福山かえる会議
市政を学ぼう! みんなでケロケロ!

☆ か え る ? ☆
福山かえる会議についてご説明します。

 ○ かえるとは?
 ○ かえるになるには?
 ○ かえるの心得
 ○ 『かえる会議』のきまり
 ○ 福山かえる会議 規約
 ○ 代表世話人
 ○ 明治の啓蒙思想家 窪田二郎



かえるとは?

 郷土改革の先覚者・窪田次郎は、明治維新で小田県(旧福山藩領と岡山県西半)の県令(県知事)に県会の開催を要求しました。

 この窪田次郎が結成した「小田県蛙鳴群(あめいぐん)」をご存知ですか?
たかが「かえる」でも声を合わせて鳴けば、市政を「かえる」ことができると思いませんか?



かえるになるには?

[ 質問 ]
1. 福山を良くしたい・変えたいという思いが、ほんの少しでもありますか?
2. 窪田次郎を知っていますか?
3. かえるが好きですか?

上記質問のうち1つでも「YES」があること
年会費1,000円を支払うこと

 ※ 『かえる会議』は会員以外も参加できます



かえるの心得

1. 少しでも住みやすい町にしたいと思うこと
2. 自分がかえる会議会員である事を自覚すること
3. 知人に自分がかえる会議会員であることを 言ってみたりすること
4. かえる会議の例会に参加してもいいかなとちょっとは思うこと
5. 例会に参加したら勇気を出してケロケロ鳴くこと
6. 仲間のかえると仲良くすること




『かえる会議』のきまり


『かえる会議』では、初めての人でも参加しやすいように、以下のきまりを作りました。
 ○ 人の話を最後まで聞く。
 ○ 人の話を批判し、否定しない。
 ○ 良いなと思う意見には、自分の考えを加えて話題を深める。
 ○ 体験した事実か、単なる噂話かを話すようにする。
 ○ 1回の発言が4分以上にならないように注意しましょう。
以上を厳守し、議長の指示に従うこと。




福山かえる会議 規約

第1条 本会は「福山かえる会議」と称する。
第2条 本会の事務所は、福山市に置く。
第3条 本会は、福山の明るい未来に貢献することと、自己研鑽を図ることを目的とする。
第4条 本会は以下の活動を行う。
 1.『かえる会議』の開催
 2.市民の市政に対する関心を高める活動
 3.福山のかかえる問題の解決に向けての活動・提言
 4.各市民団体、NPО等との交流・連携、その他
第5条 本会の目的に賛同し、入会を希望する者を会員とする
第6条 本会の会費は、年額一口金1000円とする。
第7条 本会を運営するため世話人を置き、代表世話人が会務を統括する。
第8条 代表世話人の選任および解任は、総会の承認を得るものとする。
第9条 代表世話人の任期は1年とし、再任を妨げない。
第10条 総会は、本会の最高議決機関である。
第11条 定期総会は年1回開き、代表世話人がこれを召集する。
第12条 世話人会は、総会の決議にもとづき、会の実務に関わる事項を企画、審議し、その実行にあたるもので、代表世話人及び世話人により構成される。
第13条 本会の会計年度は、毎年10月1日から翌年の9月30日までとする。
第14条 この規約は、平成15年10月6日より施行する。
付則1条 この規約は、平成16年10月31日より施行する。



代表世話人
田口 よしゆき


田口よしゆきのホームページへ








明治の啓蒙思想家
窪田 二郎
 (くぼた じろう) (1834-1902)

 福山市の北部、加茂の谷一帯は古くから開けたところで、古くは弥生時代の甕棺が出土し、古墳もたくさん残っている。地名の起こりは、平安時代に、京都の鴨神社の荘園になったことによると言われている。現在の加茂神社がその名残だ。神社の前には旧県道が走り、道沿いには昔懐かしい田園風景が残っている。その旧道沿いには、かつての郷土の大先輩、明治の啓蒙思想家窪田次郎の屋敷跡がある。加茂神社の前から旧道を北に進むと、やがて大きな石碑の建つ交差点に出る。加茂谷の枝谷「四川」の谷の入り口である。そして、更に進むと左手の小高い丘に古い石垣をめぐらした一角が目に付く。これがこの地に土着して600年と言われる、窪田家の屋敷跡である。今はもう誰も住むものはいない。広い屋敷地の右奥に白壁の土蔵がポツンと建っているだけだ。医者にして政治家、教育者、思想家…。明治初年、先覚者として幅広い活躍をした、あの窪田次郎(1834-1902)の生まれ育った家の跡だ。屋敷の裏手には次郎自身が今も永遠の眠りについているのだ。彼は当時草深い農村に過ぎなかった安那郡粟根村(現加茂町粟根)で、明治4(1871)年、「民会」を開催した。しかも選挙権は、1戸に1票という、当時としては画期的な選挙制度の議会であった。また、「啓蒙所」という、後の小学校の原型となった庶民教育の場を、全国に先駆けて福山地方に設けたのも彼である。さらに、その驚くべき先見性は、彼自身の「本業」である医学の分野でも発揮された。彼は現在ようやく普及しつつある「医薬分業」をあの明治初年、自ら進んで実践したのである。窪田次郎、その「奇跡」としか言いようのない先見性は、いったいどこから生まれたのであろうか。


その生い立ち

 福山を代表する明治の啓蒙思想家窪田次郎は、天保6年(1835)4月24日、備後国安那郡粟根村(現福山市加茂町粟根)で生まれた。父は、蘭方を業とする医師窪田亮貞。幼少の頃、病弱であったという次郎は、この父から大きな影響を受けたようである。次郎の父亮貞は、家運の傾いた窪田家に養子として入って家を継いだ人物である。かつては粟根村の庄屋として繁栄していた窪田家は、この頃ほとんど家産を失い、家屋敷を残すのみとなっていた。亮貞はこの窪田家を医師として再興しようとした。そして、師に選んだのが、当時長崎鳴滝で塾を開いていたドイツ人医師シーボルトである。シーボルトについては、言うまでもないことであるが、日本に初めて体系的な西洋医学を紹介した人物である。その弟子には、後に日本の医学界はおろか、各界で活躍した人物が多い。シーボルトの鳴滝塾という、当時日本で唯一開かれていた近代科学の「窓」で学んだ父亮貞の存在が、次郎の先見性は大きく影響しているのであろう。幼少から西洋の学問や思想に触れていた次郎は、少年期から師を求めて各地を遊学している。「窪田次郎履歴書」によると、漢学の師は阪谷朗慮(さかたに ろうろ)。坂谷朗慮は備中簗瀬(やなせ)の出身で後に井原に興譲館を開いた人物である。近代思想を啓蒙した思想家の最初の師が漢学者というのも妙な話だが、これは当時一般的なことで驚くにあたらない。明治の偉大な思想家は、皆有名な漢学者について学問を始めている。当時西洋の書物は皆漢文に翻訳されて日本に紹介されており、漢学の素養が無ければ西洋の学問に触れるのはほとんど不可能であったためである。蘭方医学の方は、初め同じく備中簗瀬の山成好斎に学ぴ、後には京都・大阪方面に遊学して、有名な緒方洪庵門下の俊才、緒方郁蔵・赤沢寛輔・村上代三郎といった著名な蘭学者について修行、大いに見聞を広めている。緒方洪庵については、シーボルトの鳴滝塾同様、教科書でもおなじみの人物である。彼の開いた適塾からは、福沢諭吉・大村益次郎を始め、後の日本を背負って立った人物を輩出ている。

 窪田次郎は、後年、その履歴書のなかで、
 「都合八年五ケ月間医術に従事すといえども、数々窮乏を以て研究の時間は僅々五分の一に足らず」
 と言って謙遜しているが、彼の思想を理解するためには、次郎が適塾の流れを汲む人物について、西洋の学問・思想を学んだことを忘れてはならない。


啓蒙所

 文久2年(1862)、父亮貞の引退によって故郷に帰った次郎は、明治維新を迎えると、堰を切ったように活動を開始した。そのはじめが小学校の前身として知られる「啓蒙所」の開設運動である。彼には独特の信念があった。それは人間が人間らしくあるためには、「衛生」「資産」「品性」の三つが必要であるということである。「衛生」とは、現在で言えば「健康」のことである。医師であった次郎は健康の大切さを痛切に感じていた。そして、その獲得には何よりも「資産」つまり、「お金」が必要であると考えた。この辺りがこの時期の思想家として彼独自の考えで、医師を出発点とした窪田次郎らしい思想と言える。では「資産」の獲得には何が必要か。「品性」、すなわち「教育」が必要だと、彼は主張する。ここが儒教イデオロギーのみを教育の目的として主張した前代の儒学者と大いに違う点である。次郎は自らの信念である教育の普及を最初福山藩の藩校である「誠之館」の改革で果たそうとした。しかし、彼の考えは藩当局に容れられなかった。そこで彼が考え出したのが民間で「啓蒙社」を組織し、その資金によって「啓蒙所」を開設しようとする運動であった。

 彼は言う、
 「貧富を分たず、男女七歳以上十歳に至る迄尽く此の啓蒙所に入れ、容儀を教え、其才知を実地に培養せば、【略】其中必ず国家有用の材もこれ有るべし、【略】朝に英俊満ち、野に遺材なく、賢者位に有り、能者職に有り、また、何ぞ外侮を患へんや」(啓蒙社大意)

 言うまでもなくこれは明治新政府の「国民皆教育」の理念を先取りしたものである。

 そして、次郎は人々に訴えかけた。「志有る人は、或いは古衣一枚を売り、或いは寝酒一勺を減じ」子弟の教育に当たろうではないかと…。彼の努力は広範な民衆の支持を得て、実を結んでいった。明治4年(1871)2月6日、深津郡深津村長尾寺(現福山市西深津町)に最初の啓蒙所が開かれたのを手始めに、各地でその開設が相次ぎ、明治5年(1872)8月3日のいわゆる「学制発布」の時点では、83カ所、通学生5,095人。明治新政府の役人をして、「啓蒙所は文部省も聊か先手をうたれた」とうならせることになるのである。試みに、福山市内の小学校の歴史を紐解いて欲しい。昭和四十年代の新設校でなかったなら、例外なく窪田次郎の提唱した「啓蒙所」に突き当たるはずである。


小田県蛙鳴群

 神辺に光蓮寺という寺があって、ここに彼の書いた「奉矢野権令書」の写しがある。 では、何故神辺の光蓮寺にその写しがあるのか。 「奉矢野権令書」は、明治7年【1874】7月、窪田次郎が時の小田県権令矢野光儀に宛てて「小田県議会」の開催を要請した建白書であり、その開催運動の中心になった「小田県蛙鳴群【あめいぐん】」の学習会の会場が、神辺の光蓮寺であったのだ。 窪田次郎は、民主的な議会制度に関しても先覚者であった。明治4年【1871】と言う、全国的に見ても早い時期に、次郎の提唱によって彼の住む粟根村では「民会」が開催され、村の収支決算が討議されている。また、翌年には、「下院議員結構の議案」が彼の手によって書き上げられている。 彼の構想した議会制度は、男女に関わらず「一家に一票」という民主的な選挙で選ばれた議員が、「村会」「郡会」「県会」「国会」の4段階にわたって国政を議すという極めて斬新なもので、その県会開設の要望書が最初に述べた「奉矢野権令書」なのだ。 「衛生・資産・品性」の獲得こそ人間の人間たる所以と考えた彼にとって、明治新政府の「富国強兵」政策は我慢のならないものであった。彼はその手紙でいっている、

 「いわゆる富国と申すは、政府に金穀の集まり候者にては決してこれなく、国中皆富候を誠の富国と申し候・・・・」

 次郎が明治新政府の政策と真っ向から対立したのは明治6年から始まった「地租改正」である。地租改正は江戸時代までの現物年貢を改め、土地の地価を定め、その3パーセントを税金として徴収しようとした税制改革で、明治大正と多くの農民が小作農に転落して、苦労するもとになった政策である。現物年貢時代は、凶作の場合年貢がある程度減免された、しかし、金納になれば豊凶にかかわらず税金は納めなければならない。日本が近代国家に脱皮するために必要とされた税制改革であったとは言え、これでどれだけの勤勉な農民が呻吟したことか。 しかし、窪田次郎の地租改正反対闘争は、列強に追いつけ追い越せの富国強兵政策を強行する明治新政府の容れるところではなかった。「錦の御旗」を掲げる政府によって次郎の運動は弾圧され、彼自身も医師の免許を取り上げられ、岡山の偶居で寂しく客死することになるのである。

(文責:田口よしゆき)



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