部長の風邪が治ってしまった。
「―――リョーマ……」
「………ん…」
抱きしめられてリョーマは息を詰めた。
手塚の腕の中。その広い胸に包まれると安心したように甘えて擦り寄るのが常だったけれど、どうしても、どうしても今は、肩に力が入ってしまう。
そんなリョーマの緊張に当然ながら気づいている手塚は、本日何度目かの同じ台詞を口にした。
「…無理しなくてもいいんだぞ……」
「無理なんかしてないってば!」
手塚がそう気遣う度にリョーマが怒って否定する。このやり取りも既に本日何度目のことになるのだろうか。
そもそも、部長が悪いのだ。
風邪が治ったらキスさせてくれ、なんて言っといて一日で風邪を治すなよ!部長のバカ!
ムッツリスケベっっ!!!
普通は恋人の風邪が治ったら喜ぶべきなのだが、しかしリョーマの罵倒も無理はない。
手塚の風邪の見舞いに行ったその翌日。つまり今日、朝練に手塚がいるのを見て驚いたのはリョーマだ。もう風邪は治ったのか、平気そうに見えるけど無理をしてるんじゃないのか。周りの人間は誰も手塚が昨日寝込んでいたとは知らないので、リョーマひとりだけが手塚の様子を心配そうに伺っていた。
そしてそれに気づいた手塚が、リョーマとすれ違い様に囁いた台詞がいけなかったのだ。
『お前の約束が効いたのかもな』
リョーマは後悔した。
やはりあんな約束を軽々しくするべきではなかったのか。いや、軽々しくなんてしていない。自分は真剣だ。本気で自分の全部をあげたいと思ったのだ。だって部長が好きだから。
おまえが欲しい、と言わせたのはリョーマだ。
まるごとあげる、と答えたのもリョーマだ。
そう答えて、約束のキスをしたのはリョーマの方なのだ。今更ダメだなんて言える筈もないし、言うつもりもない。
しかし昨日の今日である。まだ心の準備ができていなくても、それは仕方のないことだろう。リョーマだってそれくらいの道理は分かっていた筈なのだが、続けられた手塚の言葉につい逆らってしまったのは、やはり性格なのだろうか。
『無理しなくていい。お前が嫌がることをこちらも無理矢理する気はない』
『…無理なんかしてないし、嫌がってなんかない』
もちろん、手塚は何も今すぐにどうこうしようというつもりで約束が云々と言ったわけではなかった。心配そうにしているリョーマを安心させようというのと、可愛い恋人を多少からかってやろうというほんの出来心だったのだ。だから、手塚の言葉で昨日のことを思い出し、すっかり考え込んでしまったリョーマを見て、慌てて言葉を付け足したのである。しかし、無理するな、と言われて素直にハイと頷くリョーマではなかったのだ。
リョーマとしては昨日、手塚の前でらしくなく怯んでしまったことを実は相当気にしていた。昨日、手塚に言ったこととは矛盾しているが、やはり自分の情けないところを恋人の前に晒すのは嫌だったのだ。そんな強がりが年上の恋人に通用する筈ないとわかってはいたけれど、それでも昨日の自分の本気を疑われるのは哀しかった。
そして押し問答が続いた末、売り言葉に買い言葉である。
『今日しないなら、もう一生しないから!』
こんな啖呵を切ってしまってはもうリョーマも後には退けなかったし、切られてしまった手塚の方もここは首を縦に振るしかなかった。
結果、リョーマは昨日に続いてここ手塚の部屋にいた。部屋の主にその身体を、抱きしめられて……
リョーマを抱きしめながら、手塚はまだ迷っていた。
実は手塚の方こそ、まさか昨日の今日でこうなるとは全く思っていなかったのだ。
―――いや、違う。
全く思っていなかったというのは嘘だ。手塚は仮にもリョーマの恋人である。リョーマの性格は他の誰よりも把握している筈だ。気遣うような真似は、逆にリョーマを煽ることになるということも、当然分かっていた筈である。心のどこかでこうなるように計算していなかったと、果たして言えるのだろうか。
リョーマをこの胸に抱くために……
手塚は己の余裕の無さと狡猾さに今更ながら気づいて、そっと自嘲した。昨日は風邪という名目で、理性の箍を外しかけた。しかし今はどうだ。リョーマをこの腕に抱いているだけで理性なんて簡単に吹き飛んでしまいそうだ。無理をするな、と言っておきながらその実、リョーマをこの腕から離せないでいるのは自分の方なのだ。
今、リョーマがこの腕の中にいる。
その小さな身体で自分の欲望を受け止める為に。
手塚はその実感をもっと確かなものにしたくて、抱きしめる腕に力を込めた。
「………ねぇ」
不意に腕の中から小さな声が上がる。
「………………苦しいんだけど…」
小さく非難され、慌てて手塚はすまん、と謝るとその腕を緩めた。その隙間でリョーマが息を吐いて顔を上げる。その顔が少し怒ったように膨れているのは実は照れ隠しの為だった。大きな目で手塚をじっと睨むように見つめていたかと思えば、突然くすっと笑う。
「嘘だよ」
「…?」
「苦しくなんかないよ。もっとしてもいいよ」
ギューッとね?と冗談ぽく笑いながら、ぽすっと手塚の胸に顔を埋めた。そしてその広い背中に手を廻し、リョーマの方からぎゅっと抱きしめる。一瞬、手塚が驚いたのが分かり、更に先程の自分の嘘に翻弄され困惑していた恋人の顔を思い浮かべて、リョーマはくすくすと笑った。
どうやら、リョーマは手塚をからかうことでいつもの調子を取り戻したらしい。いつの間にやら肩の力も抜けている。手塚はやれやれと苦笑すると、リョーマの言う通りにその身体をぎゅっと抱きしめた。
しかし、やがて手塚が身体をゆっくりと離し、その長い指でリョーマの顎をくい、と持ち上げる。するとやはりリョーマの瞳が微かだが不安そうに揺れるのだ。つい手塚が躊躇してしまうのも無理はないだろう。
「本当に、いいのか…?」
「……部長のバカ」
「……………」
罵られたことよりも、その言葉の真意が分からずに手塚は黙り込んだ。そんな手塚を見てリョーマは更にバカ、と続ける。
「もう確認取るのやめてよ……オレがノーって言う筈ないの分かってるんでしょ?」
「…………すまん」
「…謝らないでよ」
「すまん……あ、いや」
慌てて言い直そうとする手塚の様子に、リョーマはプッと噴き出した。
「ホントにバカだね、部長……」
台詞とは裏腹にリョーマの手塚を見つめる視線はとても優しくて、いつもの生意気さはどこに行ってしまったのか欠片も見当たらない。それは好きな人にだけ、愛しい人にだけ向けられる表情。そんな顔で見つめられて平静でいられる男はいないだろう。手塚は引き寄せられるようにリョーマの頬にそっと手を伸ばした。そして親指でその唇をなぞると、それがゆっくりと開かれる。
「………キス…」
そう言葉を紡ぐ小さな唇に、しばし目を奪われながら手塚は訊ねた。
「…何だ?」
「部長の風邪が治ったから、今からするキスはすごいんだよね?」
今までにしたような優しい、戯れみたいなキスじゃなくって。
などと、どこか悪戯っぽくリョーマが訊いてきたので、手塚は僅かに眉根を寄せて苦笑した。そんな台詞を言った覚えはないが、しかし深読みすればそうなるのだろう。実際、今まさにリョーマに仕掛けようとしたキスは、情事に繋げていく為のキスだ。手塚は再度小さく笑って、期待と不安と緊張が入り混じったような瞳でこちらをじっと伺っているリョーマの耳元に、そっと囁いた。
「ああ……腰を抜かすなよ」
「……上等だね」
手塚の珍しくからかうような口調に、リョーマは笑って答えるとゆっくりと瞳を閉じる。しかし顔を近付けた途端、今度はリョーマの大きな瞳がぱちっと開かれたので、手塚は再び動きを止めなければならなかった。
「…今度は何だ?」
「部長、眼鏡」
「ああ……」
リョーマは眼鏡をしたままのキスが嫌いだった。顔に当たって痛いと怒られて以来、手塚はキスをする時は必ず眼鏡を外すようにしていたのだが、今はついうっかり忘れていたらしい。
片手で眼鏡を外す手塚の動作にリョーマはこっそりと見惚れていたのだが、手塚が振り向いた時にはそんな様子をおくびにも出さず、ふふ、と笑ってみせた。
「部長も緊張してんの?」
「……………」
リョーマの問いに手塚は無言で返す。それを肯定と受け取ったリョーマはよいしょ、と背伸びをして手塚の首に両腕を絡ませた。そして手塚の顔を覗き込むようにして、なんだ、そっか、とくすくすと笑う。
「……好きな人を初めて抱くのに、緊張しない奴はいない」
手塚の真剣な表情と真剣な声が、リョーマの心をトクン、と打つ。
お前もそうだろう…?と、低い声で囁くように訊ねられ、リョーマは顔が熱くなるのがわかった。顔だけではない、体温さえも上がった気がする。今、自分は真っ赤な顔をしているのだろう。けれどこんな至近距離では隠すこともできない。手塚の熱い眼差しに絡め取られて視線さえ逸らすことができないのだ。せめて、と手塚の首から外そうとした両腕まで逆にしっかりと掴まれて、リョーマはまさに身も心も完全に手塚に囚われた状態になってしまった。
心臓が早鐘を打っている。
身体もぴったりとくっついているので、きっとこの鼓動も相手に伝わっているに違いない。リョーマはぎゅうっと目を瞑った。
「……言っとくけどっ、部長が悪いんだからねっ」
唐突に切り出された謂れのない非難に、しかし手塚は眉を僅かに顰めただけだった。
「オレがこんなに、こんな風にドキドキしてんのは部長のせいなんだから!部長が、部長が…っ、早く……してくれないから、だから……っ」
「リョーマ……」
「部長のバカ……っ」
罵る声が泣きそうに聞こえて、手塚は掴んでいたリョーマの両腕を離すとその背に手を廻し、思い切り強く抱きしめた。その身体を折ってしまいそうなほどの激しさと、しかし愛しさを込めて。
「悪かった………だがリョーマ、聴こえるか」
「………?」
「オレの心臓の音も聴こえるだろう……ほら」
ぴたりと合わさった身体を更に強く、服越しでさえ手塚の筋肉の形が分かるほどに引き寄せられ、リョーマの鼓動は更に高まる。それに重なり合うように、もう一つの音が聴こえた。強く、速く、熱い鼓動が、リョーマの右胸を激しく叩いている。
「わかったか。お前だけではないことが」
「…だったら……っ」
リョーマが手塚の胸を押し返して顔を上げた。
「だったら、早く………っ」
抱いて……………
リョーマの唇から零れたその言葉は、音になる前に手塚の口腔に吸い込まれた。
そしてそのまま舌を絡め取られ、吸い上げられ、呼吸も喘ぎ声も何もかも奪われて。
そんな野獣のようなキスが、初めてのリョーマには苦しくて、辛くて………でも嬉しくて。
応えるようにリョーマの腕が手塚の背中を抱きしめたのを合図に、手塚はゆっくりとリョーマの身体をベッドに押し倒したのだった。
ふたりの鼓動を、すべてを、ひとつにするために……
To be continued...?
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部長がなかなか先に進めてくれないおかげで、急遽タイトルも変えて寸止めです(笑)
いつかそのうち多分(・・・)続きというか最中も書く・・・書きたい・・・
ということでENDにはしませんでした。
だって!やたら抱き合ってただけだし!王子じゃなくても欲求不満に・・・あわわ(笑)
こんな初々しい(爆)ふたりを3333HITのもーりんさんに捧げます・・・
2001.5.26 あいりん
