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東照宮付近

東照宮付近地図

この地は天正19年(1591)徳川家康が葛西大崎一揆の視察を終えて帰途の折,藩祖伊達政宗と宿陣した所で, 当時は小田原天神社(現在の榴岡天満宮)があったところである。 北東部に向けて城下が拡張された第2次拡張(正保・寛文年間/1644~1673)の最中, 天神社を移転し,承応3年(1654)に造営なった東照宮から南に向けて花京院通りまでの門前町として新たに宮町が割り出された。 この通りは同時に割り出された花京院通りから名掛丁までの東六番丁,以前からあった名掛丁以南の東六番丁, さらに南に清水小路と一直線に大年寺まで連なる大門前町となった。 東照宮例祭に合わせて一年おきの藩主在仙年に行われた仙台祭の折にはこの町を起点に山鉾が城下を練り歩き,宮町の賑わいは江戸以北第一と評されたという。

005 仙台東照宮 Sendai Toshogu
2006.05.06

仙台東照宮は2代藩主伊達忠宗が当地を徳川家康公ゆかりの場所として,3代将軍徳川家光に東照大権現の仙台勧請を願い出て許され, 承応3年(1654)に5年の歳月をかけて完成した。昭和10年8月,火災により幣拝殿,神饌所が焼失したが,昭和39年に復旧。 本殿・唐門・透塀・随身門・石燈篭・石鳥居は国指定重要文化財,手水舎は県指定有形文化財に指定されている。昭和53年(1978)に唐門・透塀の大修理, 昭和55年(1980)に本殿の修復工事が行われた。なお,この地にあった天神社は東照宮創建時に東隣に移され,更に寛文7年(1667)に榴ヶ岡に移された。

東照宮参道2

東照宮は緑深い参道の奥にある。由緒看板によると5年の歳月と人足583,675人,大工129,967人,材木24,730本,総工費小判22,496両を要したとてつもない大事業だった。 日光・久能山と共に日本三大東照宮の一つとされることもあるという。

*大震災で参道石段の石灯篭34基中14基崩壊,石鳥居の土台損壊,唐門基礎浮上,透塀一部脱落の被害報があります。(2012/09記)

東照宮入口 東照宮参道1

(上)
広く長い参道の上,寺でいえば山門に当たる位置に随身門がある。

東照宮鳥居

石鳥居は伊達忠宗奉納。部材の花崗岩は忠宗夫人振姫の郷里,備前国大島から運搬されたという。
(この写真は2010.10.17撮影です。)

東照宮随身門 東照宮随身門扁額

(右)
随身門は三間一戸の重厚な楼門。左右には仁王の代わりに武士を模った随身像が座す。スケールが大きい。
(下)
随身門を潜って更に階段を上った所に拝殿。すぐ後ろに幣殿が付いて幣拝殿。火災後の再建。これだけは,ちょっと普通の神社のよう。

東照宮拝殿 東照宮古峯神社

(上)
東参道にある境内社の古峯神社。火災から東照宮を守っています。(2010.10.17撮影)

東照宮本殿

(左)
透塀と唐門。その後ろに本殿が見える。漆塗りの唐門は伊達家霊廟の定番か。 透塀の前に現代の透塀(フェンス)が二重にも。奥のフェンスで透塀がよく見えないのが残念。

さすがに仙台有数の神社で,スケールが大きくてゆったり&重厚。家康の威光の大きさが感じられる。 神聖な雰囲気の中,観光客に混じって,健康づくりに階段の上り下りをしている近所のおじいさんたちが幾人もいて,地域にも溶け込んでいる様子。憩いの空間にもなっていました。
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006 眺海山仙岳院 Sengakuin
2006.05.06

仙岳院山門

天台宗。承応3年(1654)東照宮勧請の際,その別当寺として康国寺が創建され,仙岳院はこの康国寺の塔頭寺院であった。 傍院として延寿院(現存),宝蔵院,成就院,吉祥院,徳川将軍家位牌所の真浄殿があった。 平泉中尊寺別当を兼ね,明治まで仙台藩一門筆頭格寺院。 山門は総ケヤキ造りで,正面には昭和52年に仙台市制88周年を記念して「名木・古木88選」に指定された樹齢330年のクロマツの木がある。 本堂は山門から入って奥の右手に位置し,一度火災に遭ったが明和3年(1766)に再建された。創建当時は山門・参道は本堂の正面にあったが, 現JR仙山線の開通により山門が移動したため,参道正面が庫裏・右手に本堂という形になっている。

仙岳院観音堂

観音堂の本尊は「小萩観音」と呼ばれる十一面観世音菩薩(行基作)で,仙台三十三観音11番札所になっている。 文治5年(1189)頼朝の平泉征討のとき藤原秀衡の三男和泉三郎忠衡の女児5歳を家来石塚民部守時と妻小萩が護って一時加美郡色麻村清水寺に身を寄せ, 元久2年(1205)に仙台に移った。女児は成長の後,安養院と称し小田原安養寺で藤原氏の菩提を弔ったという。 姫と守時の死後,小萩は現在の東照宮近くにお堂を建て姫の護持仏の十一面観世音菩薩を祀りその冥福を祈った。 お堂は東照宮建立の際,天神社と共に別当寺として榴ヶ岡に移され萩徳山仏生寺と称したが,仏生寺は明治維新後廃寺になり, 観音像は民家の所有となっていたものを仙岳院で買取り,現在地に祀ったものである。
(場内掲示)

仙岳院釈迦殿

東照宮以上に緑が濃い。狭い境内にお堂がいっぱい。上写真が小萩観音を祀る観音堂。右写真が釈迦殿とあるが,これが本堂?だと思います。 下は「鶴の松」。境内の真ん中にあって,ぐるりと周りが通路。これが樹齢330年だろうか?大振りの盆栽のよう。

仙岳院鶴の松
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021 眺海山延壽院 Enjuin
2006.06.03

延壽院山門

天台宗。仙岳院の傍院として万治3年(1660)建立。仙岳院と同じ康国寺群のため山号も同じ「眺海山」。文政元年(1818)に焼失後,文久元年(1861)再建。 再建時に元禄の仙岳院修行僧・淨圓房(じょうえんぼう)を大権現として阿弥陀如来と共に祀った。淨圓房は一生の間に湯殿山を238回往復したと伝えられる韋駄天で, 足の病などに霊験があるとされる。境内に延命地蔵菩薩を祀った延命地蔵堂(慶応3年(1867)建立),疣取に霊験がある疣神尊などがある。

(右)山門は薬医門。

延壽院地蔵堂 延壽院鳥居

(上)
寺のメイン参道に鳥居がある不思議。淨圓房大権現と羽黒山の縁によるのでしょうか。奥(鳥居の右側)に6/8の祭典準備をしている和尚さんがいました。 鳥居の左に疣神尊。後ろからでごめんなさい。

延壽院本堂 左が本堂の淨圓堂。上が延命地蔵堂。
どちらも祭典に向けて紫の幕が掛けられていました。紋は徳川の三葉葵ですね。
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022 福澤神社 Fukuzawa Jinja
2006.06.03

祭神は宇迦之御魂神。桓武天皇が延暦7年(788)に創祀し児玉明神と称す。 天暦3年(949)京都総本宮の稲荷社祠官より正一位稲荷大明神安鎮の証を得て社号を福澤稲荷明神と改める。 安貞年間(1228)平泉の和泉三郎忠衡(藤原秀衡の三男)乳母石塚小萩は主家の女安養院を守り当地に留まり, 持ち来たる藤原家の護持仏十一面観音像(木造で後世小萩観音と称され仙岳院に現存・行基作)並びに 菅原真実の直筆は当社内に安置されたが,後に伊達綱宗が城東天満宮を榴ヶ岡に遷宮した際, 観音像は天神林に堂を建て遷座した。小萩の残した歌に「雨も降れ風の吹くをもいとわねど今宵一夜は露無の里」とあり, 後世この地を露無の里といった。慶長年間(1596~1614)片倉景網により神殿・拝殿を造営したが惜しくも祝融に罹り明治に至り再興した。(境内看板)

福澤神社社殿 福澤神社鳥居
福澤神社境内社

住宅地の真ん中。鳥居は平成7年と記載のある新しい物。すぐ後ろにあるのは以前の鳥居の残存か。その後ろにも焼け残りのような立ち杭があり, こちらが大昔の本物かも知れません。

ここにも小萩観音が登場。やっぱりご近所ですね。上の写真は,後ろに何もないようなので本殿と思われます。


(右)
本殿向かって左側に建つ赤鳥居と幾つかのお社。一番左は山神社。ここにも湯殿山が。

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023 松尾神社 Matsuo Jinja
2006.06.03

松尾神社

延享2年(1745)伊達宗村公の命により藩臣庄司伝七郎が大己貴命,少彦名命の二柱を祀り稲荷神社と称した。 天保12年(1841)伊達家が京都松尾大社の大山咋命,中津島姫命を勧請して松尾神社と改称。 戦前は青葉城より移遷した奥宮をはじめ社殿,拝殿,長床,神楽舎,神輿舎,神饌所,末社,琴平社等があり,5月18日に河原町まで神輿渡御,19日に祭典を行っていた。 昭和20年の戦災で全焼したが,昭和31年に県内外の酒造家,杜氏,氏子宗教者により完全防火で復興された。酒造神薬祖神として知られる。 平成7年社殿修復。庄司家が歴代宮司。御祭神は,大己貴命(商売繁盛),少彦名命(薬業健康),大山咋命(酒,水商売),中津島姫命(家内安全)

左のマンション1階に社務所があります。
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024 眺海山清浄光院 Shojohkouin
2006.06.03

清浄光院山門

天台宗。仙岳院の末寺。阿弥陀如来を本尊とする仙台三回向寺の一つでその発祥 (他は東九番丁の常念寺,榴岡の願行寺)。 寛文16年(1676)4代藩主綱村が念仏回向道場として建立。以来,念仏を欠かさず5月13~15日は特に大回向を執行している。 3年を1千日と数え,1万日毎に供養等を建てるので,俗に「万日堂」と称される。(境内説明板)


仙岳院,延壽院,そしてここ清浄光院といずれも山号が「眺海山」です。配置を見てみると旧康国寺の大きさは東照宮にも匹敵するよう。 東照宮と合わせると益々もって当時の徳川幕府の権威の大きさが伺われます。

清浄光院本堂

(左)
本堂。正統派。小振りですが,まさに堂に入っている感じ。

(下)
十萬日融通念佛回向とある。300年毎には盧舎那仏像を建立するということか。 今年2006年は331年目。隣に11万日目の阿弥陀像がありました。計算が合います。

清浄光院鐘楼 清浄光院廬舎那仏

(左)
右奥は本堂向かって左の閻魔堂。閻魔様達の絵画が並べてありました。手前は鐘楼。どちらも新しそう。他に本堂右側にも新しいお堂が幾つかありました。

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085 開元山萬寿寺 Manjuji
2006.10.21

黄檗宗。元禄9年(1696)伊達4代綱村が加美郡黒沢村(現加美町)にあった安養寺を廃してその宝物と本尊釈迦牟尼佛を当地に移し創設。 周囲に15ヶ寺の禅寮を配する大伽藍を成し最盛期には修禅者500人を擁した。宝永3年(1706)綱村公夫人稲葉氏仙姫が48歳で他界したため, 本殿,拝殿,唐門から成る廟所を造営し,その菩提寺とした。仙台藩一門格寺院。 明治2年戊辰戦争で廟は破却せられ,版籍奉還と共に寺録を失い著しく荒廃し,塔頭三昧院だけが残った。 現在の萬寿寺は大正7年にこの三昧院が萬寿寺を襲名したものである。 なお,仙姫の棺は昭和35年(1960)に榴岡の伊達家墓所に改葬された。昭和47年(1972)に本堂と庫裡を建立。昭和63年(1988)解体,平成3年(1991)に再建した。 さらに平成8年(1996)には三門を建立し現在に至る。(場内掲示)

萬寿寺山門

立派な中国式の三層三門。かつての萬寿寺霊廟門は新坂通の大願寺と 荒町の常念寺に移築されて残っていますが,当時の窮状を脱してなによりでした。

萬寿寺本堂

三門が閉まっていたので入るのは遠慮して右の本堂写真は塀の外から写しました。本堂も立派になっています。 境内には伊達家の煎茶用として使用されていたという「野田の清水」の湧水があるはずですがちょっと残念でした。

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297 朝日神社 Asahi jinja
2008.02.11

応和3年(963)此地に勧請。文治5年(1189)8月源頼朝奥州征伐の折,藤原泰衡が中山物見ケ岡(小田原台原丘陵)に退き防塁の陣を張り, 頼朝の軍勢は二本杉の処に進みこの神祠に詣でた。その時,あたかも朝日が昇ってくるのを見たので朝日明神の名を残したと云われる。 当社は守子の社(もりこのやしろ)と称され,朝日神子が農村の子等を集めて読書手習を教えた処で又幼児の守護神として百日咳を癒す霊験ありと信ぜられ 守子の社の名が伝えられた。朝日神子(巫女)は寛文年間(1661~73)当社に仕えた傍ら付近の田野を開墾水利を推考して桜田川と梅田川を開き耕作に便を与えた。 これ朝日神子が神のお告げによったもので農民をよく指導した其の功を賞し村民挙げて崇敬した。後に伊達氏命じて一祠を建立して神に祭った。 神木二本の杉は古来翁杉姥杉と呼ばれ(樹齢約600年)ていたが翁杉の方が樹勢弱まり昭和9年(1934)3月21日の大暴風雨の際,中途から吹折られた。 現在の二本杉は樹齢から見て其頃植継がれたものと思われる。二本杉通りの町名もこの老杉故に称された。(縁起案内掲示)

朝日神社 朝日神子は通町の熊野神社の神子であったといいいます。 神子が住んでいた町には神子神社があります。

社地東の南北道路は二本杉通りです。今の杉は社殿向かって右後ろの木でしょうか?相変わらず写真がてきとーです。

桜田川は今,北六番丁の下に残り,下水路として使われている梅田川の支流です。
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401 長命荘天満宮 Chomeiso Tenmangu
2010.10.17

長命荘天満宮

小松島3丁目,長命荘団地内の北辺,北裏は東北薬科大という場所に鎮座する天満宮。掲額には「菅原大神」とある。
文永元年(1264)創建,慶長6年(1611)現東照宮の地に移転し, その後榴ヶ岡に再移転した現在の榴岡天満宮の前身といい,当地は元天神とも云われる。 (青葉の散歩手帖)

長命荘天満宮入口

(左)
住宅地の中にあって参道は狭いですが,入口にはちゃんとこのような標柱があって案内してくれます。


現地碑(菅廟碑)には,上記事実を確認して明治39年に建立されたのが当社との記載があるそうです。 現在,本当に当社が榴ヶ岡天満宮の前身かどうかは確認できないようですが,できれば碑文のように繋がっていてほしいものです。

更に,こんな文献も見つけました。下に引用します。
東照宮北方の小高い丘の一本松を古天神と呼んでいる。ここが往昔天神社を祀った所と推定されるのである。また,東照宮の東北裏に元天神と称する地名がある。 郷土史家故藤原非想氏の著『小萩ものがたり』によると「最初古天神にあったのが,東照宮の地に移され,承応3年2代藩主忠宗が東照宮を玉手崎に勧請したので, 元天神に移し,寛文7年に綱村が榴ヶ岡に移したものである」と述べている。古天神の丘の上に現にそびえている一本松は,慶長の初め頃,国分彦九郎盛重が, かつて天神の廟祠のあった址をけがすのを慮れて,一本松を標に植えたものと伝えられている。 明治の中葉に後の文豪高山樗牛が度々この丘を訪ね,松の根元で思案にふけったというので,この松を「樗牛瞑想の松」とも呼んでいる。
菊地勝之助編 昭和39年㈱郵辨社発行「仙臺事物起原考」

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402 小松島不動尊 Komatsushima fudoson
2010.10.17

小松島不動尊

南光沢不動尊ともいうようですが,残念ながら由緒等わかりません。本当にお不動さんなのかもわかりません。 写真ではわかりませんが,どうも子供のような優しそうな姿です。覆屋の左前に不動尊より大きな山神碑があります。

*大震災で鳥居の笠木が落下。(2012/09記)

(下)
ほど近くに小松島公園・小松島沼があります。東北薬科大や東北高校の庭のようでもありますが, 綺麗に整備・管理されていて付近の人たちの憩いの場になっているようでした。

小松島沼
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