憑
「…あ、待って下さい、頼久さん、泰明さん!」
慣れない山道に足を取られながら、あかねは懸命に叫ぶ。
手を差し伸べれば、いつでも届く場所に控えている頼久は、そんな彼女に静かに微笑んだ。
いつものように、怨霊退治を終え、帰路につく途中。
そんな、当たり前の風景から、全ては始まった。
「龍神の神子」
無機質に響き渡った声は、見知ったものだった。
反射的に、頼久はあかねの前に立ちはだかる。
「…何用だ、鬼よ」
淡々とした口調を投げかける泰明の声の後、茂みの向こうから静かに、ランは顔を出した。
見なれぬ呪具のようなものを持った手に、思わず泰明はいぶかしげな瞳を向ける。
泰明の意識が一瞬それたその瞬間的に、
ランは動いた。
「神子殿!」
頼久の声が木霊する。
泰明は、歯噛みをしながら振り返った。
にやり、と微笑を見せたランの表情が一瞬覗き、
あたりには、静寂が満ちた。
「神子殿! …神子殿!」
咳を切ったように、頼久の叫びが響き渡る。
頼久の腕の中、あかねはぐったりとうなだれていた。
「おかしい…」
瞳を閉じたままのあかねを見つめ、泰明はぽつりと呟いた。
「…神子から、神気が感じられない…。 このようなことは初めてだ…」
「神子殿の御様態は!?」
屋敷内に、頼久の声が響く。
「…それが、…良くわからないのです。 何もお身体に異常は見られず…」
困惑する藤姫に、頼久は大きなため息を漏らす。
「…一体、蘭は何をしたんだ…」
「…天真先輩…落ち着いてよ…」
同じ屋敷に住む、天真と詩紋の二人は、いち早く掛け付け、心配そうに佇んでいた。
静かに眠りつくままのあかねを、泰明はちらりと伺う。
その、瞬間だった。
何かが、光った気がした。
そう感じた刹那。
「うわっ!?」
「…な、なに!?」
「…くっ…」
「きゃぁ!?」
天真、詩紋、泰明、そして藤姫の順に、
四つの声が同時に響いた。
一瞬後、
「神子…殿…?」
頼久の呟きに、一同は瞳を開けた。
始めに目に付いたのは、ゆっくりと身を起こす、あかねの姿。
そして、見開かれた、その瞳。
見たこともないような不敵な笑みを浮かべた彼女は、静かに口の端をゆがめた。
「…ほぅ、我が気を受けながら、まだそのような距離にいられるとは…、さすがは、八葉といったところか」
紡がれた言葉は、まるで知らない口調で、しかし、良く見知った声で発せられた。
淡い桃色の髪を、無造作に掻き上げ、あかねは静かに微笑をたたえる。
「お前は誰だ?」
泰明のその一言で、あたりに流れる時間が蘇った。
「あかね…どうしたんだ?」
「あかね…ちゃん?」
次々に、言葉が発せられる。
後ろのほうで苦しそうに身を起こす藤姫に、詩紋は静かに手を添えていた。
「…それは、神子ではない」
泰明は冷ややかに述べた。
「……ほぅ、さすがは陰陽師…」
不敵な眼差しを浮かべながら、あかねは言った。
「…なるほど、先ほどの鬼の仕業、というわけか…」
泰明は、静かに言った。
そして、そのままあかねの方へ進むと、
「……くっ…」
途中、光る何かに阻まれ、泰明は思わず苦痛の声を漏らした。
「泰明殿!」
あかねの隣りに控えていた頼久が、驚き、泰明に近づこうとすると、
頼久もまた、同じ場所で何かに阻まれる。
「…結界か…」
泰明はぽつりと呟いた。
「お前のように、術を使える者もいるとのことだからな。 用心に越したことは無い」
あかねは今だ微笑をたたえたまま言った。
「なぁ、何がどうなってるんだ、…あかねはどうしたんだよ?」
天真が、痺れを切らしたように泰明に問い掛けた。
「…見て分からぬか、…何物かに憑かれている」
「憑く…って…まさか…」
「おそらく、…さきほどの鬼の仕業」
泰明は、歯噛みをしながら呟いた。
「…ご明察のとうりだ…。 我がこな娘に取り憑き、娘の心の全てを食らい尽くせば、我が望みは叶う」
静かに語るあかねを、信じられないような目で、天真は見つめる。
「…ご丁寧に、解説付きかよ…」
舌打ちしながら、天真は呟いた。
「…なるほど、そういうことか…。 貴様、怨霊の類いだな。 …鬼に飼われてまで、何を望む」
「貴様の知るところでは無い」
淡々と問う泰明に、冷たい視線を向け、あかねは言い放つ。
「…しかし…、さすがは神子…。 この守りの力の強さ…一筋縄ではいかぬか…」
ぽつりと呟き、そしてまた微笑をたたえる。
「まぁ、良い、時間はたっぷりあるのだから…」
言いながら、あかねは不敵に顔を歪ませた。
「頼久」
泰明にふいに呼ばれ、呆然としていた頼久は、はっとそちらを向いた。
良く見ると、淡い光が、まるで泡のような半円をかたどり、自ら、いや、神子の周りを覆っている。
そして、頼久だけが、その光の内に居た。
おそらく、あかねに憑いた何者かが張った結界。 そしてその中で尚、常気のまま佇む頼久を、泰明は静かに見つめた。
「…今、あれに触れられるのはお前だけ、…良く聞け、頼久…あれは…」
「黙れっ!」
何かを告げようとしていた泰明が、あかねの一喝により光の向こうで、轟音と共に、何かに吹き飛ばされる。
周りに居た天真たちもまた、巻き込まれ、苦痛に顔を歪めている。
その後、もどかしそうにこちらを睨むあかねの表情を見て、頼久は悟っていた。
…おそらく、この結界、外側のみにしか力を発っせないものらしい。
となれば、自分はこの上なく優位な位置にあるということ。
頼久は静かにあかねに向き直った。
「…なるほど、…取り憑く瞬間、娘をかばった男か…。 あの時、何かの作用を受けたのか…面倒な…」
結界の中で対峙する頼久を見つめ、あかねは舌を鳴らした。 そしてすぐ、顔を歪め、
「……しかし、我は運が良いな」
笑みさえ浮かべながら言うあかねを、頼久はいぶかしげに見つめた。
「先程の陰陽師ならともかく、…お主のような輩に何ができよう?」
あかねの言葉に、頼久ははっとなる。
「術も使えぬお前に、我は祓えぬ。 それとも、我を打つため、こな娘の身体に刃を向けるか?」
あかねは、不敵な嘲笑を、頼久に向けた。
頼久は、思わず顔を歪ませる。
なんということだろう。
こんなに、手を伸ばせばいつでも届くところに居るというのに、何一つ成す術が無い。
心から守りたいと、そう思ったこの少女を、
何よりも愛しい存在を前に、
自分には、何もすることができない。
時間は、非情なまでに流れすぎて行った。
あたりには夕闇が落ち、
成す術の無い頼久は、今だそこに佇み硬直している。
先程まで、瞳を閉じ、何らかの呪を唱えていたあかねは、そんな頼久をちらりと伺い、そして口の端を歪めた。
「気にかかるか? こな娘の様態が」
あざ笑うように、あかねは問いてきた。
「安心せい…と言うのもおかしな話か…。 しかし、さすが龍神に守られし神子…、我の力ではそう容易く食いつぶすことは出来ぬ」
笑みさえもらしながらのその言葉に、頼久はまじまじとあかねを見つめる。
…ということは、あかねは…、いやあかねの心は無事だということなのだろうか?
一心に耳を傾けるその表情に、あかねは思わず大笑いをした。
「…分かりやすい男よの…、神子の無事が嬉しいか? …しかし、それも時間の問題。 いかな神子とて、いつまで我の憑依の内で、己を保っていられるか…」
笑いながら言うあかねに、頼久は唇を噛む。
…つまり、この者がその身に憑き続けることが、あかねを衰弱させていくこと、となるらしい。
一体、その身の内で何が起こっているのか、それを知る術は無い。
もしかしたら、今こうしている間にも、
目の前に居る少女の心は、刻一刻と危機にさらされているのかもしれない。
まんじりとした表情の頼久を見て、あかねはふと頬杖をつき、ほぉ…と小さなため息と共に口の端を歪ませた。
そして、唐突に、その身を起こし。
突然身を起こしたあかねに、頼久は驚き振り向く。
その瞬間。
「………っ…」
声にならぬ、頼久の小さな呻き。
同時に、目前に迫り、はらりとゆれる桃色の髪が瞼に当たり、頼久は顔をしかめる。
唐突に合わされた唇からは、暖かな感触が伝わってきた。
あかねは、にやりとしながら、すぐに唇を離し、頼久を見上げ、口を歪める。
「…ほんに、正直な男よ…」
嘲笑を浮かべたあかねに、真っ直ぐと見据えられ、頼久は我に返った。
「忠誠を誓った相手に、懸想するか…、難儀なものだな…」
「……な……」
頼久は、思わず呟く。
今まで、誰一人として、
…その本人にさえも、明かした事の無い、想いが、胸によぎる。
「…その様子では、何一つ想いの丈を表に出してはおらぬか…、…ますます難儀な…」
頼久の表情を見て、あかねはせせら笑った。
そんなあかねの前で、頼久は思わず口元を手で抑える。
「…どうした? 嬉しくはないのか?」
俯いたまま押し黙る頼久に、あかねはさらに嘲笑を浮かべていた。
ニヤニヤというあかねに、頼久は静かに瞳を向ける。
完璧に、遊ばれている。
瞳に映る姿は、確かに彼女のものなのに、…それはあまりに異質な表情。
人をさげすみ、弄ぶことを喜びとする、なんとも卑しい眼差し…。
あかねの顔から、そんな表情が見えること自体、頼久には絶えがたいことだった。
「…なんだ? その怒りに満ちた顔は…?」
「……黙れ…」
尚も笑みを浮かべながらこちらに話し掛けてくるあかねに、頼久は思わず、一喝し
「…それ以上、神子殿を侮辱することは許さぬ…」
低い声で言いながら、決して向けることの出来ぬ太刀に手をかけ、そのまま黙した。
そんな頼久を見て、あかねは、一瞬戸惑いを見せ、
そしてまた、口の端で微笑みを増していた。
屋敷内の離れの一室。
泰明、天真、詩紋の3人は、難しい顔をしながら対峙していた。
先程の攻撃により、奥の部屋で伏している藤姫が、心なし気にかかる。
あかね…いや、あかねにとり憑いた何者かによって攻撃受けてから、すでに半日近い時が経過していた。
唯一、今ここにいる八葉である3人は、ただ部屋に佇み続けていた。
危機に直面しているあかねを前に、何も出来ない。
それが、これほどまでにはがゆいものだったとは。
…頼みの綱は、
何故かは知らないが、結界の中にいることのできる、頼久の存在。
…しかし、そちらにも、あまり期待出来ないのが、現状だった。
泰明や永泉といった、何かしらの術を持った人間ならともかく、…剣技を生業とする頼久に、今のあかねをどうこうできるとは思えない。
ただ、まんじりとした空気が漂う時が、流れていた。
その時。
「…どうした、泰明?」
突然、すくっと立ち上がった泰明に、天真は思わず尋ねた。
「…大体のことは分かった」
天真の顔すら見ず、泰明は淡々と言い放った。
「分かったって…何が?」
思わず詩紋も問いかける。
「神子に憑いた者のことだ」
何気なく言い放つ泰明に、二人は顔を見合わせる。
「今しがたまで、気を探り続けた…。 おそらくあやつ、大した者ではない…」
なにやら飲み込めぬ顔をした二人を差し置いて、泰明は薄く微笑み、すたすたを部屋の出口へ向かった。
そして、ふと立ち止まり。
「お前達、暇なら手伝え。 これから少々、術を使う」
振り向きもせず言う泰明を見て、ふたりは頷き合い、そして立ち上がった。
…とりあえず、現状で一番頼りになりそうな存在は、泰明一人のようだった。