ある愛の詩 1


「ただいま」
 マンションの扉を開けて帰宅を告げる。
「………?」
 いつもの応えがなくて、リョーマは首を傾げた。
 この曜日のこの時間なら、大学から帰ってきている筈だけど…
 そう思って荷物を降ろし、リビングに向かう。
 すると、ちょうどそこから出てこようとする不二と鉢合わせた。
「先輩!」
「やあ、おかえり」
 いつものように、リョーマが不二に飛びつき、不二はその頬に軽くキスを落とす。
「どうしたの? 確か帰ってくるのは明後日じゃなかったっけ」
「予定は未定っス」
 不二の問いに、同じようにキスを返しながら悪戯っぽくリョーマが答えた。
「あっちの天気がずっと良かったから」
 だから撮影がスムーズに終わったのだ、とリョーマが言う。
 高校生ながらプロテニスプレーヤーとして活躍しているリョーマへと、殺到しているCM出演の依頼。試合にトレーニングに学校生活という多忙さや本人たっての希望もあり、その中でもエージェントが選びに選んだものにだけ、リョーマは出演していた。
 確か今回の撮影は、ニューカレドニアで行われた筈である。
「撮影、楽しかった?」
「暑かったっス」
 地上の楽園と謳われるアイランドも、リョーマにかかるとただの暑いリゾート地のようだ。
 くすくす笑いながら、お疲れ様、と不二が労いの言葉をかける。
 そんな不二の首に腕をまわしたまま、ふいにリョーマがぴたりと動きを止めた。
「越前くん?」
「先輩、香水かえた?」
 くんくん、とリョーマが不二の首元の匂いを嗅ぐ。
 不二の香りはいつも決まっていて、スパイシー系の、けれどほんの少し甘い香り。ちなみに、有名ブランドのそれを、不二は自分で購入したことは一度もない。トーナメントやトレーニングなどでしょっちゅう海外に出向くリョーマと手塚が、その度に不二へのお土産として買ってくるからである。
 けれど、今の不二からは、そんないつもとは違う香りがしていた。
「…姉さんがイタリア旅行のお土産にくれてね、ちょっと試してみたんだ」
「ふーん」
 初めて嗅ぐ香りに、リョーマはくんくんと何度も鼻を鳴らす。
「気に入らない? じゃあ落としてくるから、待ってて」
 不二はそう言うと、リョーマが止める間もなくさっさとリビングを出て行ってしまった。そのままバスルームへと向かう不二の足音を聞きながら、残されたリョーマは鼻をひくひくさせて、顔を顰める。
「………」
 柑橘系の爽やかなその香りを、気に入らないとまでは言っていない。ただ、何となく、ほんの少し違和感を覚えただけで。
 それなのに、わざわざ落としてくると言って幾分足早に立ち去ってしまった不二の態度の方にこそ何だか引っかかるものを感じて、気がつけばリョーマはその後を追いかけていた。
「――どうしたの、越前くん」
 広々としたバスルームへと続く、これまた広々とした脱衣所で、不二は脱ぎ掛けていたシャツを再び羽織る。
「待っててって言ったでしょう?」
 背を向けて、にっこりと微笑んだ顔だけをこちらに向ける不二の様子に、リョーマの眼が鋭く光る。
 そのまま黙って不二の前に回り込むと、いささか乱暴にそのシャツの前を肌蹴た。
「……何すか、これ」
 リョーマの追及に、不二は仕方なく溜息を吐いてから、やれやれと苦笑する。
「…見て分からない?」
 分からない筈がない。そこにあったのは、明らかにキスマークと思しき赤い跡。常日頃、自分達がお互いに付け合っているものである。
 しかし、自分と手塚は先週から揃って日本を離れていたのだ。
「…部長はまだアメリカだよね」
「そうだね」
 自分もつい先程帰って来たばかりだ。
 なのに、付けられたばかりのようにくっきりと残っているそれ。そしてこの香り。
 まさかと思いながらも、動かぬ証拠を目の前にして、自然とリョーマの眼が釣り上がる。
「先輩……」
「なあに?」
 飄々としている不二を、リョーマはますますきつく睨み上げた。シャツを握り締めた手が、微かに震えている。
「……浮気、したの?」
 確信をこめたその問いに、不二はただ、微笑んでみせた。


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