【亜二】
塞翁が馬
私の一番好きな格言です。
私の人生も、安定した大会社を飛び出してからはアウトローの半生でした。
職業も、一つゃ二つではなく、追われるようにいろいろな仕事をした。
しかし、今思い返すと、その場面場面で、奇跡的に私を助けてくれた人たちがいたものです。そして、その思い出は私の中で素晴らしいものになりました。
もし、井の中の蛙大海を知らずにいたとしたら、こんな幸せな人生は送れなかったでしょう。
又、私の信条として、人や友を裏切らないという事です。私がだまされても、決して他人は傷つけない、見捨てない。だから、沢山の人が暖かい手を差しのべてくれたものと思っております。
仕事に行き詰まり、先が見えなくなっても一生懸命生きていれば、必ず新しい希望の光が見えてくるものです。
そして最後に幸せが来たら、それが一番でしょう。
一番大事なことは、自分は一人ではないということです。
2008/03/19
訃報
今年に入り、二件の訃報が届いた。
悲しい。
そういう私も、何時そんなことが起きてもいい歳になってしまった。
よくある話の中で、死の順番のことが話題になる。
“自分が先に逝きたい”とか、私は、なんと無責任な話だろうと思う。
何故なら、その人は連れ添いのことを考えたことがあるのだろうか。
“思い出してごらんなさい”若かった頃の楽しい日々、その時々の笑顔、うれしさに涙がこぼれるでしょう。
そんな相手を、残していけますか?。
残された人の人生、本当の身方は誰もいなくなるのですよ…。最後には人のお世話になるしかないのです。こんなことを考えて、あなたは先に逝けますか。
“お父さん…お父さん” 薄れ逝く頭の中で貴方を探すとき、すでに貴方がいなかったらどうしますか?。
さすらい人の男は、仕方ないでしょう、覚悟はしていると思いますから………。
出来ることなら、残り少ない人生、片時も手を離さず元気に生きていきたいものです。
2008/03/09
今は亡き芸能人に捧ぐ
戦後は遠くになりましたが、あの時代、私たちに夢や希望の明かりを灯してくれた芸能人がたくさんいた。戦後の焼け跡を忘れさせてくれた、東海林太郎、田端義夫、並木路子、笠置シズ子、高峰三枝子、美空ひばり、岡晴夫、数え切れないほどの国民的歌手が輩出した。
その中に、デンスケこと大宮俊充、エノケン、その他大勢の芸能人がいたが、それは、それは、本当に楽しませてくれた。
最近私は思うのだが、その人達がそれに見合うだけの幸せな一生を送れたの か、正当な評価をされているのか、思い出すたび虚しさを感じずにはいられない。
それというのも、昨今の世相の中で人の価値が正当に評価されてないと思うから です。
学者は未来のことに口ごもり、政治家や経済界のお偉方を見れば、全てとは言 わないが、あまりのお粗末さにあきれかえってしまう。
ほとんどの者が私利私欲に走り、ますます格差が広がっているように思えてなら ない。そこで思う。その者達が本当に、偉くて立派なのかと?。
とんでもない事と思う。何故なら、己を捨て国民の豊かさや幸せの為に努力して いるとは思えないからだ。
それに比べ、芸能人や芸術家は己の命を削って、人々に夢や希望の明かりを灯 してくれた。
現代の風潮は、何を勘違いしたのか一般国民まで偉ぶっているように見える。
そんな人間に、正しい選択や見る目があるとはとうてい思えない。
私の言いたいことは、貧しい芸能人がいたら、もう少し明かりを灯してやってほし いと思うからです
偉そうに語った私はというと、たった一人の人間も楽しませる事も出来ず、幸せ を与えることの出来ない人間です。それ故、芸能人の凄さをいいたかったのです。
2007/12/01
ひめゆりの塔 (沖縄旅行後記)
久しぶりに娘夫婦の計画で、旅行が実現した。
あまり家を出ない私にとっては、一大決心である。
那覇空港に降りたとたん南国の気候のせいだろう、自分でも驚くほど体が軽く、よく動くものと感心した。
二日目に入り、いよいよ念願のひめゆりの塔に行くことになった。
私にとって、ひめゆりの塔は特別感慨深い場所である。一度も来たことのない所なのに、何故か、あのひめゆり部隊の悲劇が私の心に同居していた。
実をいうと、私の姉が12歳の時、天国へ旅立っていたのだ。私は10歳、小学校4年生の時だった。それも欠席するはずの臨海学校での死であった。
姉の死は、ひめゆり部隊の少女と重なって私の記憶の中にあった。
私の両親や自分の子供をなくした親族の悲しみは、どんなに深いものだったか、私の想像をはるかに超えるものだったでしょう。
いくつもの丘陵地帯を越え、どこまでも続くサトウキビ畑を過ぎ、ひめゆりの塔が近づくにつれ涙が止まらず、不覚にも同行の家族に見られてしまった。
明る過ぎるきび畑を見ながら、あの当時、友と手をつなぎ、10何歳かの娘子が暗い夜道を逃げ惑い、何で死ななければならなかったと思うと残念でたまらない。
あれから60年の歳月が過ぎ、今の気持ちで語るのは卑怯かもしれないが、暗い穴ぐらに身を潜め、友と手を取り怖さにふるえていた悲しい出来事が、あの時あったのだ。
何故、先生や軍人が引率していながら救えなかったのか、残念でならない。しかし、最後にはどうにもならなかったのだろう。何故なら、その時全国民が、自分を見失っていた時代だったからである。
高校入学時、私は“他と異なることの恐れ”という教えを受けたことを思い出していた。戦後の教育を受けたものは、出来れば信念の元、周りの環境に左右されず、恐れず、自分の信念を貫くことが大切であるとつくづく思ったものです。
先生は生徒達に“死ぬなよ”と、いって解散命令に従ったようである。
今思えば、先生方も敗戦は分かっていたのだろう、出来れば白旗を掲げ命がけで生徒達を救ってやれなかったのか、しかし、それは無責任な意見である。
少女達は、ほとんどが看護婦の見習いだったようである。最期の地も病院だったようで、その当時の面影を残しているのでしょう、中庭、渡り廊下や防空壕(地下の鍾乳洞を利用)を配し、今では記念館になっている。
部屋に飾られた、少女達の顔写真すべて追ってみたが、姉に似た写真は見つからなかった。全く別の地で亡くなった姉である。当たり前であろう。しかし、姉の写真も皆、おかっぱ姿しか残っていない。
私も日本人、ひめゆりの悲劇は他人事の用には思えない。
記念館を出るまで、涙が止まらなかった。
後記…又、記念館の表に展開する、売店の皆様のご親切な対応には、感謝の言葉もありませんでした。
2007.7.29
思い出の日記から
【一】
《 北の国から》に寄せて
二日間、五時間にわたり展開された倉本聡の世界、《北の国から》を観て、神々が創ったとしか思えない北海道の美しさ、四季の移り変わり、毎回の事ながら驚かされる。
そして、ドラマも丁寧に、堂々と展開されてゆく。その中で、親は子を思い、子は親の存在を強く意識しながら、遠く離れて暮らす。
息子はキラキラ輝いて見える大都会の世相の中で、娘は愛の世界に、残酷で切なくドラマは進む。
価値観の違いから来る矛盾の中で、父親は人生の負い目を一身に背負いながら、極限の原野で生きる。そして、親として当たり前と思う、子供達との生活を夢見る。
子供達は、未来への希望を胸に描いて飛び出していったのだ。それも当然の成り行きで、誰も止めることは出来なかったろう。
作者は、個人個人の生活の中から問題を提起し、ドラマの中で応えて行く。
一歩、家を出たら何が起きるか分からない、厳しい北海道の原野である。現に、家族の住む数メートル先で、何か有れば死を待つしかない生活。その中で、全知全能を傾け暮らしてゆく喜びや感動も、価値観の違うものには、只、
(馬鹿らしい!) としか、映らないだろう。答えは見えたように思う。
その年も終わりに近い、クリスマスの夜。やっと、家族三人が水入らずで会える場面、父親が不慮の事故に遭う。それを知らない子供達は、遠慮がちに家で待つ。しかし、いつまで待っても父親は帰らない。
外は全てを拒否し、荒れ狂う猛吹雪。時間は無情に過ぎてゆく。
息子は心配のあまり、知人宅を尋ね回る。必死になって探すが判らない。既にこの地を離れた子供達には、家に帰り、ひたすら待つしか術はなかったのです。
翌朝、父親は奇跡の生還をする。結局、彼を救ったのは娘でも息子でもなく、そこにすむ人の、知恵と、考えられないような仲間の連帯感、思いやり、行動であった。この地を離れた子供達にその力はなかったのです。
最後に、命を救った父の友人が一言、子供に話しかけた。救ったのは誰でもない。それは、父親自身が自ら生きるために出した、知恵と力がそうさせたのだと。
友人はきっと言いたかったのだろう。親がどんなに子供との再会を思い、全てを捧げてきたのかを。作者は結論を言わなかったように思う。 何故なら、
(個々の生き様には誰も入り込むことは出来ないのですよ!)と…… 普段、何処ででも観られる親子でさえ、厳しい現実がある。
まして、離れ離れになった親子、大変考えさせられる、切なくも美しい、感動の一編でした。
平成四年五月
【二】
夢の中で追われた頃
社会人になってから数年が経ち、私は良く夢を見た。
学校へ行かなければ… 早く行かねば…と、焦りの中で必死に走っている夢を。
(何で俺だけ走っているんだ。仲間は、もう皆教室で勉強してるじゃないか!) 窓から、先生や友達の顔が見えるのに……
そして、暗い闇の中で我に返るとき、何とも虚しい気持ちになったのを、今でも良く覚えている。
最近、歳をも省みず、或ることに挑戦し始めた。それは試験のための勉強なのです。
一年目見事に失敗、そして二年目、当然のごとく退化した脳細胞が動かない。
(何とかしなければ)と、考えている内、又その季節がやってきた。
九月も半ば近く、子供達と談話中、一枚の用紙を渡された。
それは、娘が中三、息子が中二の時、私から子供達に宛てたメッセージだった。
読んでみると、驚いたことにその内容が、今の自分にそっくり当て嵌るではないか。
その当時、親として偉そうに子供に云ったのだろう、確かにその通りだと思う。しかし、今の自分に置き換えてみると、何とも恥ずかしい限りだ。
《言うは易し、行うは難し》の例え通り、実践の道がこんなに厳しいものとは、今になって気付いた次第なのです。
そこで反省を込め、その時子供達に渡した伝言を……
【三】
受験に向けて
残された時間は、まだ充分ある。
先ず第一に、高校に入るには試験を受け、合格して初めて入校できる。ならば、試験問題を多くやり、慣れることだ。そして、理解すること。
スポーツでも、いくら技が優れ、力があっても、相手チームとの試合を経験しないと、簡単に負けてしまう。何故だろう……
答えは簡単です。それは相手がどんな作戦で来るか分からないからです。又、その手が読めないからです。
それではどうしたらよいか、出来るだけ多くの試合、又は、テストを試みることです。
そうすれば、自ずからテストの呼吸もわかり、無駄なミスもなくなり上位に必ず行けるものと確信しております。
もう一度繰り返しますが、過去の試験問題を集中力とある程度のスピードで挑戦しましょう。
もうこれしか無い! 力は有るのだから……
亜二
【四】
他人の噂
いつものようにモカの香りを楽しみながら、東京練馬にある喫茶店、モンターニュのマスターとの雑談中、常日頃我々が陥りやすい事例のことで、大変意義のある話が出た。それは、人、それぞれの暮らし、付き合いの中で、
(自分が在籍していない世界まで支配するのは、間違っているように思う)と言うことだった。
(人の悪口や誹謗、そんなことはどうでもいいじゃないか)という話だ。 自分がそこに存在しなければ、
(誰が、どう言おうと、気にすることはない)と言うものだ。
それで、言った本人が楽しければいいじゃないか、と言う結論に達した。
しかし、噂というものの本質を知らない馬鹿な人間は、その事がどう変化していくかもしれないことに気づかず、未来永劫、止まったまま認識してしまうことである。その上、鵜呑みした話を元に、馬鹿な頭に構築してしまう。不幸なことである。
仮に、その噂が本当であっても、そんな人間には、善きにつけ悪しきにつけ、時間と共に変化して行くことが判らない。
ある日、現実を知って恥をかくのが落ちである。
人間、すべからく噂には、気をつけたいものである。
平成四年五月 亜二
【五】
杏の花(我が家の回顧録)
平成十七年春四月、今年九十四歳になる父が退院した。しかし、帰るところは戸田のろうけんである。同じ建物の中での移動だ。
いつものように、少し抵抗したが、移ってみれば、いつもの慣れ親しんだ元の部屋である。病院に行くときも嫌がった事を思えば、それも瞬時に解決するだろう。高齢の父にしてみれば、どうにもならない生死の戸惑いから来る、苛立ちなのだろう。
時は桜の季節である。ろうけんの裏玄関の前には、桜やボケの木、杏の花が満開だ。私は、実のなる杏の花が特に好きだ。小さな赤い花を咲かせる杏は、桜やボケの花が散った後に、春を惜しむように最後に遅れて散る。 その後、花の下で待っていた青葉が一斉に開き、木々を覆う。自然の営みは何時も感動と心の癒しを与えてくれる。一方、私生活に目を移すと、そこには厳しい現実が待っている。人生は塞翁が馬、ここで最近の我が家を回顧してみようと思う。
男子と生まれ幾星霜、涙を流すことなどそんなに多くはない。
今は亡き、姉の残した日記を娘が持ってきた時はたまらなかった。
それから十数年の歳月が流れ、最近母との会話が痴呆のため成立しなくなった。
平成十五年のある日、私の名前をベッドの母に尋ねたとき、
「お前!」という返事が返ってきた。これには驚いた。他に誰もいなかったせいか、突然涙が止まらなかった。声を上げて泣いた。
昔の元気な母の姿が瞬時によみがえってきたからだ。
確か名前は呼ばず、お前と呼んでいたことを思い出した。あまりにも自然だったので、思わず驚いたのだろう。母の手に引かれ、戦後の買い出しに新潟へ行ったこと。何処にでも付いて行った思い出。母の存在は何よりも大きかった。
今思えば、進学、就職、退社したとき、その都度心配をかけた。
母は、自分というものを持たなかったように思う。
私が現在あるのも、いつも後ろには母の目があったからに違いない。
母は、家族に何かあったら全て投げ打つ覚悟があったように思う。
平成十一年頃から進んだ痴呆は、今最悪の時を迎えている。
あの時、老人センターに入るとき、自分から、
「病院に行ってもいいよ」 これには参った。
その頃、私にも突然の不幸が襲った。事故である。平成十三年五月、五十九歳と七ヶ月の時だった。
自動車との正面衝突だった。私がオートバイ、重傷だった。それはあまりにも突然やってきた。
“ピカッ!”
突然正面に光が飛び込んできた。
“ウワッ! 車だ!” 思う間もなく、意識が飛んで無くなっていた。
次に、周りで「すいません」「すいません」と謝る声と救急隊員の励ましの声が聞こえる。意識が急速に戻ってきた。
“これは大変だ!” 自分でも驚く程のスピードで頭が回転しだした。
先ず、身の回りに飛び散ったであろうものを探してもらい、集めてほしいことを伝えた。有り難いことに、既に救急隊員の方の手で、それも終わっていた。
書類、金銭等確認したが無事のようだった。 一方、体の怪我はどうなっているのか心配になり、動かそうとしたが下半身が動かない。見ると、折りたたんだ両足が不自然に抱え込んだ形で目の前に見える。太股が特に大きく見える。動かそうとしたが駄目だ。
隊員の方の話しでは、足が折れているとのことだった。体は相手のフロントガラスを突き破り、その勢いで飛んだようだ。これも、後日警察署員が持ってきた写真で分かったことだ。
しかし、事故に関しては全く怒り、恨み等はなかった。わざとしたのならいざ知らず、そうではなかったのだ。
それより驚いたことがあった。妻から聞いた話では、「お金はあるから心配しないで」と、ここでも母が言っていたとのことだった。
現在では、相手がいた場合ほとんど保険に入っているから大丈夫なのだが、母は昔の人間、何かあったら全て自己責任と思っていたのだろう。
時を同じくして、母は呆け始めていった。
最初は洗濯物の取り入れ、父の食事の世話など、少しは私を手伝っていたが、それも直ぐには駄目になっていった。
ある日、意識がなくなり病院に運ばれたが脳梗塞だった。
病院は私と同じくT市総合病院だった。
あらゆる検査を行ったが、年からくるものとのことだった。その上年をとりすぎているので、治療も限界があるとのことだった。
それからは、我が家も医療戦争が始まった。 私の両足骨折、右足大腿部粉砕骨折など、無きに等しい病気だったことも思い知らされた。
事故は女性の運転する車が信号を無視し、横断。それをよけた若者の車が対向車線に飛び出し、私のオートバイと正面衝突したのだ。
救急車は初めてであった。そしてヘルメットの中を伝わってくる血の暖かさを感じたのも初めてであった。
救急車に乗せられ、サイレンが鳴り出すと又意識は無くなっていった。
次に気がついたのは病室のようだった。
周りには、先生や看護婦さんが数人見える。最初に驚いたのは、電気ドリルで膝のあたりを突き通した事だった。
反対側に抜けるとき、特に痛かった記憶がある。
その頃には、会社の上司や同僚、弟や従兄弟が駆けつけていた。 皮肉な事に我が家には連絡が取れ無かったようである。それというのも、父母は高齢のため動けなくなっている事と、妻はたまたま外出中だった事が重なった。
夜になり、妻や息子、娘、妹の夫も駆けつけてきた。
皆もまさかの事故である。頭から血を出し、額を見れば六針を縫う傷があり、両足の粉砕骨折の重傷、その時点では将来どうなるのか、さぞかし驚いたことだろう。
五月二十五日の手術の日まで上を向いたまま過ごしたが、背中が痛く大分苦しんだ。
手術は午後二時頃からだったろう、麻酔を打ち、始まった。脊髄に打つ下半身麻酔だ。
始まってすぐ痛みに耐えられないことを知り、全身麻酔に変えてもらう。
先生も「これは無理だな」と言っている。
注射をすると十秒位で意識はなくなった。気が戻ったのは白塗りの病室であった。
最初に痛い思いをしたのは、尿道に差し込まれている管を自分で抜こうとした時である。
管は自分では抜けないようになっていた。体の痛みは薬のせいか、感じなかった。
それより無事に終わったことの喜びの方が勝っていたように思う。
数日の間、上を向いたままの姿勢が続いたが、腹と背中の痛さには相変わらず悩まされた。闘病生活の始まりである。
次の日の消毒時、傷を覗いて見たが、膝から上、ほぼ真っ直ぐに腰まで切った後が見えた。腰の骨も一部とって補充したらしい。
傷の回復は、その日から一日ごとに素晴らしい回復を見せていった。
しかし、闘病の苦しみには伏兵がいたのである。
それは“便秘”これには苦しんだ。
上を向いたままの状態が続き、便秘になったのだ。これは車いすに乗れるまでの一ヶ月間、本当に苦しんだ。人の手を借りるのが苦手な私でも、看護婦さん、看護士の皆さんには大変無理を言ってお世話になったものです。車椅子で少し動けるようになると、自分勝手に、ベットの手すりの上から乗り移ったり、看護婦さんを呼ばなくてはいけないところをひよ鳥越えと称して、不安定な車へ手だけで乗り移ったりした。又、周りの患者さんにも心配かけたりした。特に患者でもあるタクシー運転手のTさんには一方ならぬお世話をかけてしまった。
リハビリが始まった。先生によるベット上での足のマッサージと屈伸運動だ。これはよく効いた。優しさもあってか、自分の意志が足に伝わり、足の曲げ伸ばしが驚くほどの早さで進んだ。
他に電動の屈伸機を使う時間が毎日有ったが、これには参った。サイズの違いもさることながら、何といっても意志を持たない機械である。遠慮というものがない。
しかし、これも慣れだろうか、日一日と効果を上げていった。それというのも、実は機械の屈伸運動前に、先生がそれ以上多く足を曲げてくれたからに他ならない。
右足は膝から下が助かったようで、大腿骨の骨折を除き足の屈伸は問題なく進んだ。
しかし、左の膝の骨折はギブスのままである。相変わらず不自由な車椅子の生活は続いた。
そのギブスもシーネに変わると大分楽になってきたが、今度は足の麻痺が取れなく、左脹ら脛と足の甲にその表情は出た。
何回かシーネを変えてもらったが麻痺は消えなかった。
次に、左足に装具を作ってもらい、取りあえずリハビリに入った。
しかし、何といっても右足の骨は付か無いままである。松葉杖を頼って歩くものの、不便さは想像以上だった。数日して、看護婦さんの目をかいくぐり、装具をはずして移動したりしたが、見つかってよく怒られたものです。
その間、嬉しいことは会社の同僚のお見舞いだった。マネージャー始め、副長、社員、仲間の全員、組合の役員等、日を置かず心配し、来てくれた。
親戚を含めると七〇人は下らなかったろう。
そうこうしている内に、救急病院の宿命か、骨の付かない内に退院が決まった。
八月二十二日退院。家に帰ったものの、色々な不都合が出てきた。
先ず、一人で下に寝ることができない。
ベットが必要になる。病院に行くのに、娘の手を借りたり、出来ない時はタクシーに頼り、些細なことにも不便が多く出てきた。
しかし、三ヶ月で退院したのだが、良いことが一つだけあった。右足の膝から下だけが無事だったことである。脛には陥没の傷が二カ所あったが、神経はやられてなかった。何と、車の運転が出来たのだ。
そんな中、大きな問題もでてきた。妻の仕事だ。
銀座数寄屋橋にあるD支店、勤務時間は朝早く、帰宅は八時である。
私の面倒を見るには、退社するしか選択肢はなかった。
又、娘にもこれほど迷惑を掛けるとは思わなかった。妻の退職までは何度も往復させ、手伝いをしてもらった。結果、娘も退職させてしまった。
しかし、皮肉にも将来のシミュレーションを強制的に体験し、家族の有り難さ、親子の関係など、こんな早く認識できたことは大きな収穫だったのだろう。
退院して二ヶ月ほどで左の骨折は直ってきたが、麻痺はそのまま残っていた。
それでも、片方の足が少し使えるようになると、体の自由は天と地の差があるものです。両足が不自由と言うことと、片足では行動範囲が数十倍違うものである。
十二月に入り、タクシーによる通院から、自分で運転するようになり、後は右足の骨が付くのを待つだけになった。
これが大きな誤算だったのである。
リハビリを開始して、七ヶ月を過ぎよぅとしてるのに、一向に足の骨は付かない。
右足の筋肉は痛さが消えず、リハビリもきつくなって行った。
先生から体重を掛けるよう指示をもらうが、長いこと体重を掛けて無かったせいか、腰、股、至る所に痛みを感じる。寝ていても、知らない内に力が掛かった時等、飛び上がるような痛みを感じ、目が覚めたものです。
それも一晩中続き、参ったものです。それでも、“私の怪我は将来治るものだ。治るための痛みなんだ” そう思うと、苦しみも軽くなったものです。
入院時、外科や内科の患者さんと親しくなったが、治癒する見込みの分からない人も沢山いた。その辛さを思うと、私の傷など大したものでは無い。
年が変わり、会社や仲間の事、退職等、待った無しの事柄が頭を過ぎるようになってきた。
年始の挨拶に会社に顔を出したが、支社長始め上司や仲間の思いやりには感動した。年始恒例のカラオケ大会には、同僚達も駆けつけてくれ、力付けられたものです。それだけに、これ以上の迷惑を掛けていいものか考えさせられた。
しかし、自分の先行きを考えると先ず第一に復帰を考えねばならず、前向きに考えようと覚悟をしなければならなかった。
一月に入り、何とかしなければと思っている時、先生から提案があった。それは大腿骨の下のスクリューを抜こうというものだった。これは私の判断とも一致したので、すぐにお願いをした。1月・日に再入院、手術を行った。
十日程して退院。しかし、ここで新たな問題が出てきた。痛みである。これには参った。右足が地に付かないほどの痛さだ。
二週間後、レントゲン検査の結果、骨と鉄柱が三ミリ程ずれていた。ということは、骨と骨とが近ずいたのだ。それからも、毎日歩く練習とリハビリは続けたが、一向に痛さは消えず、益々痛さは倍加していった。
三月に入ってもそれは変わらず、夜寝ていても体が少し動いただけで飛び起きた。きっと、筋力の低下から来るのだろう。
考えてみると、骨折したまま荷重をかけた状態だ。先生も言っていたが、痛さがある内は骨が付くかもしれない。もしこれで駄目ならやり直しになるとの事。
冗談じゃない!。私としては、
(何としても骨を付けなければ) しかし、そうは思っても今はこれしか無いようである。
今日も(三月五日午前)妻を車に乗せ、病院へリハビリに行く。
三月十二日、右足はほんの少しの動きに激痛を伴って反応する。リハビリ中も同じ。
三月二十六日、朝、会社の上司より電話がある。いよいよ最終の判断をしなければならない。次のレントゲン検査が四月四日、その結果を持って会社に出向くことにした。
会社は私の怪我を仕事中の事として、一年間の保証をしてくれた。契約の延長を含め、事故のあった5月に退職することになった。
同時に、母と同じく父も歩けなくなっていった。父の頭は常人と同じな為、何んでも自分でやりたがったが、トイレまでの移動で度々粗相をするようになった。一度トイレの便座から落ちてからは、ほとんど自力では立てなくなってしまった。
私の足は松葉杖の状態、妻の仕事は多くなっていった。そうなると、両親より背の低い妻の体も最初に腰を痛め、ガタガタになっていった。 そんな中、やむを得ず父だけでも預かってもらうことになったが、問題が起こった。父は明治の人間である。頑固この上ない人間だ。
ある時など食事が気に入らないと、「お前ら、出て行ってくれるか」
とも言ったことがあった。
出て行けたらどんなに楽だったろう。
T市のN病院に世話になり、その後Tの老健に入所の手続きの時も大変だった。それも考えてみれば、当然のことだった。
本人にしてみれば、見捨てられる気がしたのだろう。
結果は、新しい好環境のセンターが見つかり、入るときは涙を流して喜んでくれた。 しかし、あくまでも自宅ではないのである。人間関係や決まり事、諸々の制約について行くのは大変だった。父は平成十五年五月、T市の老健に入所したが、私としては常に後ろめたさが付きまとっていた。
そんな中、母の痴呆は益々進行していった。危篤状態も三回ほどあったが、病院、妻の看護の甲斐もあり、何とか生還している状況が続いている。
平成十七年四月、父が肺炎になり、T市の老健から、隣の医療施設に移った。やはり、一騒動が起きた。又、父が拒否したのだ。今までも、U市のFハイム、O市の病院、T市のN病院、T老健とその都度反対された。その気持ちは痛いほど分かっていたから、私は流石に辛かった。
しかし、それしかないのは、父が一番分かっていた。移ってからは必ず満足してくれたようである。
父は趣味のジグソーパズル、テレビ観戦等、弟や妹の協力も受け、日々の生活は快適に過ごしていると思っている。
母はどうだろう。
平成十三年六月二十七日午前九時半
痴呆の進んだ母親が、私に詫びた。
(ごめんなさい!)
突然のことに驚いた。
今まで六十年生きてきた中で、あの気丈で頑固な母親が初めて漏らした言葉だった。
私は、自分の部屋に戻って泣いた。止めどなく涙が落ちた。
今まで、順風満帆で来たわけではなかった。心配を掛け、世話になった事もあった。その度に、何も言わず見守ってくれたのも母だった。その母が詫びたのだ。
とんでもないことだった。今までは、きっと元に戻ると思い、願っていた。しかし、今では下の始末ができなくなり、自分の行動も数秒後には頭から消えていった。その度に、思い出させようと、私は口を出す。母は一生懸命思い出そうとするが、壊れた脳は言うことを聞かない。食事、薬、トイレ等、皆そうだ。昼も夜も自分には分からないのだろう。夜は寝ていても間違いの無いように、妻が準備しても駄目になって来た。母は自分なりに、無くなってきた脳を働かせてトイレに立つのだろう。結果、妻の苦労も無に帰してしまう。
私は猛烈に反省した。又、痴呆のことも考えてみた。
しかし、絶望はしていない。幸い家に帰ってからは、妻の看護、娘、息子、妹、弟等、みんなの協力で体力も付いてきた。
後は、脳の回復である。
脳梗塞は、血流不足の為出来たとのことだった。そう言えば、足にはセメントで固めた異物が入っている。その影響で心臓、血流不足が起きたかもしれない。医学は日々進歩を遂げている。しかし、あの時の手術は最新のものだったのだろう。
だが、今そんなことを言っても始まらない。神頼みでも何でもいい、元に戻ってくれたらと、日々思う毎日である。
平成十五年十二月三十日
前にいる私は誰?母に聞く。
「お前!」
あまりに突然の答えに、驚いた。
そういえば、物心つく前から一貫して、こう呼ばれていたのを思い出したからである。
平成十六年三月Rハイムにて
爪を切ったとき、深爪。血がにじんだ。
「痛い!」 はっきりした答えにも驚く。
平成十六・四月 O市のK病院にて
又、母のことでこんなこともあった。
あの日、O市のK病院に入院したときのことである。
「又来るからね!」と、母にいった時、
「来なくていいよ!」答えが返ってきた。これには驚きと同時に、何がどうなっているのか分からなかった。
そういえば、妻は毎日通院すると言っていたのだが、私は、あまりに遠いため、毎日の通院は無理という、病院との話しが聞こえたのだろうか?、痴呆が進み会話が成立していない時期にである。
私には、未だにわからない事の一つです。
平成十六年七月二十三日.T市N病院より退院
いつもの昼時
私が、いつものように歌を聴かせていた。
(…赤城山から……風にチョウチョが…) ここまで歌ったとき、
「とぅばされる…」母が、それもはっきり声を出したのだ。
毎日一回くらい、口が動く程度に声は出していたが、言葉としてはほとんどなっていなかった。
母の痴呆が進んだのは、ちょうど私が事故に遭い、重傷を負った時と重なる。
ある日の夕暮れ、暗くなってきた外をぼんやりみている母の後ろ姿をみた。どうも様子が変だ!!。
洗濯物を取り込もうとはせず、ただ前を見ている。
「おばぁさん…おばぁさん…どーしたの!、早くしないと降ってくるよ!」後ろから声をかけた。
「あぁ…分かってるよ!」そういう返事に少し違和感を覚えた。いつもなら、そんなぐずぐずしているはずがなかったからだ。
もっと驚いたのは、その後何もせず戻ってきたことだった。
その時気がついていればと、今になって後悔している。
脳梗塞が進行していたのだ。本人も少しおかしいのは気づいていていたのだろう、近くのコンビニでパズル遊びの本を買ってきては挑戦していたのを思い出す。
その頃は、退院した私と一緒に父の食事作りなどやっていた。
そんなある日の朝、出勤前に母が声をかけてきた。
「進…、これは何だろうね?」手にはパズルの週刊誌があった。聞かれた問題は難しなかったので、すぐに解けた。母が言った。 「どうして進は直ぐに分かってしまうのかねー」
「頭が違うんだよ」それを聞き、母は笑っていた。
しばらくして、決定的な瞬間を迎える時がきた。風邪を引いたのである。高熱を出し、呼吸不全を起こしたのである。救急車を呼び、病院に搬送され、そのまま入院した。
翌日先生に呼ばれ説明を受ける。内容は重体だった。
今日持つかどうかだった。誓約書も書かされた。
それからは検査の連続だった。
結果は、脳梗塞が一部見つかり、他にも肺や心臓も弱っていることが分かった。 何とか一命は取り止めたものの、痴呆の進行は加速度的に進んだ。いつもゆくコンビニにも行けなくなってきた。
病院でのリハビリも、車いすで行き、歩行訓練。その他諸々のリハビリにも、自分からの意志はなくなっていった。
ベッドでの生活が普通になっていった。又、左側の両手足も不自由になっていった。
特に心配したのが、脳障害だった。
最初のうち、歌を歌わせると最後の一フレーズぐらいは声を出した歌っていたが、徐々にではあるが声を出さなくなっていった。
脳の痴呆、これは考えても、考えても分からない。何の反応も出来ない頭の中が分からない。苦しい顔もしない、身動きもしない。只、体を動かすと、身体を硬直し、冷や汗だろうか、汗をかく。本能が怖さを感じるのだろうか?。どうしても分からない。只奇跡を信じて毎日話しかけ、歌を聴かせている今日この頃です。
【六】
銭洗い弁天
坂の途中にその入り口は小さな口を開けていた。狭いトンネルを抜けると、突然別の世界が現れた。幾重にも重なっている鳥居をくぐると、目の前が急に明るくなった。
たき火の明かりだ。古いお払いの札やお守りなど、炎をあげて燃えている。うずたかく積まれたそれは、天に届く勢いだ。いかに庶民の信仰を集めているか、それを見ても判る。 真一はなおも進む。正面の右脇に何段も重なったろうそく立てがあり、赤々と燃えている。正面に大きなほこらがあり、真一は早速入ってみた。
中は思ったより明るかった。数十本、いや、百本以上あるだろうか、その明かりが祠の中を浮き上がらせていた。目を凝らすと、不定形の池がある。心字の池だろうか、老若男女が竹で編んだ籠を持ち、水に浸して振っている。
ここが世に言う、銭洗い弁天様である。
真一も
【七】
(その一)
いよいよ今夜から、熱帯夜に突入しそうです。
今日は、早朝から息子、親戚等、駅に、病院へと車での送迎に励んだ。いい一日になりそうだ。
父と母の一周忌が、今月22日にあり、それまでは自分のわがままを控えようと思う。
ところで、世情は騒然となっている。心配だ。北朝鮮問題が勃発しているのだ。
テポドンの発射である。
人間はどこまで愚かなのだろう。
私は、いつもいっている。人間は動物の一種である、と。
有史以前から、動物社会は弱肉強食の世界だった。恐竜の時代には人間も食物連鎖の中に組み込まれていたであろう。それが現在の繁栄を迎えているのは、まぎれもなく脳が発達してしまったためであろう。
私は、繁栄…これが諸悪の根源のような気がしてならない。
それは繁栄=欲望と思うからです。
欲望には際限がなく、常に弱肉強食の原理が働いているからです。
人間のD.N.Aそのものなのです。
幸い、日本は敗戦という大きな試練を経て、平和に見える国家を作り上げた。
そんな中、隣国がミサイルや大量破壊兵器を縦にして脅してきたのです。
さぁー、慌てたのは日本の政府です。どうしょう…、覚悟のない日本国民は右往左往するのみです。
それではどうしたらよいのでしょう。
現時点では、相手との話し合い外交しかないでしょう。少しでも時間を稼ぐしかないのです。
なぜなら、日本は島国だからです。島国の怖さは他の国と孤立しており、海をもって隔離されているからに他なりません。
もし、日本人に本当の覚悟があるなら、先進国の例にならい抑止力を持つのもよいでしょう。あれもいやだ、これもやだ。ほしいのは繁栄だけでいい。こんなに勝手なことは許されないのでしょう。
今こそ、国を挙げての議論をすべきである。
私は平和主義者です。もしも侵略行為を受けたなら、それでもなお話し合いに終始するしかないと思うのです。日本人がこの世に生存を続けるには、現時点ではこれしかないと思うからです。
そんなことにはならないと思うが、欲望のためには手段を選ばない、狂信的国家がいた場合、徹底した防衛のための抑止力を持つのも仕方のないことかもしれない。それには、国民一人一人の覚悟と了解が必要と思う。
しかし、人間はどうして気がつかないのだろうか。狂気の軍隊は、それを持って自国の滅亡を招くしかないことに。
地球の歴史からみたら、今の時代は一瞬の出来事でしかありません。
今こそ人間の英知を集結させ、動物の一種である人間のDNAを押さえ、平和で幸せな社会を作らなくてはならないと思う、今日この頃です。
2006.07.18
【八】
(その二)
日本は今、取り返しのつかない恐ろしい局面に突入しようとしているのではないか…
過去の大戦を顧みると、米国の大統領の会話に
“何とか日本に引き金を引かせられないか” という記録があったように記憶している。
それは、アメリカの西部劇等で見られる、先に引き金を引いたものが悪であるという(屁)理屈があるからだ。
今日本は、ちょうどその時の状況に酷似しているように見えてならない。
それはとりもなおさず、北朝鮮を追いつめ、ミサイルを撃たせようとしているのではないか。そうすれば、国連の制裁決議があった後だけに、遠慮なく攻撃できるだろう。
米国は、自由正義のために、犠牲はいとわない国家である。
まして、日本は遠く離れた他国である。日本が先制攻撃を受けても、何ともないであろう。
結果、日米安保条約と世界平和の旗印を掲げ、米国は徹底的に北朝鮮を叩けるだろう。
日本を犠牲にしてである。
ではどうしたらいいだろう。私は思う…
それは北朝鮮に対して、徹底的な懐柔作戦をとることである。
日本は、大局を見据え、耐え難きを耐え、仲良くすることである。
今必要なことは、お互い皆が幸せになろうよ!! と、話しかけることが大事と思うのです。時は今、後にも先にも絶好の機会が訪れたように思う。
亜二
【詩…一】
蕨の里の歌
蕨の里の夕暮れは
薄紫の花の色
小道に集うコスモスが
誰に見しょとと揺れている
夢を語りしあの頃の
友の笑顔が目に浮かぶ
今頃どうしているかしら
逢ってみたいな今一度
蕨北小4年3組同窓会の歌
【詩…二】
何故におまえは死に急ぐ(天国の母から)
何故おまえはそんなに死に急ぐの
それはね…
一つのことに集中できないからだよ
あれもこれもじゃ、何も出来ないのと同じだよ
人は、一生のうちに何か一つでも出来たらたいしたもんだ
だから、何か一つ極めたらどう…
人間、何か目的があっても
たいていは、何も果たせないのが普通だよ
一ついいことを教えてやろう
それはね…初心に返ることだよ
たとえば、年をとっても子供の時代に戻ることだよ
そうすれば、追われることもなく前だけ見て行けるだろ
何が不安なんだい…
どのみち、人の死は必ずやってくるんだよ
幾つになろうと、成すべきことに早い遅いはないものさ
十代でも、老人になっても、成すべき事をなすという行為は、皆同じさ
一人一人が持っている感性や情熱は、いつ表現してもいいと思うがね
一生懸命生きていれば
ある日、突然天国に召されるものよ
その時は、
めでたし…めでたし…と思えばいいさ
2006.07.17 亜二
【詩…三】
無題(仮の宿)
(一)
日が昇り日が沈む
浮き世のことも消えてゆく
何の心配ありぁしない
あの世に召されるその日まで
おもしろおかしく生きればいいさ
しょせんこの世は仮の宿
(二)
曇りがあれば晴れもある
雨が降ったら濡れればいいさ
何の心配ありゃしない
この世のことはみんな夢
嫌だいやだは捨て去って
おもしろおかしく生きればいいさ
しょせんこの世は仮の宿
(三)
生きるも死ぬもまばたきも
しょせん浮き世はじゃれごとさ
どうにもならないことばかり
みんなまとめて捨てればいいさ
いさぎのよさが大事だよ
しょせんこの世は仮の宿
(四)
この世に生まれてこの日まで
どうにもならないことばかり
みんなまとめて捨てればいいさ
何で世間はえらそうに
俺が俺がで押し通す
しょせんこの世は仮の宿
2005/5/22(日) 亜二
【四】
北軽賛歌
白樺の林を流れる地蔵川
せせらぐ音も軽やかに
春の香りを乗せてくる
あー思い出の散歩道
浅間おろしは冷たいけれど
山のカケスも唱ってる
昨日のことはもういいと
ここは北軽 星の里
南木山の麓を流るる熊の川
清き瀬音が心地よく
春よ来い来い歌ってる
あー懐かしきこの小道
二人仲良く歩いたね
山の啄木鳥飛んできて
ロフトの壁を叩いてる
元気を出せと唱ってる
ここは北軽 星の里
鎌原の御堂に眠る幼子は
何を夢見て泣いている
かか様(のお乳)恋しいと聞こえくる
あーふるさとの山や川
ウサギも出てきて言っていた
昨日のことはもういいと
今日も浅間の頂に 白く流れる雲一つ
(遙かな空にこだまする)
ここは北軽 星の里
2005.02.24 亜二