「え? どうしてあんなに君にちょっかい出してたかって?」
ある日、溜まりに溜まった書類を二人で大掃除しながら、花はふと孔明に尋ねた。
それはずっとあった疑問だった。
この世界に残りたい。
そう決めたのは、孔明と一緒にいたいから。
でもそれを一番拒んだのは孔明だった。
残ってからも、こうしてずっと一緒に過ごして、
疑う気持ちなんて別にないのだけれど、
でも、たまに気にかかってしまう。
「そんなに元の世界に帰したかったなら、私に好かれないように、
あんなにちょっかいかけてこなければ良かったはずですよね」
ぽろっと言う花に、孔明は一瞬固まり、やれやれと肩を落とす。
「ま、君のそういう辛辣なところ、…ボクは結構好きなんだけどさぁ…」
ぽりぽり額を掻きながら、孔明はぽつりと呟いた。
何気なく入っていた『好き』と言う単語に、花はなんとはなしにドキリとして顔を染める。
その顔を見て、孔明は軽く笑みを浮かべていた。
「…始まりは、ちょっとした復讐だったんだよ」
束なっている書に手をかけ、孔明は言った。
「復讐?」
「まぁね、…簡単に言うとさ、…君に、ボクを好きになって欲しいと思ったんだ」
ふと真剣な目をして、花をまっすぐ見つめる。
「…ボクはさ、ずっと君だけを待っていたんだよ、分かるこの意味」
「…なんとなく」
「うそうそ、分かってないって」
応えた花に間髪入れず言うと、孔明はまた視線を書物に戻した。
花はむすっとして孔明を見つめた。
「十年。 …十年だよ。 …それだけの時を、君は一人の人間を待ち続けたこと、ないでしょ」
ぽつり、ぽつりと、こちらに視線すら向けず、書物を整理する手も止めずに、孔明は言った。
その横顔は、なんだかとても悲しいものにも見えた。
「そして十年経って現れた君は、ボクの事なんか何もしらない風で、…真っ先に言ったんだよ、帰りたいって」
言い終わると、孔明は手を止めて花をちらりと見た。
真っ直ぐ見つめられた瞳を、花は思わず反らしてしまった。
「まぁ、それでもいいと思っていたんだ、それが君が望むことなら、叶えたいと思った」
孔明は少しだけ寂しげに呟いた。
そして大きなため息ひとつ。
「けどね、ふと思っちゃったんだよ、…君にボクと同じ思いを味あわせたい、なんて」
向けられた眼差しは、やはり寂しかった。
「魔が差したっていうのかな…」
孔明は少し低い声で呟いていた。
「同じって…」
「君が消えたあとの、ボクと、同じ思いだよ」
花の短い反復に、孔明は間髪入れずに応えた。
花はふと、思いを巡らせる。
自分が消えたあと、
あの、過去の世界で、
あの時の『亮くん』は、
一体、どんな思いを味わったのか。
『亮くん』と『孔明』
この間を、花は全く知らない。
一瞬だけ元の世界に戻りかけたあの時、味わった喪失感。
あれが、その気持ちだというのなら、
『亮くん』はどんな思いで十年を過ごしたのか。
どんな風に心に折り合いを付けて、今の孔明になったのか。
考えると、花はいたたまれない気持ちになった。
「わたしは、師匠を追ってここに残る術があった、でも、もしなかったら…」
花は思わず呟いていた。
孔明はそんな花の表情に、少しだけしまったと思う。
そんな顔をさせたかったわけではないはずなのに。
でも、そういうことだ。
自分のした『復讐』は、多分今達成されてしまったのだと、孔明は悟った。
そして、ふっと孔明は花を抱き寄せる。
「もう、いいんだ」
孔明は花の表情に落ちた影を断ち切るように言った。
「ボクはボクで、君は君なんだ。 事情も人格も違う。
だから、君はそんなこと、考える必要なんて無い」
きつく抱きしめる孔明の態度で、花は少しだけ分かった。
孔明は、酷く後悔しているのだ。
『復讐』と言うけど、
多分そこまで大層なものなんかんじゃなく、
きっと、始まりは孔明のちょっとした、ワガママだったのだろう。
なのにいつのまにか、想像以上に花の心に入り込んでしまった自分に、
一番動揺したのは、当の孔明だったはずだ。
だからこそ、あそこまで強引な手段に出てしまったのだろう。
「まったく、何してたんだろうね、ボクは」
孔明は花を抱きしめたまま自嘲的に呟く。
「…君の望みを叶えたかったのに」
孔明の声は、少しだけ震えていた。
「――君は、帰りたいと言ったのに」
「十年間、ずっと、君の望みを叶えることが、…ボクの夢だったんだ。
それを出来る、地位も力も、ボクは持っていたのにね」
孔明は、力なく呟いていた。
花は、ふっと孔明の背に包むように手をやった。
孔明は思わずはっとなって抱きとめる手の力を抜く。
気付くと、花は孔明の胸に顔を当てるようにもたれていた。
「ここに残ったことは、後悔してないって言ったら、嘘になります。
だって本当に、帰りたかったから」
花の言葉に、孔明は固唾をのむ。
「でも、同じくらい、師匠と離れたくもなかった。
だから、ここに残ったのだって、…わたしの、望みなんですよ」
いつのまにか、花と孔明は見つめ合っていた。
「やれやれ」
孔明はふいに呟く。
やっぱり彼女には、適いそうにない。
こんなにも矛盾に満ちた自分を、こんなにも容易く一言で救い上げてくれる。
…もしかしたら、結局一番徳をしてしまったのは、自分なのかもしれない。
そう思うと、やはり少しだけ居たたまれない思いが疼く。
孔明はふっと肩を落とした。
「…やっぱり復讐なんて、してもロクなことがないね」
くしゃりと再び花の頭を撫でる。
「これじゃあまるで、全部ボクのせいみたいだ」
ため息交じりの孔明に、花はクスリと微笑む。
「…そうかもしれないですね」
花の言葉に、孔明はさらに肩をすくませていた。
そして、ふと
「ってことは、もし、ちょっかいとかがなかったら、
君はボクを、なんとも思ってなかったってこと?」
気になって聞くと、花は少しだけ考える。
そして、
「多分今頃、元の世界に帰っていたとは思います」
あっけらかんと言う姿に、孔明は思わず言葉を失う。
…彼女のそういう辛辣なところは、…本当に好きだから困る。
「ま、責任は取るよ、これから、時間だけはたっぷりあるんだし」
孔明の言葉に、花は満面の笑みを浮かべていた。