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往古,田子の地は今よりも海が近く,ここから蒲生にかけて多くの湖沼が散在していたという。
延暦10年(791)大伴弟麿に従い多賀城に赴いた坂上田村麻呂が現在の二木神社付近で休息した折,多数の湖を見て多湖と称し,
文治5年(1189)藤原泰衝追討のため当地に立ち寄った源頼朝が湖沼に映る泉ヶ岳の風景を駿河の田子の浦に喩えて多湖から田子に改称したという。
福室の地名は豊かな村の意であろうか。平安から鎌倉時代にあっては陸奥国分寺から多賀城・七ヶ浜への脇道に沿う集落であった。
正保2年(1645)2代藩主忠宗は福室の西,田子の南に海岸防備と新田開発のため直参足軽68人を置き,両村名からこの地を福田と命名した。
岩切の今市,長町の諏訪と共に三町足軽と呼ばれたという。
田子(福田を含む),福室の2村は明治22年(1889)町村制施行により蒲生,中野,岡田と合わせ高砂村となり,福田町に役場が置かれた。
高砂村は昭和16年(1941)仙台市に編入されている。
曹洞宗。荒町の昌伝庵末寺。天文20年(1551)現高砂行政サービスセンターの南東地に開山。 田子小学校が明治6年(1873)境内に開校し,住職の用地寄付により明治9年(1876)移転している。当寺も明治12年(1879)現在地に移転した。
山門は一間一戸の四脚門。がっちりして新しそうです。
(上)境内西側にある湯殿山神社。
(左)本堂と鐘堂が並んでいます。
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創建不詳だが,この地にまだ人の居住なきころから小詞があり崇拝されていたという。弘化3年(1846)社殿再建。旧高砂村社。(宮城郡誌)
社殿は地区の集会所にくっついて建っています。社殿脇には防火祈願の古峯神社があります。福田の足軽町の町割りは明治35年(1902)の大火で失われたといいます。
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延暦年間(782~805)坂上田村麻呂創建,または天平宝字元年(757)勧請と伝わる。安永風土記では慶長3年(1598)開山の修験四野山不動院が別当とされる。 本尊は柳観音といわれる十一面観音。
単立の観音堂には珍しく立派な山門があり,境内はかなりの広さがあります。別当不動院の境内だったのでしょうか。
地元学HPには雲洞院開山の昌伝庵4世梅庵和尚が建てたとの記載もあります。
(上)15基が並ぶ石仏群
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元禄3年中(1690)の勧請なり。之より先,七北田川は本村の西より南に流れ,ややもすれば堤防決壊して村民水害を受けり。
故に壊る所に新たなる鍬八丁を立て八幡社に祈る。以来堤防堅固水害を蒙るなし。その神徳を感じて之を勧請すと云う。
平成3年(1991)9月新鞘堂竣工。(境内説明碑)
昭和27年に中野の雷神社に合祀されている。
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由緒等,全くわかりません。福室の国道45号から入って住宅地の後ろ,周囲は畑ですが,最近建ち始めたと見られるアパートなども並んでいます。
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こちらも由緒等わかりません。地元学HPによれば,明治中期,七北田川改修の際に支障となって廃止されましたが,
福田町に大火があり,工事監督も落馬死したことから,白杉の祟りと言われ復活したそうです。(怖)
(上)サイクリングロードからの遠景。遠くからでも目立ちます。
(上)白杉稲荷の鳥居。
(右)
左に赤い稲荷。右は何を祀る境内社でしょうか?
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「元和2年(1616)勧請。宝暦3年(1753)社殿再建。(宮城郡誌)」イザナギ・イザナミ尊を祀り,かつて多湖明神社と称して旧田子村の鎮守であった。 明治6年高砂村社となり現社号に。平成3年(1991)本殿改築し,拝殿を新築。
ここは宮城三十三観音札所の8番にもなっています。今,観音堂はありません。
本殿前に縦拝殿。広い。柏手も響きます。
(左)
手水舎。脇にご神木のような大きな木。その下に幾つかの石仏が並んでいます。
(上)
石仏の拡大。庚申講の本尊である青面(しょうめん)金剛像の浮彫。
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愛宕神社は七北田川の堤防上にあります。由緒等は不明ですが,この地域の火防祈願だと思われます。
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臨済宗妙心寺派。松島瑞巌寺末寺。
「正平元年(1346)知玉和尚開山。宝永元年(1704)瑞巌寺103世通玄達中興開山。
享保10年(1725)瑞巌寺105世天嶺性空和尚入山法縁を振興。始め建長寺派より出でて山門を開き,後ち妙心寺派に属し瑞巌寺の末寺となる。」(宮城郡誌)
平成5年(1993)本堂再築。開山の知玉和尚が正平7年(1352)に建立したと伝わる正平親王碑(南朝・山野村宮親王墓碑)がある。
山門も最近の再築のようです。南福室の松堂観音堂はかつて当寺にあったのが,洪水で流されたと伝わります。
今,境内には新たな観音堂があります。正平親王碑ともに何故か写真はありません。(謝)
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創建時期等不詳だが,深山講が開かれた記録から文政年間(1718~32)以前の創建と考えられる。宮城郡沢乙村の深山権現の分神を勧請したと思われる。 主祭神は木花佐久夜姫(このはなのさくやひめ)尊。大正8年(1919)石鳥居建設。平成9年本殿拝殿改築。
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中野は上記地図範囲を西端として東は現在の仙台新港・太平洋までの広い村であった。 東部は低湿地で永く未開であったが,一部に古墳時代からの墳墓や農作居住地が発掘されており,国府多賀城に隣接して早くから開発されていたのかもしれない。 鎌倉時代以降は西部の高台地区に人が居住し,特に元和(1615~)以降の仙台藩の新田開墾奨励により中東部の全域が耕地化された。 中野の地名の由来は明らかではないが,歌枕に有名な「末の松山(多賀城市八幡)」と組みをなす「本の松山(岩切)」「中の松山」の「中の」が由来との説がある。
元禄年間(1688~1703)の勧請。当初は中野字雷神に鎮座し,旧中野村の鎮守で高砂村社。 昭和27年に愛宕神社,甚光神社,羽黒神社,八鍬八幡神社を合祀。 当初の社地は昭和39年(1964)の仙台新港計画によって港湾用地とされたことから,昭和46年(1971)新港北側の中野字沼向に移転。 更に平成3年から始まった仙台港背後地の区画整理事業によって中野から福室の現在地に再移転している。 境内に区画整理により同敷地に移転された甚光神社,三宝荒神社がある。
(上)左から三宝荒神社,甚光神社,雷神社本殿。
(左)鳥居と拝殿
鳥居は古そうなので移築されたものだと思います。
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臨済宗妙心寺派。松島瑞巌寺末寺。応永30年(1423)瑞巌寺32世海渓和尚開山。享保10年(1725)瑞巌寺105世天嶺性空和尚中興開山。 山門は瑞巌寺山門の移築という。平成9年(1997)本堂新築。
(上)久しぶりに仏足跡に遇いました。仏足跡については ここ を参照して下さい。
(左)超がつくほど現代的本堂。立派。公共施設のよう。
(上)
中埜地蔵尊は昭和57年(1982)建立。その前の石碑は天明飢饉餓死者供養塔。
天明5年(1785)建立で平成10年愛宕神社(中野)からの移設。
当寺は安永(1772~)以前は当地から東約1kmの中野出花地区にありました。その寺跡には昭和45年まで数本の松の大木があったそうです。 歌枕に有名な「末の松山」と組みをなす「中の松山」を特定する資料は見当たらないようですが,これがその松山ではないかと考えられています。 因みに「末の松山」は多賀城市八幡の末松山宝国寺に,「本の松山」は岩切の本松山東光寺にあるとのこと。 誓渡寺は多賀城から岩切までのちょうど中間にあります。山号が中松山ではないのが,ちょっと悔しい。
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創建時期不詳ですが,境内の由緒説明によると安永風土記にも記載があるそうです。昭和54年(1979)社地寄進により当地に再建されました。
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安永風土記に地蔵堂として記載。明治38年(1905)部落大火の後に火防の愛宕神社となった。(宮城野の散歩手帖)
理容院の脇,南から入るのが正面ですが,鳥居も案内もありません。裏の方はすぐに国道45号で柵もなく,知っていればこちらが入りやすい。
社殿は古くはないですが,境内に石碑石仏群がなければ神社とは思わないでしょう。
*大震災で石碑の一部が転倒しましたが,社殿等に大きな被害は見られないようです。(2012/09記)
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鶴巻付近は仙台藩主がよく鶴狩りを行った所で,所謂お鳥見役が置かれて狩場保護や鳥類飼育が行われたという。
また,寛文10年(1670)から13年(1673)にかけて行われた流路付け替え工事により,それまで岩切鶴巻から福室の北を流れ七ヶ浜に注いでいた七北田川が
現在の流れになると城下に運ばれる米輸送の中継地となり,鶴巻御蔵と呼ばれる蔵が置かれ曳舟の積み替えが行われた。
福室の一部ではあるが,この七北田川流路変更により北福室と分断され,南福室邑として明和6年(1769)には独立した肝入りが立てられたという。
鶴巻の東は岡田である。現在も豊かな農村地帯である岡田は,その地名が示すように宮城野から太平洋に至る広大な平野にあって,
周辺が概して広く低湿地である中,比較的小高く水害に強いことから,早くから開墾された地である。
荒井付近まで達したという慶長16年(1611)12月の地震による大津波では深刻な被害を受けたが,
元和(1615~)から寛永年代(~1644)にかけて行われた仙台藩の新田開墾奨励によって再生した。
福室・岡田ともに明治22年(1889)町村制により田子・中野・蒲生と高砂村となり,更に昭和16年(1941)仙台市に編入された。
勧請時期等不祥。寛政2年(1790)再建。
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由緒等わかりません。地図と掲額にて神明社であることがわかるのみです。本通りに面して岡田郵便局の東,駐在所の向かいにあります。 鳥居は堅固ですが,社殿は傷みが激しくなっています。明治44年(1911)賀茂皇神社に合祀されたようです。
*大震災後の現在,鳥居も社殿もありません。
(2012/09記)
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ここも由緒等不明です。荻袋の集落内で住宅地の中にあります。地区の氏神様として祀られているのでしょう。きれいに管理されています。
この項でここだけが旧蒲生村です。蒲生の中でも最も早く人が住みついたといわれています。
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旧福室村鎮守,明治4年(1871)高砂村社。創建不詳だが,住吉大明神と称していた。積年破損により延享4年(1747)再建されている。(宮城郡誌)
当然,延享4年以降も建替えはされていると思いますが,現在の社殿が何時の建築かわかりません。
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かつて北福室字松堂にあり,七北田川の洪水で当地に流れ着いたと伝わる。宮城三十三観音第十番札所。
観音様の他に不動明王も祀られているようです。住吉神社と並んで建っています。
創建時期どころか「松堂」が「まつどう」なのか「しょうどう」なのかもわかりません。読みが間違っていたらご指摘下さい。
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嘉祥年間(848~850)慈覚大師が上岡田に来て賀茂大明神別雷神を勧請し, これをその数年前の承和年中(834~848)に岡田の南東を流れていた冠川(七北田川)の中の島に草庵を結び居住していた雪峯行者が日々礼拝祈念したと伝わる。 後年天正年中(1573~1593)には龍王院が別当職を勤め,川島賀茂明神と称した。川島明神として宮城三十三観音の第12番札所でもある。 旧岡田村の鎮守。明治5年(1872)岡田村社,後に高砂村社。明治44年(1911)岡田寺袋の神明社(岡田)を合祀している。
(上)
入口鳥居からまっすぐ拝殿方向。古そうな鳥居。
(右)
拝殿は新しそう。由緒説明板が掲示されていますが,保護のためかビニールで包んであって,よく読めません。
(上)
入口左に前面道路に沿って並ぶ石碑群。川島観音の碑もあるようです。神社で観音札所というのも珍しい。まさに神仏混淆です。
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熊野神社と同様に鶴巻の住宅街の中にあります。由緒等わかりませんが,社殿内に政宗公と思われる絵が祀られていました。
地元研究誌によれば,
「藩の御狩場鶴巻に近く,藩主がたびたび立ちより御下賜品もあったので,感激した住民が祠を建て崇拝したのが始まり」とのことです。
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蒲生の地名はかつて蒲がよく生い茂る湿地帯であったことに由来する。建保(1213~1219)の頃,その良質な蒲を産出するため荻袋に集落ができたのが蒲生の始まりという。 寛文13年(1673)七北田川流路付け替えと塩竃牛生から七北田川新河口までの舟入堀が完成し,新河口となった蒲生に舟溜及び米塩蔵が設けられた。 石巻・野蒜に集められた米どころ藩北部の米は舟入堀を経て一旦蒲生舟溜で下ろされ,蒲生御蔵に収納された。 城下に至る米はここから七北田川を遡り鶴巻,苦竹を経て原町御蔵に運ばれたため,蒲生舟溜・御蔵周辺は物流の重要な中継地として町を成し繁栄した(町蒲生)。 明治20年(1887)東北本線塩竃開通により物流中継機能は塩竃に移り,以降の町蒲生は半農半漁の町である。 蒲生村は明治22年(1889)町村制施行により田子,福室,中野,岡田と合わせ高砂村となり,更に昭和16年(1941)仙台市に編入された。
寛文13年(1673)蒲生領主和田織部房長は舟入堀の工事完成を期に,多賀城紅葉山の館より家従30人と共に当地に移住。
館内に氏神として京都伏見稲荷神社の分霊を勧請し祀った。和田氏は大和(奈良県)の出身なので大和神社と称した。明治になり和田新田地域の鎮守の神として寄進された。
(境内説明板:年代訂正)
<和田新田と和田氏>
和田新田は2代藩主忠宗公の時代(寛永年間)藩の出入司をしていた初代和田因幡為頼が開墾した土地であり,(中略)城下町のような侍屋敷だった。
和田氏は1800石の領主で,為頼は(中略)東部海岸に松の植林をした。(中略)
2代織部房長は藩命により,宮城郡大代村(多賀城)から蒲生村までの御舟入堀や七北田川の付け替え,御船引堀の掘削工事を立案,寛文13年(1673)完成させた。(中略)
11代織部為泰は(中略)仙台藩の最後の国老として藩内の戊辰の役の戦後処理に当たった後,密告されて切腹した。
(境内説明板)
(左)11代織部為泰の慰霊碑
為泰は明治2年(1869)に切腹したそうです。密告ということですが,時代激変時の暗い陰が垣間見えるような…。
境内説明板には冒頭,織部房長が移住したのが延宝年代(1661)と記されていましたが,この年代に初代因幡為頼が和田新田を開墾したものと思われましたので,
勝手に訂正いたしました。
舟入堀を来て蒲生で一旦蔵入りした米はやがて七北田川を遡った鶴巻で積み替えられ,そこから苦竹まで今度は舟引堀を引かれて運ばれた後,
陸路で原町御蔵まで輸送されました。舟入堀,舟引堀の両運河の工事責任者が和田織部房長です。
寛文4年(1664)から測量を開始し,延長各約5㎞の長さの運河を寛文10年(1670)に計画立案。その後わずか3年で完成させました。
*大震災の津波被害はあったはずですが,現在も当地に無事に鎮座しています。(2012/09記)
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万治2年(1659)江戸藩の米穀運輸のため塩釜村浦海より大代村を通り蒲生村まで堀割りの節,佐々木只太夫藩命をうけて土木の事に従事す。 この地に至り泥地にて1日掘れば一夜にして埋もるという状態で困却し,成就の祈願をこの神に請うたところ,霊験により成就した。依って社殿を営んで神恩に奉謝した。 その後、藩主某この地に来り地に来り地形が播州高砂浦に似ていることから社名を高砂神社と称し,地名を高砂といった。爾来本社は蒲生北方の鎮守として信仰された。 明治5年1月村社に列する。近年に至り仙台新港の開設に伴い、現在の地に新殿を造営して遷し奉る。(宮城県神社庁HP)
万治2年(1659)はまだ舟入堀掘削前なので由緒には疑問があります。
万治2年に小祠が建立され,寛文10年(1670)の掘削工事の際にこの小祠に祈願した…という線かなぁ。(勝手)
命名した藩主も3代綱宗か4代綱村か判然としません。
当初の位置は中野高松93番地でした。仙台新港建設に伴い昭和47年10月当地に遷宮しました。
今の地も周囲は美林で,海の近さのせいか広々とした清々しい空間が感じられます。
平成25年(2013)10月14日再訪
大震災の津波で全壊流出してしまいましたが,平成23年(2011)末に仮社殿(神棚)が完成。
平成24年(2012)3月29日 兵庫県高砂市の高砂神社から小振りながらも本格的な仮本殿が贈呈され,当地に安置されました。
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中野小学校の隣にあります。地元学HPによれば,慶長16年(1611)12月の地震による大津波で岡田・蒲生が8日間海水に浸された時, 住民が東部の台地(現在の字念仏田)に集まって念仏を唱えて海水の引くことを神仏に祈念した結果,その御利益にあってようやく海水が引いたことを記念して, 念仏を唱えた当地に後代に建てられた地蔵尊のようです。
平成25年(2013)10月14日再訪
大震災の津波で覆屋が流出。地蔵像も首が落ち,土台も崩れましたが,地元有志の会により平成25年(2013)5月までに修復され,
新覆屋も完成しました。
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由緒等わかりません。町蒲生方面と多賀城方面への道の分岐点にあり,追分地蔵というのだそうです。
*大震災後も覆屋を含め残っています。(2012/09記)
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蒲生の神明社。慶長2年(1597)郷土の敬神家が伊勢の大廟を参拝し天照皇大神の御分霊をうつし祀ってお伊勢さまと称した。 明治維新前には南蒲生の人家の付近に鎮座したが悪疫が流行したため神威の冒涜を恐れて現在の地に遷座し南蒲生一円の守護神として尊崇をあつめてきた。 明治5年1月村社に列す。(境内説明板)
里との境目,松林の中,どこから境内なのかもわかりませんが,今日のような天気の良い日には木漏れ日が爽やか。でもちょっと野趣豊かすぎです。
潜り拝殿の奥突き当りに本殿正面が見えるようですが,小心者には入り難かったです。
*大震災により全壊流失。
現在,鳥居も社殿もありません。(2012/09記)
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浄土宗。岡田新浜にある。天正19年(1591)開山。新寺成覚寺の末寺。 当寺開山時の新浜は平家落人による開拓集落で26戸の集落であったと云う。 海見山の山号は藩祖伊達政宗が鷹狩りの折りに本堂で休憩したところ,寺から海が見えたので賜ったと伝わる。 山門の右手に地蔵堂がある。縁日(旧3月24日)には必ず雨が降るという言い伝えがあり「濡れ地蔵」として知られている。
*大震災で全壊。
かろうじて本堂だけは浸水しながらも残りました。
(2012/09記)
(左)地蔵堂
★濡れ地蔵伝説
木製の子育て地蔵で元は中野にあったという。子供たちが親しんでよく持ち出して一緒に水浴びをさせていたが,
ある時,突然の雷雨で子供たちは逃げ帰ってしまい,お地蔵さまは流されてしまった。
お地蔵さまは下流の和田新田付近で拾われ,当寺に持ち込まれ,授かりものとして以後大切にされているという。
この伝説では縁日に雨が降る由来まではわかりませんね。お地蔵さまも縁日くらいは昔のように子供たちと水浴びして遊びたいのでしょうか。
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後鳥羽天皇の建久年中(1190~1198)の創祀といわれ,正一位吉窪大明神と称した。明治2年現社号。主祭神は豊玉姫命,倉稲魂命。(宮城県神社庁HP)
南から入る参道は独立していますが,上写真左に見えるのは照徳寺のお墓です。同一境内と言ってもいいでしょう。かつては別当関係にあったと思われます。
左写真が拝殿…だと思います。ここで帰ろうかと思いきや…脇から回り込むと立派な本殿(下)があります。こちらに直接参詣できます。
寺の境内を横切るような参道,古びた拝殿の陰に隠れるように不意に新しく綺麗な本殿が現れました。
*大震災で拝殿は無くなってしまいましたが,本殿はかろうじて残りました。(2012/09記)
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