Full Moon Night 2
昼間はあんなに晴れ渡っていた空が、今は真っ暗だった。
夜になったせいだけではなく、厚い雲が月や星を覆い隠しているからだろう。
今夜は雨が降るかもしれない。
そう思いながらしばらくぼんやりと空を見上げていた伊角は、やがて視線を下ろした。そこはまるで暗い空の代わりとでも言うようにいくつものの光が溢れていて、昼間のように明るい。
賑やかな、けれどどこか荒んだ雰囲気の繁華街。
伊角はいつもの場所で煙草に火をつけて、道行く人を眺めていた。
本当なら処女がいい。
けれどこの辺りでそんな匂いを嗅ぐことはまずない。
それに実際それはそれで面倒なのだ。やはり慣れている女がいい……
ふう、と煙草の煙を吐き出して伊角はゆっくりと歩き出した。少し離れたところに佇んでいた彼女は、伊角が近付くとにっこりと微笑む。そして伊角の煙草を細い指で奪うと自分の赤い唇に含んだ。
伊角は、慣れた仕草で女の腰を抱き寄せた……
寝る必要はないのだ。
自分の欲望は、血を吸えば満たされる。
しかし最中の方が何かと都合が良いので、伊角は大抵そうしていた。多少の痛みは誤魔化せるし、何より、後でその間の記憶を消してしまっても、全く不審に思われないからだ。
多少、血を吸われたくらいで人間は死にはしない。ショック死や失血死は論外だが。
伊角は人間を殺したことはなかった。殺す必要はないからだ。少しの血があれば自分は生きていける。何の為に生きているのかはもう忘れてしまったが、それでもこの身体は生きることを望んでいるから。
だから、満月の夜は血を求める。
(でも今日は満月じゃない……)
伊角は女を抱きながら、記憶を辿る。
そういえば先月も、満月ではなかった。その前はどうだったか。その前は?
(バイオリズムが狂っている…?)
恐らく間違いない。満月の前後ならともかく、今夜はまだ月齢7.5。身体の感覚も並である。
満月の夜は五感が冴え渡る。感覚が鋭くなる。鋭くなり過ぎて神経が麻痺する。
痛みを感じない。当然、身体も感じない。
なので満月の時のセックスは、本当にただの吸血行為だけを目的としていた。
(それに比べれば、今夜はかえって楽しめていいじゃないか…)
女の血を吸って、肉を感じる。
彼女の血は思った以上に甘かった。
しかし、伊角はどこか満たされないものを感じていた。何か物足りないのだ。
何が。
(わかってる……)
そう、伊角は自問しながら既に答えは見つけていた。
バイオリズムが狂う理由を。
自分が満たされない理由を。
そして、本当に求めているものを。
わかっていたから、この街を出ようと思ったのだ。
和谷が、欲しい。
初めて会った時からそう思っていた。
彼からはとても甘い香りがした。男からあんな香りがするとは思わなかった。いつか彼の血を吸うと、伊角は決めていた。
けれど思いもかけず彼と友人になり、慕われて、信頼されて。
いつしか彼の血だけでなく、全てが欲しいと思うようになった。
機会はいくらでもあった。
最近では、和谷が自分に友人以上の感情を持ち始めていることにも気づいていた。
そもそも自分には他人の記憶を操作することができる能力がある。
何も問題はなかった筈である……
伊角は冷静な男だった。長年生きてきたせいか、自分を客観的にとらえる術を身に付けていた。
だから、できなかったのだろう。
伊角は知っていたのだ。
自分が和谷の全てを求めれば、和谷を殺してしまうだろうということを。
安易に想像がつくのだ。
息絶えて横たわる和谷の血を啜り、肉を貪る、浅ましい自分の姿が。
和谷が欲しい。
けれど、失いたくない。
だから何もできない。
他の女の血を吸っては失望して、常にどこかが満たされないものを抱えたまま。
誤魔化して誤魔化してやってきたけれど、身体は正直だ。
もう、限界なのだ。
この街を出なければ。
自分が生きていくために。
和谷を壊してしまう前に。
和谷を永遠に失ってしまう前に……
ホテルから出る頃には、雨が降っていた。
伊角が傘を広げると、彼女がするりと腕を絡めてくる。
記憶処理は済んだのでもうこれ以上一緒にいる必要はないのだが、駅までは送っていこうと伊角は歩き出した。そもそもこの傘も、意外と用意の良かった彼女のものなのだ。
二度と会う事はないだろう。
お互いそう思っているに違いない。伊角はいつもそういう相手を選んできた。ひとつの場所に長く留まらない伊角は、人と深く関わりあうことを避けてきたのだ。
和谷に会うまでは……
「やだ、あの子びしょ濡れよ」
ホテルの外壁に沿って歩いていると、不意に彼女が呟いた。伊角は何気なく顔を上げて愕然とする。
和谷だった。
俯いていたが伊角にはわかった。
和谷は塀にもたれて佇んでいた。髪が、服が、全部が雨で濡れていた。濡れた髪で俯いているので顔が見えない。こちらに気づいているのかどうかもわからない。
いや、気づいているのだろう。
何故なら伊角達が前を通り過ぎても、顔を上げなかったから……
やがて背後でパシャ、と雨が跳ねる音がした。パシャパシャと次第に遠くなるその足音に伊角は傘の柄をぐっと握り締める。
(これで、よかったんだ……)
嫌われた方が、いっそのこと。
伊角は傘の向こう、雲の向こうの、今は隠れているけれど確かに存在する月を見上げた。
もうすぐ月が満ちる。
―――次の満月の夜に、この街を出よう。