ONLY YOU



「伊角さんのバカっ!!」

力いっぱい叫ぶと、和谷はほとんど赤に変わりかけた信号を無視して走り出す。
追いかけようとした伊角の目の前を気の早いトラックがクラクションと共に勢いよく通り過ぎ、そのまま数台の車を見送った後には既に和谷の姿は人混みに紛れて見えなくなってしまっていた。


(やれやれ…)
ハァー、と大きくため息をついて伊角は頭をかいた。
よく晴れた昼下がり、しかも休日とくれば、街中の人混みはそれはすごいもので。
その中で和谷を見つけるのは至難の技だろうな、と伊角は思う。
それでもやがて信号が青に変わると、伊角は躊躇いもなく小走りに駆け出したのだったが…




和谷は感情の起伏が激しい。

そしてそれが表情と直結しているのでとてもわかりやすい。
大抵はその原因も、とてもわかりやすいものだった。
しかしいつもそうとは限らなく、たまに原因がさっぱりわからない時もある。
そして今も、伊角は和谷の怒った理由が全くわからなかった。


そもそも待ち合わせに遅れて来たのは和谷の方である。
どちらかと言えば自分が怒る方じゃないのか、と考えてから伊角は苦笑した。今更そんな事くらいで怒るはずがない自分をよくわかっていたからだ。
オレも甘いんだよな、などとぼんやり考えながらも辺りをキョロキョロと見回しながら走っていると、ふいに自分を呼ぶ声がして伊角はその足を止めた。
声のした方を振り向くと、歩道の脇に置かれたオブジェの端に寄りかかるようにして立っている少年が、こちらに向かってひらひらと手を振っている。

「小宮…」

逆光に目を細めながらよく見ると、それは同じ院生1組の小宮英二だった。
呼びかけて近寄ると小宮は振っていた手をパーの形のまま止めて、ニカッと笑った。
「伊角さん、どこ行くの?」
そんなに走ってさ、とニコニコしながら問いかける小宮に、明確な行き先があるわけでない伊角は言葉につまり、少し口篭もった後、ハッと思いついたように逆に小宮に訊ね返した。
「そうだ、和谷を見なかった?」
「見なかったけど…」
小宮はそこまで答えてから訝しそうに伊角を見上げる。
ほんの少しだが小宮より伊角の方が身長が高い。
「どしたの?逃げられたの?」
「逃げ……」
られたわけじゃない、と続けようとして、いや一応そういうことになるのか、と思わず真剣な顔をして黙り込んでしまった伊角を見て小宮は可笑しそうに笑う。
「ジョーダンだよ、和谷が伊角さんから逃げるわけないじゃん。あんなに伊角さんのこと好きなのにさあ」
「…………」
小宮は自分達の関係を知っているのだろうか、それともそんなに深い意味で言ってるわけではないのだろうかと伊角はしばし悩んだ。
そういえば和谷と小宮は仲が良かった。進藤が入ってきてから、和谷は年下の世話がやけるのが嬉しいのか進藤ばかりをかまっているようだが、それでもやはりそういった相談や悩みごとは年上の小宮の方に話しているのかもしれない。

「何、したの?伊角さん」
気のせいか少し期待に満ちた光を浮かべながら小宮の瞳が、考え込んでいる伊角の顔を覗き込む。
「何もしてないよ」
「和谷が怒るようなことしたんじゃないのー?」
冗談ぽく言ってクスクス笑う。それでもけして悪意があるわけではないその笑顔につられて伊角は困ったように笑った。
「ホントに何もしてないから解らないんだ…」
そう言って伊角は今日の待ち合わせの様子を話しだした。といっても特にたいしたことは話せない。冴木と奈瀬と待ち合わせがかち合ったことや、和谷が冴木と一緒に遅れて現れたこと、そして喫茶店を出てから突然和谷が怒ってしまったことくらいである。

黙って聞いていた小宮は、ふーんと呟くと口に手をあてた。
「和谷って最初から怒ってたんじゃない?」
「え?」
「待ち合わせに来た時からさ」
「そんなことは…」
言いかけて伊角は口を噤んだ。

(そういえば…)
確かに和谷は喫茶店に入ってきた時から様子がおかしかった。
冴木の後ろに隠れるようにいたり。
話しかけても返事をしなかったり。

思い当たる様子の伊角に、小宮は両手を頭の後ろで組んで伸びをする。
「それってさー、絶対ヤキモチ妬いたんだと思うなー」
「ヤキモチ?誰に」
「奈瀬に」
「まさか。奈瀬は冴木さんと付き合ってるんだぜ?」
呆れたように伊角が言うと小宮はわかってないなあ、とチッチッと人差し指を大きく振った。
「付き合ってるからって、これからもずーっとその人だけ好きでいられるかどうかなんてわかんないじゃん」
ねえ、伊角さん?
どことなく挑発的ににそう続ける小宮の言葉に、伊角は思わず口を開いた。


「オレには、和谷だけだ」


言ってから、しまった、というように口を抑える伊角を小宮は目を丸くして見つめていたが、やがて気を取り直すとピュウ、と軽い口笛を吹いてその沈黙を破った。
「言うね。伊角さんてば」
「………言わされたような気がする」
口元を抑えたまま照れ隠しに難しい顔をする伊角を小宮はクスクスと楽しそうに笑って。
「伊角さん、カッコよかったからいいこと教えちゃおうかな♪」
「いいこと?」
「うん。実はね、和谷ならさっきあっちの森林公園の方へとぼとぼ歩いて行ったよ」
「!!」
悪戯っぽく笑う小宮を今度は伊角が目を丸くして見つめた。
そして小宮と小宮が指差す方向を交互に見てから伊角はハァー、と深いため息をつく。
「ホントに?」
「うん。ゴメンね伊角さん」
あっさり謝られて伊角は再び大きなため息をついた。
「いいよ…教えてくれてありがと。じゃあオレ行くから」
またな、と踵を返して走り出した伊角に小宮は最初の時と同じように手をひらひらと振った。
そして伊角の姿が人混みに紛れて見えなくなると、また同じように手をパーの形で止めたまま楽しそうにニカッと笑う。

「いやー、あてられちゃったなー」
「…………」
「伊角さんて言う時は言うんだなー」
「…………」
「オレ、乗り換えちゃおっかなー」
「小宮っ!!」
一見独り言のように思われた小宮の最後のセリフに慌てて返事が返され、同時に小宮のもたれかかっていたオブジェの後ろから和谷が勢いよく現れた。その頬が真っ赤になっているのは怒っているせいというより先程の伊角の言葉が原因だということはわかりきったことなので、小宮は余裕で「冗談だよ」と笑い飛ばす。

「しっかり聞いてただろ?和谷」
「…………」
「だからヤキモチなんか妬く必要ないって」
「…………」
「そんな怒ってたらさ。伊角さんを信用してないってことだぜ?」
赤い顔を隠すようにひたすら黙って俯いたままの和谷に焦れて少し意地悪く言った小宮に、和谷はようやくその顔をゆっくりと上げた。

「怒ってるわけじゃねェよ……」
「じゃあ、何で逃げたんだよ」
「……伊角さんにこんな顔見られたくなかったから」
「こんな顔?どんな顔?」
「……………ヤキモチ妬いてみっともねえ顔だよっ!」
しつこく尋ねる小宮に、和谷は開き直って怒ったように言い放った。
小宮は驚いたようにまじまじと和谷の真っ赤な顔を見つめていたが、やがて堪えきれないと言うようにプッと噴き出すと腹を抱えて笑い出した。
「畜生!何笑ってんだよ、小宮!」
「だ、だっておまえ…可愛いすぎ…っ」
ひーひーと目に涙まで浮かべて笑う小宮に、和谷は真っ赤になってもう怒ったとヘッドロックをかける。しかしそんな照れ隠しの攻撃を簡単にすり抜けると、小宮はお返しとばかりに和谷の頭上にチョップを叩き込んだ。
「あーもー!オレと遊んでないでとっとと行けよ、伊角さんとこ」
「てめえ、小宮!元はと言えばおまえがっ」
「うるさい!早く行け!」
「くそぉ!」

覚えてろよ、と真っ赤な顔で言い捨てて和谷はさっき伊角が消えた方向へ走って行った。
捨て台詞を残していったわりにはとても軽そうな足取りの和谷を手を振って見送ると小宮は、ふー…と息をついてオブジェにもたれかかる。

(結局、のろけられただけか…)
べつにいいけど。
いい暇つぶしになったし。楽しかったし。
ホント、いいコンビだよ。いや、カップルか。
なんて考えながらひとしきり思い出し笑いをして。
再び、ふぃーと息をつく。

「片桐さん、遅いな…」

ポツリ、と漏らしてから青い空を見上げると目の前を薄い雲が流れていく。
ぼんやりと眺めていた小宮だが、同時に嗅ぎ慣れた匂いがしてそれが煙草の煙だとわかり、ガバッと身を起こした。 そして先程和谷が隠れていたオブジェの裏に回り込み、そこに寄りかかるように立っている片桐の姿を見つけて小宮は今日何度目になるのか、その小さな目を思いきり丸くした。

「いつからいたんだよっ」
「今来たとこだ」
「…嘘っ」
「何でわかった?」

クスクス笑いながら訊ねる片桐の足元に小宮は無言で視線を送る。片桐もそれに倣い、そして自分の足元に散らばった数本の煙草を見ると、フゥー…とゆっくり煙を吐いた。
「初歩的な推理だったな」
「片桐さんのスケベ」
立ち聞きしてるなんて、と続ける小宮に片桐は顔を顰める。
「待ち合わせの場所に、待ち合わせの時間に、いただけだろ」
「そうだけど、さ」
「取り込み中みたいだったから、邪魔しないでやったんだぞ」
「…どこから聞いてたんだよ」
小宮の問いかけに片桐はうーん、と考えこむ仕草をした。
「さあなあ、どこだったかなあ」
「片桐さんっ」
「若いっていいよなあ」
「…ジジくさっ」
「こんなジジイは捨てて、他のヤツに乗り換えるか?」
薄煙の向こうから、冗談ぽい口調とは裏腹に、片桐の瞳は真っ直ぐに小宮を見つめる。
「そんなこと、するわけないだろ…っ」
「…すまん」
泣きそうな声で怒る小宮の頭に、片桐の大きな手が優しく乗せられる。小宮はその手にそっと触れるとジトッと片桐を見上げた。

「謝らなくてもいいよ。片桐さんも言ったら許してあげる」
「…何を」
「聞いてたんでしょ?」
悪戯っぽく目を細める小宮に、片桐は眉を顰めて煙草をくゆらす。
「…言えるか、バカ」
「片桐さんのケチー。いーじゃん、言ったって減るもんじゃないし」
ねーねー、と小宮は甘えるように片桐の腕に絡みつく。
場所を構わずゴロゴロと懐く小宮に、片桐は苦笑しながらやれやれといった風に煙をひとつ吐いた。
そして小宮の少し跳ねた髪をその耳の後ろにかけてやり、そこへ小さく囁く。
それをくすぐったそうに、でも嬉しそうに受け止めると、小宮は片桐の肩をぐいっと引き寄せてその耳元へ同じ言葉を囁いたのだった。


「オレも、片桐さんだけだよ」










「伊角さんっ!」

広い公園を一通り探したが和谷の姿は見当たらず、肩を落として公園を出ようとしたところへ突然、当の本人に呼び止められて伊角は驚いた。

「和谷っ、おまえどこ行って…」
「ゴメン、伊角さん。怒ってる?」
伊角の問いを遮り、和谷が訊ねる。
「……怒ってるのは和谷の方だろ?」
突然、怒って駆け出したのは和谷の方だ。
何故怒ったのか、小宮の言った通りなのか、それとも全く違う理由なのか、どうやって宥めようかと公園を探し回りながら散々悩んでいた伊角に向かって、しかし和谷はけろっとして。
「え?ああ、うん、もう全然なんとも思ってないぜ」
そう上機嫌で答えるので、伊角は安堵するかたわら今度こそがっくりと肩を落とした。

(まったく、もう…)
怒った理由もわからなければ、機嫌が直った理由もわからない。
本当にいつも自分はこの年下の恋人に振り回されてばかりだ、と思う。

でも、それでも。
こんなに振り回されてもいいのは和谷だから。
和谷だけだから。
だから、伊角は顔を上げて、不安そうに自分を覗き込む和谷の瞳をじっと見つめた。

「伊角さん?」
「よかった。和谷の機嫌が直って」
そう言って優しく笑うと、和谷は途端に顔を真っ赤にさせてパッと視線を逸らした。それを訝しく思った伊角が訊ねるより先に、和谷が慌てたように口を開く。
「な、なあ、伊角さん!今日うちに寄ってってよ」
うちの親、両方とも帰り遅いんだ、と早口で続ける和谷に伊角は少し驚いたように目を見開いた。
「誘ってるのか?」
「?うん。晩メシにピザとかとっていいって言ってたから、伊角さん一緒に食べよーぜ!」
実に和谷らしいその見当外れの返事に伊角はプッと噴き出してから、じゃあ行こうかな、とクスクス笑った。
和谷は、何故伊角が笑っているのかわからないという風にしばらく首を傾げていたが、ようやく思い至ったのか再び顔を真っ赤にさせて叫んだ。
「さ、誘ってなんかねーよ!」
「ハイハイ、わかってるって」
笑いながら伊角は和谷の肩をポンと叩いて、じゃ行くか、と歩き出した。和谷も慌ててその後を追う。

(誘ってなんか、ないけど。でも)
でも、べつに、いいけど。それでも。

ふとそう思った自分に和谷は驚いて、同時にいっそう熱くなる頬を両手で抑えた。
こんな風になる原因はわかってる。先刻の伊角の言葉のせいだ。

『オレには和谷だけだ』

そう。
そしてオレも伊角さんだけ、だから。



「和谷」

何やら赤い顔をして考え込み、いつまでも追いついてこない和谷を振りかえって、伊角が立ち止まる。
そして呼ばれた和谷が嬉しそうに駆け寄り、その隣に並んだとき。
ようやく、ふたりの遅れに遅れたデートが始まったのだった。

もちろん約1時間遅れで始まったデートが、それ以上に延長するだろうということはお互いわかっていたので。
けして早足になることはなく、ゆっくりと、ふたりは歩いた。





fin.

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