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とりつなげ玉田横野の放れ駒 つつじが岡にあせみ咲くなり(源俊頼(1055~1129)/散木奇歌集)。 現在の榴岡公園付近一帯はその昔はツツジの名所であり,玉田横野と共に古来から歌枕として有名であった。 ここに元禄8年(1695)4代藩主綱村が生母・三沢初子の冥福を祈り釈迦堂を建立。周りに桜,松,楓など千余株を交えて植え, 馬場や弓場も置き四民(士農工商)憩い場所とした。 また,宮町・東六番丁から東,鉄砲町の北方面はかつての小田原村である。仙台開府当時は玉田横野から連なる田園地帯で国分小俵と呼ばれた。 延宝年間(1673~1681)の仙台城下第3次拡張により小田原八町が割り出された。 現在,国道45号以南は区画整理事業が進行中で街の様子も大きく変わろうとしている。
浄土宗。新寺の成覚寺の末寺。慶長年中の開山。
慶長2年(1597)の墨書銘がある木造阿弥陀三尊像があり,仙台市指定文化財になっています。
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日蓮宗。永仁3年(1295)日蓮の直弟である日門が「大仙寺」として開山した古刹。 日蓮宗東北本山。仙台藩一門格寺院。伊達政宗が出陣のたびに戦勝を祈願し勝利を収めたことから, 命により寺号を「全勝寺」とした。その後,2代忠宗夫人振姫が深く帰依し,寛永19年(1642)振姫養母英勝院の菩提寺として寺号を「善勝寺」とした。 更に,萬治2年(1659)に振姫が亡くなった際,3代綱宗が孝勝院の法名を贈り,当寺に埋葬。寺号を「孝勝寺」と改めて現在に至る。 振姫や4代綱村の生母三沢初子の信仰を受け寺勢大いに振い,城下中心の柳町から真っ直ぐ東の突き当たりとなる門前は孝勝寺通と呼ばれ賑わった。 堂宇はしばしば大火で焼失し,その度に再建。更に昭和35年(1960)放火により全焼。その後,順次復興された。 政宗寄進の不動尊像,綱村寄進の二天王像,振姫の木像や初子の石像などがある。 三沢初子の御持佛である釈迦像を祀り元禄8年(1695)現榴岡公園に建立された釈迦堂が昭和48年(1973)県立図書館建設のため境内に移築されている。
(上)
長い参道は「孝勝寺通」。参道途中から法輪院,妙音院の2寺にも分岐。創建当初は孝勝寺の塔頭だった寺です。
参道奥に孝勝寺山門。3間1戸の薬医門。先に五重塔が見えます。
(左)
本堂。とにかく大きい。昭和57年(1982)再建。
大きなお寺。堂宇は皆比較的新しくはありますが,「政宗の仙台」を遡ること300年の昔からここにあったお寺。感慨深い…です。
(上)
豪壮な山門。扁額「本山孝勝寺」の文字が誇らしい。現在では,末寺は全て独立していて本寺末寺の関係はないようです。
(右)
平成14年(2002)に建立された五重塔。
(上)
釈迦堂。綱村公の母への想いが伝わる。移築されたのが昭和の火災後でよかった。
(右)
本堂左奥にある「光明稲荷大善神社」。山門の守り神。(2010.10.29撮影)
(下)能がありませんが,釈迦堂の説明板を模写してみました。
釈迦堂(仙台市登録有形文化財・平成7年9月5日指定)は4代藩主伊達綱村が生母三沢初子の冥福を祈るため, 母の持仏である釈迦仏を祀って元禄8年(1695)に建てられた持仏堂である。三間四方の正方形で,前面に一間の向背を付ける。 現在,軒,軸部など黒漆を主にした彩色が施されているが,もとは素木造であったといわれる。屋根は,宝形造,瀬戸焼の本瓦葺であったが,現在は本瓦葺形銅板葺に替わった。 内部の須弥壇上に厨子を備え,釈迦像を安置している。もと榴ヶ岡にあり,境内には釈迦堂のほか,二天門,鐘楼が置かれ,周囲には枝垂桜が多数植えられていた。 公園の桜はその名残である。昭和48年(1973)宮城県図書館(現在の宮城県公文書館)が建設されるにあたり,この地に移転したが, 堂建立の趣旨を綴った「釈迦堂碑」は現在も宮城県公文書館前にある。
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日蓮宗。萬治3年(1660)2代藩主忠宗夫人振姫(孝勝院)の一周忌に当たり孝勝寺の塔頭(たっちゅう)として建立された。
*大震災により外塀が崩壊との報があります。
孝勝寺の参道に面して入口があります。孝勝院一周忌の塔頭は妙音,法輪,蓮香,華香,経王の五院だったそうですが,
現在までに皆独立し,そのうち三院が残っています。
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日蓮宗。萬治3年(1660)孝勝寺の塔頭(たっちゅう)として建立。
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日蓮宗。萬治3年(1660)孝勝寺の塔頭(たっちゅう)として建立された。
門が閉まっていましたので入るのは遠慮しました。
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曹洞宗。市内連坊の瑞雲寺末寺。永正元年(1504)開山。 昭和53年(1978)区画整理事業により当地に移転新築。仙台三十三観音第13番札所。 境内本堂前に金毘羅堂,その東に天保7年(1836)の飢饉の際の供養塔がある。この飢饉の際,当寺に粥小屋が設けられ流民救済にあたったという。
(上)金毘羅堂を正面から。
向かって左奥に飢饉供養塔がある。
(右)本堂。左に赤い幟がはためくのが金毘羅堂。
区画整理による移転前は天神下にあって久近寺,
慈恩寺と肩を並べており,更にその前は南町にあったといいます。
今,すぐ北側に仙台サンプラザがあるにもかかわらず,静かな一帯です。
金毘羅さんは航海の守り神でしたよね。このお寺との因果はどうなっているのでしょうか?
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浄土真宗大谷派。京都東本願寺の末寺。
寛永2年(1625)開山。
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祭神は学問・政治の神,菅原道真公(天満大自在天神)。往古山城国(現在の京都)に在り,天延2年(974)平将春が陸奥国宇多郡(現在の福島県)に歓請。 その後,柴田郡川内邑(現川崎町)に遷座した。藤原基衡が守護職(1105~57)の時に刈田郡白石城で謀反があり, 鎮圧に当たった佐藤治信・小太郎親子がこの天満宮で戦勝を祈願し白石城を陥落させたという。この恩賞で治信は国分荘を,小太郎には基春という名が与えられ, 後に国分荘領主となった佐藤小太郎基春が天満宮を小田原玉手崎(現東照宮付近)に遷座した。 文永元年(1264)島津陸奥守再建。天文20年(1551)白石参河(みかわ)守宗明再興。 仙台城造営の際に境内木を用財として用いた報祭として慶長16年(1611)伊達政宗が丹塗りの社殿を造営。寛永17年(1640)2代忠宗が42厄歳に際し再造営。 慶安3年(1650)東照宮造営に際してその東隣に移った。小田原玉手崎遷座以来ここまで,現東照宮付近で度々社地を移したと思われる。 寛文7年(1667)3代綱宗が現在の榴岡に丹塗りの社殿と唐門を造営し遷座した。寛政7年(1795)落雷により唐門を残して全焼。現在の社殿はその頃の再建。 本殿は昭和46年(1971)建築。唐門の手前参道脇に嘉永2年(1849)奉納の「撫で牛」がある。境内には八幡神社などの摂社と多くの歌碑,筆塚などが並んでいる。
(上)
この参道と狛犬は区画整理によって新しくできたものと思います。
(下)摂社の一つ,八幡神社。
(左上下)朱塗りの唐門は豪華絢爛。
(下段写真は2010.10.29撮影)
(右)
撫で牛。菅原道真公は承和12年(845)丑年生まれ。この丑を撫でればご利益があるといわれていて背が随分と磨耗しています。
由緒については,ここもちょっと参照を
平成26年(2014)11月22日再訪
(上左)境内境界に沿って並ぶ歌碑等。それぞれに説明書きがある。 (上中)鳥居扁額 (上右)唐門扁額/天満宮とある。
以前は別々の社殿だった境内社の八幡神社と妙見宮が1棟に合築で新築されました。
そして大きな被害を受け修復中だった本体社殿も,これを見る限り,少なくとも拝殿は復旧なったようです。内部では七五三の儀式も行われていました。
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浄土宗。正雲寺の末寺。後陽成天皇の慶長年中(1596~1611)開山。仙台三回向寺の一つ。
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浄土真宗大谷派。貞享3年(1686)開山。
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浄土宗。京都知恩院の末寺。慶長年中の開山。
仙台駅東口のメインストリート「宮城野通」に面する大きなお寺です。
区画整理による移転前は慈恩寺や願行寺とともに東十番丁天神下にあったようです。
なんと山号が願行寺と同じです。宗派も同じで近縁関係でしょうか?
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浄土真宗。京都東本願寺の末寺。天正年中(1573~92)松森村に開山。
宮城野通沿いに仙台駅に一番近いお寺です。このお寺も大きい。 仙台への移転時期は調べきれていませんが,区画整理による移転前は東九番丁にあったようです。
(上)
云われは分かりませんが入口近くに綺麗な歌碑がありました。
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寛文12年(1672)4代綱村は塩釜の塩釜神社改築にあたり,御神体を東六番丁(現仙台駅構内)高福院境内の仮宮に安置した。 延宝8年(1680)塩釜神社完成により御神体は塩釜に戻されたが,町内氏子がその仮宮に塩土老翁神(しおつちのおじのおきなのかみ)を迎え祀った。 明治20年(1887)東北本線開通に伴い高福院が満福寺(荒町)に合祀されたため, 東六番丁向側の三吉神社隣接地に遷祀。更に平成14年(2002)区画整理事業により現在地に再築された。
(右)
左の大きい社殿が塩竈神社。右奥が三吉神社です。
(左)三吉神社を正面から。
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古記録焼失で由緒不詳。明治31年(1898)現在地に移転再建した際に矢崎から矢先に社名が改まった。 当地二十人町は二十人衆と呼ばれた弓鉄砲組が置かれたことからその名がある。
弓鉄砲組だけが,矢先神社の境内での稽古を許されたといいます。社殿はRC造のようで明治以降の再再築かもしれません。
平成25年(2013)5月18日再訪
区画整理で新築移転しました。二十人町の氏神として位置は殆ど同じ場所のようです。 ただ,二十人町からではなく宮沢根白石線から郵便局の脇を入ります。以前より少し大きくなったでしょうか。綺麗な社殿です。とても良くなりました。 社殿扁額には大正11年(1922)奉納の記載があります。
鳥居は以前のものと同じです。
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鉄砲町は藩政時代に鉄砲足軽組が置かれた町で,総勢138人の足軽が住んだ。当社は元和2年(1616)鉄砲町の足軽たちが大阪夏の陣に戦功をあげ, 凱旋の後に勧請し町内の守り神とした神社である。当初は和光明神と呼ばれていたが,明治維新後に和光神社と改めた。
(左)社殿の扁額。
「光」の所が見かけない字になっていて,これが光の本字だそうです。鉄砲足軽の鎮守らしい気がします。火縄銃!
また,「和」の辺と造りが逆です。こういう書き方もあるのでしょうか。よくわかりません。「味」があると言ったら洒落になってしまいますが…。
平成25年(2013)5月18日再訪
ここも矢先神社と同様に区画整理で移転しました。位置は多少西の方に動いたでしょうか。
鉄砲町の氏神ですが,鉄砲町から直接ではなく南北方向の街路から東向きに入るようになりました。
社殿は以前のものを移築修繕したようです。鳥居は新しくなりましたね。
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康平年中(1058~1064)栗原郡迫の郷士・長部民之亟諸能の氏神として栗原郡迫郷長部荘に勧請され,諸能没落後その長子若狭之助諸門が浪人となり, 当地に移住する際に遷座したと伝わる。その後,城下建設に伴い当地に弓足軽36軒が置かれ小田原弓ノ町と呼ばれるに至って, 武家の氏神八幡大神を祀る神社として氏子の崇敬を受けた。境内では弓足軽たちの稽古が大々的に行われていたという。 文化4年(1807)火災により堂宇記録一切を焼失したが,町内鎮守として再興されたという。 明治に至り荒廃したが,昭和4年(1929)再建。平成13年(2001)区画整理により現在地に改築移転した。
(上)神社入口(2010.10.29撮影)
3年経つと左写真と比べて背景のビルが増えてます。
区画整理による移転前は今より東に60mの位置にあったとのことです。今は広い道路になっている所ですね。
社殿左奥,神輿殿と境内社が前後に並んでいます。鳥居まで付いた境内社が奥の陰にあるのは,多分,神輿の出し入れの都合だと思います。(2010.10.29撮影)
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ここは由緒等不明の3連発になってしまいました。周囲はまさに区画整理で宅地整備真っ最中です。でもちゃんとお供え物はありました。
平成25年(2013)5月18日再訪
社殿自体は向きも含めて全く変わっていません。周囲が綺麗になり,区画整理という激動にも安泰でした。
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