翌朝。手塚とその恋人達は、とあるバス停で待ち合わせをした。ちなみに、テニス部の朝練は部長公認のサボリである。
「おはよう」
「はよっス」
「…………」
手塚は、朝の挨拶をするのも忘れて、ひたすら頭痛がするのを耐えた。
「可愛いでしょ? 姉さんと二人でコーディネートしたんだよ」
不二が後ろからリョーマの肩に手を置き、手塚に同意を求める。
そう言われたリョーマの姿は、可愛くない、とはとても言えなかった。恋人の欲目を差し引いても、充分に標準レベルは突破しているのだろう。
女子の制服を着ている事は予め分かっていたので覚悟していたが、肩まで長さのあるカツラまで着けて、更にその髪にリボンまで結わえて、まさに本格的である。加えて元々小柄な身体のリョーマは、どこをどう見ても女子生徒にしか見えなかった。
恐らく、不二か不二の姉が嬉々として施したのであろう、透明なリップクリームがリョーマの唇で艶やかに光り、手塚は目線を逸らした。
「手塚…朝から欲情しないでよ」
「なっ、何をっ」
すかさず不二が指摘すると、手塚は図星を指されてうろたえる。
「気持ちは分かるけどね。僕も昨夜この越前くん見て、思わずリハーサルしちゃったし」
「…リハーサル?」
「痴漢ごっこ♪」
「………」
手塚はバス停の時刻ボードに頭突きしたくなったが、辛うじて寸前で我慢した。
「おかげで眠いっス…」
「君が眠いのはいつものことでしょ」
苦笑して、不二が後ろから欠伸しているリョーマの髪に軽く口付けを落とす。
「おい…」
こんな公衆の面前で何を、と手塚が周囲を気にしたが、バス停に並んでいる他のサラリーマンや若いOL達は、ただ美男美女のカップルにうっとりと見惚れているだけのようである。
手塚が複雑な心境でそれを見守っているうちに、待っていたバスが到着した。
バスに乗り込んだ後、打ち合わせ通り、リョーマがひとり離れた位置に立つ。しかし車内が大変混んでいるため、思ったよりも離れてしまったようだ。ただでさえ小柄なせいもあり、手塚と不二の位置からはリョーマの頭の先しか見えなくなってしまった。
「おい…本当に大丈夫なのか」
「今更何言ってるの、手塚」
「だが、あいつはまだ半分寝てたぞ」
「大丈夫だよ、寝呆けてたって強いから」
「強いのはテニスだろう」
「ケンカも出来るよ。越前くんはアメリカに居たんだよ?」
「それは…」
「痴漢撃退も慣れてるって言ってたよ」
「何だと」
「しっ! 静かにしてよ。生徒会長の君がいるなんて分かったら、もし犯人がうちの生徒だった場合、さすがに実行できないでしょ」
「そんな…」
「いいからもう黙ってて。目立たないようにしてよ」
そうは言われても一体どうすれば、と手塚は頭を悩ませたが、とりあえず大人しくしてみる。視線だけリョーマから外さないようにして、そっと周りの様子を伺った。しかし身体の向きを僅かに変えようとしたところで、鞄が人の波に引っ掛かり、慌てて元の態勢に戻る。そして鞄を持ち直そうとしていると、いきなりその手をつねられた。
「っ!?」
「じっとしててって言ったでしょ」
不二だった。
「つねることはないだろう」
「君が妙な動きで僕の身体に触るからだよ。痴漢かと思ったじゃない」
「だ…っ」
「しーっ!」
誰が痴漢だ!と叫びかける前に、不二に止められる。
「とにかく、後でいくらでも触らせてあげるから。今は我慢して」
「……っ!」
今度こそ盛大に抗議したかったが、それも不二に止められ、ただひたすら耐えるしかない手塚だった。
さて、そんなこんなでバスに揺られること十数分、車中は混んではいるものの、いたって平穏である。あともう少しで青春学園前というところまで差し掛かり、今朝は痴漢は現れないのだろうかと手塚達が思っていたその時、事件は起こった。
「部長! 先輩!」
リョーマの叫び声に、手塚と不二が返事をするより早く人波を掻き分け、そこに向かう。しかし何せ寿司詰めの満員状態なので、リョーマの元へ辿り着く前にバスが停留所に到着してしまったようである。バスが停車し、降りようとする生徒達に流されてよろめいたリョーマが、捕まえていた男の手を強引に引っ張り、そのままタラップから落ちるように斜めに倒れていくのが見えた。
「越前!」
「越前くん!」
慌てて二人が何とかバスから降りると、リョーマは学生服の男を下敷きにして、どうやら無事のようだった。男の腕を掴んでいるということは、そいつが例の痴漢なのだろう。
しかし、その男を見て、手塚と不二の目が驚愕に見開かれる。
「「…乾!?」」
あろうことか、その男は乾貞治だったのだ。
何ということだ。青春学園の生徒だったというだけでも問題なのに、同じ部活の仲間だったとは…!
大打撃を受けた生徒会長兼テニス部部長の手塚だったが、もちろん手塚以外の人間も充分ショックを受けたようである。
「乾先輩、ひどいっス! 変なデータ取っても、変な汁作っても、せめてただの変態だと思ってたのに!」
「変態は個人の自由だけど、変質者は犯罪だよ、乾」
今まで信じてたのに…!と、不二とリョーマが声を揃えて非難する。しかもリョーマは乾を下敷きにしたまま、胸倉を掴んで絞め殺しそうな勢いだ。がくがくと揺さぶられながら、乾は死にそうな声で言った。
「お、おい…犯罪って、一体何のこと……」
「とぼける気っスか! オレのスカート捲ったくせに!」
リョーマが更に乾の首を締め上げる。ぎゅうぎゅうと力一杯締められ危うく事切れそうな乾を見て、ようやく我に返った手塚が慌ててそれを止めに入った。痴漢も犯罪だが、殺人も犯罪だ。
「落ち着け、越前」
「何で止めるんスか部長!」
「痴漢の肩を持つ気? そう言えば、さっき手塚も痴漢行為を働いてたよね」
「不二先輩、それホント!?」
「ホントもホント。僕のお尻をこう、いやらしい手付きで…」
「ずるいっス! 先輩だけ!」
「あはは、ゴメンね。でも越前くんのは昨夜たくさん触ってあげたじゃない」
「部長がいいんスよー」
「それじゃ、今夜は手塚の家で痴漢ごっこを…」
「いい加減にしろ!!!」
いつの間にか話が脱線している不二とリョーマを、手塚が赤い顔で怒鳴りつけた。その隣りで乾がむくりと起き上がる。
「やれやれ…言っておくけど、俺は痴漢じゃないよ」
ずれた眼鏡を押さえながら、乾はそう言った。
「まだ言うっスか!」
「法で裁かれる前に、僕がサバいてあげようか」
不二の眼が薄く開かれてきらりと光る。通常ならその眼光に逆らえる者はいないのだが、しかし乾は敢然と立ち向かった。三枚下ろしにされる前に無実の証明をしなければ、それこそ自分に明日はない。
「話から察するに、越前は痴漢の囮の為に女装していたんだな?」
何を今更、とリョーマが鼻息荒く乾を睨む。
「そんで乾先輩が見事に引っかかったんでしょ」
「俺は越前だってことにちゃんと気付いていたよ」
「へええ、分かってて越前くんのスカート捲ったってわけ?」
どろん、と不二が暗黒のオーラを背負って微笑んだ。慌てて乾は話を続ける。
「最後まで聞けよ。俺は越前だって気付いて、それで何故そんな格好をしているのか聞こうと思って近付いただけで、スカートを捲るような真似はしてないって。俺がしたのは越前の肩に手を置いただけだ。そうだろう、越前?」
「そうだっけ?」
「越前!」
頼むから思い出してくれ!と切羽詰まった乾に迫られて、仕方なくリョーマはその時の状況を思い浮かべる。
確かスカートが捲られて…そのまま触ってきたら捕まえようと思ったのに何故かその後なかなか動かなくて……そのうちスカートを捲ってる手が離れたかと思ったら肩にぽんと手が置かれて……
それで咄嗟にその手をひっ掴んだのだ。
「…確かに乾先輩は肩に手置いたけど…でもスカート捲った手を離してからかもしれないじゃん」
「俺じゃない! 俺が見た時にはもう捲れてたよ!」
「え」
「越前の隣にいたサラリーマンが持ってた傘だよ。その柄が引っかかってスカートが捲れてたんだ」
「傘の柄……」
そう言われてみれば…そうなのかもしれない。それだったらスカートを捲った後に触ってこなかったのも頷ける。
「俺が越前に近付く時に人波を掻き分けたから、ちょうどその引っ掛かりも外れたんじゃないか? それに捲れてたのは右側だったろう。俺は左肩に手を置いたよな?」
「…そういえばそうっスね」
「…そうだったのか」
「…ふうん」
納得したリョーマの様子に、手塚も不二も疑いは解いたようだ。ようやく冤罪が晴れて、乾は心の底から安堵する。手塚も一応は胸を撫で下ろしたものの、しかし今度は別の意味で眉間に皺を寄せた。
「越前…、お前はもう少し慎重に行動しろ」
こういう場合、ただの人違いじゃ済まされない。間違って痴漢呼ばわりすることは、その相手から訴えられることもあり得るのだから…云々と、手塚の説教の矛先が向けられてしまったリョーマは、艶々と光る唇を尖らせる。
「だって、早く痴漢捕まえて、部長の役に立ちたかったんだもん」
そんな健気なセリフに手塚は、う、と言葉に詰まった。
「し、しかしだな…」
「そうだよ手塚。こんなに君の事を想ってる可愛い恋人を苛めないでよね」
怒った口調で、不二が腰に手を当てながら、シュンとしてしまったリョーマを背中に庇う。
「苛めているわけじゃない。注意しただけだ」
「僕が苛めてるように見えるんだから、苛めてるんだよ。ああ可哀相に、リョーマくん!」
「先輩!」
ひし、と抱き合う不二とリョーマを見て、手塚は頭痛を覚えた。ちなみにいつの間にか周りには登校中の生徒達の人垣が出来ていたのだが、これもまた先程のバス停と同じように、不二とリョーマ(恐らくリョーマだとは気付かれていないだろうが)のラブシーンを誰もがうっとりと見惚れているだけである。
「なかなかお似合いだな」
いつの間にか手塚の隣に立っていた乾も同様だった。そしてどうやら身の潔白も証明することができて、すっかり復活したらしい。いつものようにどこから出したのかノートに何やら書き付けている。
そんな乾に溜息を吐きながらも、手塚は先程から疑問に思っていたことを訊いた。
「…乾、お前バス通学だったか? それに朝練はどうしたんだ」
手塚の問いに、乾は持っていたペンで頭をぽりぽりと掻く。
「うん、実は昨夜遅くまで新しい野菜汁の調合を研究しててね……まあ、要するに寝坊したんだ。今朝は手塚がいないから自主練だって大石から聞いてたしね」
「…自主練だろうと勝手に休まれては困る」
「はいはい、帰りに10周でいいかい?」
「それだけじゃ足りないよ」
「不二?」
いきなり割り込んできた不二のセリフに、手塚と乾が怪訝そうに振り向いた。不二は抱きしめたままのリョーマの髪のリボンを結び直しながら、続けて言う。
「乾、君、越前くんのスカートは捲れてたって言ってたよね」
「あ、ああ」
突然話を戻されて、乾は戸惑いつつも頷いた。
「捲れてるのを見たってことは……見たんだね?」
「…?」
「…!」
意味が分からず首を傾げる手塚の隣で、意味の分かった乾は慌ててぶんぶんと首を左右に振って否定する。
「何の話だ?」
「越前くんのパンツだよ」
「パ…」
「いや、俺は見てない、見てないぞ」
「何言ってるの。スカートが捲れてたなら、パンツが見えるじゃない」
「…見たのか乾」
「見てないって! 大体越前はスパッツ履いてたじゃないか!」
「見たんだね」
「………!」
しまった、と思ったがもう遅い。語るに落ちた乾だった。
「いや、でも、スパッツなんて見られて困るものじゃないだろう」
「スカートの中身を見たって言うのが問題なんだよ」
「不可抗力だ!」
「不可抗力だろうとスパッツだろうと越前くんのお尻を見た罪は重いよ。ねえ、手塚?」
「…50周だ」
そんなたかがスパッツを見たくらいで…と反論したかった乾だが、ここで逆らったら更に100周に増やされかねないし、それどころか不二に殺されかねない。こんなことなら本当に触っておくんだった、と思わないでもなかったが、その瞬間不二の恐ろしく危険な視線を感じて慌てて思考を切り替える。
「…わかったよ、走るよ。ただ、俺も痴漢を捕まえるのに協力させてくれ」
そう、元はと言えば痴漢が悪いのだ。
乾はこの憤りを未だ見ぬ犯罪者にぶつけることにしたらしい。
「いいけど。じゃあ明日の朝、同じバスでね」
「明日もやるのか…」
不二の言葉にげっそりと呟いた手塚だったが、不二に睨まれて慌てて口を噤む。
「手塚、一体誰のためにこんな事してるか分かってるの?」
「そうっスよ部長。誰のためにこんなカッコしてると思ってんの?」
ぷりぷりと怒る二人に、頼んでない…と手塚は内心思ったが、口には出さなかった。
「さて、そろそろ着替えてこようか」
「そうっスね、もう朝練も終わってる頃だし」
「手塚も一緒に来る?」
「結構だ」
「えー、部長来ないの?」
「いいからさっさと着替えてこい。もうすぐ予鈴が鳴るぞ」
「まいっか。どうせ今夜は部長んちで痴漢ごっこだし…」
「そうそう、楽しみだねえ」
何だか既に目的と手段が入れ替わっているような気がするんだが…というか決定なのか今夜は…!?と手塚がツッコミを入れる前に、不二とリョーマは仲良く手を繋いで部室の方へ行ってしまった。
残された手塚は再び頭痛を堪えながらも、まだ残っていた周りの生徒達を速やかに解散させる。そんな手塚の後ろで、乾が鞄の中から何やら怪しげな小瓶を取り出し、出来たばかりの野菜汁スタミナ強化バージョンだと言って手塚に勧めたが、手塚はそれを丁重に断ると、重い足取りで昇降口へと向かった。
ちなみに、不二とリョーマは二人揃って一限目に現れなかったらしい。
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