家康が槍を手放した直後くらい。
恋愛未満の淡い想い。








稽古の相手を頼みこんだものの、対峙出来ていたのは一瞬だった。
槍を捨ててからまだ日が浅いせいか、間合いが全く取れない自分が不甲斐なくて悔しい。
強くなりたいと気ばかりが急いて空回りしているのがわかっても、状況は好転するはずもなく。
繰り出した拳をあっさりといなされ、足をかけられ盛大に転ぶ。

くるりと回る視界の端に、己の背負う葵の紋。
強くなりたい、と切に願う。





ここには自分を、竹千代、と呼ぶ部下たちはいない。
彼らは自分に優しすぎて甘えてしまう。
そう思って家康は、豊臣の武将に手合わせを頼みこんだ。

拳が軽い、身体を作るのが先だ、と稽古を受けてくれた男は、家康を短く評した。
それに軽く頭を下げて、去っていく背中を見ながら溜息をひとつ。

豊臣は強い。兵も武将も。特にその君主の強さはよく知っている。徳川はそれに負けたのだから。
あの強さは何だろう。どうしたら強くなれるのだろう。

(早く大人になりたい。強くなりたい。)

そうしたらきっと、この手でも守れるものが出来るに違いない。
忠勝に頼って、守れなくて悔し泣きするようなことも、きっと少なくなる。
そう思いながら自分の手のひらを見ると、盛大に擦り傷が出来ていた。

(さっき転んだ時に手をついたっけ。)

今更ながらに傷が痛んで、不甲斐なさとともに手をぎゅっと握りしめる。

と、突然、襟首を掴まれて引っ張られた。
たたらを踏んで振り返れば、自分と同じくらいの背丈の少年の背中。

「み、三成?」

名を呼んでも相手は振り返らず、ぐいぐいと自分を引っ張っていく。
そのまま連れて行かれたのは井戸だった。
水を汲み上げるのを黙って眺めていると、手を掴まれて桶の中に突っ込まれた。

「冷たっ、一体何を……」

細い指だ、などと場違いなことを考えて赤面しているうちに、
水の中で傷をすすがれて、痛みに涙を滲ませた。

「痛ぇよ三成、自分でやるから」
「……強く握るから砂が入ったのだ、馬鹿め。」

その細い指先が自分の手のひらをさぐるのが恥ずかしくて、
手を引こうとするが三成は放してくれない。

不器用な気の使い方だ、と家康は思う。
乱暴に引きずってきて突き放すような話し方の割に、傷を探る指先はひどく優しい。
家康の手の傷を洗い終えると、三成はためらうことなくその手を自分の着物の袂で拭った。
微かに滲んだ血が袂を汚すのも意に介さずに。

それが終わると、先ほどと同じく家康を引っ張って部屋へと連れていき、薬を塗り始めた。
慣れてない塗り方に彼なりの優しさを感じて、家康はその顔をまじまじと見つめる。

白い頬に、垂れかかる前髪と長いまつげが影を落とす。
きれいな顔だ、と心から思う。
顔立ちや美しい銀の髪や透き通った眼もさることながら、
その毅然とした立ち振る舞いから滲む真っ直ぐな生きざまが内側から輝きを放つようだ。

しかしその生きざまはあまりに不器用だ。
豊臣傘下において彼はあまり好かれていないことが、入って間もない家康にもわかるほどに。
包帯を巻くこの手はこんなに優しいのに、と、治療が終わって離れていく三成の手を思わず握る。

「終わったぞ。強く握るなよ。」

握られた手をそのまま預けておいて、つれないことを言う、と家康は思った。
この手を引き寄せたら、どんな顔を見せてくれるだろうか。
この手を引き寄せるには、自分はどれほど強くなればいいだろう。

強くなりたいと切に願う。
この手が何かを守れるくらいに。
そして出来れば、この人が自分に笑顔を向けてくれるくらいには、強く。






(2010.10.14)