微熱ショック



【鬼の霍乱】…おにのかくらん。病気しそうには思われない丈夫な人が、珍しく病気になること。そのたとえ。

 その時、誰もがこの単語を連想し、その意味を大なり小なり反芻したであろう。





「ちょっと熱があるみたいなんで、早退させてもらえるかな」

 不二のその一言で、それまで平和に部活動をしていた青学テニス部内に緊張が走った。
 ―――不二(先輩)が早退!?
 ―――熱!?
 ―――あの不二(先輩)が!?
 たしかに季節の変わり目は風邪をひいたり体調を崩しやすいと言うけれど、だけどでも、あの不二(先輩)に熱を出させるなんて、恐るべし風邪…!ていうか風邪なのか!?あの不二(先輩)が冒されるなんて、ただの風邪菌じゃないんじゃないか!?み、未知のウィルスとか!!ちょっと待て!それってやっぱり、く、く、空気感染したりして!?あの不二(先輩)でさえ発熱するくらいなんだから、俺達なんか、ひ、ひ、ひとたまりもないんじゃないか!?どどどどうしよう!さっきまで一緒にランニングしてたし、ややややばいよ!!いや待て待て待て落ち着け!落ち着くんだ!かえって俺達みたいな普通の人間には無害かもしれないし!!そうだ、そうであってくれ!!ていうか、頼むから俺達にうつす前にさっさと帰ってくれ!!!

 そんな部員達の心をひとつにした祈りが通じたのか、はたまた部長である彼も同じ思いだったのかは分からない。
「わかった、早退しろ」
 とにかく手塚がそう応じることで、青学テニス部は未知のウィルスによる集団感染の危機を免れたのだ。そして再び平和な部活動の時間が訪れる……はずだった。

「じゃあ行こうか、リョーマくん」

 いきなり不二がリョーマの手を掴んで連れ去ろうとしたので、当のリョーマはもちろん周りの人間も驚いて制止しようとした。
 不二はリョーマを道連れにでもしようというのか。しかし、たったひとりの犠牲で自分達が助かるのなら…という少数犠牲の最大幸福思想に浸かるには、リョーマの犠牲はあまりに尊すぎるのだ。半端じゃなく生意気だけれどそれでも可愛い後輩で、大事なルーキーで、次期青学の柱。そして不二の恋人(涙)になってしまった今でも、皆のアイドルなのだから。
「不二、越前は置いて(ひとりで)行け」
「そうそう、(おチビは俺達に任せて)不二は早く帰りなよ〜」
「そうっすよ!早く帰って寝て下さい!(できれば永眠して下さい)」
 本音をカッコ内に押し隠しつつ、果敢にもリョーマを守ろうと勇者達が挑んだが、魔王の氷の微笑みの前に、やはりと言うか敢え無く凍り付く。そんな面々をゆっくりと眺めやってから、不二はリョーマの肩に手を置いて言った。

「何か勘違いしてるみたいだけど、熱があるのはリョーマくんだよ?」

 再び不二の一言が、今度は違う意味で青学テニス部内を震撼させた。
 ―――越前に熱が!?
 ―――おチビに!?
 ―――熱が!?
 それは一大事だとばかりに、不二の時には近寄ろうともしなかった輩が、よってたかってリョーマに群がろうとした。しかし当然だが、再び不二の微笑みにより一斉撃破され轟沈する。性懲りのない愚かな人間達にやれやれと侮蔑の溜息を零してから、不二はリョーマの背を促した。
「さあ、帰ろうか」
 しかしリョーマは不二の手を払うと、憮然とした顔を上げる。
「べつにオレ、熱なんかないんだけど」
 そう言ったリョーマの様子は、確かに普段と何ら変わりない。相変わらず生意気で気が強そうな表情で、そして今は少々不機嫌そうである。だが不二は構わず再びリョーマの手を取ると、その顔に自分の顔をゆっくりと近付けた。
「僕の目は誤魔化せないよ?手もいつもより熱いし、それに目も少し潤んでる…」
 覗き込まれて至近距離でそんな風に言われ、リョーマは思わず顔を赤くした。
「ほら、顔も赤い」
「これは違うっス!」
 慌てて否定するリョーマに、不二はくすくすと笑う。リョーマは怒りながらぶんぶんと不二の腕を振り払おうとしたが、今度はそう簡単にはいかなかった。
「先輩、離してください!」
「暴れると熱が上がるよ」
「だから熱なんかないってば!」
「あるよ」
「ない!」
 端から見ているとまるで恋人同士の痴話喧嘩のようである。というか、そのものなのだろう。周りはいささか微妙な面持ちでそれを眺めていたのだが、しかしいつまでもこうしているわけにも行かない。やがて、部長である手塚が、いつもの眉間の皺を深くしながらしぶしぶ仲裁に入る羽目になった。
「おい、お前達」
「邪魔しないでくれる、手塚」
「部長!オレ、熱なんかないっス!」
 二人同時に詰め寄られて手塚は半歩後ずさったが、青学テニス部部長というプライドに支えられて何とか持ちこたえる。
「…越前、本当に熱はないのか?」
「ないっス!」
「…不二、俺も越前は平気そうに見える。本当に調子が悪くなったらその時に早退するということでいいだろう」
「………」
 手塚のセリフに不二は押し黙った。
 さすが部長!さすが全国級!と部員達は心の中で絶賛した。
 だが、しかし。
「手塚」
 不二の目が薄く開いて、光った。(ように手塚には見えた)
 地の底から響くような声音に、手塚の背中を冷たい汗が流れる。
「手塚、恐竜並に鈍い君にリョーマくんの容体が分かるわけないでしょう?あまり僕を笑わせないでくれるかな。リョーマくんのことは僕が一番よく分かるんだよ。恋人であるこの僕がね。恋人でも何でもない君にはこれっぽっちも分かるはずがないわけ。そろそろその伊達眼鏡を老眼鏡にでも新調してきたらいいんじゃないの?と言ってもそれで僕のリョーマくんのことが分かるようになるわけじゃあないけどねもちろん」
 背後にゴゴゴゴゴと地鳴りのような効果音を背負いながら、不二が一息に言ってのけた。毒舌と言うより毒そのものを食らって今にも吐血しそうな手塚に、思わずリョーマも自分の立場を忘れて同情してしまったが、すぐに不二に腕を引っ張られ、慌てて我に返る。
 不二はそれまで手塚に向けていた氷の眼差しを今度は熱いものに変え、真っ直ぐにリョーマの瞳を見つめた。
「リョーマくん、僕は君のことが心配なんだ。君がとても大切だから、無理して倒れたりでもしたらと思うと、それだけで胸が潰れそうなんだよ……」
 キラキラと不二の美貌が縋るようにリョーマに迫る。
「好きだから、心配なんだ。そんな僕の想いは迷惑かな……?」
 泣き落としである。
 リョーマも分かってはいるのだ。しかし、あまりにもいつも不二が真にせまっているので、結局まんまとほだされてしまうのである。
「そんなこと…ないっスけど」
「そう、嬉しいな。だったら僕と一緒に帰ってくれるね?」
 にこっと顔を輝かせて不二が言う。恋人の極上の笑顔にリョーマは再び顔を赤くして、ぱちぱちと目を瞬かせた。
「……ぶ、部活が終わったら」
「それじゃ意味ないでしょう」
「だって、今日は部長とミニゲームが…っ」
 言いかけて、慌ててリョーマは空いている手で自分の口を覆ったが、もう遅い。
 目の前の不二は、再び背後にどす黒いものを背負って微笑んでいた。その眼はけして笑っていない。
 今度こそ皆の頭の中で非難警報が発令された。既にこの場から逃げ出してしまった賢明な者もいる。リョーマも怯えて一歩下がろうとしたのだが、不二に手を握られていてそれは不可能だった。それどころかいつの間にか不二の顔が至近距離まで迫って来ている。
「せ、先輩?」
 その口を開いた一瞬の隙に、それは起こった。
 周りが悲鳴を上げる。奇声も混じっていたかもしれない。声にならない叫びを上げた者もいた。
 不二がリョーマにキスしたのだ。
 今までにも、皆の前で不二がリョーマに抱き付いたりする程度は多々あった。しかしさすがにそれ以上の接触はリョーマの人並の羞恥心のためか、成されなかったのである。もちろん、タイミングを見計らった不二が人気のない図書室や部室や木陰でリョーマにこっそり口付けるのを、運悪く目撃して涙する者もまったくいなかったわけではないのだが。
「んーっ!」
 リョーマは抵抗した。
 こんな人前で、しかもいきなり舌まで入れられてはたまったものではない。不二とのキスはけして嫌いではないのだけれど、ベッドの上ならともかく、こんなところで我を忘れるわけにはいかないのだ。
 しかし不二は舌技もさる事ながら押さえ込みの術も絶妙で、引っ叩こうとしても両手は拘束されているし、押しても引いてもびくともしない。なんとかリョーマが足が自由なことに気づいて蹴り上げようとした時には、既にその力さえ入らなくなっていた。
「……っ」
 脱力したリョーマをようやく不二が解放して抱き締める。
 危うくそのまま大人しく不二の胸に収まりそうになったリョーマだったが、済んでのところで正気に返ると慌てて不二の身体を突き飛ばした。
「何するんですかっ、不二先輩のヘンタイ!露出狂!」
 リョーマの罵倒に凍り付いたのは、言われた当人ではなくその周りの人間である。リョーマ以外の人間がそんなセリフを吐こうものなら、命がいくつあっても足りないに違いない。
 しかし不二は冷やかな笑みを浮かべたままで一言呟いただけだった。
「ななどにぶ」
「は?」
 唐突な不二の言葉に、周りは新しい呪文か何かだろうかと思わず身構える。
 不二はもう一度ゆっくりと繰り返した。
「37度2分だよ、リョーマくん」
 言われたリョーマも周りも、ようやくそれが何の事か分かった。リョーマの体温を言っているのだろう。しかし分かったとは言え、それが納得できるわけではない。
「いい加減なこと言わないでくださいっ」
「いい加減なんかじゃないよ。ちゃんと計ってあげたでしょう?」
 そう言って舌を出してそれを指差す。途端にリョーマは口を押さえて真っ赤になった。
「そ、そんなの当たってるわけないじゃん…っ」
「そうかな」
「そうっスよ」
「……リョーマくんは僕のこと信じてくれないんだね」
 哀しいな、と不二が傷ついたように目を伏せた。
 泣き落とし再び、である。
 リョーマは今度こそ引っかかるもんかと気を引き締めたが、その必要はなかった。不二がいきなり顔を上げて乾を呼んだのだ。
「乾、体温計持ってる?」
「ああ」
 突然の不二の要望に特に慌てた様子もなく、どこからともなく体温計を取り出してみせる乾にツッコミを入れたいとはこの場にいる全員が思ったが、しかし誰も実行しようとはしなかった。ここで話を中断させでもしたら、不二の報復が恐ろしいからである。
 皆に心の中で裏拳を入れられた乾は、相変わらずの無表情で不二に体温計を手渡す。受け取った不二はリョーマに向き直ると、にっこりと笑って言った。
「はい、リョーマくん。あーんして?」
「………」
「あーん」
「………」
 リョーマは無言で口を開けた。
 勝負に乗ったのだ。だって熱なんかないんだから。
 大きな瞳で睨まれながらも、当然不二は臆することなく優雅な手付きでリョーマの口に体温計を咥えさせる。
 リョーマが何かを口に咥えているという様は、多少あらぬ妄想を掻き立てられなくもなかったが、体温計が細すぎるのが幸いして鼻血を吹き上げる者はさすがにいなかった。

 チッチッチッ

 ピピピピピピ。

 アラームの音が、妙に静まり返ったテニスコートに響き渡った。
 リョーマの口から体温計を乾がひょいっと取り上げる。
「…37度2分だね」
「!?」
 乾の言葉にリョーマが信じられないというようにその手から体温計を奪い取った。しかしデジタル式のそれは確かに「37.2℃」と表示されている。
「嘘……」
 体温計をまじまじと見つめて呆然と呟くリョーマから今度は不二がそれを取り上げると、先の部分を指でひと拭きしてから乾に返却した。
「何で当たるんすか……」
「愛でしょう」
 愚問だね、と不二が事も無げにさらりと答える。
「さて、もうこれで文句はないよね」
「で、でも、7度2分なんて微熱だし」
「これから上がってきたらどうするの」
「だけど」
 尚も言い逃れようとするリョーマに不二の笑顔がずいっと迫った。
「ねえ、リョーマくん。これ以上駄々をこねるって言うんなら……」

 ―――キスだけじゃ済まないよ?

 耳元でそう囁かれてリョーマは飛び上がった。顔が赤くなって、青くなる。
 不二はやると言ったらやるだろう。この人は恐ろしく有言実行の人なのだ。テニスコートだろうが公衆の面前だろうが、そんなものは彼にとって何の障害にもならないに違いない。
 想像の果てにまさしく病人のような顔色になってしまったリョーマは、大人しく不二のジャージの裾を掴むしかなかった。
「ふ、不二先輩」
「何かな?リョーマくん」
「………今すぐ帰るんで、送ってください」
「喜んでv」
 屈み込んで、ちゅっとリョーマの額にキスを贈ると、不二は上機嫌でリョーマの手を取って歩き出した。鼻唄でも歌い出しそうな勢いである。
「…なんか先輩のせいで熱出た気がするんだけど」
「そう?それじゃ責任持って看病してあげないとね」
「結構っス」
「遠慮しなくていいんだよ」
「してないっス」
「照れちゃって可愛いなあ」
「うわっ」
 不二ががばっとリョーマに抱きついて、リョーマが悲鳴を上げた。


 いちゃつきながら遠ざかっていくふたりを呆然と見送り、やがて見えなくなった頃、最初に動いたのは大石副部長その人だった。
「乾……」
 長身の男にそっと近付いて小声で訊ねる。
「その体温計だけど、もしかして……」
「うん、細工してあるよ」
「えーっ!!」
 驚いて叫び声を上げたのは、いつの間にか側に来ていた菊丸である。更に騒ぎ立てようとした菊丸を慌てて大石が押さえ込み、乾は手に持っていた体温計を菊丸の口に突っ込んだ。
「はんはおー、ひういっへはふいほふふはおー」
「英二、黙ってろ」
「ほーひ」
「まあ、こうやって体温を計ってはいるんだが……」
 乾が説明を始める。その周りにはいつの間にか部員達が集まってきていた。
 アラームが鳴って、乾が菊丸の口から体温計を抜き取る。
「実は計り終わった時にはこうして37.2℃としか表示されないように……」
 澱みなく解説する乾は、しかし最後までそれをすることが出来なかった。何故か黙ってしまった彼の手元を、大石と菊丸が不思議そうに覗き込む。
「36.1℃じゃん」
「乾?」
「………」
 乾は無言でリセットボタンを押すと、今度はそれを大石の口に突っ込んだ。
「あ、大石!オレと間接キス!」
「ぶほっ」
「噛んで割らないでくれよ、大石」
 しばらくして再びアラームが鳴る。
「………36.5℃……」
「………乾……?」
 乾は眼鏡のフレームに手を宛てながら呟いた。
「ふむ、どうやら細工は失敗らしいな」
 平然と言いながら、またどこから取り出したのか分からないノートをパラパラと捲り、そこに何やら書きこみ始める。
 その場にいた全員が、恐る恐るお互いの顔を見合わせた。
「…てことは」
「イカサマなんかじゃなくて…」
「不二ってやっぱり、」

 ………………。

 その先の言葉は、誰も口にしようとはしなかった。
 所詮、今更なのである。
 だがしかし、そのまま何事もなかったように部活動を再開した青学テニス部の面々は、何か悪い病気にでも集団感染したかのように誰も彼もがひたすら青い顔をしていたのだった。




fin.






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人間らしい不二先輩が好きーとか言っておいて人外魔境な不二様のご登場です(笑)
結局不二先輩なら何でもいいらしい私。新たな発見です。いや今更ですわ(´▽`)

不二先輩の策士っぽいとこを書きたかったんですけど策士どころじゃないです。
何者でしょう不二先輩。いや今更ですわ(´▽`)

この後のリョーマさんはもちろん不二先輩に手取り足取り看病されることに・・・
ええそりゃもう胸取り腰取り以下自主規制です。裏行きです。(ないです)

2002.5.27 あいりん