「え?カナヅチ?忍さんが?」
彼女、水島さんは酷く驚いた。
「おかしい?」
あまりにも驚くので、私こと烏丸忍は、思わず突っ込んで聞いてしまった。
「あ、すみません、その・・・結構、勉強も運動も出来そうなイメージだったので・・・。」
申し訳なさそうに彼女はそう言った。
「あら、そんなイメージついてたのね。」
少し嬉しいイメージだけれど、事実は事実。
「でもね、私泳げないの。どうしても水に浮かないの。沈むの。」
別に自分の弱点とも思っていなかったが、学生時代・・・ずっとプールでビート板を抱えていた私には、何故人が泳げるのか不思議でならなかった。
足をバタつかせても、力を抜いても、身体は水の底へ沈んで行くのだ。
今年こそは、と意気込んでは沈み・・・結局、初心者同様の扱いを受け、あきらめ、次の週の体育の時間は生理だ、腹痛だと理由をこじつけ休んだものだった。
いつしか、泳げなくたって生きていけるわ、と開き直り、自分の弱点とも思わなくなった。
「はあ・・・。」
彼女は、相変わらず興味があるんだかないんだかという態度で、そうですかと言った。
「水島さんは泳げるのよね?前に、ほら・・・水泳大会で女難に遭ったんでしょ?」
私はハッキリ覚えている。
病室で、彼女が聞かせてくれた女難の話の数々。
「ああ、社員研修中の、ですね・・・あれは・・・事故です。不幸な事故。・・・私は、泳げるには泳げます。可も無く不可もなく。普通です。」
普通、という言葉で片付けて欲しくは無い。
私は泳げる、と聞いて、オリンピック選手並に泳げるのか、という無粋な思い込みなんかしない。
何せ、私は泳げないのだ。
泳げる、というだけで羨望のまなざしを向けてしまうのは当然だ。
「いいなぁ。」
別に泳げなくたって生きていける。不便はない。今までだってそうだ。
学校という狭い世界の中では、泳げない事は恥に等しい扱いを受けるのだが
大人になり、仕事に泳ぎが関係ない今は、そういう人も世の中にはいるよね、と許される。
だけど、口をついて出てしまうものなのだ。
泳いでみたい、と。
泳げる人は、なんだそんな事と笑うだろうけど・・・私には、その”そんな事”が難しくて出来ず、泳げる世界を知らない。
手で水をかいて進むってどんな感覚なのか。
水も飲まずに、どうやってあんな距離を泳ぎ続けるのか。
「いいなぁ。」
二回目のその台詞を言った時、水島さんは両手を伸ばした。
「プールの端に手をつけて、顔をつけて、後は足をバタバタさせて、沈まないように練習したら良いんじゃないでしょうか?」
そう言った後、その時腕は曲げない事、と付け加えた。
「・・・そんな事だけで泳げるようになる?もう私、29歳なんだけど。」
私のカナヅチは頑固で治りにくいわよ、と私は笑ったが、彼女は真顔で返した。
「うーん・・・では、ビート板を抱えて仰向けで浮く練習はどうですか?」
「それは、学生時代に散々やって、ついたあだ名は”ラッコちゃん”。」
苦笑混じりに言うが、彼女は笑いもせずに悩み続け、あれやこれやと泳ぎの練習方法を私に提案し続けた。
「うーん・・・じゃあ、手をこうして・・・足を・・・」
彼女は真面目だ。
だけど、机上の練習よりも・・・
「ねえ、それ直接プールで教えてくれないかしら?」
「は・・・え?」
一回の実戦に限る。
「その方が、ずっと面白そうだわ。ね?水島さん。」
[ 烏丸さんは特訓中。 ]
「まァだ諦めてなかったの?忍ねーさん。」
りりは、開口一番呆れながらそう言った。
「何よ、良いじゃない別に。」
私は水着を見ながら反論した。
昔は可愛かった従姉妹は、ずっとこの調子だ。
自分だって泳げなかった頃は浮き輪を離さなかったクセに。
「それは昔の話。アタシ、小学生の頃には200m泳げるようになってたしね。」
確かにりりは運動神経が良い。あっという間に浮き輪を卒業。スキーだって、1シーズンで完全にマスター。
・・・でも、スキーの場合は私の教え方が良かったのよね、きっと。
昔と違って、口調や態度はふてぶてしいが、それは自信から来るものだろう。
私だって、陸の上の競技くらいならなんとかなるけど・・・水が絡むと、どうも苦手なのだ・・・。
「どうせ、今回も全身筋肉痛になって仕舞いでしょ。・・・あ、これは?」
りりは、私に一着差し出した。
「もう、勝手に結論付けないで。今度は先生が違うんだから大丈夫よ・・・あ、良いわね、この色。」
ライトパープルの色が私をひきつける。ピンクにはない、落ち着いていて華やかな色だ。
「色じゃなくて。泳ぐんでしょ?デザインを見てよ。・・・何浮かれてんの、いい年して。」
りりの行きつけの店に連れて来てもらったはいいけれど、この従姉妹の口が過ぎる。
何か急ぎの用事が控えているらしいけれど、たまには付き合ってくれたって良いじゃないの。
「そ、そうやって、一定の年を重ねた人間に対して侮辱するような言い方はやめなさいよ。いい?大体、年を重ねるっていうはね・・・」
「はいはいはいはい、年取ってこれ以上ババアになる前に試着して。」
「ばっ!?りり!?もう一回言ってごらん!?私、まだ29ッ・・・!」
「はいはい!いいから試着して!こっちは人を待たせてんのよ!」
強引に試着室に押し込められて、しぶしぶ着替える。
(何よ・・・25歳なんて言っても、あっという間に30歳よ。)
※注 その頃の忍さんは34歳ですけどね。
試着しても、りりは3秒見ただけで「はい、OK。」と言って勝手にお会計してしまった。
・・・せめて、10秒は見て決めて欲しかった・・・。
「落ち着かない買い物だったわ。」
なんとなく買い物をした気がしない。
非難めいた言葉を呟いても、従姉妹は何も悪びれた様子は無く、開き直る。
「少しでいいから付き合えって強引に呼び出したのは、そっちでしょ?約束は果たしたんだから、アタシはこれで。」
片手を挙げて、もう私の事など見ていない。
そんなに次の相手が大事ですか、と私は拗ねたくなる。
背中を向けるりりに向かって、私は声を張り上げた。
「蒼ちゃんによろしくねー?」
「あーはいは・・・ッ!!」
うっかり返事をしてしまった従姉妹は、すかさず振り返って私をキッと睨んだ。
私はニッコリ笑って手を振る。
「〜〜〜ッ・・・溺れてしまえッ!」
(耳まで真っ赤にして、可愛い♪)
ああなってしまったけれど、ああいう捨て台詞を吐ける内はまだ可愛いなと思う私。
私は、水着を手に空を見上げる。
なんだかプール開きを楽しみにする子供の気持ちが、今少しだけ解かった。
・・・泳げるようになりますように。
1週間後。
私は、水島さんに泳ぎを教えてもらう約束をして、プールの前で待ち合わせた。
正直、女難だとかで警戒されていないか心配だったけれど、案外水島さんはあっさりと引き受けてくれた。
・・・昨今の海女ブームのせいだろうか?いや、そんな訳ないか。
水島さんは約束の時間ギリギリに到着した。
「す、すみませんッ!」
「ううん、もしかして・・・」
「・・・ええ、想像してる通りです。」
そう言うと、水島さんはふっと憂鬱そうに笑った。
どうやら、女難トラブルで遅れたようだ。
面白そうだから、もう少し詳しく聞きたいのだが、彼女に悪いのでぐっと堪える。
「じゃ、行きましょうか?」
そう言って、私はビルの中に入ろうとしたが、水島さんの足は一歩踏み出した途端ぴたっと止まった。
「あの・・・」
「ん?どうかしたの?」
水島さんは困ったように言った。
「あの、ここのビルの中のスポーツクラブですか?ここ、会員専用って書いてますけど・・・私・・・」
「あ、いいのいいの。会員の紹介があれば入れるし・・・それに」
「い、いや!そうではなく!私、そんなお金持ってないです!ここ、高級フィットネスクラブで有名ですよ!?」
「それは・・・水島先生のお月謝には丁度良いんじゃない?」
私が笑って言うのだが、やはり彼女は気が引けてしまうようだった。
「いやいやいや!月謝なんて、とんでもない!」
「・・・それに、変に邪魔されたくないのよ。私、折角練習しようと思ってるのに。
ここは会員専用だから、分別のある人が来るわ。ここなら、きっと女難も来ないと思うけど。」
ここは会員専用で、時間帯によっては誰も利用者がいない時もある。
だから、ここにしたのだ。
邪魔されたくない、のは・・・本当の事だし。
「・・・あ、なるほど。」
水島さんは、あっさり納得してくれた。
お金はダメだったけれど、女難回避という名目なら案外簡単に乗ってくれるのね・・・水島さん・・・。
「じゃ、行きましょう?」
本来ならば・・・
女同士なんだし一緒に着替えましょう、とかするんだけど・・・。
「あ、あの…ロッカーここにしましょう?あと、女同士なんだし、着替えはさくっと・・・あれ?」
「はい?私、もう水着着てきました。」
水島さんってば、服の下に既に水着を着てきたらしくって・・・。
「小学生の時から、そうなんです。」
うーん…残念!・・・いや、残念って見たい訳じゃないのよ!?ただ、私は医者だから、水島さんの筋肉の無駄の無い動きを見る為に(以下略)
でも…水島さんって、本当にいい身体してる。
細いと言うより締まりのある身体。筋肉の線が時々浮かんで、張りのある、少しだけ日焼けした肌・・・さすが、20代ね・・・。
「・・・あの、着替えないんですか?」
「あ゛!」
ジトッとした目で水島さんが言うので、私はハッとする。
私ったら、ずっとブラのホックを掛け外しを繰り返してた・・・ッ!
「あ、あの…なかなか外れなくって。おっかしいなあー?」
※注 誤魔化し慣れていない為、台詞回しがヘタクソな忍さん。
「後ろ向いてください。」
水島さんに言われて、私は後ろを向く。
「ホック、掛け違えてますね・・・」
”ぷちっ”
(う・・・!)
・・・不覚にも、ブラジャーのホックを外された感覚にドキッとした・・・。
何事も無かったかのように、水島さんは鏡の前でゴムを口に咥えて、髪をまとめている。
(あ・・・うなじ綺麗・・・。)
着替えながらも、私は彼女の動作から目が離せないでいた。
それにしても、彼女にしては可愛らしい水着だ。てっきり競泳用水着かなにかだと思ってたんだけど…。
※注 水島さんが水着を買った話は『水島さんは研修中。』をご参照下さい。
「・・・忍さん、着替えないんですか?」
指摘されて、私は自分の動作が止まっている事に気付いた。
「あ゛!」
しかもパンツ下ろしている最中に止まっていたなんて…ッ!
「あ、あの…なかなか外れなくって。おっかしいなあー?」
※注 誤魔化し慣れていない為、二番煎じの誤魔化しをしてしまう忍さん。
私は、すぐに彼女に背を向けて、笑いが込み上げてくる表情を隠した。
どうしよう・・・困惑すら、楽しい―――!ああ、恋愛ってこんなに楽しいのね―――!!
浮かれていく一方の気持ちに、もう一人の私が歯止めをかける。
『ちょっと?浮かれすぎなんじゃない?彼女は人嫌いで、貴女だって人に興味が無いからこそ、この関係が成立しているのよ?』
いや、それはそうなんだけど・・・。
〔 はーい!ちょっと待った―ッ!! 〕
あぁ!浮かれる私を弁護する私が…!
〔やっと家を出て、自由に恋愛出来るって時なのよ!?ライバルも多いのに、ここで少しずつでも水島さんに近付かなきゃ! 〕
私の中で二人の私が口論を始めた。
『それこそ慎重にいかなきゃいけない時でしょ?強引に迫らないのが、烏丸忍本来のスタイルだった筈よ?ここでがっつくのは、当初のキャラクター設定に反するわ!』
そうね…キャラ崩壊がすごいって言われてるし…。
〔 もう恋は始まってるのよ?ここでチンタラしてたら、シリーズ終わっちゃうっての!少しくらい暴走しなきゃ”可愛い!”って思ってくれないじゃない! 〕
ああ…そうなのよね…私、どっちかっていうと水島さんの味方でありたいから、アピール不足っていうのは感じてた。圧倒的に可愛いとは無縁だし…。
『暴走した時点で”脱落決定”でしょ!?警戒されて、二度と誘っても乗ってこないわよ!?』
あ・・・それはヤダ・・・!
〔 面白くも無い女と一緒にデートしても二度とデートしてくれないわよ! 〕
それも嫌だなぁ・・・私、ただでさえ面白味もない女だし・・・。
『今日だけは、ちゃんとした!信頼と安定の烏丸忍でいるべきよ!大体水泳習いに来てるんだから!真面目に習え!!』
う・・・!
〔つ〜ま〜ん〜な〜い〜!!水着ポロリとかハプニング起こして、水島さんを桃色パニックに陥れてみ〜た〜い!!〕
ああ・・・それも面白そう・・・ッ!
でも、多分・・・いや、絶対的に彼女は引く!!!
私の中で、二人の私が睨みあって・・・
「あの…忍さん?」
「あ、ごめんなさい。大丈夫!行きましょう!」
そそくさと着替えて、私は水島さんを案内した。
「シャワーはここ。それからトイレはあっち。看板が上に出てるからわかるとは思うけど。…それから…」
施設内の最低限の案内をする。
彼女が私の水着を見ていたような気がするが、何も感想は無かった。
…内心、水着ズレてる?とか心配になったのだが、そうでもなく。
私の黒いビキニが変だったのか…とかも考えた。とはいえ、水着は、りりが勝手に決めたんだった。
彼女、どう思ってるのかな?
別に、他人の水着なんか気にしてないかな…?
(ま、いいか。)
「こっちが会員専用のプールね。」
プールには…誰もいなかった。
ちらりと水島さんを見ると、彼女は少し嬉しそうにニヤリと笑っていた。
・・・人がいない事が彼女にとっては物凄く嬉しいようだ。
「じゃあ、準備体操から。」
水島さんがそう言って、肩幅くらいに足を開いた。
「あ、はい!」
今日の私は水島さんの生徒だ。彼女の言う事に従わなければ。
プールサイドで私達は黙々と準備体操を始めた。
とはいえ・・・。
水島さんが上半身を前にゆっくり倒し、足の先にぺたりと手をつけた。
(わあ、柔らかい…!)
私も、と上半身を前に倒す・・・と!
「ったたた!」
手の中指が、足の指先にもう少しでつきそうで・・・つかない。痛みでプルプルするが、一向につかない。
(・・・いかんせん、私の体って固いのよね・・・いったーい!)
普段身体をあまり動かさない為か、医者の不養生ってこういう所から始まるのか…学生の時よりも身体の固さはひどくなっていた。
一回上半身を起こし、少し反らせてから再度曲げようとすると水島さんがそれを止めた。
「勢いで行こうとすると、筋肉がつってしまいますから・・・ゆっくり。」
そう言いながら、彼女は私の背中に手を置いた。
「息を吐きながら、ゆっくり曲げてください。」
「は、はい・・・」
そして、ゆっくりと曲げていくと、中指が・・・足先にちょっと触れた!
「あ!やった!ついた!」
「…はい、ゆっくり上げて…。」
水島さんはインストラクターのように私の肩に手をかけて、ゆっくり上体を起こすように言った。
「あ、はい…ごめんなさい、私身体が固くて…。」
なんだか照れくさくなって、謝ってしまった。
「いえ、シンクロやる訳じゃないですから。ただ、泳いでいる内につったりすると大変なんです。」
念には念を、と言うわけか…。
さすが水泳が特技なだけあるなぁって感心してしまった。
そういえば、彼女にリードされてるのって珍しいかも。
まず水島さんがプールに入る。ポニーテールの先がプールの水に濡れる。
私も続いて水に入る。
水島さんは真面目な顔で私の目の前で仰向けになって浮いて見せた。
「力を抜いて…浮く、とはこういう事です。えーと…医学的に言えば、肺がある部分を中心に浮く、と考えてください。
まあ、そうなると当然、それ以外は沈みますから…そうならないように、姿勢をまっすぐに…お腹と足を下がらないようするだけです。」
そう言うと、水島さんはリラックスしたように目を閉じて、水に浮かび続けた。
見ているだけで気持ち良さそうに浮いている。
理屈はわかった。(特に肺の所。)
だけど…。
「うーん…」
私は腕組をして、自分にこれが出来るだろうか、と考えた。
水島さんは、再び足をプールの底につけて立つと苦笑しながら私に言った。
「まあ、理屈より実践ですよね?じゃ、浮く練習から。」
水島さんは私に仰向けに浮くように言った。
実際、仰向けで浮ける自信がなかったので、頭から沈んでしまうのではと思うと全身が硬直してしまう。
すると、私の頭と腰に彼女の腕が触れた。
「…大丈夫、浮いてますよ。身体を真っ直ぐにして下さい。」
優しい言葉。
腕は…触れる、というよりも…支えてくれてるって感じ。
「あの…これ、大丈夫…?」
それでも不安は消えなかった。
沈む、溺れる、苦しい…この感覚が小さい時から染み込んでいるのだ。
そう簡単に払拭できるものでは無い。
恐る恐る水島さんの顔を見ると・・・彼女は、いつも通りの無表情。
「ええ、浮いてます。ホラ、足が下がってます。もう少し真っ直ぐに。お腹に少し力を入れて、こう真っ直ぐに・・・そう・・・。」
でも、言葉はいつもより多くて、いつもより…優しい…?
いや、いつもは優しくないって訳ではないのだけど…特に、今日は優しく感じるなって…
何より…
「…お腹沈んできてますよ…真っ直ぐ。」
ちゃぷという水音と共に、彼女の腕が私の腰の下に入り、支えた。
(ウォーターベッドってこんな感じなのかしら?)
水島さんが支えてくれている。
私は身体を真っ直ぐにして、プールの水、彼女の腕に身を任せた。
これなら水に沈む事はないし、沈んでも彼女がすくい上げくれそうな気さえした。
(気持ち、いい…。)
誰もいないプールのせいか、静かで水の音しかしない。
落ち着く。
私は目を閉じた。耳に時折水がかかるが、動揺はしなかった。
このまま、ずっと浮かんでいられそうな気がする。
「…良いですね。浮くのは合格です。」
水島さんの声が小さい・・・ていうか、そんな遠くで褒めるより、もっと近くで・・・。
・・・遠く?
「・・・はっ!?」
水島さんがいない!!5mも離れた場所にいる!!
「浮けてますよ〜・・・あ。」
「ごぼがぼごあぼごあご・・・!!」
し、沈む・・・!!
「忍さん!そこは…ッ!」
私の頭はパニック状態で、沈む身体は止められない。
(沈む!苦しい!死ぬ!!)
「ごぼがぼごあぼごあご・・・!!」
水が、私を閉じ込める・・・。
足掻けば足掻くほど・・・水が、私の動きを鈍くさせ、沈ませ・・・空が遠くなっていく・・・。
「ごば・・・っ・・・!」
・・・ああ、やっぱり・・・こういう事になるのね・・・。
誰かが言った。
”生きねば”って。
でも、こうなってしまうとなんて無力な言葉なの・・・!
「忍さんッ!!」
次の瞬間、私は脇から物凄い力で上に引き上げられた。
「――ぷはッ!」
「忍さん、大丈夫ですか?」
水島さんが両腕でしっかりと引き上げてくれた。
「げっほげほッ!…はぁはぁはぁはぁ…!」
私は水島さんの腕と身体によりかかる形でなんとか息を吹き返した。
「大丈夫…ですか?」
息を整えるのに必死で、とにかくまだ不安で・・・私は彼女の首の後ろに右手で掴まった。
「はぁ…はぁ…だ、大丈夫…!」
必死に水島さんに掴まる私に、彼女はすごく言い難そうに言った。
「あの…それでですね…忍さん…ここ……大人なら、まだ足がつきますから。」
「・・・あ。」
本当だ。足の下に固い床の感触がある。立てる。これ、立てるわ。
我に返った私は、自分の状態を自覚する。
彼女に寄りかかっている上、彼女の首に手まで回しているのだ。
これは…不可抗力なのよ、と言い訳するよりも早く立って離れなくては…!
私は、自分の足でゆっくりと立った。
”ちゃぷ”っという音の後、私は立てた。
口から水面は遠ざかり、呼吸は難なく出来た。
真っ赤になっていくのが自分でも解る。
「ほ、ホントだぁ〜!足がつく〜!あはははは!(恥)」
・・・もうッ・・・水があったら、入水したい!!!
※注 忍さん、大混乱中。
「じゃ、今度は…」
彼女は、実に真面目に私に水泳を教えてくれようとしていた。
最初はとにかく浮く練習ばかりだったが、私は飲み込みが早い方らしく、うつ伏せで浮く練習に切り替わった。
とにかく…うつ伏せの時は、水死体のイメージで浮く…のを理解した。
※注 不吉なイメージで覚えてしまった忍さん。
だが、呼吸が苦しくなると、水中でパニックを起こしてしまうのだ。
「…じゃあ、今日の最後。私が両手を持って引っ張りますから、忍さんは顔を出した姿勢を維持して、浮き続けてください。」
「・・・わかったわ、やってみる・・・!」
水島さんが私のお腹に腕をあてて、私はうつ伏せで浮いた。
「この姿勢を意地して下さいね?じゃ、引っ張りますよー顔を上げてー。」
水島さんが私の両手を引いた。
トントンと後ろ向きに彼女はプール内を移動する。
私は彼女に引っ張られ、沈む前に前に進まされる、という奇妙な状態にされた。
でも、泳ぐって…こんな感じなんだろうか…
「足下がってますよー真っ直ぐ。」
「あ、はい!」
・・・ホントに、スイミングの先生みたい。
水に沈まないで、進めるなんて…初めてだ。
(楽しい…!)
泳げるようになったら、こんな感じなのかな?
「ねえ、教えるの上手いじゃない?」
「忍さんが飲み込み、早いんですよ。」
褒めた…!水島さんは、褒めて伸ばすタイプ?だったら、嬉しい!
「ま、またまた〜。でも、嬉しいから練習終わったら、ご飯奢っちゃおうかな?」
「…それは………。」
水島さんが口を閉じて、プールサイドの方を見た。
「…何ぃ?あれ〜?ママ〜変なのいるんだけど〜?」
小学生くらいの女の子の声がした。
続いて、中年女性の声がした。
「…あぁら…いつから、ここはカナヅチの為のスイミングスクールになったの〜」
嘲笑を含んだ嫌味は、プール内に響き渡ってしっかりと私の耳に聞こえた。
振り返ると、茶髪を結ぶ事無く、ピンクの派手なビキニを着た小さい女の子と派手で無駄にセクシーな水着を着た中年女性が立っていた。
あんな下品な人…ここの会員になったのかしら…?お金ってやっぱり強いのね…。
「フンッ!泳げないんだったら、来るなって。美緒礼(びおら)の邪魔なんですけど〜!」
女の子は、年相応とはいえない程の嫌味を言ってきた。
でも…ビオラ?楽器?楽器の邪魔ってどういう事?
「ホントよ!折角高い入会金払ったのに、大人のカナヅチと一緒だなんて!美緒礼(びおら)の練習が出来やしないわぁ!」
あ、ビオラって名前!?キラキラネームって奴ね!?患者さんにもたまにいたけれど、ビオラは無かった!!
「・・・・・・。」
水島さんが無口になり、それでも私の手を引きながらも歩いてくれた。
「…ゴメンね?気にしないでいいのよ?私だって、会員なんだから。」
私は、あの親子に聞こえないようにそう言った。
「ええ、それは良いんですけど…」
「ちょっとぉ!そこのオバサン二人!女同士、二人っきりで手繋いで泳ぎの練習なんて、寂しくないのー!?
そんなマネしてる暇あったら、彼氏作りなさいよー!」
こういう時、若いって無鉄砲なんだな、と思う時でもある。
でも…。
「・・・・・・・・オバサン?」
「私・・・25歳なのに・・・。」
「美緒礼(びおら)の言うとおりだわ!…もしくは、レズビアンかもしれないわね!まあッ!そんなのが女子更衣室に入ったら大変!!」
(ああ、もう…最低…。)
どうして、たまにこういう人にぶち当たってしまうのかしら・・・。
大変って、そんな事する訳ないじゃないの。自意識過剰なんだから。
すると、私の両手を黙って引っ張っていた水島さんが言った。
「例えレズビアンでも、色んな意味でスッカスカの子供と熟し過ぎた美魔女気取りの中年は守備範囲に入りませんよ。・・・洗顔料みたいな名前のクセに。」
※注 水島さん、それは”ビオレ”です!
水島さんの言葉は、しっかりとプール内に響いた。
私は、洗顔料という言葉に反応し、思わず吹き出してしまった。
「ぷっ・・・そうだ!ビオレだ!!なんか似てるなって思ったんだわ!ビオレよ!ビオレ!!」
※注 同名の方がいらっしゃいましたら、ネタにして申し訳ございません。
私の言葉に水島さんも笑いながら言った。
「そうそう!”弱酸性”の!!」
「あははは!弱酸性!ビオレ!」
笑いすぎたのか、ビオレが泣き出した。
「あ、あの地味なオバサン、美緒礼(びおら)の名前をビオレって言ったーッ!ママー!!」
「まっまあッ!?人の子供を侮辱してッ!!」
ヤバイ。あの親子にハイオクガソリン振り掛けてしまったみたい…!
仕方が無い。
水島さんを誘ったのは私だし、ここは私が、矢面に立とう。
「あの…プールは、そもそも泳ぎに来る所です。貴女達にカナヅチだなんだと侮辱を受けたのは、こちらの方ですよ。」
私がそう言い返すと、子供がプールサイドをドカドカ走りながら、こう言った。
「泳げない奴は、市民プールで浮いてりゃ良いのよ!大人にもなって泳げないなんて、バッカじゃないの!?」
「なっ・・・!」
私が図星を言い当てられ言葉を失った瞬間、水島さんが私の手を離し、大声を出した。
「謝りなさい!」
「「「ッ!!」」」
水島さんが・・・怒った・・・!?
「誰もが始めは泳げなかった!
やっと泳げるようになって気持ちが良いかもしれないけれど、泳げなかった時のもどかしさや水を飲んだ苦しさを忘れてないか!?
一生懸命練習したって、なかなか泳げない人だっている!いろんな人がいるんだよ!
だから!泳げる奴が、泳げない人を馬鹿にするのは、してはいけない事だッ!!わかったか!この弱酸性の洗顔料ッ!!」
「う・・・び、びおら だもんッ・・・!!」
「くー!!ここは、会員専用のプールでしょ!?もういいわ!スタッフに追い出してもらうわッ!」
言われなくても出てってやろうじゃないか、と私はプールから上がろうとした・・・が。
「追い出されるのはソッチよ。」
不機嫌な声がプールに響いた。
「な、何ですって!?」
ヒタヒタと足音を立てて、赤い水着にパーカーを羽織った、私の従姉妹・りりがサングラスを外しながらやってきた。
「…ったく…黙って聞いてりゃ、ぴーぴー下品に騒ぎ立てて…。最近の会員はみんな、こうなの?白鳥マネージャー。」
りりの後ろには、ここのプールの責任者の女性がいた。
白鳥さんは、ショートカットに眼鏡で一見、爽やかなインストラクターのように見えるが…実は結構したたかで怖い。
ああ、この親子以上に、この子の方がお金の面では強いわね…。
「”申し訳ございません”火鳥様。 あの、”すみません”、和久井様…今日のようなトラブルを起こされては困ります…」
白鳥マネージャーは、どっちの味方につくべきか、既に解っているようだ。
「な、なによ!私達が悪いって言うの!?私達は会員よ!?」
「そーよそーよ!!」
「ねえねえ、あの子、プールサイド走ってたよ。危ないよね?白鳥さん。」
いつの間にか、りりの後ろには蒼ちゃんもいる。
さては蒼ちゃんにプールをねだられて、渋々連れてくるハメになったから機嫌が悪いんだな…りりの奴…。
「そうですね、申し訳ございません、高見様。…和久井様、少しお話をしましょうか…こちらにどうぞ。」
「ちょ、ちょっと!まだ泳いでな…」
「どうぞ。こちらで、お話をしましょう。和久井様。」
「「・・・・・・。」」
問題の親子は、威圧感のある白鳥マネージャーに連行されていった。
やがて、足音が聞こえなくなると、4人は吹き出して笑った。
「「「「…ビオレ…!あっはっはっはっは!!(笑) 」」」」
※注 笑いのツボは4人一緒。
その後、水島さんの生徒に蒼ちゃんが加わり…りりはずっとプールサイドの椅子に腰掛け、ドリンクを飲んでいた。
私は休みながら、水島さんの授業を受け続けた。
「アイツ(水島)が相手してくれるから、楽でいいわ。」
りりはそう言って、プールの中ではしゃぐ蒼ちゃんを見ていた。
ああ…なるほど。
夏に泳ぎに行こうって言って、プールや海に行く人は、こういう気持ちで楽しんでいるのね。
頭の隅に溺れたらどうしよう、とか馬鹿にされる、とか仲間ハズレにされるんだろうな、とか・・・そういうの考えずに、こうやって過ごせるんだ・・・。
「じゃあ、今度は潜る練習です。プールの底に投げ落とした火鳥さんのサングラスを潜って拾ってください。」
「ちょっとっ!水島ッ!いつの間に!?」
「私も潜って様子を見ますから、安心して下さい。二人共、大分水に慣れてますから。」
「「はい。」」
そういえば・・・さっき、水島さん・・・本気で怒ってくれた。
他人の為に感情を出してくれる貴女は、もう人嫌いじゃないのかもね・・・(一部を除いて。)
「とったどー!!」
「・・・蒼ちゃん、今足で取ったよね?」
「ば、バレてたー!!」
・・・それとも、ちょっとは期待していいのかな?
私だから、怒ってくれたとか、ね。うーん、それはやっぱり自惚れかな?
「ねえ、水島さん?・・・私がこのまま、泳げないままでも・・・また、泳ぎに・・・」
「何言ってるんですか、忍さんは泳げるようになりますよ。さっき浮けたじゃないですか。」
「うん・・・いや、そうじゃなくてね・・・泳げるようになってもならなくても・・・私、また・・・」
そこまで言いかけて、私は止めた。
彼女には彼女の都合がある。
勝手に話を進めて、彼女に断る余裕を与えないのは…さすがに気が引ける。
しかし。
彼女は、言った。
「泳げるようにはなりますし、いつでも忍さんのお誘いは受けますよ、私。」
「・・・・!」
彼女はいつも・・・こういう事を、私の顔を見ないで言う。
横顔で私に向かって、顔が赤面するような事を平気で言う。
私は思わず身体を肩までプールの中に沈めた。
(いつでもって言った?今・・・私の誘いなら受けるって言った?)
嬉しいんだけど、この嬉しさをあっちに気取られたくない。
「・・・だから・・・その・・・頑張って・・・忍さん。」
彼女の横顔が、ほんの少しだけ・・・赤いような気がした。
「あ、うん・・・頑張る。」
・・・・・・。
妙な間の後、彼女がチラリと私を見た。
(あ、今・・・)
私の中に、とある欲求が頭をもたげる。
「よーし!グラサン、放り投げますよー!潜って取って下さいね!」
水島さんがそう言うと、既に5m先で蒼ちゃんが両手を広げて待っていた。
「はーい!」
「だから、他人のサングラス放り投げんなッ!!」
「そ〜れっ!!」
水島さんの手から放り投げられたサングラスが、プールの中に沈む。
私は、サングラスより水島さんの方に泳いでいった。
それは欲求のままに。
向かってくる私に、彼女は不思議そうに、サングラス落としたのあちらですよ?というような顔をして私を見ていた。
(・・・ありがとう、私の先生。)
とりあえず、私は心の中でこう呟いて・・・
彼女に飛びついた。バランスを崩した彼女と共に私はプールの中に沈む。
そして、私は・・・彼女の頬に水中でキスをした。
” ごぼがぼごぼがぼぼぼぼ…!! ”
「ちょ、ちょっと!アタシのサングラス大丈夫なんでしょうね!?」
「お姉ちゃんのサングラス獲ったどーッ!!」
「で、でかしたーッ!!」
― 烏丸さんは特訓中。 END ―
あとがき
女難的に…なんだか物足りない!と思ったら、あなたは女難中毒気味ですね。多分!
平和なオチで申し訳ないです。えーと・・・時系列的には、あまり深く考えない方がいいんですけど、最終章終わった辺りだと思って下さい。