18才の時にこの病名を宣告されました。まだ高校生で、それほど深刻には受け止めてはいませんでした。
それから時が経ち、今では光を感じる程度まで視力が落ちてしまいました。そんな、私が分かる範囲でこの病気の事を書いてみたいと思います。
医学書や専門の研究者ではないので、これは私の考えや感じた事を綴ったコーナーとしてご覧下さい。
目の瞳の奥にある網膜という部分(瞳はレンズ。 網膜はスクリーン。 と考えれば分かりやすいでしょうか?)の細胞が働かなくなります。 そうすると、光を感じる力が落ちてきます。 したがって、物を見る力も弱くなるという事なんです。
その症状は時間を掛けて、ゆっくりゆっくりと進行していくパターンが多いようです。
症状の進み方の速度は個人差が有るようです。
★網膜色素変性症=『もうまくしきそへんせいしょう』 ★色変=『しきへん』 ★RP=『アールピー』
こんな風に呼ばれています。患者さんたちは、色変(しきへん)と呼んだりRPと呼ぶ事が多いかも?!
●『夜盲(やもう)』=一般的には、鳥目とか言われる事も有りますが、これは暗い所で物が見えない状態です。
●『視野狭窄(しやきょうさく)』=症状が進むと段々見える範囲が狭くなってきます。 この病気の場合、上下左右だけではなくて真ん中も見えなくなる人が多いんです。ドーナッツ型とも言います。
●『色弱(しきじゃく)』=色を見分ける力が弱くなります。
以上は、主な症状ですが個人差が有ります。 この様な症状が進むと視力が低下して見えにくくなってしまいます。
残念ながら、現段階ではこれと言った治療方法は確立されていないようなんです。
薬を飲んでいる患者さんも居るし、飲んでいない患者さんも居ます。 ちなみに私は、「少しでも長い間光を感じていたいな!!」と思うので、薬を飲んでいますよ。
それから、研究段階として私が知っているのは、『人工網膜』の研究と、『細胞の再生』の研究ですね。
どちらの研究でも、技術が確立され、この病気で光を失ってしまう患者さんが少しでも早く助かる日を私は、心待ちにしています。
生まれながらにして強度の近視でした。赤ちゃんの頃は、段差などにつまづいたり落ちたりする事が多かったみたい。
2才の頃、両親は私を連れて病院へ行きましたが、まだ小さすぎて何も出来ずにもう少し大きくなってから再受診する事になりました。
3才になり、再び病院へ。 そこでの診断は、「強度の近視です。」という診察結果でした。
そこで初めてメガネを作りました。 普通は、小さな子供はメガネはわずらわしいし、イヤイヤする子が多いみたい。
でもでも私の場合、「うわー、良く見えるー!!」ってはしゃぎ回ったみたいです。 そりゃそうだ、だってそれまでは、ボケボケの世界しか見えてなかったんでしょうしね。
保育園にも通園しました。 他のお友達と何ら変わらずに生活を楽しんでました。
仲良しは、男の子二人でしたねー!! いっつも3人で遊んでました。
ある日の事。 給食のパンを一つずつ包んである紙の袋を、3人が食べちゃいました!! 誰かが先生に密告。
言うまでも有りません。 もちろん私達3人は、職員室へ呼び出され、こっぴどく叱られちゃいました。 今、考えたら『おい、山羊かい?!』ですね。
小学校に上がる時、視力はメガネを掛けても0.4ほどでした。
学校側と両親の話し合いの結果 私は普通の小学校に入学する事が出来ました。
小学校卒業時の視力は0.3弱でした。
そのまま地元の中学校へ入学。
少し遠い学校だったので、自転車通学をしました。 両親はもちろん心配をしていたようです。 でも、まだ自転車に乗る事もできたので私は周りの友達と頑張って通学しました。
部活動をしていたので、帰りが遅くなる事もありました。 そこで問題が出てきたんです。
帰りが遅くなると暗くなる!! 暗い所が見えない私。 薄暗い道を自転車でオッカナビックリ&ゆっくり走った事を思い出します。
中学校卒業時の視力は0.2くらいでした。
高校に入学。 今度はバス通学です。 毎日の行き帰りのバスでは、あまり不自由も感じませんでした。
まだバスの時刻表も見えましたしね。
ただ、帰りが遅くなると暗くなって家の近くのバス停で降りても、全く見えない。 こんな状態でした。
慣れていた道でしたし、道路の端の白線が微妙に盛り上がっていたので、それを足の裏で感じながら家にたどり着く。 こんな事も有りましたね。
卒業時の視力は0.2弱でした。 網膜色素変性症と診断を受けたのもこの時期です。
短大に進学。 親元を離れての生活が始まりました。
またまた両親は、大大大心配。 周りの友達に助けられ短大生活をエンジョイしちゃいました。
保育師を目指して日夜勉強???だったかな?!
単位取得のために、実習生として幼稚園、保育所、養護施設など数箇所お世話になりました。 子供達の素直でまっすぐな心が、もっと大好きになりました。
卒業を迎え、保育師になる事を諦めざるを得ない事に気付いちゃったんです。
それは、やはり視力がないことで大切な子供達の命を預かる仕事に対して自信がなかったからなんです。
かなり辛い決断でもありましたね!!
この時の視力は、0.1でした。
短大卒業後、公務員としてお勤めを始めました。
見えにくくなりつつある目で、一生懸命 事務仕事をしてました。 時には失敗もし、先輩の女性にしかられる事も・・・。
でも、ポジティブな性格な私。 愛想の良さでは自信がありました。
だからなのか、割りと上司にも先輩の方々にも可愛がってもらいましたよ!!
まだ、この時期は視覚障害者という自覚も、障害者手帳も持っていませんでした。
28才で結婚し、しばらくは『働く主婦』をしてましたが、通勤にも不都合が生じてきたので、30才の時に退職を決意しました。
この時の視力は、0.1を切っていました。 相当な不自由感を持っていましたね。 仕事にも支障が出てきたのを感じていました。
仕事をやめ、出産をし子育てが始まりました。
多分、この時期に障害者手帳を受けたのかも?!
すでに子供の顔さえハッキリと見えなくなっていましたが、『成せば成る!!』のポジティブシンキングで驀進。
今では子供も大きくなり、私が手や口を出さなくても一人で何でも出来ちゃうので、かなり楽してまーす。
家事仕事も、ほどほどですが出来る範囲でこなしてますよ!!
今から約6年前に『白杖』を持ち始めました。さらにアクティブな行動が出来る主婦を目指してまーす。
キャハハ。家族はハラハラ・ドキドキしている事でしょうね!!
現在の視力は、有りません。 『手動べん』と言って 目の前で指を動かして、それがチラチラ動くのが分かる程度です。 光を感じる力はまだ少し残っているので、『今日は、お天気がいいなぁ!!』なーんて感じられますよ。
【ここまで、2008年の状況】