Full Moon Night 3



 ――夏バテかな。

 和谷はそんなことを考えながら伊角の後ろ姿を見送っていた。
 まだ夏っていうには早い気がするけど……と、半袖Tシャツを着てすっかり夏の装いの自分のことは棚に上げ、道端の石を爪先でコンと蹴飛ばす。
(だらしねえなァ…)
 悪態を吐きつつ、しかし和谷はそっと伊角の後を追うために歩き出した。
 何だかんだ言っても、あっさり別れたようでいて実は心配だったのである。

 伊角は優しい。大抵のことは何でも笑ってきいてくれるので、つい和谷は安心して甘えてしまうところがあった。
 そんな伊角が自分との約束をキャンセルするなんて、きっとかなり具合が悪いのだろう。
(無理して途中で倒れたら大変だし…)
 少し大袈裟な気もするが、そんなことを思いながら和谷は伊角の後を離れて歩く。
 声をかけて一緒に歩けばいいのだが、それだと伊角が気をつかうと思ったのだ。自分の前では無理して平気な振りをしそうな気がする。実際、さっきまで和谷は伊角の不調に気が付かなかった。少し顔色が悪いな、とは思っていたけれどそれだけだ。
(ま、影で心配するってのもいーじゃん)
 見守っている、という感じがして悪くない。いつも伊角には守られてばかりのような気がするし。伊角の方が年上なので、それは仕方のないことだとわかってはいたけれど。でもやはり和谷も男なので、好きな人を守りたいという気持ちがあるのだ。

 好きな人。

 和谷は伊角が好きだった。男同士だから、「好き」というのは変かもしれない。でも他に何て言い表したら良いかわからないから。ただ、和谷の中で伊角は一番大きな存在だった。
 伊角も自分のことを好きなんだと思う。
 だっていつも一緒に遊んでくれる。優しく笑いかけてくれる。優しく頭を撫でてくれる。きっと自分は伊角の「特別」なんだと思う。伊角が自分の「特別」であるように。
 そう考えると嬉しくて、どこかくすぐったくて、でもすごく幸せな気持ちになれた。

 でも、最近の自分は少し変なのだ。
 今までは伊角の側にいるとただ穏やかな気持ちになれたのに、最近は伊角の仕草や言動に妙にドキドキしたりする自分がいる。
 さっきの店でもそうだ。ケチャップを指先で掬われて、その指を伊角が舐め取った途端、信じられないくらいに顔が熱くなった。今でも思い出すだけで顔が赤くなるのが分かる。恥ずかしいような、嬉しいような、何ともいえない落ち着かない感覚。
 それが、何なのか。
 その時の和谷にはまだ分からなかったけれど、それはけして嫌なものではなかった。
 そう、その時までは……




 伊角がアパートの扉を開けて、中へ入って行くのが見えた。
(どうしようかな……)
 和谷の役目は終わった筈なのだが、そうすると次は見えなくなってしまった伊角の様子が心配になってくる。しばらくアパートのまわりをウロウロしていた和谷だったが、不意にいいことを思いついたとばかり、近くにあったコンビニに駆け込んだ。
 伊角は一人暮らしだ。以前、和谷が遊びに行った時は伊角がご飯を作ってご馳走してくれた。だからそれなりのことはできるのだろうが、具合の悪い今はきっと不自由しているに違いない。そう考えて、和谷はレトルトのお粥やお茶や、果ては栄養ドリンクまで買い込む。そして更に、風邪かもしれないしと、隣の薬局で風邪薬やビタミン剤も買ってみた。少々散財してしまったけれど、和谷は満足だった。これを差し入れすれば、伊角の役に立てるのだ。当初の『影から見守る』という目的を、すっかり忘れてしまってしまってはいたけれど。

 ビニール袋を手に提げて、走って伊角のアパートへ戻ると、ちょうど伊角が部屋を出て来たところだった。
 やっぱり、薬とか食べ物とかが足りなくて買いに行くところかもしれない。和谷は得意げに手に提げた袋を振り回し、階段を降りて来た伊角に駆け寄ろうとした。
 しかし、思わずその足を止める。
 伊角が、煙草を吸っていたからだ。
 和谷は慌てて物陰に隠れてしまった。考えるよりも先に、身体が動いた。どうして隠れてしまったのか自分でもわからない。ただ、心臓がドキドキしている。そしてそれが、先程伊角といた時に感じたものとは確かに違うものだということだけは、わかった。
 ドキドキした胸に広がるのは、混乱と不安。
 具合が悪い筈なのに煙草を吸っている伊角を心配するというより、和谷の頭には疑問が渦巻いていた。伊角が煙草を吸うところなんて、一度も見たことがない。吸うということさえ、和谷は知らなかった。知らなかった、ということがショックだった。
 軽い混乱状態にいた和谷は、それでも逸る鼓動を押さえると、伊角を目で追う。伊角は先程和谷が行ったコンビニのある方向へと歩いて行く。やはり、買い物に行くのだ。それなら、自分が買ってきたよ、と追いついて声をかければいいだけなのに。
 何故かそれができない。和谷は袋をぎゅっと握り締めると、階段を駆け上がり、それを伊角の部屋のドアノブに下げた。そして急いで伊角の後を追う。
 和谷は、気づいていなかった。
 もうここへは戻ってこれないかもしれないと、心のどこかで思っていことを。だから荷物を部屋の前に置いて来たのだということを。
 自分のそんな無意識の行動に気づくことなく、和谷はただ伊角の後を追いかけていた。


 声をかければいい。
 伊角は驚くだろう。
 でもきっと喜んでくれるだろう。
 いつものように笑ってくれるだろう。

 けれど、できなかった。
 今の和谷には自信がなかった。今まで確かにあった筈の和谷の中の自信のようなものは、先程自分の知らない伊角を見た途端、あやふやな頼りないものに変わってしまった。
 伊角の少し後ろを離れて歩きながら、和谷はひたすら躊躇っていた。こんな自分はらしくない、とは思いながら。
 やがてコンビニの前まで辿り着く。伊角が余分な買い物をする前に声をかけなくては、という和谷の決心は、伊角が店の前を素通りした時にあっさりと消えてしまった。伊角はそのまま、地下鉄の駅へと続く階段を降りて行く。

 伊角さん……?

 声は、もうかけられなかった。
 和谷は心の中で、ただ繰り返す。

 伊角さん、どこへ行くの?
 体調が悪いんじゃなかったの?
 どこへ行くの?誰かに会いに行くの?
 オレとの約束があったのに……?



 気が付けば和谷は伊角を追って電車に乗っていた。
 もしかしたら病院へ行くのかもしれない、という期待は途中で消えた。辿り着いたのは、和谷が今まで来たことのないような繁華街だったからだ。
 和谷の視線の先で、伊角は再び煙草に火を点け、ゆっくりと煙を吐いている。
 いつしか日は落ちて、辺りはもう真っ暗だ。けれどあちこちのネオンが光っていて一体今は何時なのか和谷にはわからない。
(わからないよ……)
 伊角が何をしているのか。伊角が何を考えているのか。
 もちろん、今までだって伊角のすべてを分かっていたわけではないけれど。でも、それでも、分かっていると思っていたのだ。それが、そうではなかったと、こんな風に思い知ることになるなんて。
 やがて伊角はゆっくりとひとりの女に近付いていく。派手な女だ。以前、伊角はああいう女は苦手だと言っていた。それなのに。
 なのに、伊角は笑ってその女の腰を抱き寄せた。
 それは、和谷が見たことのない笑い方。見たことのない仕草。
(あれは、誰だろう……)
 本当に伊角なのだろうか。
 伊角の顔をした別人なのではないだろうか。
 そう思えるくらい、何もかも自分の知っている伊角とは違い過ぎた。
 けれど、そう思いながらも、和谷はふたりの後について歩き出す。
 これ以上、こんな伊角は見たくはないのに、足は止まらない。
 大声を出して呼び止めたいのに、声が出ない。
 ただ、ふらふらと頼りない足取りでふたりの後ろを歩く。
 そして、ふたりはやがてホテルへ入っていった。いかがわしい、一目で用途がそれとわかるホテルの中へ。

 これまでのショックが強すぎてかえって麻痺してしまったのか、何も感じない。
 しばらくの間、和谷はふたりの消えた入り口をぼんやりと見ていた。
 どれくらいそうしていたのかわからない。ただ、その入り口から見知らぬ男女が出てきたので、和谷は慌ててその場を離れた。
 けれど、不意に立ち止まる。
 おかしいと思ったのだ。何故、どうして、自分が。
 どうして自分が慌てなければいけないのだろう。どうして自分が隠れなくてはいけないのだろう。嘘を吐いたのは伊角の方だ。自分は悪くない、伊角が悪いのだ。
 慌てるのは伊角の方じゃないのか。困るのは伊角の方じゃないのか。自分に嘘を吐いて、自分との約束を反故にしたのは伊角なのだから。
 和谷は大きく深呼吸すると、先程とは打って変わって睨むようにホテルの入り口を見つめた。
 いつしか、雨が降り始めていたことなんて気づかなかった。けれど、気づいても和谷はそこから動かなかった。

 うろたえればいいのだ。
 自分を見て、驚けばいいのだ。
 いつもそうするように、頭をかいて謝ればいい。
 そんなことでは許してやらないけれど。でも。
 嘘でもいいから、謝って欲しかった。

 胸が、苦しい。
 こんなに苦しい思いをしたのは初めてだ。いつも伊角のことを考えると、嬉しくてくすぐったくて幸せな気分になれるのに。なのに今は、絞めつけられるように痛い。
 こんな痛みは覚えがあった。あれは伊角が窓の外を見ていた時。自分ではない、他の誰かを見ていた時。今の比ではないけれど、確かにこんな風にチリチリと痛んだ。
 でもあの時は素直に言えた。何を見てるんだよ、と。自分以外の誰も見て欲しくないと。そう言えたのは、伊角が本気でそんなことをする筈なんてないと信じていたからだ。けれど、今は。
 今の自分は何も言うことができない。
 何も、言えなかった。
 やがて現れた伊角が、自分の前を黙って通り過ぎても、自分は顔さえ上げられなかった。
 気づかなかった筈はない。隣を歩いていた女はこちらを見ていた。伊角も、自分に気づいたようだった。それでも。
 それでも伊角は、まるで見知らぬ他人のように自分を無視した。

 胸が。
 焼けるように、熱くて。
 熱が、身体中を焦がす。
 言えなかった言葉が、身体中を駆け巡る。

 そこは自分の場所なのだと。
 伊角の隣は自分のものだと。
 伊角は自分だけのものだと。

 伊角が、好きなんだ、と。

 今までの穏やかな気持ちも、落ち着かない感覚も、たった今感じている苦しいほどの激情も、すべて伊角が好きだからなのだと。

 これは恋なんだと、和谷は今、初めて気づいた。

 気づきたくなかった。


 こんなに、苦しいのなら…… 





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