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原町は宮城野原に臨む地としてこの名がある。中世には国分三十三ケ村の大庄屋が置かれ,南目(みなみのめ)と呼ばれた大村であった。 藩政時代には陸前浜街道から城下への入口として一駅が置かれ宿場町を成した。 原町本通西端(現第3合同庁舎)には藩の御米蔵が置かれ,ここで藩士に扶持米が支給された。 また,本通東端には嘉永6年(1853)に建てられた東西南北の方面距離を記した「道知るべ石」も現存しており,当時から交通の要衝であったことが偲ばれる。 明治に南目・苦竹・小田原が合併して原町となってからも宮城郡原町として郡役所が置かれるなど,以降もこの地域の中心として賑わった。
(左写真)原町苦竹の道しるべ石
「東 八幡八満ん 七者満 二里十六丁 四里廿四丁」
「西 御城下 二十六丁」
「南 長町 宮城野以てふ道」
「北 塩可満松嶋 六里十五丁 三里十九丁」 と彫られています。
明暦元年(1655)開山の修験寺院,慈眼山清光院を別当とした観音堂。清光院は昭和8年(1933)に天台宗寺院の一輪山善入院と合併。 現在,善入院は廃寺となり観音堂が残っている。三間四方の宝形造で江戸時代中期頃の建築。仙台市登録文化財。 千手観音菩薩を本尊とし,仙台三十三観音の第10番札所。 「原町の千手観音」と呼ばれ,子年生まれの守護神としても親しまれている。
(下)原町本通から北に伸びる参道。入口に三十三観音の石柱
(上)入って右手の境内社。
なんと稲舟大明神,鬼子母神,天照皇大神宮,魚覧観世音と四つの扁額が掲げられていました。
(上)
観音堂左手にも幾つかの小堂。一番手前は文殊菩薩です。
(左)境内入口。多くの石碑石仏があります。
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単立法人寺院。国分氏15代盛氏が元亀元年(1570)伊達氏との戦いで戦死した息子16代盛廉(もりかど)の菩提を弔うため天正5年(1577)創建。 曹洞宗で国分尼寺の末寺であったが,昭和23年(1948)単立寺院となった。 宝永4年(1707)の仙台大火で焼失。慶応,明治にも火災に遭い,現在の礼拝堂(本堂)は昭和41年(1966)の建築。
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慶長8年(1603)岩出山から仙台に政宗公に従った藩士の平田五郎政高が平田氏の出身地である志田郡堤根村(現大崎市古川)から現地に遷し,稲荷神社と称した。 政宗公も付近通過の際には必ず下馬のうえ参拝したとの記録がある。正保年間(1644~1647)には産土神として付近村民の崇敬を受け平田明神と呼ばれた。 明治4年(1871)に平田神社と改称されている。
社殿と扁額。
扁額には「正一位平田大明神」。
(下)社殿向かって左に石碑群。右に境内社の秋葉神社。
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嘉永2年(1849)加藤幸吉が奉祀。明治7年(1874)加藤権内が水神として当地に遷座,同時に古峯神社,月山神社,成田不動尊を合祀。 昭和16年(1941)神社庁公認に伴い豊玉毘売命(とよたまひめのみこと)を主祭神とした。(境内由緒掲示)
国道45号に面した建物内通路を入った奥にあります。国道電柱の「子育神社」看板がないと分からなかったかもしれません。 個人の氏神様を地域で祀るようになったのでしょうか。短冊敷地で横向きの社殿なので写真はこのアングルしかありません。
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宝永3年(1706)山寺善行院の岳祐(陽雲寺第6世)造立の延命地蔵尊。当初,苦竹の道しるべ石のある交差点南側にあった。 明治の初め,宮城野原鹿島墓地に移されたが,明治30年(1897)頃,現在地に戻った。 お堂は元仙台市長早川智寛氏が市役所の御真影奉安殿として建立したものを, 昭和12年(1937)陽雲寺第22世禅心学導師が貰い受け当地に移築したものである。
このお地蔵様には天保飢饉(天保4~7年/1833~1836)の際,
「泣くな騒ぐな 出秋を待てよ 百に三升の米食(か)せる」(凶作に悲観せず一生懸命耕せば秋には百文で三升の米が食えるようになる)と
唄い歩いて人々を慰め励ましたとの伝説があるそうです。
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延暦17年(798)坂上田村麻呂が京都男山八幡宮の分霊を勧請して創建。当初は生巣原(いけすはら)八幡社と称し,現宮城野貨物駅の地にあった。 康平5年(1062)源義家が戦勝を祈願。元弘2年(1332)陸奥守北畠顕家が多賀城に在る際,社殿を修造し弓矢太刀を献じたことから,北畠八幡とも呼ばれた。 文禄年間(1592~1595)国分氏が鎮守神とし,後の仙台藩歴代伊達氏も篤く崇め宮城野八幡と呼んだ。 昭和20年戦災にあい,更に国鉄貨物駅用地となったため,昭和27年現在地に社殿を新造遷座した。(境内由緒掲示)
(上)宮城野八幡神社本殿('07.09.30撮影)
宮城野八幡神社拝殿。右奥に相撲の土俵がありました。奉納相撲ですね。
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寛文年間(1661~72)宇迦之魂神(うかのみたまのかみ)を祭神として祀られた。この一帯は当時の開田で,神社は農家の守護として崇敬された。 現在の社殿は本殿が明治20年,拝殿は明治27年の建立。境内に樹齢250年以上と見られる楓(かえで),檜(ひのき),桜の古木があり, 特に楓は「いろはもみじ」と呼ばれる大樹で市の保存樹木に指定されている。(境内由緒掲示)
今の周辺は住宅地で(多分)農家は一軒もありません。社殿の傍の大樹は見事です。イロハモミジは泉の賀茂神社も有名です。
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天然記念物の名木「乳銀杏」の傍に祀られている。乳銀杏は天平年中(729~748)聖武天皇の乳母で, 国分尼寺建立の際に奈良から派遣された10人の尼僧の一人である紅白尼の遺言で, 母乳の出ない母親の乳が出るよう願いその塚上に植えられたと伝わっている。
宮城野八幡神社鳥居東隣から入ります。
個人宅内のため,入るのは失礼して八幡神社内から撮りました。そのため祠は後姿です。
それにしても見事な銀杏です。樹齢1200年,樹高約32m,幹周7.8m。気根が乳房のように垂れ下がっています。
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