家康という男は、人に触れることをひとつの親愛の表現としているように見えた。
肩や腰を抱いてくる、頭をなでられる。そんなことは日常茶飯事だ。

もちろん自分だけでなく、誰彼と肩を組んで語り合ってるのも良く見る。
頭をなでるのも良く見かけた。
そこまではいい。



人目のないようなところで、この男はよく三成に口づけをした。
頬や瞼に、額に、時に唇に、かすめるだけの口づけを。
はっきりとは覚えていないが、随分幼い頃からこのような行為を受けていた気がする。
そして三成はそれが決して嫌いではなかった。

なので当たり前のように感じて受けていたこの行為にある疑問を感じた時、
何やら無性に胸がざわめいた。
いわく「この男は誰にでもこのような口づけをしているのだろうか?」という疑問である。
この行為が親愛の情の発露の、延長上であるのなら。
三成に触れる時にも人目を避けているのだから、見えないところで、もしかしたら、と。
そう思うと腹の底で何かが煮え立つような心地がして、その感覚を押さえつけるように目を閉じる。
他人に心を乱されるのは嫌いだ。
ならば「他人」を遠ざけてしまえばいい、という極端な答えに至った。

そう考えてから三成は彼を徹底的に避けた。彼だけでなく人を避けた。
考える時間をなくすために空いた時間は全て己の鍛錬につぎ込む。鍛錬する場所も毎日変えた。
夜は自室に戻らず城の書架を転々とし、睡眠時間を削って指南書や戦術書に没頭した。
眠る時は気を失うようにして眠り、夢も見ない日が続いた。

そんなある日、三成は半兵衛に呼び出されて笑顔で「数日の休暇」を言い渡された。
「君は自己管理を学ぶ必要がある。今の君では秀吉の力になれないよ」
敬愛する上司の言葉に否やはないが、有無を言わさぬその笑顔はとても怖かったのを覚えている。

城下の自宅に戻っても厭世気分は晴れず、大量の書物に囲まれて朝までをすごした。
家の者が心配して食事を持ってくるのもわずらわしくなり、全て遠ざけて離れに籠もる。

三日目の夜に来客があった。よりにもよって家康である。
家人が連絡したのかとうんざりしたが、半兵衛の命と聞いては追い返すわけにもいかず、
仕方なく書に埋もれた部屋にあげると、手には何故か粥を持っていた。
ここしばらく、まともに食事を摂らなかった身体にはこれがいいと家人が持たせたという。
「自己管理」を理由に休暇を言い渡された以上、食べないわけにはいかなかった。

家康の見ている前で居心地悪く粥を胃に収めて見せ、帰れと促したが彼は頑として聞かない。
勝手にしろと言い放って読みさしの書を開く。最初は気が散って仕方なかったものの、
書を読むのは好きなので次第に没頭していき、いつしか彼の存在を忘れて読み耽った。



すっかり書に夢中になっていた三成は、家康が腰を上げた気配で我に返った。
いつの間にか、息をするのも憚られるような閑とした夜更けである。
眠っていなかったのかとそちらを見れば、膝立ちで近づいてくる彼と目があった。
いつもの優しい眼差しのように見えた。三成はそれが好きだった。
のびてきた家康の手が頭を撫で、頬を撫でる。その心地よさに目を細める。
「他人」を遠ざけた理由をすっかり忘れて頬に触れてくる唇を素直に受けた。
何度も唇が頬をかすめながら降りて来て、唇に重なった時に忘れかけていた感情が一気にざわめいた。

思い出した激情のままに目の前の身体をはねのけ、呆気に取られた家康の表情を見て
しまったと思った時には遅かった。逃げないようにと両手を掴んで引き寄せられる。
「やはりワシを避けていたのか?」
この男は妙なところで聡い。間近で目を覗き込まれて問われては言葉の上でも逃げようがない。
三成が自らの感情を表す言葉を探して逡巡していると、家康は目を逸らした。彼にしては珍しく。
「ワシが嫌いになったか?」
「違う!黙れ!!」
彼らしからぬ弱気な声に、即座に否定の言葉が出た。
だが続きが出て来ない。必死に自分の感情を手繰り寄せて言葉を探す。
「貴様は……」
掴まれた手を握り返して、情けなくも自分が震えているのに気がついた。
この震えはなんだ。自分はこの男に嫌われるのが怖いのか。この男が自分の傍から去るのが辛い。
この男が自分以外を選ぶのを、目の前で見るのが何より嫌だ。
だからその前に自ら遠ざけたのに、この男を目の前にするとその恐怖ゆえに縋りたくなる。
しかしそれを口には出せなかった。言葉を探して、あの時に浮かんだ疑問がするりと口をついた。
「貴様は、誰とでもこんなことをするのか……?」
それを聞いて、家康がきょとんとしたので、言葉を間違ったかと焦りを覚える。
いつかこんなやりとりをしたことがあるような気がして目眩に似たものを感じた。
「こんなことというのは」
美しい琥珀色の瞳が間近に迫る。口元に吐息を感じて、それにすら既知感を覚える。
だがそれは、いつもの唇を軽く触れ合わせるような口づけではなかった。
深く深く口づけられ、驚いて逃げるように身を捩るが強い力で押さえ込まれる。
舌を絡め取られ吸い上げられて、呼吸を求めて開いた口から、
くちゅ、と濡れた音がして、ぞくぞくと何かが背筋を走るのを三成は感じた。
「こういうことか?」
長い口づけから三成を解放して、荒い息の中でうっすら笑いながら家康は問うた。
「ワシが?誰にでもこんなことをすると?」
その言葉に三成はうつむいて、よわよわしく首を振った。
心臓が早鐘を打ち、家康の顔がまともに見られない。
これは違う。これは親愛の情の表現などではない。これは、この行為の意味は。
「ワシはな、三成」
家康の指先が頤にかかり、優しく顔を上げさせた。
琥珀の瞳が間近で輝く。その貌がやけに艶めかしく、そして不穏に微笑んだ。
「ずっとお前が欲しかった」
ぐらりと揺れた身体を、大きな温かい手に強く抱き寄せられる。
その言葉は恐ろしいほどに甘く、心に突き刺さった。





(2010.09.18)