ルーンクエスト千夜一夜

    -第一夜〜第十夜-

copyright 1999, 木村 圭祐/‘たびのまどうし’しーちゃん

第一夜、 「寺院と聖職者 その1」        第二夜、 「寺院と聖職者 その2」
第三夜、 「寺院と聖職者 その3」        第四夜、 「法のルーンその1」
第五夜、 「法のルーンその2」            第六夜、 「イェルマリオって〜」
第七夜、                                    第八夜
第九夜                                      第十夜


第一夜、「寺院と聖職者 その1」

  ;記念すべき第一回はイェルマリオのお話。実は内緒なのだが、筆者はイェルマリオが結構好きである。巷では結構いじめらていれるイェルマリオンだが、いじめているGMがいたら聞いていみるといい。「嫌いだからいじめている」というGMは結構少ないと思う。私を含めて、彼らはイェルマリオが好きだからいじめているのだ(笑)。感覚的には好きな子をイジメている幼稚園児に感覚が近いのかも知れない。

  現在進行中のキャンペーンにイェルマリオのPCがいる。彼は現在侍祭の職にあり、パーティで唯一神性呪文を再使用可で使用できる。今回ポイント割り振りシステムの変形版を使用し、なおかつ強めのキャラクターを作ったため、彼がかなり早い段階で侍祭になるのはわかっていた。今までルーン・レベルのマスタリングはしたことがあったが、寺院や他の聖職者、信者との関わり合いについては結構はしょってプレイしていたので、今回そのあたりを少し丁寧にマスタリングしてみようと思ったわけである。

  さてカルトブックを開いて侍祭の条件を読んでみると・・・当然司祭に準じると書いてある。だのに時間や献金は50%でいいのである。この40%の時間と献金の差はなんぞや?というところからまず考えてみた。

  技能的、呪文的条件が同じというのは、ぶっちゃけた話、信者にとっては聖職者(この語も結構アレなのだが)ということでは司祭も侍祭も一緒である、と言うことなのである。現に村なのでは侍祭が聖務を取り仕切っていたりする。だからそのカルトにおける必要最低限の能力は侍祭といえど満たしていなくてはならず、技能面の条件は同じになるのである。んじゃ侍祭の期間と40%の差はなんなのさ、と言うことにもなるのだが、これは当然聖務を果たすための技能、ということになる。司祭の条件としてあげられている技能だが、およそ聖務とはかけ離れた技能が名を連ねているケースが多々ある。イェルマリオの<自国語80%>、<浄化50%>などまだかわいいほうである。バービスター・ゴアなんか通常入る<浄化>を除けば<斧攻撃>、<聞き耳>、<捜索>、<追跡>とおよそ聖務とはかけ離れた技能が並んでいる(もっとも彼女たちはこの技能を行使することこそ聖務だといいはるかもしれないが)。

  つまるところ侍祭の間と言うのはそうした技能の訓練期間、ということになるだろう。では聖務に必要な技能とは?これは簡単。経歴表で司祭の項目を見ればいいのである。<雄弁>、<言いくるめ>、知識系技能(特に<人間知識>、<カルト知識>)、言語系技能(<読み書き>、<会話>)、魔術分野技能というところだろう。さらに一部の一般神性呪文(《呪文伝授》、《聖別》、《隔離》、《神託》、《礼拝》や、召喚、支配系呪文など)は必要になる。もちろんあらゆる司祭がこのすべてをマスターしている訳ではないだろうし、特に大型の寺院にいけば、それぞれの司祭が職務を分担しているに違いない。それでも基本的にこうした技能、呪文を最低限は修得しているだろうし、PCにしても司祭になるならばこうした技能を身につけてほしい。こういった点から“らしさ”というのは生まれてくるのだと思う。   この中でも<読み書き>技能は絶対に必要な技能だろう。中世ヨーロッパにはラテン語の読めない司祭もいたそうだが、実際の所神殿間の様々な連絡には〈読み書き〉技能が必趨になるだろう。

というわけで侍祭の期間がなぜあるか、40%の時間、献金の差はなぜあるのかは明らかである。侍祭が司祭としての様々な聖務を果たせるように、様々な技能や魔術をを覚えるためにあるのだ。このイェルマリオ氏には通称「ロッテンマイアさん」と呼ばれる司祭がその指導につき、彼をびしびし鍛えるようになったのはいうまでもない。

第二夜 「寺院と聖職者その2」

  今晩は昨晩の続きである。昨晩は候補者自身の能力について書いたので、今晩は人間関係について書いてみたい。平均的な司祭(他の聖職にもあるが)の条件の中には「二年間有望な入信者として〜」という一文がある。じゃあ冒険者みたいなフーテンはどうするだろう?

  人間の所在に関する記録では、政治的な記録よりも、宗教的記録の方が遙かに正確な場合が多々見受けられる。日本の江戸時代の寺請け制(もっともこれは幕府が統括していたのだが)やヨーロッパ中世の教会の出生、洗礼の記録などがそうだ。当時についての研究では、そうした資料が一次資料として用いられる。   こうした現象にはいくつかの理由があるだろう。ネットワークの浸透度の問題もあるだろうが(役人/侍のいない村はあっても、寺のない村はないだろう)、むしろ人々の自発性の問題なのではないだろうか。人間を管理し金銭を吸い上げ、特定のサービスを提供する、ないし再分配するというシステムの性格から見れば、行政、宗教の間には大きな隔たりはない。差があるのはサービスの内容、ということになる。

  現代の行政が提供するサービスといえばまず第一にインフラの整備なかもしれないが、政治の発生を考えるならば、その目的は収益の効率化(そして再分配)と軍事力の効率化という点にある(そして極論すれば軍事力の効率化とは収益の効率化の一部分にすぎない)。だが行政の空間的な広がりが流通の規模を上回ってしまった場合には、それぞれの地域は独立した流通=経済システムを構築し、行政が収益の効率化に果たす役割は皆無になる。そしてそうした地域では独立した行政のシステムが構築される(たとえば中世の孤立した村では村だけで完全な自給自足が完成し、そうした村での農作業の計画は合議制で決められたり、年長者が決めたりする)。

  「ある国家の大きさは軍隊の移動速度によって決まる」といったのは誰だったか・・(クラウセビッツだったかな)。それはともかく、このような経済ネットワークの未発達な状態では軍事力の影響範囲がしばしば経済ネットワークの領域を越えるので、そうした行政の存在を無意味と決めつける事はできないが、それでも孤立した地域の住人にとってはかなり希薄な存在なのではないだろうか。

  現代のように通信、交通の効率が上昇し、ヒト、モノ、ジョウホウの流動性が高まった世界では、個人1人あたりに再分配される収益は、都市部の人間より地方の人間の方が高い場合が多々見られるが、そうでない世界では再分配は都市部(そして行政の担当者)に集中する。そうした場合地域の人間から見れば行政とは収益を税という形で吸い上げるだけの存在であり、参加しても余りメリットが無い以上自発的な政治参加の意識は薄れる訳である。

  他方宗教はというと、ネットワークの浸透度はもちろんのこと、民衆の自発性と言う点でも行政を上回っている。それがある種迷信的恐怖によるものであったとしても、人は自発的に宗教儀礼に参加するのである。政体の掌握力が弱い時代には宗教はより大きな力を発揮し、共同体の求心力となりうる。孤立した共同体内で働く宗教的な強制力と言うのは、情報の氾濫する世界に生きる我々には想像を絶するものとなるはずである(そこのキミ、現代でも思い当たる例があるだろう)。共同体にもたらされる宗教的一体感は、裏を返せばそこから人が逃れることができない、ということでもある。そこからはみ出すことは共同体(すなわち社会)から完全にはみ出してしまうことである。中世ヨーロッパでは一国の王ですら破門されただけで、そのすべてを失いかけている。ましてや一般の民衆となれば、その末期は予想に難くない。かくて人は、宗教には自発的に参加するのである。さらに宗教儀礼の多くは人間の生涯に密着している。言いかえれば取りっぱぐれがないということだ。親が信者なら子も信者になる。こうして宗教組織の方が人間の掌握と言う点では、行政組織を凌駕していたのである。

第三夜 「寺院と聖職者 その3」

  なんか昨夜は脱線しまくり、寝ぼけていて書いてることの訳がわからなくなっている。さて何の話だったかというと、「有望な信者〜」というのをどう扱うかという問題である。昨夜言いたかったのは、行政組織には無くても、寺院には信者のに関する台帳があるはずである、ということだ。しかもその記録の精度はかなり高いものである。ある人物が特定の神の信者の子供として生まれれば、親によほどの事情がない限り(たとえば双子は忌み子だから片一方捨てるとか)、その神の平信者として(あるいはその予備軍として)その地域の寺院に登録されるはずである。そして一般的には入信、結婚、出産、死去などの記録が付け加えられていく。では引越した場合はどうだろうか。普通の人間の場合あまり起こらないはずだが、結婚などで引っ越すことも考えられる。その場合、現在居住している地域の司祭がより上位の教会組織経由で、ないし本人に紹介状と言う形で預けると考えられる。確か日本の寺請け制の記録の中にはそんな記録もあったように記憶している。

  というわけで冒険者も寺院の管区をまたいで冒険する場合には、もといた寺院の司祭から、行き先の管区の司祭に連絡を入れてもらうか、紹介状を書いてもらったほうがいいのは明白である(GMはにすれば面倒だが、そういった話をシナリオのネタにすることもできる)。儀式的な所作を見てOKするアバウトな司祭もいるかもしれないが、下手をすると宗教的なサービスを受けられない可能性もある。面倒の無いのは少し上の位の(そして有名な)司祭の紹介状(身元引受け)を書いてもらうことだが、こういったモノを預けるとすぐ悪用するPCがいるから、気をつけたほうがいい(笑)。

  通常の信者程度だと生涯記録、そしてそれとは別に寄付の記録が残っている程度ではないかと思う。ただ特定地域の寄付をすべて記録した資料があるかどうかはわからない(見た記憶は無い)。だが侍祭、司祭に叙任するとなると、まともな宗教であれば、身元に関して徹底的な調査が行われるのではないだろうか。まず生涯記録が確認され、彼を担当していた司祭に彼の素行、確実に献金していたか、奉仕を進んで行っていたか、そのときの態度はどうかなどの確認が行われると考えられる。ここでOKが出れば、すなわちはれて「名望ある入信者」としてみとめられるわけだ。

  もっともそういった記録が絶対残っている、という保証は無いし、当時担当していた司祭がもう死んでいて、しかもその司祭がズボラで記録が残っていなかったり、通信効率の悪い時代だから記録が届かないこともある。ちゃんと到着していても、上の司祭が握りつぶしたり、ということがあるかもしれない。何にせよ、神の大いなる意志というものを挟み込む余地は十分にある、というわけだ。まあ、そういうわけでもっとも簡単に「名望ある入信者」になるのは、自分を認めてくれる司祭のもとで2年間修行する、ということに・・・なるのかなあ?

余談ではあるけれども、こういった記録の確認で手心を加える、とか身元引き受けをするというのを条件にミッションを依頼するのはいいシナリオのネタになる。ま、そういう理由で過酷なミッションを設定するなら、ま、聖試験にも少し手心を加えてあげてもいいかもしれないね。

第四夜 「法のルーンその1」

 ; ;このホームページは西方世界を中心に展開しているけれども、みなさんはその主神たる見えざる神の持つルーンをご記憶だろうか・・・?正解は「法」、「無限」、「魔術」である。今日はそのうち、「法」のルーンについてのお話。 現在「法」のルーンを持つ一般的な神は、ランカー・マイ、モスタル、それに見えざる神というところだろうか。そしてその源はエイコースとされている。ランカー・マイ、モスタルともにエイコースの息子とされている。エイコースは女神グローランサが生んだ最初の神々、古き神々の一柱である。その中でも、パワールーンを司る対の神の一柱である。

 ; ;女神グローランサはグローランサ世界と最初の神々(古き神々)を生んだ存在とされている。オーランス系の神話では彼女は無から生まれたといわれている。ただアルドリアの神話ではグローランサは“育み手”と“造り手”の和合から生まれたとされており(神智者の解釈はこれに従っている)。地球の神話学に従うならば、女性単体の神が、世界を産むという創造神話というのはなかなか想像しにくく、男女の交接から世界が始まるというのは、よく見られる世界の創造神話である。

 ; ;オーランス系の神話では「法」の根元たるエイコースはグローランサから生まれた。そしてランカー・マイはエイコースと“真実の女神”オレノアの子とされている。彼はオーランス神殿で法官を守護している。この事からも「法」のルーンの持ち主であることが表されている。

 ; ;さてモスタルもまたエイコースの子であり、エイコースの相手は大地(原初の大地ガータ)とされている。ところがモスタリの主張によれば、これは人間たちの勝手な解釈によるものだという。彼らの主張によれば、モスタリは“作り手”であり、普通の神以上の存在であるという。彼らのいう“造り手”がアルドリア神話の“造り手”と同一の存在かどうかは定かではないが、少なくともアルドリア神話では“育み手”をエルフの、“造り手”をドワーフの祖先としている(そして“造り手”は世界創造の仕事から脱落したために世界がおかしくなったと、アルドリアミは考えている)。ところがモスタリの神話には“育み手”は存在せず、“造り手”がいきなり一柱で世界を創造する。

 ; ;先ほど女性神一柱で世界を産む例は余りないと書いたが、男性神や性別のない神がその意志の力によって世界を創造するケースは結構ある。代表的なのはヘブライ-キリスト教系の神話で、神は言葉によって世界を創造する。「はじめにことばありき」というヤツである。文化人類学に従うなら、世界創造はいくつかのパターンに分類することができるが、それらは一般に創造に関連する何か別の事象からイメージされたものであると考えられている。パターンとしては他に宇宙卵なんてのもあるが、一般に創造主一柱による創造は一般にその意志の力によってなされたと考えられている。そして逆説的にいえば、世界の存在以前に存在する意志の持ち主は、創造主としか表現のしようがないのだ。

第五夜 「法のルーンその2」

 ; ;つまるところ、一神教(そしてその創造神話、信仰の形態ともに、モスタリの神話も一神教に近い)の神は「意志の力によって」創造を行い、そしてその教えに従う者たちは、みずからの「意志の力によって」世界のエネルギーを扱う「魔道」をその魔術としているのである。その内在する意味においては、この神話的、魔術的な近縁関係にある二つの宗教-魔術グループ、一神教徒とモスタリの両者の持つ「法」のルーンと、ランカー・マイの持つ「法」のルーンは明らかに異なる存在である。ランカー・マイの「法」のルーンは非常に狭い範囲の、限定的な意味しか持ち合わせていないように思われる。それに対して、一神教徒、モスタリの持つ「法」のルーンは、世界のより根元的な位置に存在し、世界そのものと結びついているように思える。その根元的な結びつきこそが、世界を操作する「魔道」を可能にしているのだ。

 ; ;一神教徒とモスタリに共通するもう一つのキーワードは「不死」である。モスタリはその教えに従ってつとめを果たしている限り、事実上不死の存在である。そしてそうしたつながりからはずれてしまうと、死すべきさだめの存在となってしまう。一神教ともまた本質的には不死の存在である。ロカール派総大司教“敬虔なる”セオブランクはその敬虔さゆえに齢150歳を数えているという。この事は、真実であるかどうかは別として、マルキオン教徒の中に「教えに従い敬虔に生きれば長生きし、永遠に生きられるかもしれない」という考え方が存在していることを意味している。またかつての論理王国の住人や、その現代の末裔であるブリソス人には老いというものは存在せず、不死の存在である。彼らは教えに従って完全な生をを生きる限り、老いることはないが、モスタリ同様教えを踏み外せば、老いにさらされることになる。これこそが「法」のルーんのもう一つの本質である。世界を操作する事を可能にする「法」を表していると同時に、この「法」に完全に従えば調和に満ちた世界が維持され、人は不死の、完全なる「生」を永遠に生きることができるのではないだろうか?そういえばオーランスの神話でモスタリの父とされたエイコースのふたつ名にひとつは「永遠の運び手」である。

 ; ;Sandy Petersen氏はそのSorcery Ruleの中で、西方の魔道体系とモスタリの魔道体系の類似を指摘している。魔道体系だけでなく世界観の酷似は一切両者の関係を示す神話が存在しなくとも、何らかの関係が存在したのではないかという思いを抱かせる。だがそれらを指し示す証拠は、何もないのである。

p.s.現在一部のメンバーに公開されているHero Warsのルーンを解説したページがある。そこにはこの記事に関連する、ある興味深い記事が書かれている。参照できることができるのであれば、一度ごらんになっていただきたい。ただしこの記事自身は、この解説の発表前に書かれたものであることをお断りしておく。

第六夜 「イェルマリオとオーランスはパーティを組むことができるの?」

  イェルマリオの神話を読んでみると、父親を殺され自分自身も打ちのめされたオーランスに対してそれほど寛容であると考えるのは少々不自然です。彼らは傭兵ですから雇われた場合は例外として、本当にオーランス人たちとパーティを組むことができるのでしょうか?この問題を考えるには『サーターの王』に紹介されているエルマルという神について言及せねばなりません。この神についての詳しいカルト解説はNikk Effigaham氏作のエルマルやまりおん氏作のエルマルを参照してください。この神に関しては様々な議論がメーリングリストで展開されてきました。そのあたりの簡単な経緯についてはグローランサ・メーリングリスト・FAQを参照してください。

  ネット上に展開されているエルマル関連の神話を呼んでいくと、エルマル自身は太陽神としてオーランス神話に取り込まれていることが分かります。つまるところ当初イェルマリオという神は存在しませんでした。おそらく太陽系の低地文化が嵐系の高地文化によって何らかの手段で取り込まれ、取り込まれた嵐系神話で太陽の役割を担ったのがエルマルではないかと思われます。そしてイェルマリオはこの高地文化の太陽(嵐の中の太陽、すなわち熱無き太陽)エルマルが、何らかの形で低地文化に再流入し、モンローフのヒーロークエストによってイェルマリオとして成立したのではないかと考えられます。この再流入の課程で問題になったのは「二つの太陽」です。すなわち元からあるイェルムと嵐文化から帰還を果たすイェルマリオ=エルマルはともに太陽神なのです。嵐系の神話では太陽の役割と皇帝の役割が切り離され、オーランスは皇帝だけを殺したので(熱無き光とはいえ)太陽は空にありました。ところが太陽系の神話ではイェルムが皇帝にして太陽ですので、実際のところ帰還を果たしたイェルマリオ=エルマルに太陽神の役割を与えることはできません。そこでこの神には以前持っていた「熱無き光」の役割が与えられ、イェルムの息子という称号が与えられたのです。FAQではどのようにエルマル、イェルマリオを扱うかはGM次第という事になっています。が、エルマルを実際のプレイでどう扱うかは別として、イェルマリオという神に関しての記述だけを考えた場合でも、私個人はこの解釈が妥当だと考えています。

  こうした説を持ち出す1つの根拠は、本来太陽系の神殿のメッカであるルナー地方ではイェルマリオがほとんど崇拝されておらず、主にオーランス文化圏で崇拝されている、ということです。これはすなわち、イェルマリオという神の起源がオーランス文化の内にある、ということなのです。おそらくは高地文化と低地文化の交流が進んだことによって、太陽系の神殿がこの「不遇な」エルマルという神を再発見したか、嵐系の神殿内のエルマル信徒が「本当の」太陽神像を再発見したことが事の発端なのだと思います。オーランス文化圏の神であったエルマルに、モンローフが太陽系の神話の神の性質を付加した(再び与えた)ことにより、イェルマリオはとらえどころのない神になってしまいました。

  さて上記の考えをふまえるならば、イェルマリオを嵐系の神話体系の一部として捉えざるをえないのではないでしょうか?さもなくばこの神はその存在すら難しくなります。イェルマリオにとっては父の敵であるオーランスですが、オーランスにとってはもともとイェルマリオはその神話の一部にすぎませんし、ある種存在を容認している存在なのでしょう(こうした形でも太陽が必要なのかもしれません)。一方イェルマリオの側ですが、私個人は人間の行動規範は信仰の内容よりも文化的背景に多くを依存していると考えています。すなわち彼らはイェルマリオンである以前にオーランス人であり、太陽系の神殿よりも嵐系の神殿に多くの血族的なつながりを有していると考えられます。従って彼らは太陽系の文化にその根を下ろさず、嵐系の文化の中に留まり続けています。むしろ彼らはオーランス文化の中である種のセーフハウスを形成していると考える方が妥当でしょう。

  多くのオーランス人から見れば、嵐神殿の中で太陽系の神を崇拝する彼らは奇異に映るかもしれません。しかしそれでも彼らはオーランス社会の一員であり、その存在は特別な地位を獲得していると考えられます。そう考えればイェルマリオがオーランス人たちのパーティに参加することは、可能であろうと考えられます。かつてキリスト教社会では社会の中の社会外存在としてユダヤ人の存在が認められていた時代があります。彼らはキリスト教徒が信仰上の理由からつくことのできない、特殊な職業(医師や金融業)にその多くが従事していました。もしかしたらイェルマリオもオーランス社会のこうした存在なのかもしれません。


  本テキストは木村 圭祐(しーちゃん)が作成したものです。
  本テキスト著作権は著者に帰属します。営利目的、非合法な目的、反社会的な目的での利用でない場合にかぎり、自由に使用、複製を許可します。ただし複製に当たっては本テキスト冒頭の版権表示(原文および翻訳文)を必ず含めるようにしてください。他の媒体への流通には著作権者の許可が必要です。
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