「蔵論」

 日々、充実していくマイコレクション。コレクションの楽しみとは、収集だけではなく、ディスプレイや整理などの総合的作業である。私達は、日常の一切を忘れて、ひとり没頭できる楽しみをもっている。

 ところで、その中で行われる対象物の取扱いは極めて慎重である。なるべく傷が付かないよう気をつけ、接着したり新たに塗装することを拒む。収納の際には、丁寧にパッキングし、付属の一覧リストなども散逸しないよう整理を行う。時には、未開封であることにも執着する。それは、商品がオリジナルのままであることの価値を知っているからである。そして、その価値をなるべく消費しない範囲で、コレクションを楽しみ、自己所有欲を満たしている。私達は、商品を最も大切にする消費者なのかもしれない。あるいは、商品を買っても使うことが出来ない小心者なのかもしれない。

 このまま、コレクションを一生続けるのだろうか。もし、そうだとしたら、避けて通れない大きな問題がある。それは、永遠に所有したいという願望が適えられないことである。私達の生命には限りがあるからだ。オーナーの他界により、その身辺にあった所有物は処分されて行くだろうが、コレクションについても、易々と処分されてしまうことは、本望ではない。このような大きな不安を、どうすればよいのだろうか。今、「何の為に、それほど大切にするのか?」という問いかけに、自信をもった答えが示せるのだろうか。

 日本には蔵というものがあり、「お蔵入り」などという言葉がある。そもそも蔵は、穀物を備蓄する施設であったが、いつしか商品や家財などを火災や盗難から守り保管、貯蔵する建物となった。骨董と呼ばれるようなものでなくとも、何気なく収蔵された物が世代を超えて脚光を浴びることもある。一昔前の家長は、大切にしてきたものや収集してきたものを蔵に収蔵することで、子孫への継承意思を示した。我々のコレクションも、間違い無く“財”であり、当時収蔵されたであろう陶磁器の壷や一刀彫りの神像と、なんら変わりはないものである。

 現代の私達の多くは、蔵をもたない。それには、時代の変化や住宅事情が関係している。大量消費社会として、生産と廃棄が盛んに繰り返される時代、そんな中でも残されるものはある。それらは、一般的には押入れやスチール物置に収納される。しかし、私達のコレクションは、家族共有の場ではなく、自分の目の行き届く範囲で最も安心できる場所に秘蔵しなくてはならない。私達にとっての「蔵」とは、コレクションが収納された棚やBOXという小空間とも言える。

 いつかは迎えなければならないコレクションとの別れ。人生を振り返れば、過去にもこのような決別が無かったわけではない。子供の頃、遊ばなくなった玩具は、いつの日か両親の権限によって従兄弟たちに分配されてしまったことがあった。後々に多少の口論はあったとしても、それはそれで何とか済んできた。しかし、これからは、そうはいかない。風呂敷に包んで枕元に置いておけば、あの世へ持参できるかもしれない。そんなことさえも考えてしまいそうである。この悲しみを慰めるものは、「蔵」の中のものを遺族や将来のコレクターが受け継いでくれることへの期待であろう。例え、それが二束三文で売却されたとしても、共感できる誰かの目にとまり、大切に守ってくれるかもしれないということを願いたい。あるいは、いっそうの事、事前に自分の手によって、コレクションを放出してしまうのも選択肢の一つであろう。

 オーナーにとってのコレクション価値は、物的な要素以外にも、多くの思い出や満足感、そして達成感という精神的なものがある。それは、自分だけの思い出として封印しよう。でも、自分のコレクションを受け継いだセカンドオーナーが、品々の中に染み込んだ、ファーストオーナーの熱き思いを感じとってくれるかもしれない。こういう願いが、本当に適うのか、それは誰にもわからないが、人間が作り出した“いい物”は、永く伝世させるべきである。それは、まさしく文化財であるから。

 2002.10.24