか、と赤野は苦笑した。
「雨も、いいもんだぜ」
赤野のセリフを今度は正しく理解したのか、弾道が複雑そうに笑いながらも少しだけ目尻を赤く染めた。そんな仕草さえたまらなく可愛くて、赤野は再び傘を傾ける。そして大きく屈み込みながら今度は弾道も精一杯背伸びをしていることに気づいて、先程のベンチを横目でちらりと眺めた。
雨の日もいいが、晴れた日はあのベンチに並んで座ろうか。そうすれば、ふたりの身長差も少しは埋まるだろう。
もちろん、こんな風に精一杯伸ばして赤野の首に廻される弾道の腕も、たまらなく愛しいものではあるけれど……
fin.
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