それは、花がこの世界で丞相夫人と呼ばれることに、やっと慣れてきた頃のこと。
「え? いつからって、ずっとだよ、あの川で見つけた時から」
「…なんか、釈然としない…」
孟徳の笑顔の応答に、花はむすっと顔を俯かせた。
孟徳さんは、いつも好きだと言ってくれていたけど、一体いつからなんだろう。
そんな何気ない疑問から、花はある日ふと問いかけたのだが、
孟徳からの返事は、なんとも孟徳らしいものだった。
「そういう君は? いつから俺の事好きになってくれてた?」
ちゃっかり逆の問いかけをしてくる孟徳に、花は憮然と顔を背ける。
「少なくとも、会ったその時なんてことないです」
その応えに、少しだけがっかりしつつ、孟徳は何かを納得したように肩を落とした。
「俺の場合さ、好きってのは、いくつか種類があるんだ」
「種類?」
唐突に孟徳に顔を覗き込まれ、花は目をぱちくりさせる。
不意打ちとはいえ、やっと目を合わせられたことで、孟徳は笑顔をみせた。
そして、意気揚々と人指し指を上げつつ説明を始める。
「うん。 だから、会った時の好きは、そうだなー、
もっとこの子を知りたいなっていうくらいの、好き、かな」
もっと話がしたい、そういえば初対面の頃言われた覚えがある、と花は考えを巡らせた。
素直に話を聞いている姿に、孟徳は満足そうに微笑んだ。
「それで…、多分ね、
あの襄陽の市場で、…手を引かれた時…」
言いながら、孟徳は花をにっこり見つめる。
「この子を、手元に置きたいな、ってくらい、好きになった」
思わず花は頬を染めて目を反らした。
その変わらぬ照れ方に、孟徳は益々機嫌を良くする。
そんな姿に少しだけ釈然としないものを感じて、花は口を開いた。
「私が孟徳さんを、その、意識し始めたのは、やっぱりあの、過去で色々あってからくらいで…」
「うん、分かってるよ」
言い返したはずなのに、にっこり応えられて益々花は萎縮する。
「だから、過去から戻って、俺の好きも変わってたよ」
「え?」
孟徳がふと真剣な眼差しを向けたので、花は思わず顔を上げた。
「君をずっと側に置きたいと思った」
真っ直ぐな眼差しを向けられると、思わず照れて反らしてしまう。
ずっとを約束した後でも、やはりこれだけは慣れられそうにない。
でも、それさえ孟徳は嬉しそうだった。
そこでふと、花は疑問に思った。
「じゃあ、そこで好きの種類の変化はお終いですね」
「え?」
「…? 違うんですか?」
花の真っ直ぐな眼差しに、孟徳は少しだけしまったと思った。
でも、嘘は付けない。
付かないと、決めているから。
「うん、…違う」
言いながら、孟徳は花の頭を優しく撫でた。
彼女の国との、決定的な相違点がそこにある。
その時点での『好き』は、…その時側に置いていた姫と、同列の『好き』
「俺の場合、ずっと側に置くっていう好きは、まだお終いじゃない」
孟徳の言葉に、花は少しだけ寂しげな瞳を見せた。
丞相、この権力の持つ人間の立場というものは、どういうものなのか。
もう、それなりに花にだって分かっていた。
「君を、絶対に揺ぎ無いものとして側に置きたいと思ったのは、
…あの夜、君が矢を受けたとき」
孟徳が言いながら、ふっと肩を引き寄せてきたので、花はだまってそのまま抱き寄せられた。
あの夜の話をする時はいつもこうだった、孟徳は今でも、少しだけ動揺を見せる。
「君が目を覚まさない夢を、今でもたまに見る」
抱き寄せながら、孟徳は呟いた。
「大丈夫ですよ、私、ここに居ます」
「…そうだね」
花の応えに、孟徳は声を震わせて言う。
そんな姿を見ながら、花は少しだけ思った。
では、どうだったのだろう、と。
あの時、あの暗殺者から、身を挺して彼をかばった。
それがなかった場合の未来。
自分と孟徳との、今の形は、もしかしたら無かったのかもしれない。
『ずっと側に置くくらいは、好き』
そこで、もし、止まっていたら。
考えを進めて、花は静かに首を振った。
もしもなんて、考えても仕方の無いことだ。
それに、あの暗殺のことを知る前とでは、
花の方の『好き』だって、多分違っていた。
孟徳の『好き』ほどは軽くないけれど、
花の『好き』だって、生まれてからそれなりに、変化していた気がするのだ。
だから、もし、その未来があったとしても、
『ずっと側に置くくらい好き』と、丁度良く見合ったくらいの、『好き』とで、
孟徳と花は、それでもお互いに満足のいく関係になれたのかもしれない。
そう考えると、花は少しだけ不思議な気分だった。
だって、それでは、
どう転んでも自分は結局、孟徳の隣にいそうな気がしてしまうから。
「…私、孟徳さんのこと、好きですよ」
「…嬉しいな、俺も君が好きだよ」
いつかと同じセリフを言うと、すかさず同じセリフで応えられ、思わず二人揃って吹いてしまった。
でも、口調は全然違っていた。
あの時の『好き』と、今の『好き』
その違いくらいは、もう花にだって分かっていた。