人の往来の途絶えた深夜の廊下を、三成は明かりも持たずに足音を忍ばせて歩いていた。
今夜は雲が厚く足元は真っ暗だが足取りに迷いはない。ここは彼にとって通い慣れた道だった。

いっそここで誰かに見つかって足止めされないだろうか。
それとも帰って寝てしまおうか。
ここを通る時にはいつもそんな益体もないことを考えていた、と苦く思い返す。

だがそれも今日で終わり、だ。

目当ての家康の部屋の前まで来てから戸を叩くのを躊躇った。そんな自分に苦笑する。
躊躇している間に気がついたのか、扉の向こうに慣れた気配を感じて顔を上げると、
戸が細く開けられ中に招かれた。
誰にも見つからぬように周囲をうかがってからそっと部屋に滑り込む。
部屋は小さな灯火だけの薄暗い中に布団が敷かれ、何やら好い香りがした。

待ちかねたように手を引かれ、抱き寄せられるのを軽く制して向かい合うと、
家康が微かに首をかしげて覗き込んでくる。それをじっと見つめ返した。
忘れないように。目に焼き付ける。
綺麗な琥珀のいろ。
この真っ直ぐな瞳が好きだった。これからも多分、ずっと。
だからずっと真っ直ぐでいろ。そのために。わたしは。
「三成?」
密やかに三成の名を呼ぶ、この声音が好きで。問いかけるように頬に触れる指が好きだ。
もう一度、腕を引かれ抱き寄せられて、今度は逆らわずに身を任せて目を閉じた。
着物越しに体温を感じて、それだけで身体が熱くなる。

わたしはこの男が、家康が好きだ。





徳川が豊臣傘下に降って間もなくの頃。

三成はいつからか視線を感じるようになった。
まず好意的なものではなくどちらかというと冷ややかな。
それは家康と話している時に、家康の配下の者たちから向けられる視線だと容易く気がついた。
「貴様ら、何か言いたいことがあるのならはっきり言え!」
何故そんな視線を向けられるのか理解出来ず、苛立ちのままに怒鳴ったこともあった。
しかしいくらそう問うても彼らは黙って逃げていくばかり。
そんなことが何度か続いて、自然と徳川の軍に近づくのを避けるようになっていた。
豊臣に敵対する勢力から冷ややかな、あるいは怒り、憎しみを向けられることには慣れていたが、
同じ豊臣傘下、いわば「身内」の兵からそんな視線を向けられるのはかつてなかったことで。
しかし問いかけても逃げて行かれるのだからどうしようもなかった。
それでも豊臣の指示には従うのだから豊臣の兵だ、個人の好悪の情などどうでも良い。
三成はそう判断して、その件については忘れることにした。

次に気がついたのはひそやかで、しかしやけに熱っぽい視線だった。
こちらはやっかいなことに注意深く隠され、どこから向けられているのか長らく見当がつかなかった。
なるべく意識の外に追いやろうとしても追いかけてくる強い気配に痺れを切らし、
一般兵ではなく武将だろうとあたりをつけた。それならば心当たりは一人しかいない。

部下とともに打ち合いをしていた家康を探し当てると、三成は彼らしくその場で単刀直入に尋ねた。
「わたしに何か用でもあるのか、家康」
「用?」
家康はいつもの笑顔のまま、突然の質問に表情も変えず尋ね返す。
その周囲を守るように囲む部下たちの視線が三成に向けられ、ちくちくと刺さってわずらわしい。
「最近よく貴様の視線を感じるが、何か用があるのかと聞いている」
「用というか……」
否定しないということは予想は当たっていたようだ。
笑顔を崩さず、しかしどこか困ったように頭を掻く。
「ここでは言えないなぁ……」
「……」
「その……今夜にでも、ワシの部屋に来てくれんか?」
家康は笑顔を変えずに言った、が、周囲の空気はざわりと一変したのを三成は感じた。
(これは威嚇か、主君に関わるなという。貴様は気がついていないのか?)
向けられる密やかな敵意を、苛立ちも露わに問う。
「貴様の部下どもは反対のようだが」
「え?」
家康が周囲を見渡せば、潮が引くように視線が逸らされる。誰も何も言わない。
「……」
「……?」
「……今夜だな」
このままでは埒が明かない、部下たちのいるところでは話にならないと判断した三成は、話を終わらせようとした。
「あ、三成!」
「?」
「ありがとう、待っている!」
呼び止められ振り返れば、家康の喜びいっぱいの満面の笑顔と裏腹にきつくなる周囲の視線に、一瞬、刀に手がのびる。
わずらわしいことこの上ない。ここで全員を斬滅出来ればどんなに良いか。
だが、これは豊臣の兵。
「勝手にしろ」
家康にというよりは、周囲の兵たちに対して吐き捨てて背中を向ける。
早く立ち去ろうと足を速めた背に、あの妙に熱っぽい視線が向けられるのを感じて、三成はぞくりとした。





最初から皆わかっていたのだ。その恋情は狂おしい毒となってお互いの身と心を蝕むことを。
今ならわかる。わたしはこの男の手を取ってはいけなかった。
(家康君はいい子だ、きっと君も気に入ると思うよ)
自分と家康を引きあわせたときの、半兵衛の言葉。
三成は、その時の半兵衛の顔を、表情を、声音を思い出そうと何度も記憶を辿り、
そこから意図されるものを汲み取ろうと試みる。
半兵衛の言葉通りに三成は家康に惹かれた。家康も三成を好いた。
想いを捧げられ、求められるまま肌を重ねるようになり、いつしか気がついたのは家康の苦しそうな目だった。
際限なく求めてしまう恋情に、家康自身が折り合いをつけられず苦しんでいるのだと気がついた。
肌を重ねてからの彼の執着は強かった。想いを交わす前よりも強い視線を感じるようになった。
ちりちりと熱い視線に、三成の身の裡にも熱が渦巻く。何度も溺れた彼の熱。
だが、熱を交わす行為のはざまで家康がぽつりと落とした言葉が耳から離れない。
「焦がれてどうしようもない。ワシは狂うのかもしれぬ。」
何に、とは問わなかった。三成の中にも同じ焦燥があったからだ。

足りない。どれほど触れて貪ってのぼりつめても全然足りない、と思う。
毎晩会わなければ己が職務も手に付かないほどに溺れている。おそらく家康もそうだろう。
一体何故ここまで想い込んだのか。この想いは危険だった。
自分の中にこれほどまでの欲があることを、三成は初めて知った。
それが怖い。立場もわきまえず、己の中の優先順位を違えてしまいそうで、怖い。
主君の為だけに生きるはずの自分が、主君よりも他の者を優先してしまいそうな自分に恐れを抱いた。
おそらくこれは引き合わされた当初の意図とは違う。三成はどこかで道を間違えたのだ。
そう考えても、何が正しくて、どうすれば道を正せるのかわからなかった。
近寄るな、と威嚇してきた家康の家臣の視線を思い出し、
敬愛する主君よりも、家康の立場を心配している自分に気がついて自嘲の笑みがもれた。

だから解放しよう。
わたしからお前を。お前からわたしを。

そう決めた時、心にぽかりと穴が開くのを感じた。きっとその穴は二度と埋まらない。
出逢った頃の真っ直ぐな眼差しを思い出す。
綺麗な琥珀色の瞳。陰のない明るい笑顔、屈託のない笑い声。
それをお前に返そう。その身の破滅を招く前に。
今向けられる熱い視線も溺れるほどに好きだが――それを考えるのはやめた。





だから最後と身勝手に決めた夜に、目に焼き付ける。
綺麗な琥珀色の真っ直ぐな瞳が好きだった。
この瞳がもう自分をうつすことがなくなっても、これからも多分、ずっと。

空が白み始めているのに気がついて、三成は身を起こした。
腰に手が回されて振り返ると、引き寄せられて口づけられる。
家康の目の下にはうっすらと隈が出来ていて、思わず指でなぞっていた。
二人ともここ数日まともに寝ていない。
いくら若くても、一睡もせずに幾夜も過ごせばさすがに身体に響く。
また家康配下の者たちから刺々しい視線を向けられるだろうと思うと自然に溜息がでた。
「どうした?」
優しく頬に触れ、辿る手にたまらなくいとおしさを感じる。
こんな感情は初めてだった。
主君のための先鋒となり敵を屠ることに喜びを見出していた自分が、今はこんな甘やかさの中にいる。
迷うことも悩むこともなかった。何も疑わず主命に従うことだけが喜びだった。
だが今は。
「家康」
笑顔など向けたことはなかった。だが今はお前のことを想うだけでわたしは笑いかけることが出来る。
見たことのなかった三成の柔らかい笑顔に、家康は一瞬呆け、次いで嬉しそうに笑った。
この笑顔が本当に好きだった、と三成は強く思う。

わたしの生涯で最初で最後の「嘘」を、お前に贈ろう。

これで終わり。わたしとお前の道はもう決して交わらぬ。
お前はわたしを憎むだろうか。わたしはお前を手放したことをきっと繰り返し悔やむだろう。

「聞け。わたしはもうここへは来ない。」
「―――」
「わたしは貴様が嫌いだ。二度と……関わるな。」

予想とは違い、家康は笑顔を崩さなかった。ただ微かに頷いた。
しばしの間、見つめ合う。いつもは熱情を湛え、苦しそうに愛おしそうに見つめてきた眼差しが、
今は何を考えているかよくわからなかった。心を見通されるような息苦しさを感じてたまらず視線を逸らす。
このまま部屋を出ていこう、と思うのに身体が動かない。
家康が起き上がり、頬に軽く口づけてくるのを黙って受けた。
脱ぎ捨てた着物を肩にかけられ帯を渡されたので、のろのろと身づくろいをする。
顔が見たい、でも見たくない、見るのが怖い。
己から言い出した別れなのに女々しく惑っている自分を腹立たしく思いながら立ち上がる。
顔をあわせることなく部屋を出る前に、背中に声をかけられた。

「三成が本当にそう望むなら、そうしよう。」

低い声音に身体が震えた。
家康はわかっている、三成が終わりを切り出したわけを。
この言葉が「嘘」だということを。
「……わたしのすべては秀吉様のために有る。他のものために割くわけには、いかない。」
それは三成の真理のはずだった。生きる理由のはずだった。
なのに今、言葉になったそれはまるで言い訳のように上滑りして、実感を伴わなかった。
背中に熱っぽいあの視線を感じて、身体の震えが止まらない。
それでも、狂おしいまでの熱にうかされ眠れない夜はこれで終わる。
例え、違う想いに身を焦がし、眠れない夜が来ようとも。

三成は振りかえらずに、震えをおさえて後ろ手にそっと戸を閉めた。

家康の目に恋着の炎がいっそう昏く燃え盛るのを、三成が見ることはついになかった。





(2010.09.22)