ある愛の矛盾


 リンゴンリンゴンリンゴンリンゴーン

 都内の高級マンション、そのワンフロアを丸ごと使った広大な部屋のドアベルがけたたましく鳴り響いたその時。
 その部屋の住人である不二周助は夕食の後片付けの皿を食器洗浄機にセットし終えたところで、同じく住人の越前リョーマはデザートのカスタードプリン(もちろん不二の手作り)のお代わりと、二人分のコーヒーをリビングに運んでいるところだった。
 外出中のもうひとりの住人、手塚国光が帰って来たのだろうか、と一瞬思った二人だが、しかし手塚ならば鍵を持っているのでチャイムを鳴らす必要はない。
「もしかして部長が鍵を忘れた……わけないっスよね」
「リョーマくんじゃあるまいし」
 この部屋に3人で暮らし始めてまだ1年と少しだが、これまで手塚がうっかり鍵を持ち忘れたことは一度もなかったし(ちなみにリョーマは何度も忘れた挙げ句、面白半分にピッキングを試みてセキュリティが作動してしまい、ガードマンを飛んでこさせた前科まである)もし万が一に鍵を忘れたとしても、そもそもあの手塚がチャイムのボタン連打を行うはずがない。
「誰だろ」
 リンゴンリンゴンと未だ鳴り続ける中、リョーマがリビングを出て玄関に向かう。
 誰だろうとは言いながらも、リョーマも不二も相手が誰だか大方の予想は付いているので呑気なものだ。
 そもそもエントランスのインターホンが鳴るでなく直接ドアホンが鳴っていることから、相手は部屋のドアのすぐ前にいるということで。ということはマンションのオートロックの暗証番号、更にはこのフロア専用オートロックの暗証番号も打ち込んで二つのロックをパスして来たわけで。
 つまりはその両方のナンバーを知っている数少ない人間のうちの誰かなのである。
 その中でこんな風にチャイムを鳴らす人間と言えば……
 不二はもう一人分のコーヒーをカップに注ぎながら、デザートを余分に作っておいて良かったと微笑んでいた。



「大石がっ、大石がっ、浮気したんだよー!!!」
 猛烈な勢いでプリンを食べ、スプーンを振り回しながら叫んでいるのは、不二とリョーマの予想通り菊丸英二であった。
 半泣きでこの部屋に飛び込んできた時はよろよろしていたくせに、出されたプリンを食べた途端に元気が出てきたらしい。ちなみにお代わりを要求してリョーマに却下されていた。
「浮気っスか」
「やるねえ、大石も」
 リョーマは3個目のプリンを食べながら、不二は2杯目のコーヒーを飲みながら感心した様子で頷いている。
「副部長って意外にモテるもんね」
「意外とは失礼だよリョーマくん。大石はあんな髪型でも何故か昔から女の子に人気あったんだから」
「そっか。あの髪型を差し引いてモテるほど性格がいいってことっスね」
「そうそう。ある意味すごいことだと思うよ」
「おまえらどっちも失礼だーーー!!!」
 不二とリョーマのやり取りに菊丸が憤慨する。
 恋人の不実を訴えに来たくせにその恋人を貶されると条件反射で庇ってしまっているそんな姿に、不二とリョーマは顔を見合わせて笑った。
「――でもさ、英二。そもそも大石は浮気なんかしてないと思うんだけど」
「えっ! 何でさ!?」
「あー、オレもそう思うっス。副部長にそんな甲斐性あるはず……んむむむ」
「こらこらリョーマくん、ここからは真面目な話なんだからちょっと黙ってて」
「大石は甲斐性なしなんかじゃなーいー!」
「英二も落ち着いてよ」
 リョーマの口を両手で塞ぎながら、不二がキラリと眼を光らせる。即座に菊丸はソファの上に正座した。
「あのね……シャツにキスマークつけて帰ってきたってことだけど、そのキスマークって口紅でしょ? どうせ満員電車で厚化粧のOLにでも付けられたに決まってるよ。お約束じゃない、そんなパターン」
「そ、そうかにゃ…」
「そうそう。大石だってそう言ってたんじゃないの?」
「え、えーとお……」
 そう言われてみればそんなこと言ってたかも……と、菊丸の声は次第に小さくなっていく。
 どうやら頭に血が上った菊丸は、大石の言い訳もちゃんと耳に入っていなかったらしい。よくあることである。
「ダメだよ英二、好きな人のことは信じてあげなきゃ。冷静に考えれば大石が浮気なんかするはずないって分かってるでしょ?」
「うう……」
 優しく諭すような口調で不二が言えば、菊丸は唸りながらも最終的にはこくりと頷いた。
 やれやれと不二が溜息を吐く。
 するとそこへ突然、リョーマが不二の指を噛んだ。
「っ、リョーマくん? 苦しかった?」
 そういえばずっとリョーマの口を塞いだままだったと、慌てて不二が手を離すと、リョーマが地を這うような低い声でぼそりと呟く。
「……そうっスよね……直接身体にキスマークが付いてたら浮気だけどね……」
「……………」
「あ」
 声を上げたのは菊丸だった。
 いつだったか自分達も巻き込まれた不二の浮気騒動を思い出したのだ。後から聞いた話では、リョーマが不二の身体に残っていたキスマークを発見して浮気が発覚したのだとか何とか……
「……リョーマくん」
 拗ねているのか、リョーマはそっぽを向いてしまっている。
「リョーマくん」
 何度も呼びかけ、不二がリョーマを後ろから優しく抱きしめた。
「もうあんなことしないよ。何度もそう言ったでしょう?」
「………」
「僕のこと、信じられない?」
 耳元で不二がそう囁くと、リョーマは身体をぴくんと震わせたあと、ふるふると首を振る。
「信じてるけど………好きだから」
 ぽつりと言いながら、自分を抱き締めている不二の腕に、そっと手を重ねた。
「リョーマくん……」
「…ちょっと思い出したんで、面白くなくて、甘えてみただけっス」
 ゴメンナサイ、痛かった?と、リョーマがさっき噛んでしまった不二の指をペロ、と舐める。
「全然痛くなんかないよ。ごめんね、嫌なこと思い出させちゃって」
「もういいっス」
 そう言ってリョーマが不二の指にちゅっと口付けると、不二はそのお礼とでもいうように、リョーマの耳にフッと息を吹きかけた。
「んっ」
 再びぴくりと身体を震わせるリョーマに、不二の顔に笑みが浮かぶ。
「ねえ、リョーマくん」
「……何?」
「やっぱりまだ痛いかも……」
 言いながら、不二が指先をリョーマの目の前でゆらゆらと揺らめかせる。その意図にもちろん気付いたリョーマは、少し躊躇ってから、不二の細く長い指をぱくりと口に咥えた。
「ん……」
 くぐもった声と、ぴちゃぴちゃという湿った音。
 次第に頬を上気させていくリョーマと、満足そうな笑みを浮かべてそれを見つめる不二の姿。
 それら一連の光景を否応なく目の前で見せつけられてしまっている菊丸の行動は素早かった。
(は、は、は、早く脱出しなければ!)
 今の今までアホの子のように口を開けてふたりのやり取りを見ていた菊丸だが、さすがにこれ以上ここにいれば自分はお邪魔虫以外の何者でもなくなってしまう、ということはこれまでの経験からして嫌でも理解できる。
 別れの挨拶など必要ない。不二とリョーマが菊丸というゲストの存在を綺麗サッパリ忘れ去っていることはあからさまに明らかなので、むしろ「お邪魔しました」と声を掛けた方がよっぽどお邪魔になるだろう。
(ああ……愛とハ信じるコトなんダネ)
(信じルって素晴らしイネ! ありがトウ不二! じゃーネ!)
 動揺のあまり、何故かカタコトになりながらも心の中で暇を告げ、菊丸は抜き足差し足忍び足でリビングから退場した。
 筈だった。
「――やっぱりいたのか、菊丸」
「手塚っ!?」
 廊下に出ようとしたところで、なんと、帰って来た手塚と鉢合わせしてしまったのである。
 しかも、手塚の後ろからひょっこりと姿を現したのは……
「英二」
「お、大石っ!!」
「おまえを探しに来たら、ちょうど下で手塚と会ったんだ。もう一度、ちゃんと話を」
「大石ーっ!!」
 突然目の前に現れた何よりも誰よりも大好きな恋人の顔を見て、今の場所も状況も忘れた菊丸は本能の赴くままに行動した。
「うわっ」
 いきなり飛びついて来た菊丸を、慌てながらも大石がしっかりと抱きとめる。
「ごめんよー! 大石は浮気なんかしないよー! 信じてるよー! 疑った俺がバカだったよー!!」
「英二……」
 唐突にものすごい勢いで謝られて面食らった大石だが、どうやら浮気の誤解が解けたらしいことがわかり、ほっとする。
「いや、俺も変な誤解させちゃってごめん。でも信じてくれて嬉しいよ」
「愛とは信じることなんだ!」
「は?」
 本日の不二のお言葉を繰り返す菊丸に、大石が首を傾げていると、すぐ隣でゴホン、という咳払いが聞こえた。
 振り向けば、すぐそこに顔を顰めた手塚が立っている。
「――わっ、て、手塚、ごめん! すぐ帰るから!」
 そういえばここは他所様のお宅だったのだ、と慌てて大石が菊丸の身体を引き剥がした。
「ああ……」
 しかし手塚は返事を返すものの、うつろな目で視線をさ迷わせている。そしてリビングの中央に視線を止めては、はあ、と溜息を吐いて目を逸らす、その繰り返し。
 無理もない。
 リビングのソファでは、相変わらず不二とリョーマがいちゃいちゃいちゃいちゃ(以下略)していたのだ。
 というかむしろエスカレートしていた。
 リョーマに舐めさせている指はそのままで、もう一方の不二の手はリョーマのトレーナーの裾をたくし上げ、胸の辺りを這い回っている。
「ここ、気持ちいい…?」
「あ、んっ」
「……………」
 手塚はなんとも複雑な表情で沈黙していた。
 が、いつまでもこのままでいるわけにはいかない。
 いや、出来るものならば、いっそこの光景を見なかったことにしてこのまま自室に引き篭もってしまいたいのだ。しかしそんなことをしようものなら後でふたりに、「帰って来たのに挨拶の一言もないなんて!」「そういうのマナー違反って言うんスよ!」「家長横暴!」「亭主関白!」等々、謂れのない悪口雑言で散々責められるに決まっている。(過去にこういうケースがあったらしい)
 意を決して、手塚はコホンと咳払いをひとつした。
「………今、帰った」
「手塚?」
「あ、部長」
 とりたてて大きな声でもなかった手塚の帰宅の声に、不二とリョーマが即座に反応したのを見て、何となく帰りそこねていた大石と菊丸は密かに感心する。それまで気付かなかったことに問題があるのでは、という疑問はさておき。
「おかえり、手塚。ご飯は?」
「ああ……食べる」
「おかえり部長ー♪」
「ああ、ただいま」
 先程まで明らかに盛り上っていた不二とリョーマは、まるで何事もなかったかのように揃って手塚に飛びついた。そんなふたりも、同じく何事もなかったようにふたりを抱き止めている手塚も、色々な意味でスゴイ、と大石はひたすら感心する。
「新婚さんだねー…」
「英二、帰るぞ」
 今にも指をくわえそうな菊丸に苦笑しつつ、大石が小声で帰りを促した。
 その時だった。
「部長! これ何すか!?」
「ちょっと! これ、キスマークじゃないの!?」
 リョーマと不二がほとんど同時に大声を上げた。ふたり揃って、手塚の胸元のシャツを掴んでいる。
「女物の香水の匂いもする!」
「ホントだ!」
「ちょっと待てお前達……」
「浮気だ!」
「浮気だ!」
「待てと言ってるだろう。これは多分さっきの電車の中で…」
 何だかどこかで聞いたようなセリフのやり取りに、大石と菊丸は思わず顔を見合わせる。
「そんな言い訳信じると思ってるんスか!」
「そうだよ! 嘘をつくならもっとマシな嘘にしてよね!」
 怒りながら詰め寄る不二とリョーマに、胸倉を掴まれてがくがくと揺さぶられる手塚。しかし彼は必死で身の潔白を訴えた。
「嘘じゃないっ、だからこれは、そうだ、あの急停車の時だ。ぶつかってきた女性はやけに濃い化粧をしていたからきっと」
「やめて! そんな話聞きたくないよ!」
「そうっスよ! ひどいっス部長!!」
「どうしろと言うんだーっ!!!」

 ―――愛って、信じることじゃなかったのかにゃ?

 そんな菊丸の無言のツッコミは、お仕置きと称してそのまま寝室に消えてしまった3人(内1人は引き摺られるように連行されていったのだが)には、もちろん届くはずもなかった。


 その後、不二とリョーマに散々搾り取られてしまった手塚は、
「考えてみたら部長が浮気するわけないっスよね」
「こんなに可愛い恋人がふたりもいるんだもんね」
「でもキスマーク見たらついカーッときちゃって」
「仕方ないよ。好きなら怒るのが当たり前だし」
「そっか、これも俺達が部長を愛してるってことっスね!」
「そうそう♪ すべては愛ゆえにv」
「……………………」
 満腹で満足そうに話しているふたりの会話に大いに抗議したかったのだが、生憎とそんな気力さえ残されていなかったのだった。


fin.

written by あいりん

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