ある愛の詩 4


 リョーマは歩道の端の植込みにある煉瓦に腰掛け、頬杖をつきながら目の前を睨んでいた。
 前方に怒りの対象物があるわけではない。ただ他に持って行き場がないだけである。この不機嫌な気持ちをぶつける先が。
 菊丸たちの家まで押しかけて、あと少し(?)というところだったのだが、手塚と不二がそこに向かっているという連絡が大石の携帯に入った途端、逃げ出して来てしまったのである。
「部長も早く帰ってきたんだ……」
 きっと手塚も、自分と同じことを考えて予定を早めたに違いない。
 恋人を長い間ひとりきりにさせたくない、と。
 それなのに。

『……いいんだよ、浮気しても』
『僕は浮気されても君みたいに怒ったり泣いたりしないから、安心して』

 不二の言葉を思い返すだけで、頭に血が昇る。
 更に目付きを鋭くして、リョーマはイライラと前方を睨み続けた。
 菊丸や大石が駄目なら、いっそ誰でも構わない。その辺にいるどこの誰にでも、声をかけられたらついてってやろうと、いわゆるナンパ待ちのつもりで腰を据えた自暴自棄なリョーマだったのだが、これ以上ないくらい目付きは悪くなっているし、身体中から怒りのオーラを発散させているしで、さすがに誰も近寄ろうとはしなかったのである。
 しかし、しばらくして、ようやくそれをものともしない男が、偶然その前を通りかかった。
「あれっ、越前くんじゃーん!」
 やたら軽い調子で声をかけられ、振り向けば、見た目も充分に軽そうな男が片手を振りながら近付いてくる。
「やっぱり越前くん!」
「あんたは山吹の…」
 千石清純。
「やだな〜。もうオレ大学生だぜ?」
「知ってるっス」
 たしか、不二と同じ大学のはずだ。不二が大学に入学したばかりの頃、そう話してくれたことがある。
 不二先輩……
 再び顰め面になってしまったリョーマに、千石は首を傾げる。
「どうしたの? そんな顔しちゃって、可愛い顔が台無しだよ。あ、もしかしてお腹でも空いてんのかな?」
 千石のセリフに、実際リョーマは空腹を覚える。
 そういえば自分は今日、帰りの飛行機の中で機内食を食べたきりだ。途中でどこかに寄ろうとしたのだが、家に帰れば不二がいつものように何か作ってくれるだろうと思い、やめたのだ。
「………」
「何か食べよっか? それとも、甘いものの方がいいかな?」
 千石の誘いに、どうしようかと一瞬考えて、すぐに何も悩む必要がないことを思い出す。
 ちょうどいいじゃないか。そもそも誰でもよかったんだから……知り合いでも何でも、構わない筈である。
 よし、と意を決してリョーマが立ち上がろうとすると、千石は嬉しそうに手を貸した。その手を取るのも一瞬躊躇ってしまったのだが、すぐに思い直して手を差し出す。
 しかしその瞬間、ふわり、と鼻をくすぐった何かに、リョーマは動きを止めた。
 どこかで嗅いだことのある香り、だった。
 これは、そう、もしかして。
「………」
 リョーマは顔を上げて、目の前の男の顔を見た。
「どしたの? 越前くん」
 千石が愛敬のある笑顔を浮かべたまま、急に固まってしまったリョーマを不思議そうに覗き込む。再び、微かに漂う、柑橘類の香り。
 そうだ、爽やか過ぎるほど爽やかなこの香りは、不二ではなくこの男にピッタリな―――
「――あんたかっ! 不二先輩の浮気相手はっ!!」
「え…っ、えええーーーっっ!?」
 勢いよく立ち上がったリョーマに突然、犯人確保!とばかりに胸倉を掴まれ、更に突きつけられたその言葉に、千石は目に見えて狼狽した。
「なっ、何言ってんのかなっ、越前くんはー?」
「間違いないっス! この胡散臭いくらい爽やかな香水!!」
「う、胡散臭いだなんて酷いよ越前くん〜。そりゃ不二くんのは、もうちょっと甘い香りだったけどさ………って、アレ?」
 千石は、自分の口の軽さを呪った。
「あ、いや、その、だからね」
 物凄い形相のリョーマに思わず後退りしながら、一生懸命言い訳を考える。
「だから、ほら、えっと、そんなに怒っちゃ可愛い顔が台無しだよっ、アハハ」
 しかし出てくるのはひねりのない同じセリフと誤魔化し笑いばかりで、こんなものに誤魔化されてくれるようなリョーマではないということは千石だって分かっている。もうこのまま笑って逃げてしまおうかと、千石が退路を確認し始めたその時、リョーマがぽつりと言った。
「オレ、怒ってる…?」
「へ?」
 つい先程までの勢いは一体どうしたのかと言うくらい、何故か弱々しいリョーマの声。
「……先輩は…」
「…うん?」
「不二先輩は、オレが浮気しても怒ったりしないって……」
 そう言って、リョーマが唇を噛み締める。
 突然項垂れてしまったリョーマに何がなんだかという顔をしていた千石だったが、短い言葉とその様子から大体の事情は理解できてしまった。
 恐らく、というか間違いなく、自分のせいで不二とリョーマは喧嘩してしまったんだろう。浮気しても怒らないという不二に対して怒ってしまう自分が悔しい、といったところか。
 だけど浮気してもいいだなんて、そんなものはただの強がりに過ぎないと自分でさえ思うのに、それに気付かないくらいリョーマのショックは大きかったのだろうか。
 さすがに罪悪感を覚えつつ、千石はぽりぽりと頭を掻く。
 強気で無敵なルーキー。もちろん今となってはプロの世界で活躍するようなリョーマだけれど、それでもやはり千石にとっては最初に会ったその印象が強い。そのリョーマがこんな心細そうな顔をしていると、そのギャップが大きいせいか妙にドキリとさせられてしまう。保護欲を刺激されるというか、庇護欲をそそられるというか。
 そう、これは決してヨコシマな気持ちなんかじゃなくて。
「越前くん……」
 既に、千石の服を掴んでいるというよりは、それにしがみ付いているようなリョーマの両手に、千石が自分の手をそっと重ねる。
「不二くんが、そう言ったの? 越前くんが浮気しても怒らないって」
「………」
 黙って肯定するリョーマの手をゆっくりと自分の服から外して、千石はその手を握り締めた。嫌がる様子も見せないリョーマに、つい、調子に乗ってしまう。
「じゃあさ、試しにオレと浮気してみようか…?」
 今までに散々女をコマしてきたテクニックを最大限に駆使して、甘く誘う。
 内心、自分の節操の無さに呆れもしたが、しかし目の前にいるこんな美味しそうなカモネギを逃しては男が廃る…じゃなくて、こんな不安そうな越前くんを放っておけるわけないじゃないか…!と自分で自分に熱く言い訳をしてみる。
 そう、これは人助けだ。決してヨコシマな気持ちなんかじゃ―――

「いい度胸だね、千石」

 言い訳を繰り返し唱えている途中で、それは遮られた。
 一瞬、目の前のリョーマに言われたのかと思ったが、違うようだ。リョーマも驚いて声をする方を振り向く。
 不二周助が、そこに立っていた。


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