月夜の出来事
洛中、土御門に位置する源の武士溜まりの夜は早い。
日暮れになると、その後の役目を持たぬ者は、次々と各々の部屋へと戻り、休養する。
武士として必要最低限の身体管理といったところか、月明かりが京の都を照らす頃には、時折響く鳥獣の声意外、ほとんど立つ音も無い空間となる。
いつもより多少帰りが遅くなったことに少しばかり焦りながら、頼久もまた、普段と変わりなく自室へと戻って行く。
そう、それは何の変哲も無い日常の風景の一コマであった。
…その時までは。
頼久は、棟梁の子息ということもあり、個室をあてがわれていた。
少し前に転がりこんできた天真は、雑多な場所で毎日のように雑魚寝をしていると聞くが、それもまた良いのではないかと、最近思う。
沈黙と闇が全てを支配する夜という時間に、たった一人、人息さえ聞こえぬ静寂に満ちた部屋に戻るのは、さすがに気がめいるものだ。
だから、その時も心無しため息混じりに部屋の戸を開いた。
するとである。
真っ先に気がついたのは、音だった。
普段は、薄気味悪いほど沈黙に満たされているはずの部屋から、明らかに人息が聞き取れる。
まず最初に思った事は、夜襲。
だが、その息遣いは何かが闇に潜んでいる、という類のものとは、かなり違っていた。
そう、あえて言うなら、
…寝息のような。
訝しげな顔をしたまま、頼久はゆっくりと歩みを進めた。
月明かりが、放たれた窓から注ぎ込み、丁度室内を照らしている。
身を潜めながら、そっと中を伺って見ると。
一瞬。
頼久には理解できなかった。 その状況が。
「………神子……殿……?」
無意識に口から声がこぼれ落ちる。
そこには確かに、うずくまったままスヤスヤと眠りこける、あかねの姿があった。
……これは一体どう言う状況なのだろう、と。
頼久はその場を動けぬまま考え込んでしまっていた。
神子がこんな時間に、ましてやこんなところで眠りこけているなどという状況を、一体どう理解しろというのか。
ふとあたりに目をやると、あかねの手元には何か小さな包みが見て取れる。
頼久が訝しげな顔をしたまま立ちすくんでいると、
あかねはもぞもぞと体を震わせ、
「………ん……」
小さな声とともに、しきりに目をこすり瞬きを繰り返した。
「…み…神子殿…?」
おずおずと掛けられた声に、あかねはぼんやりと振りかえり、
そこにあった、思いっきり困惑した頼久の顔を見た瞬間、はっとなった。
「……あ、あれ…? あたし何やって…、あ、そうだ!」
わたわたと身を整え、手元にあった包みを見つけ、慌ててそれを持ちながらあかねは言った。
「……一体、どうされたのですか、このような時間に、しかもこのような場所にお一人で来られるなどと…」
あかねの様子に、どうやらあかねの身に何かが合っての事ではないと察し、頼久は静かに歩み寄り、腰を下ろした。
「…え、こんな時間って……」
はて、と首をかしげながらあかねはきょろきょろとあたりを見まわす。
窓外にこうこうと輝く月を見つけ、あかねは思わず顔色を失った。
「……ごめんなさい…あたし、なんだか寝ちゃってた…みたいで…」
ぽつぽつと発した言葉は、とても弱々しかった。
そして、俯いたままクシャっと小さな包みを握り締める。
「…えと、…あたしどうしてもこれ、頼久さんに届けたくて…。 でも頼久さん、外出中って言われて…それで…、どうしようかって思ったら、中で待たせてくれるって言われたものだから…、……あの……ごめんなさい……」
おずおずと呟く少女の姿に、頼久は思わずふぅとため息を洩らした。
「神子殿がおあやまりになることはありません。 …今度番兵には話しておきます」
そう言った頼久の声は、少しだけ張り詰めていた。
やっぱり、怒っているのかな、とあかねはおずおずと頼久を見上げる。
「……ごめんなさい。 …本当は、ちょっと待つだけのつもりだったんですけど…」
目に見えて落ち込むあかねに、頼久は少し慌てた表情を見せた。
「……い、いえ、その…。 あ、…それで、…それは一体何なのですか?」
「あ………」
あかねはふと、握り締めていた包みから手を離し、
バツが悪そうにそれを差し出した。
包みが開かれた内にあった物は、
大分形が崩れてはいたが、どうやら食べ物のようだと、頼久は訝しげに覗きこんだ。
「…詩紋くんから教わって、作ってみたんです。 私の世界のお菓子…。 手作りはあんまり日持ちしないって聞いてたから…」
とりあえず、食べてくれということなのだろうと、頼久はおずおずとそれに手を伸ばし、一つまみほど口に運ぶと、なんだか不思議な甘味を感じた。
今まで口にしてきたものとは大分違うそれは、奇妙でありながらもとても美味しく感じられた。
「……あの……」
あかねがじぃっと見つめていることに気がつき、頼久ははっとなり我に変える。
「……あ、…その、とても美味しいです。 …なんというか、不思議な味ですね」
頼久のその言葉に、あかねは思わず満面の笑みををかべた。
その表情に、頼久が思わず顔をそむける。
俯いた頼久の顔は、少しだけ紅潮していた。
「それで、神子殿。 これからどうなされるのです?」
にこにこと空になった包み紙を片付けているあかねに、頼久が意を決して問いかけた。
「……どうって、…早く帰んなきゃ、藤姫心配してるだろうし…」
何気なく言うあかねに、頼久は思わず肩を落とす。
やはり、彼女は分かっていないのだろう。
武士溜まりには、常に番兵が待機している。
見慣れぬ人の出入りとなれば、それは当然目に付く事だろう。
つまり、このような時間に、こそこそと頼久の部屋から出て行く彼女の姿を目にされたら…、
おそらく、その後兵士達が咲かせる噂話が目に浮かぶ。
「…このような時間に、神子殿がここから出て行かれるところを見られたら、…その、…いらぬ誤解をうけてしまうかと…」
口篭もりつつ頼久が言った言葉に、きょとんとしていたあかねは思わずはっとなり顔を染めた。
ここへきてようやく、あかねは自分が置かれている状況に気付いていた。
そう、
闇が支配する真夜中、部屋の中で、男性と二人きりでいるのだ。
その状況からくるいらぬ誤解といえば、安易に想像が付く。
改めて気が付いたその状況に、あかねは思わずうろたえる。
「……えと、…じゃ、じゃあ、どうすれば……」
おずおずと呟くと、頼久もまたバツが悪そうに顔をそむけながら、しばらく黙り込み、
そして、ふと思いついたかのように顔を上げると、
「…夜明け前に、番兵の交代時間があります。 丁度明日は私の番ですので、交代した者が去った後を見計らえば、朝までにはお戻りになられるかと…」
頼久の言葉に、あかねは硬直した。
つまり、夜明け頃まで、この状態でいろというのだろうか。
「……申し訳ありません。 …藤姫様には、明日、私から謝っておきますので…」
重々しく言う頼久に、あかねは今だおろおろとしていた。
「…神子殿は、少しお休みになられて下さい。 …私は、部屋の外におりますので」
そう言って、すっと立ちあがろうとする頼久に、あかねは思わずうろたえた。
「…え、だって、ここ頼久さんの部屋じゃない。 ダメだよ、そんなの!」
「しかし……」
振り向いた頼久は、それ以上言葉が続けられなかった。
多少手広な部屋とは言え、そこはなんの間仕切りもない、一室である。
「だって、頼久さんだって、疲れてるんでしょう…。 あたしのせいで外に追い出すなんて…」
…あかねも、だからどうすれば良いのかは分からなかったのだが、それでも、彼を追い出す事には抵抗があった。
しばらく、まんじりとした時間が過ぎ、
結局、二人は部屋の両の端に横になっていた。
元々、京の夜は暗いので、月明かりが角度を変えた今、同じ部屋とは言え、端のほうは闇ばかりでほとんど見ることが出来ない。
着の身着のまま、それでもどうしても進められ、一つしか無い布団にはあかねが横たわっていた。
普段は頼久が使っているであろうその布団をかぶりながら、あかねは高鳴る鼓動を抑える事が出来そうになかった。
少し離れたあたり、目では確認できないのだが、
静かで、規則的な響きが聞こえる。
…もう、寝ちゃったのかな…。
と、あかねはふと覗きこむ。
しかし、やはり闇の内に紛れ、よくは分からなかった。
ふぅとため息を付きながら、少しだけ闇になれた目であたりを見まわす。
あかねのいる側には、小さな机が一つと、その上にやはり小さな窓が一つ。
机の上には、小さな花が飾られていた。
その形状から、以前文に託した橘だろうかと、あかねはじっと花を見つめてみた。
そして、また、ふぅとため息を付く。
…頼久さんは、ここで、毎日生活してるのか…、と
あかねは改めて考えていた。
いつものように会っているので、あまり感じた事はなかったし、以前天真に連れられてこの建物に入ったこともあったのだけど、
こうしてみると、なんだかとても新鮮で、
いつもより、頼久が近く感じられて、
あかねはなんだか嬉しくなっていた。
ふと、小さな笑みを洩らし、あかねはもぞもぞと寝返りを打つ。
いつのまにか、そのまま、あかねは小さな寝息を立て始めていた。
先ほど聞こえたのは、彼女の寝返りの音だろうか。
頼久は、上着だけを脱いだ姿で、壁に向かいながら直に床へ横たわりつつ、ふと後ろに目をやった。
それからほどなく、
小さな、小さな寝息が響く。
頼久はふと、安堵のため息を洩らした。
この場所で、こんな時間にこんな風に彼女と共に居ることが、何だか信じられない気分で、頼久は落ち着かない胸を持て余していた。
ふと、戸惑ってしまっていた彼女の顔を思い浮かべる。
それと同時に、そんな事も何も気にせず、ここで待っていてくれた彼女を想う。
そんな、一つ思い立ったら突き進んでしまう、一種猪突突進なところが、彼女の強さの一つなのだろうということを、頼久は知っている。
そして、その対象が自分に向いていたことが、どうにもくすぐったい気持ちでいっぱいだった。
本当は、すぐにでも部屋を出ていってしまいたい気分だった。
高鳴る胸、突き上げてくる感情。
ふと、頼久は思う。
彼女は、なんとも思わないのだろうか、と。
この時間、こんな状況で、なんというか、女性として何か感じるところはないのだろうか、と。
それだけ、信頼されているのか。
それとも、自分ははなから男と見られてもいないのか。
出来れば、後者は否定したいところだったが、
どうにも否定出来ないフシもあるのだから考えものだ。
ちらりと、後ろを振り返ってみると、
彼女はやはりスヤスヤと寝息を立てていた。
頼久はそんな姿にふとため息を付く。
まぁ、どちらにしろ、
彼女にとって、自分は警戒に値しない対象なのだろうと、そういうことで己を納得させてみる。
そのまま、再び体勢を直し、
頼久は静かに浅い眠りに付いた。
「神子殿、…神子殿、お起き下さい、神子殿…」
「ん………?」
窓から見える夜空が、少し藍色に染まり始めた頃、頼久はしきりにあかねに声を掛けていた。
「……んにゃ〜……、あと5分………」
「……?」
あかねの口から発せられた意味不明な言葉に、頼久は思わず眉を寄せる。
そして、思わず布団越しにあかねの肩に手を掛け、
「…神子殿!」
「へ………?」
怒鳴り口調な小声で、頼久が言うと、あかねはぱちっと目を見開いた。
そして、覆い被さるように肩を掴んでいる頼久に、思わずあかねは一瞬にして覚醒した。
「……あ、すみません…」
頼久も状況に気が付き、急いで身を離した。
「…あ……そ、そうか…、もう、そんな時間……」
息を整えつつ、手ぐしで髪を整え、あかねはぽつぽつと呟いた。
ふと、寝乱れた服装に気付き、慌ててあちこちを整える。
そんなあかねから、頼久は思わず目を反らしていた。
そして、数分後。
「……す、すません頼久さん…もう少しで出来ますから……。 えっと、ここってどうなってたんだっけ…?」
まんじりと待ちつづける頼久の背の向うで、自分の水干を身につけながら、あかねはぶつぶつと呟いていた。
こちらへ来てからというもの、身の回りの世話一切を焼かれつづけているものだから、あかねは正直言ってこの着物すら、一人で見に付けたことはなかったのだ。
交代の時間が思いっきり迫っている頼久は、どうしたものかと、やはりまんじりと待ち続けるだけだった。
すると、
「あの…、頼久さん…」
弱々しいあかねの声が響く。
思わず振り帰った頼久の目に、水干の留め紐を持ったまま、こちらをうるうると見つめるあかねの姿があった。
「…ちょっとこれ、結んでもらえませんか?」
思いっきりバツが悪そうに呟くあかねに、頼久は思わずため息を付き、そのままあかねに歩み寄って行った。
「すいません……」
「いえ、これしきのことでしたら…」
情けなさそうに呟くあかねに、紅潮する顔を必死で反らしながら、頼久は一心に留め紐を結っていた。
その時である。
「おい頼久何やってんだ? 交代の時間過ぎてるって、番してたヤツ心配してるぞ」
有無を言わさずがらりと開けられた戸から、聞きなれた声が響いた瞬間。
二人は瞬時に硬直していた。
「……てん…ま…く………」
なんとか発せられた言葉は、あかねの口から出たものだった。
部屋の入り口で、天真もまた何が何やら理解するより先に硬直している。
いや、なんというか。
天真の目に飛び込んできたものといえば。
寝乱れた布団がひとつと、そばに座り、何やら衣装を整えているらしきあかねと、
その横で上着を取った姿のまま、そのあかねに寄り添い何かをしていた頼久。
「……お……お前ら……」
よろよろとして口をぱくぱくさせながらそれだけ言うと、天真はふらふらと立ち去って行ってしまった。
「あ、ちょ、ちょっと待って、天真くん!」
思わず数秒呆然とした後、あかねははたと気付き叫んだが、天真には既に届かなかった。
「どど、どうしよう、あれって絶対、誤解されてますよね!」
思いきりうろたえるあかねに、頼久は鎮痛な表情で頷いていた。
「あ、あたし、とにかく、お屋敷にもどりますね!」
「あ、神子殿!」
急いで出て行ってしまったあかねは、今までの行動の理由も虚しく、番兵や他の武士に目撃され、瞬く間に頼久に冷ややかな眼差しが投げかけられることになった。
それからしばらくというもの、
「…ほぉ、頼久も中々やるものだね…」
「だから、それは誤解だと…」
「もー、何度言ったら分かってもらえるんですか、友雅さん!」
「はははは、…まったく君達二人はからかいがいがある……」
「……もぅ……」
というような会話が、土御門のあちこちで聞かれるようになり、
そのたび、必死になって弁明するあかねと頼久の姿があった。
まぁ、もっとも、八葉とそれに親しい者であれば、既にその二人の想う丈を知っていたのだから、二人が慌てるほど、そうそう周囲は気にしていなかったりもしたのだが。
それでも、その度真っ赤になって反論するあかねと、
珍しく饒舌になって言い募る頼久の姿がおかしくて、
飽きる事もなくからかわれていたのだった。
そしてそんなある日のこと、
「…そのうち皆も飽きますよ、神子殿」
何やら達観したように述べる頼久に、あかねはふぅとため息を付く。
「っても、一体いつになったらおさまるんだろう…」
あかねの呟きに、頼久ただ黙って俯いているだけだった。
「大体、事実無根だってのに、噂が先行してるっていう状況がいやなんです…。 しかも、皆分かっててやってるし…」
ぶつぶつと呟きながら、あかねはふと手を鳴らし、やおら顔を上げる。
「そうだ」
呟いたその声に頼久も顔を上げると、その瞬間ぐいとあかねに腕を捕まれる。
そのままはずみで近づいた顔に、頼久は思わず顔を染めた。
「いっそのこと、事実にしちゃいましょうか?」
「………な……」
にっこりと笑いながら耳元で囁くあかねに、頼久は思わず慌てて身を離す。
「あはは、冗談ですってば!」
罪もなく笑うあかねに、頼久はそのまま言葉を失った。
「それは、これから先のお楽しみですよね♪」
「え……?」
にこにこ笑いながらさらりと言ってのけるあかねに、頼久は思わず間抜けな声を洩らす。
そんな様子に、あかねはますますクスクスと笑い出し、
頼久はバツが悪そうに俯いていた。
どうやら自分をからかって楽しんでいる人物はもうひとり居たようで、頼久は思わずため息を付いていた。
そして、ふと顔を上げると、
そこには変わらぬ笑みの彼女の姿。
まぁ、彼女が元気あれば、それで良いかな、と頼久は再び低く息を吐いていた。
「どうしたんですか、頼久さん」
ふと、先ほどからの俯いたままの頼久に、少し心配げにあかねは覗きこんできた。
「いえ……、それより、そろそろ屋敷に戻りませんと…」
言いながら顔を上げる頼久を、あかねはぼけっと見つめている。
その眼差しが妙に愛らしく、頼久は思わず微笑を浮かべる。
そしてふと、そのまま真っ直ぐとあかねを見据え、
「…これから先の、楽しみ、ですか」
わざとにっこりと呟くと、あかねは予想外の反撃に思わず顔を真っ赤にした。
「…冗談です」
クスクスと言う頼久に、あかねは顔を染め上げたまま、小さな声で、バカと呟いていた。
…と、いうわけで、……なんともラストはバカップル丸出しの二人でしたが(←書いてる最中ちょっと我に返ってしまったらしいです)
とりあえず、なんとも典型少女漫画的シュチュエーションの、天然小悪魔な神子ちゃん×頼久、ということで。
なんだかひたすらノリだけで妙に短時間で仕上げてしまいました。
しかし、タイトルセンスの無い自分が恨めしい(汗)
頼久の寝室に忍び込むあかね、というシュチュエーションは、某ビジュアルブック、八葉全書にて、八葉の住居の位置図を見て、ふと浮かんだことだったりします。
頼久って棟梁の息子だったのか〜、とか、天真は武士溜まりに転がり込んでいるのか、とか思って、ふと浮かんだネタでありました。
まぁ、居住環境はただの想像ですが(笑)
とりあえず、書いてて一番楽しかったのは、天真が二人を目撃後、よたよたしながら立ち去るところだったり(爆) …あ、ちなみに、この話は三角も四角もなく、ただ単に頼久×あかねな世界ですので、別に天真に他意はありません(笑)
短編は、ノリだけの世界で結構楽しいですね(笑)
…しかし、そろそろ長編も復帰したい今日この頃。(汗)
それでは、拙い話ですが、ここまで読んでくださってありがとうございました。