猫がみる夢は・・・



 ピンポーン、と伊角家のチャイムが鳴り響く。
 とある日曜日の午後、それはやってきた。



「悪いなー、伊角」
「はあ………」
「和谷もイイコにしてろよ」
「ニャー」
「…………冴木さん」
 仔猫を抱き上げながらその鼻にちゅっとキスを贈る冴木に、伊角は複雑な表情をして訊ねかける。
「猫を預かるのはかまわないですけど……なんで猫の名前が和谷なんですか?」
「だってコイツ和谷に似てない?人懐っこいし甘えてくるし可愛いし」
「……………」
 冴木のセリフ(特に最後)に伊角は更に難しい顔をする。もちろん冴木がわざと言っているのだとわかってはいるのだけど。
「…ホントはなんて名前なんですか?預かる時、友達から聞いたんでしょう?」
「それが忘れちゃったんだよなー」
「……………」
 嘘だ、と伊角は思った。
 しかし追及したところで冴木が口を割るとは思えない。伊角は諦めて溜息を吐いた。
「ま、よろしく頼むぜ」
「…わかりました」
 又貸しならぬ、ペットの又預かりなんてあまり聞こえがいいとは言えないが、今日一日くらいなら構わないだろう。
「じゃーな、和谷。夜には迎えにくるからな〜、一緒に寝ような〜〜」
「ニャー」
「わ、くすぐったいってば。そんなとこ舐めるなよ、和谷」
「ニャン」
「…………冴木さん」
 わかってはいるのだけど、和谷和谷と連呼しながら猫と戯れる冴木に対して伊角の声が自然と低くなる。そんな伊角を見て冴木は楽しそうに笑った。
「悪い悪い。お詫びに人間の方の和谷もさっき電話で呼び出しといたからさ、もうすぐ来るよ」
「え……」
「おっと、そろそろ行かないと遅れるな。じゃ、夜にまた寄るから」
 そう言って冴木が猫をひょいっと手渡してきたので、伊角は慌てて抱きかかえた。あまり慣れていないせいで要領がわからず、恐る恐ると腕に収めてみる。しかし猫はそんな拙い手つきにも不満はないようで、それどころかゴロゴロと喉を鳴らして伊角にすり寄った。
「おー、やっぱ和谷だな」
 ニヤニヤと笑う冴木に伊角は少しだけ顔を赤らめながらも、悪い気はしなかった。




「わー!ホントに猫だ、ちっちぇー!」
 冴木と入れ違いにやってきた和谷が、猫をみつけるなり嬉しそうにはしゃぐ。
「なあ伊角さん、こいつ名前は?」
「んー…、それが……わからないんだ」
 まさか『和谷』だとは言えるわけがない。第一あれは冴木が自分をからかうためだけの仮の名だ。
「なんで?冴木さんに聞かなかったのかよ」
「…冴木さんも忘れたんだって」
「えーホントかよ」
「………」
 嘘だ、と言ってしまいたいのは山々だったが、そうすると話がややこしくなりそうなので伊角は止めておいた。それに和谷は冴木を兄のように慕っている。あまり冴木を悪く言えば、和谷の機嫌も悪くなるだろう。
「おまえ名前ないのかよー、かわいそうだなー」
「………」
「よしっ、おまえの名前は慎一郎だ!」
 ぶっ、と伊角が飲んでいた麦茶を噴き出した。
「慎一郎、お手!」
「……………」
 どうして皆、ペットに身近な人物の名前をつけるのだろう……
 お手、お座り、と真剣な顔で猫に命じている和谷を見て、伊角は溜息を吐く。もちろん猫は犬ではないのでそんな真似はしない。もしも犬だったところで大人しく和谷に従ったかどうかは怪しいものだったが。
「伊角さん〜、慎一郎が言うこときかねえ」
「………うーん」
 和谷の台詞に伊角は、とりあえず苦笑を返しながらこぼれた麦茶を拭く。そんな伊角の適当な相槌にむくれた和谷は、勢いよく猫を抱え上げた。
「うりゃっ、抱きしめの刑だっ」
 そう言って和谷が猫をきつく抱きしめる。もちろん手加減したつもりだったらしいが、しかし猫にとってはそうではなかったようだ。
「フギャー」
「和谷っ」
「痛っ」
 伊角が止める間も無く、和谷の胸でじたじたと暴れた猫は、自分を捕えている腕に爪を立てるとその隙にひらりと床に着地した。そして甘えた鳴き声を出しながら伊角の足元にすり寄る。
「と、と、大丈夫か和谷?」
 自分の足にじゃれつく猫を蹴飛ばさないように伊角が声をかけると、和谷は引掻かれた傷をぐいっとこすり、伊角の足元の猫めがけて飛びついた。
「やったな、このヤロウっ」
「ニャー」
「わわっ」
 猫が伊角の後ろに回ると和谷もそこに手を伸ばす。自分を挟んでしばし小規模な追いかけっこが行われたが、やがて和谷に間違って足首を掴まれてしまい伊角はバランスを崩してベッドに倒れこんだ。
「あ、わりぃ、伊角さん」
「………」
 はあ、と溜息を吐きながら伊角はそのまま脱力してベッドに横になったが、次の瞬間、猫を下敷きにしやしなかったかと慌てて起き上がった。しかし身体を起こした途端に、ピョンとベッドに飛び乗ってきた猫を見て一安心する。
「……和谷、あんまりいじめるなよ」
「いじめてたんじゃねえよ、可愛がってたんじゃん!」
「いや、もうちょっと、なんていうか…」
「ニャー」
 自分を庇ってくれたのがわかるのか、猫は伊角に体を寄せると甘えた声を出す。伊角もついつられて目尻を下げ、猫の頭を優しく撫でてやった。すると猫は更に伊角に頭を擦りつけるようにして嬉しそうに喉を鳴らす。
 そんな様子を一通り見ていた和谷は何だか大変不愉快になってきた。伊角が猫を撫でるたび、ぴくりとこめかみが動く。
 そして和谷は思ったら即、行動の人間であった。



「わっ、和谷?」
 突然、和谷が自分の隣に腰を下ろしたかと思うとそのまま頭を擦りつけてきたので伊角は驚いて訊ねた。
「どうしたんだ?」
「……………」
 無言で頭をぐりぐりと擦りつける和谷の肩に手を乗せた途端、がしっとその手を掴まれた。そして今度は掴んだ腕をぐいぐいと引っ張られる。
「和谷?」
「オレ、伊角さんの皆に優しいとこ、キライ」
 一瞬、和谷の言っている意味が分からず呆けた顔をしてしまった伊角だが、和谷の視線が猫を撫でる自分の手にあることに気づいて、思わず苦笑した。
「皆って……猫だぞ?」
「猫でも!」
 口を尖らせて和谷は伊角と猫を睨んだ。
 まいったな、と思いながらも伊角はくすくすと笑ってしまう。両手に可愛い猫と可愛い恋人でどうしよう…なんて考えてしまう自分も、かなりまいっているのだけれど。
 そうしていつまでも笑っている伊角の腕を、和谷が再び引っ張る。
「なあ、伊角さん、どっか行こーぜ」
「ええ?」
「オレ、映画観たい」
 突然の和谷の提案に伊角は慌てて首を振る。
「ダメだよ、今日は家に誰もいないから。猫を放っていくわけにはいかないだろう」
「………」
 和谷は伊角の返事をある程度予想していたのか、特に言い返さなかった。けれどやはり不満そうな顔をして伊角の腕を引っ張ることを止めない。
「……和谷」
「誰もいないんなら……しよーぜ」
「!?」
 和谷の唐突なお誘いの言葉に伊角は仰天した。
「なあ、伊角さん」
 静かに動揺している伊角に、焦れた和谷が抱きついてくる。思わず流されそうになった伊角だったが、手の先に何か柔らかいものが触れてハッと我に返った。
「……お誘いは嬉しいんだけど、猫が見てるぞ」
「だーかーら!見せつけてやるんだよっ」
 そう言ってがばっと顔を上げた和谷と思いきり目が合う。伊角はぷっと吹き出してしまった。
「そ、そっか……っ」
 確信犯だったのか、と笑う伊角に和谷は不貞腐れたようにそっぽを向いた。
 伊角はようやく笑いを収めるとぽんぽんと和谷の頭を叩く。
「馬鹿だな」
「どーせ馬鹿だよっ」
 拗ねた口調で和谷が言い返す。伊角は優しく微笑んで、再びぽんぽんと和谷の頭を撫でた。


「ニャー」
 と、さっきまで和谷とは反対側にいた猫がいつの間にか二人の間に移動してきていた。ニャーニャーと鳴いて伊角の服に爪を立てている。
「今度は和谷をかまってるから怒ったのかな」
「……伊角さんのコマシ」
 こらこら、と苦笑しながら伊角は猫の頭を撫でてやった。しかし猫はいくら撫でられてもひたすら鳴き続けている。
「……どうしたんだろう」
 不安そうに伊角が猫の顔を覗きこむが、猫は相変わらず切ないような鳴き声を上げているばかりである。
「腹でもへってんじゃねえの?」
「ニャー」
「おっ、当たったみたいぜ伊角さん!」
 まるで和谷のセリフに応えるように猫が鳴いたので、途端に和谷の機嫌が良くなる。そして和谷が笑いながら猫の鼻を突つこうと指を伸ばしたら。
 かぷっ
「………」
「わ、わやっ」
「こっのヤロウ!今度は許さねーぞー!!」
「わー!待て待て落ち着けっ」
 咬まれた指を握り締めて和谷が猫を捕まえようと追いかける。再び始まった追いかけっこを伊角は必死になって止めた。
「和谷も腹へってるだろ!何食べる?クッキー?チョコ?アイスもあるぞ!」
 これは実に効果があったようだ。瞬時に和谷の動きがピタッと止まる。
「………全部」
「よし。すぐ用意してくるから、それまで仲良くしてろよ?」
 伊角は笑って頷くと、そう言ってキッチンへ行ってしまった。



 ごろん、と和谷はベッドに寝転がる。
 顔を横に向ければ、すぐそこに猫が座っていた。
「…オレは仲良くしてんのに、オマエが悪いんだぞ」
「ニャー」
「……オマエも伊角さん、好きなんだろ」
「ニャー」
 本当に、まるで言葉が通じているような気がして和谷は笑う。そして笑いながら人差し指をビシッと猫の目の前に突き付けた。
「でも、オマエになんか伊角さんは渡さないからなっ」
「ニャン」
 ペロリ、と猫が目の前の指先を舐めた。それはさっき猫が咬んだ指である。自分がつけた傷跡を癒すように小さな舌をペロペロと這わせる様子に驚きながらも、和谷はそれを振り払おうとはしなかった。
 でも。
「だからって、伊角さんはやらないかんな……」




 妙に部屋が静かな気がする。
 ドアを開けてみれば、思った通り和谷と猫はベッドの上で眠っていた。伊角はやれやれと溜息を吐きながら、ミルクとおやつを山ほど乗せたトレイをテーブルに置く。そして足音をたてないように静かにベッドに近付いた。
 そこには和谷と猫が、ついさっきまで追いかけっこをしていたとは思えないくらいに仲良く寄り添ってくうくうと一緒に寝息をたてている。よく見るとどちらも同じように丸くなって似たようなポーズを取っているので、伊角は思わず微笑んだ。
 和谷も、猫みたいだな。
 可愛い可愛い、オレだけの猫。
 髪を撫でようと手を伸ばしたら、その隣の猫がふわあ、と欠伸をした。伊角は苦笑して猫の頭にも手を伸ばし、優しく撫でてやった。そして和谷の髪を梳きながら、そっとその頬に唇を寄せる。
 触れた瞬間、和谷が笑ったような気がした。
「ん………」
 微かに和谷が身じろいだが、起きる気配はない。猫も隣で眠ったまま、尻尾だけをぱたりぱたりと緩慢に動かしている。
 一体、どんな夢を見ているんだろう……




 そうして伊角はしばらく愛しい寝顔を見つめていた。
 起こさないように静かに。
 まるで2匹の猫の眠りを守るように、優しく……





fin.

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