恋人の距離 後編



伊角は自分のことをよくわかっていた。


非常に押しに弱い性格だとか。
八方美人なところがあるとか。
プレッシャーに弱いとか。

実は独占欲が強いとか。

そして、あまり運の良くない方だということもわかっていたし。
悪い予感は大抵当たるということも、よくわかっていたので。

そのカードを引き当てた時も、あまりショックは受けなかったと思う。



(ああ…)

伊角は『恋人』と書かれたそのカードを見て、深い深いため息を吐いた。
なんとなく嫌な予感がしたのだ。
余程スタートする前に仮病でも使おうかと思っていたのだが、思案してる間にその機会は奪われ、今に至る。
(さて、どうしようか)
いっそ、気を失いたいと思ったが、それはそれで必ず和谷が飛んで来るに違いない、と考え直す。
その思考を妨げるように放送部のアナウンスが入り、「C組が例のカードを引いた」と余計なことを告げ、辺りが騒ぎ出した。クラスメイトの冷やかしや自分を呼ぶ女子の声もちらほらとあったが、とりあえず聞こえないフリをする。
これが普段だったら、適当にクラスの女子に頭を下げて一緒に走ってもらっていたかもしれないが。
しかし今日この場には和谷がいる。
あのヤキモチ妬きの恋人はこういった遊びが冗談で済ませられるほど、大人ではない。
伊角はここで、女の子の手を取るわけにはいかないのだ。


ふいに、応援席の一角からどよめきが起こった。

考え込んでいた伊角は顔を上げ、辺りを見回す。
するとグラウンドを横切って一人の女の子が走って来るのがわかる。
その姿を見て「テニス部の子かな」と呑気に考えていたが、次第に彼女が自分との距離を詰めてきたことで伊角はようやくこの事態を把握した。
案の定、有無を言わさず伊角の腕を掴んで走り出す彼女に、伊角は焦った。
「ちょ、ちょっと待って」
伊角の制止もまわりの歓声にかき消される。どうやら観衆は積極的な彼女の応援をしているらしい。
(冗談じゃない、こんなところを和谷に見られたら…)

見られたら…

ここで伊角は、自分を引っ張って走る彼女の後ろ姿をまじまじと見つめた。
(テニス部に知り合いはいないはずだけど)
何故だか知っているような気がするのは気のせいだろうか。
栗色のロングウェービーヘアに白いテニスウェア。
同じく白いスコートからすんなりと伸びた足元には見覚えのある黒のシューズ。
そして何より覚えがあるのは掴まれた腕の感触。

「和谷……?」
まさかと思いつつ訊ねると、彼女はギクリと肩を揺らし、走るスピードを上げた。
自分の勘が正しいことを知った伊角だったが、とりあえず今は転ばないように走るしかない。
そして、どんな指定があったのかは知らないがフライパンとフライ返しを持って走る選手を追い抜いたかと思うと、ふたりはゴールのテープを切っていた。


「……和谷、だよな…?」
ゴールした途端、腕を振り解いた相手に、伊角は息を切らして再び呼びかけた。
同じように息を切らせ、乱れた長い髪を直しもせずに伊角に向き直ったその顔は。

確かに、和谷だった。

しかしその姿はどこから見ても立派な女の子で。
しかもうっかりするととんでもなく可愛いと言えるほどで、伊角は笑うに笑えない。
思わず上から下までジロジロと見つめてしまう。
そんな言葉もない伊角を呆れていると思ったのか、和谷は真っ赤になって目を逸らすと近くにいた係員の生徒にズカズカと歩み寄った。そして1位の旗を奪い取ると、再び伊角の前までズカズカと戻ってくる。

一際大きな歓声と拍手が沸き起こった。

和谷が、伊角の体操服を掴んで引き寄せたかと思うと、背伸びをして伊角の頬に唇を押し当てたのだ。
いわゆる『恋人の証明』として『ほっぺにチュー』を。
そして伊角に旗を押し付けると、逃げるように猛ダッシュで走り去ってしまった。

呆然とした伊角と、異常な盛り上がりをみせる観客を、その場に残して…











薄闇が辺りを包む中、校庭の中心に灯されたファイヤストームが校舎を照らす。

次々と炎の中に看板や木材が投げ込まれ、その周りを大勢の生徒が囲み、スピーカーから流れる音楽に合わせて踊るのを、和谷は屋上からぼんやりと眺めていた。


背後で、キイ…と軋んだ音をたてて扉が開く。
しかし和谷はそれに気づかないフリをして、足音が自分の背後まで近づいてくるのにも振り向こうとはしなかった。
そんな和谷の肩に、ふわっと、あたたかい温もりがして。

「そんなカッコじゃ寒いだろ」
「…………」
和谷は黙って、自分にかけられた伊角の制服の上着を握り締める。
「着替えたんだな」と言いながら、伊角が和谷の隣に同じように手すりにもたれかかった。そういう伊角も今は体操服でなく、制服のシャツをきっちりと着込んでいる。
「あの格好、和谷のお母さんの?」
その問いに和谷はピクンと肩を揺らしたが、伊角はただ、「驚いたよ」と穏やかに笑っている。

「伊角さん……怒ってねェの?」
おそるおそる口を開いた和谷に、伊角は苦笑した。
「ま、たしかに散々な目には遭ったけどね」

あの後、「さっきの彼女は一体誰だ」と問い詰められるのを始め、「いつの間に女を作ったんだ」「イイ目みやがってこのやろう」等々、かなり手荒いツッコミをクラスメイトはおろかそれ以外の人間からも入れられた伊角だった。

「ごめん……」
結局、伊角に迷惑をかけてしまった、と和谷は俯いて唇を噛む。

大人しくしてるって、約束したのに。

仕方なかったのだ。
放送部のアナウンスが入り、数人の女子の「伊角くーん」と呼ぶ声が耳に届いて。
気がつけば、既に駆け出していたのだから…

後になって、あんな格好で駆け付けたことや、その後の自分の行動を思い返しては、顔から火が出るくらい恥ずかしかったけれど。
あの時はただ、伊角に自分以外の手を取って欲しくなくて。
ただ、それだけで。

しかし、やはり伊角の競技をめちゃめちゃにしてしまったと、今になって激しく後悔している和谷は、ただただ項垂れるばかりで。
そんな和谷を見て、伊角が「そうそう」と明るい口調で話し出す。
「なかなか似合ってたよ、あの格好」
「な…っ、そ、そんなわけねーだろ!」
突然、話を変えられて焦る和谷に、伊角はクスクスと笑って。
「でも、アレも可愛かったけど、やっぱりいつもの和谷が一番いいね」
さらりと言ってのける。
その直球な台詞と視線に耐え切れず、和谷は真っ赤になって俯いた。

「さっきのも、怒ってなんかないよ」

俯いたままの和谷を見つめて、伊角は続ける。
「和谷が引っ張ってくれたおかげで1着になったんだし。そうそう、結果見た?うちのクラス、総合で2位になったんだ。これも和谷の応援のおかげだよ」
「……応援?」
「そ。大胆な応援だったけどね」
それがあの「ほっぺにチュー」を指していることに気づいた和谷は、ますます顔を赤らめた。

「だから、和谷が気にすることはないよ」

オレの恋人が和谷なのは、本当のことなんだから…


そう続ける伊角に、和谷は慌てて横を向いた。
嬉しくて。
涙が出そうになるのを見られたくなくて。

そして誤魔化すように、ふいに流れてきたメロディーに「この曲、聞いたことある」とポツリと呟いてみた。
それに伊角が、「ああ、これは映画に使われてたからね」と横文字のタイトルを答えるのに、題名までは知らなかった和谷が、ふうんと頷く。

「踊ろうか」
突然の伊角の誘いに、和谷は慌ててブンブンと首を振った。
「な、何言ってんだよ。踊れるわけねーって」
「皆、踊ってるよ」
眼下を指差して、言う。
「オレ…踊り方なんて、知らないし」
「フォークダンスでいいよ」
「…忘れたし」
そっぽを向いてしまった和谷の手を、伊角は「仕方ないなァ」と言って強引に取ると、和谷の制止も聞かずにステップを踏み出した。

「ちょ、ちょっと、伊角さん!」
「ホラ、右、右、左、左」
更に、右、左、と続ける伊角に、和谷の足も自然とつられてしまう。
「なんで伊角さん、踊れるんだよ」
「ん?高校生のたしなみかな」
「なんだよ、ソレ」
「ハイ、ここでまわって」
右手で和谷の手を掲げ大きく回すと、「うわっ」と小さく叫びながらも、和谷は楽しそうに伊角にされるがまま、くるりと回る。
そして伊角は、1回転して自分と向かい合った和谷の手をそのまま引き寄せて、ぽすっとその身体を自分の腕の中に収めた。

「い、伊角さん?」
「今日は、ありがとう」

応援に来てくれて。
お弁当を作ってきてくれて。

「嬉しかった」
キスもしてもらったしね、と耳元で囁くと、和谷の耳がカーッと赤くなった。
「それくらい、したことあるじゃん…」
ぶっきらぼうに呟く和谷に、「そうだっけ?」と伊角が悪戯そうに聞き返す。
すると和谷は、そんな伊角の胸をぐいっと引き剥がすと、その真っ赤な顔を上げて。
背伸びをして唇を寄せてくるのを、伊角は少し屈んで受けとめた。



少し長い口付けを、どちらからともなく離すと。
和谷は再び伊角の胸に顔を預けて、呟いた。

「オレも、嬉しかった」

伊角の学校で。
伊角と一緒にお弁当を食べて。
伊角と一緒に走ることができて。

迷惑をかけたと落ちこむ反面、実は嬉しかったのだ。

自分が存在しないはずの伊角の学校生活の中に、入り込めたような気がして。
まるで伊角と同じ学校に通っている気分が、束の間の間だったけれど味わえて。

伊角の近くにこれた気がして。

そう言うと、伊角は優しく笑って。
「クラスメイトより、恋人の方が近いよ」
これくらいにね、と伊角は和谷を抱く腕に力を込め、再びゆっくりと唇を重ねた。


うっとりと瞳を閉じながら、和谷は微かに聴こえるメロディーに耳を傾けて。
これも聞いたことある…と、次第に甘く溶ける思考の隅でぼんやりと考えていた。


そしてふたりはその曲が終わるまで。

互いに抱き合う腕を、離そうとはしなかった。





fin.

back