恋人の距離 中編



「ええと、今が棒倒しだったから…あとふたつ後だな」


和谷は屋上の手すりにもたれて、次々と進行される演目を見下ろしながら、プログラムを指でなぞった。
伊角が出場する『借り物競争』は、次の『二人三脚障害物競走』の、その次である。

「そろそろ降りてこうかなァ」
それともまだ早いかな、と和谷はブツブツ独り言を繰り返す。
30分ほど前に、伊角は応援席へ戻ってしまっていたのだ。
伊角からもらったプログラムを手に、和谷はため息をついた。

『伊角さんは何と何に出るんだ?』
『あとはラストから2番目の…そう、この借り物競争だけ』
『えー!そんだけかよ。リレーとか出ねーの?』
『走るのは苦手だから。それに元々3年は出る競技が少ないんだよ』
『…つまんねーの』
そう言ってふて腐れた和谷に伊角はプログラムを指差して。
『午前中はこの走り高跳びにも出たんだけどね』
予選落ちしたんだ、見られなくてよかったよ、と苦笑しながら頭をかいた。

(オレは見たかったよ…)
本当は、午前中だって来ようと思えば来れたのだ。
だけど朝から弁当作りに追われていて、気づけばお昼近くで。
その弁当を、伊角に食べてもらえて。
美味しいと言ってもらえて。
それはそれでとても嬉しかったけれど。

(肝心の応援が『借り物競争』だけなんて、さ)
せめて、今から始まるこの『障害物競走』だったら応援のしがいもあるというのに。
そんなことを考えていると、校庭でパァンとスタートを告げる軽い銃声が鳴った。
『二人三脚障害物競走』の第1走者達が一斉に走り出す。
それを見た和谷は、ついさっきの自分の考えを急遽撤回した。

スタートした二人組は全て男女ペアで構成されていたのだ。
当然ながらそれぞれの右足首と左足首を合わせて固定し、肩を抱いて走り、障害物を潜り抜ける時の密着度は遠目に見ても甚だしいことこの上なく。応援席からは絶えずピュウピュウという甲高い指笛が鳴らされ、黄色いヤジが飛んでいる。
(よかった…伊角さん、こんなのに出てなくて)
もし、伊角がこれに出場していたら。
伊角と見も知らない女の子が肩を抱き合っている姿を想像するだけで、怒りが込み上げてくる。
そして同時に、淋しいような切ないようなモヤモヤとした気分が和谷を襲う。
それは、伊角との間にある3つの年の差から生まれるものかもしれなかった。

もしも伊角と同じ年だったら。
同じ高校に通って。
同じクラスになって。
体育祭も文化祭も一緒で。
いつも、となりで。
いちばん、近くで。
笑っていることが、できたかもしれないのに…

もちろん今だって、自分が伊角の一番近くにいるという自信が、ないわけではない。
精神的にも。多分……それ以外でも。
けれど所詮、中学生・高校生の自分達にとって学校に費やす時間は膨大なもので。
どうしようもないことだとわかってはいても、それでも和谷はもっともっと伊角と一緒にいたかった。
それを言うと伊角はいつも、「オレだってそうだよ」と、優しく抱き寄せてキスしてくれたけれど…

こんな風に遠くから伊角を見つめていると、まるでこの距離がどうしても埋められない二人の差を表しているようで。
それを打ち消すように、和谷はブンブンと頭を振った。

(らしくねェよ、こんなの)

やっぱ、こんなトコで見てるから弱気になるんだ、と和谷は手すりから手を放すと、くるりと身を翻す。
気持ちを切り替えようと大きく息を吐いてから。
早く伊角の元へ行こうと扉へ駆け寄ったが、足元にあった紙袋を蹴飛ばしそうになり、その足を止めた。

(そーだ。着替えなきゃ)
今の格好でも見つかりっこないとは思うのだが、先程伊角と約束した手前、万全を期した方がいいに違いない。しかもコレに着替えれば、先生や他の生徒はもちろん、恐らく伊角にさえ気づかれることはないだろう。
(なんか、ちょっと楽しいかも)
本当は、伊角の予備の体操服でも借りれば一番手っ取り早かったのだろうな、とは思う。
でも伊角には今日のことは内緒にして、驚かせたかったし。
そしてそれは既に実行済みで。
あとは、もうひとつの目標「伊角の応援」を達成するだけだ。
和谷は再び手すりに寄り、校庭を見下ろした。
そこにはまだ、応援合戦の時の奇抜な格好をした生徒や、その後に行われた部活対抗リレーで各々の部のユニホームを着た生徒が、そのままの姿で入り乱れている。
(これはイケル!)
そう確信して和谷は、紙袋をひっくり返すと、勢いよく着替え始めたのだった。








「位置について―――用意――――」

パァンという音が鳴り響き、借り物競争の第1走者達が一斉にスタートを切った。
ハードルと平均台という軽い障害物を越え、目的のテーブルに駆け寄り、借り物が記されたカードを各々選び取る。


(伊角さんは…次の次くらいかな)
和谷はトラックの反対側にある応援席の、更に後ろの木の影から身を隠すようにして伊角を見ていた。
もっと近くで声援を送りたいのはやまやまだったが、やはりいざとなると、この姿を人目に晒すことが躊躇われて。
実際、屋上からここに来るまでの間、やたらと視線を感じて妙に居心地の悪い思いをさせられたものだ。

(…っかしいなァ。カンペキな変装だと思ったのに)
途中、校内の鏡で自分の姿を確認した時は多少怖じ気づいたものの、校庭に出てみれば、特撮的な風体の人々を始め、アラビアン風、中世ヨーロッパ風、果てはメイドやアリスやわけのわからない着ぐるみまでいて、反って自分は地味なくらいだ、と一安心していたのだが。

(まァ、いいや。競技が始まってからは、誰もオレに気づきやしないし)
気を取り直して、伊角さんの出番はまだかな、とまるで自分が出場するかのような快い緊張に胸を弾ませる。
少し遠いけれど屋上に比べればうんと近くなった。それにちゃんと伊角の姿が確認できる。
並んで座っている伊角からは、和谷の姿は見えないだろうけれど。


ふいに、キーンという耳障りな音がして、スピーカーから放送部のものらしいアナウンスが流れた。
『―――ただいま入りました情報によりますと、D組の選手の借り物は「恋人」だそうです!』
途端に、辺りの応援席からどよめきと歓声が上がる。

「やだ、ホントにやったんだ。今年の実行委員」
「先生達、笑って見てるねー」
「でもさー、恋人いない男子、どうすんの」
「適当に引っ張ってくしかないんじゃない。あ、ホラホラ」
「ホントだー。うわーなんか見てるこっちが照れるね」
「やっぱ好きな子とか連れてくわけ?」
「やん、それ楽しー!」

近くの応援席の女子の会話を耳にしながら、和谷はグラウンドでしばらく立ち往生していた選手が、同じクラスの人に怒鳴られて慌てて応援席に近寄り、一人の女生徒に頭を下げ、その手を取って走り出すのをぼんやりと見ていた。
やがてゴールインし、その結果は3位、らしい。
しかしここで3位の旗を渡される前に、放送部からの待ったが入った。

『ここで、借り物チェックです――!』

再び、歓声が上がる。
そして心得たようにあちこちから「ほっぺにチュー!」という叫び声が次々と上がり、まわりもそれに倣い、いつの間にか「ほっぺにチュー」コールが辺りを包む。
どうやら「恋人の証明」として「ほっぺにチュー」をしろということらしい。
はやしたてられる中、当の選手はしばらくオロオロしていたが、意を決して女生徒に何やら告げると、彼女は頷き、彼は大きくガッツポーズをした。そして彼が彼女の「ほっぺにチュー」をした途端、「オオー!」と地鳴りのような歓声がおこり、それと共に甲高い指笛、拍手が沸き起こる。

(高校って…すげえ……)
この一連の異様な盛り上がりにすっかり圧倒された和谷は、ただ呆然とするばかりだったが。
次のアナウンスを聞いて、正気に戻った。

『この「恋人」のカードは1組に必ず1枚あるということです!恋人のいない男子は今の選手を見習って是非とも頑張ってください―――!』

あちこちの応援席から「いいぞー実行部!」「ふられっちまえー!」などと合いの手が入る。
和谷はそんな声を遠くに聞きながら、放送部の一言を反芻していた。
(1組に1枚…?)
再びパァンと銃声がして2組目がスタートした。その後ろで、伊角の列がスタートラインに並ぼうと移動しているのが見える。
(伊角さん、3組目だ…)
伊角は額に手を当てて空を仰いでいるように見える。
けれど和谷にはわかった。屋上を見ているのだと。
そして伊角はしばらくすると、キョロキョロと辺りを見回す。
見つかるはずもないのだが、和谷は思わず木の後ろに隠れてしまった。

心臓が、うるさいくらい鳴っている。
和谷は胸の辺りを押さえて「落ち着け」と呟いた。
伊角が『恋人』のカードをひくとは限らない。
確率的にいってもかなり低い。
しかし、その確率はけしてゼロではないのだ。

再び黄色い歓声が上がった。
そぅっと覗けば、選手の1人が女生徒の手をひいて走っているところで。
二人がゴールする前から既に「ほっぺにチュー」コールが始まっていた。
そして先程とほぼ同じ光景が繰り返され、再び拍手と歓声の渦が起こる。

「位置について―――」

3組目の開始の合図に、和谷の緊張はこれでもかというくらいに高まる。
パァンという音と共に、ぎゅっとその拳を握り締めた。
(伊角さん、頑張れ!)
とにかく、例のカード以外のものをひいて欲しい。
ひたすらそれだけを願って和谷は「頑張って!」と叫ぶ。

既にこの応援の内容が従来のものとは違っていることに和谷は気づいていなかったが。
例え気づいていたとしても、他にどうすることもできなかったに違いない。





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