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PORTRAIT その2 |
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第35代横綱 双葉山定次 氏 (相撲協会初代理事長) |
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| 大分県出身。不世出の名横綱、69連勝は有名。 (1912〜1968) |
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| 大相撲を初めて見たのは私が5才の時、地方巡業函館場所のときだった。父に連れられ関取達の通る花道そばの席に座っていた。 当時の立浪部屋には関脇名寄岩(北海道出身)がいた。他に横綱双葉山、大関羽黒山、の錚々たる力士が所属していた。 函館出身の御当所出身力士は、友綱部屋の小兵、突貫巴潟関が小結として活躍していた。 翌年、大東亜戦争が始まり、力士達も戦地へ駆り出され大相撲の歴史も空白期を迎える。 終戦後10年、TVが普及、野球、プロレス等の中継が契機になり再び相撲人気も栃、若時代で復活する。 私は1954年から学生をやっていたが相撲には縁がなかった。1959年、私は新聞社のカメラマンになり、政治、経済、文化等の撮影と共に、相撲も取材することになった。 その新聞社の社長が双葉山の熱烈な後援者だったので双葉山道場を再三取材で訪れた。 取材を終えると関取衆と一緒に美味なチャンコが待っていた。 時に双葉山理事長の部屋に招かれ、二人きりで食事をする機会があった。話に聞いた現役の土俵上と同様に、理事長はいつでもゆったりと穏やかで、自ら多くを語ることも無く 「遠慮はいらないよ」 と食事を勧めた。この時、双葉山理事長がまだ47歳であったことに、改めて私は驚きを感じる。 今は無き蔵前国技館で過ごした名人大横綱と24才の前相撲カメラマンとの二人だけの時間は私にとって忘れ難く、大いに誇らしいものである。 しかし、ご覧のとおりの出来映えで如何にも稚拙な写真である。二年間でその新聞社を辞め、フリーになってからは双葉山道場の敷居が高くなっていた。 |
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今西錦司 氏(1902−1992)文化人類学者、京都大学、岐阜大学各名誉教授 |
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中山恒明 氏 千葉大、東京女子医大名誉教授(1911-2005) |
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中山恒明先生とは「消化器学会長」紹介の取材で名刺交換をしていた。そのとき撮影した写真を出版社を介して送ってあったのだろう。それに応え「素晴らしい写真を撮ってもらった」、と長尺の和紙に達筆の墨黒々としたためた謝意の丁寧なお礼状を戴いた。 私個人の撮影依頼に新橋の料亭が指定された。 研究室での撮影を考えていたので予想外であった。 その料亭は何度も取材したことがあった。落ち着いてはいるが、料亭は明るさが無い。ストロボは雰囲気を壊すのでフラッドランプした。硬調のネガになる。 既に到着し、もうひとかたと差し向かいで会食していた。 ご機嫌なようすで中山先生は出迎えてくれた。 そして同席の人物を私に紹介した。 「ご存知ですよね、作家の松本清張さんです。」 「松本先生、この人は素晴らしい写真を撮ります。 貴方も是非撮ってもらって下さい。」 と私を紹介した。 「私は写真嫌いなので結構です。」 松本清張氏は撮影を拒否した。しかし、恒明先生は執拗に是非撮影していただきなさい、と薦めた。 500wのフラッドランプをスタンドに取り付け点灯した。私はカメラを中山先生に向け、撮影を続けた。 勿論、撮影中の二人の会話を私は知らない。 二人の間柄が患者と担当医の関係とは後々知った。 出来る限り素早く撮影を進め、私が撮影を終えたことを中山先生に云うと 「松本先生も是非撮って上げてください。」 カメラ ハッセルブラッド 500C レンズ プラナー150mm F 4 フィルム トライX D―76現像 撮影データ 1/125秒 絞F8 500W写真用電球 1灯 新橋吉兆にて 1968年9月 撮影 吉田 純 |
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松本清張 氏 小説家(1909ー1992) |
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| 私は6×6のフィルムを使い切っていた。素早く35mmカメラに切替え、松本清張氏を撮ることにした。 氏は「或る『小倉日記』伝」で五味康祐「喪神」と共に芥川賞を受賞した。 以来「点と線」「黒い画集」「砂の器」「張り込み」「けものみち」など多くの推理小説を発表。映画化された作品も多い。 ほかに時代物、歴史小説など枚挙に暇が無い。私はそれほど熱心な読者ではなかったが私の印象は右の写真で十分に清張作品を表現していると思う。 中山恒明先生との個人的な会合にお邪魔し私も出会い頭の撮影であった。 私の撮影計画には入って無かった。 三島由紀夫氏のように電話連絡が取れてあっても、機が熟す前に途絶する人もある。不思議な縁である。 ニコンF ニッコール105mm 500wフラッド1灯使用 1/60秒 絞F8 TX 400 D−76D現像 1968年秋、吉兆にて |
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黛 敏朗 氏 作曲家 (1929−1997) |
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1959年ごろ、「涅槃交響曲」を浅草の東本願寺別院のホールで聞いた。 テレビ朝日の「題名の無い音楽会」を見る度にそのことが思い出された。 この撮影の時も「題名の無い音楽会」の打ち合せ時間中に撮影を進めていた TVデレクターに気を使いながら撮影は短い時間で終了した記憶がある。 黛さんは右手を左頬の辺りにやり、その右肘を左手で支えているようなポーズで曲紹介を舞台上で何時もしていた カメラを据え、ファインダーから眼に入ってきた黛さんは、私の予想以上に神経質で繊細な人だった。 私の右側から500w1灯を点灯。 繊細な感覚と宗教性(仏教)を描いた ハッセル500C プラナー150mmF4トライXブローニー D−76現像 絞.F11 1/60秒 1968年 テレビ朝日にて 撮影 吉田 純 |
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岩城宏之 氏 指揮者 (1932−2006) |
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岩城さんとの出会い。 | |
| 学生時代下宿を三ケ所私は変わった。いつも目白駅周辺であった。1955年前後のこと、学生の溜まり場「エコー」というクラッシクを聞かせる静かな落ち着いた喫茶店が目白にあった。 私は始終その店に通って音楽を聴いた それほど大量のレコードがあったわけではないが何故か現代音楽が多かった。 親切で美しいママさんがいた。 「吉田さんと同じ音楽を聴く人達が居るの、こんどご紹介しましょうか。」 私は特にベラ.バルトークを求めて神保町、新宿他幾つかの店を聞き歩いていた。 「バルトーク」のレコードが聞ける店は少なく私は「オーケストラのための協奏曲」から入って「弦楽四重奏全6曲」まで辿り着いていた。 見たことも無いハンガリー周辺の農村で歌い継がれてきた民謡が、知床で育った私の琴線に何故触れるのか、不思議な思いで私は聞き惚れていた。 「この方が毎日コンクールの作曲部門で優勝した方、助川さん。」 とママさんに長身の青年を紹介された。 当日、洒落た白い下宿へ招かれ彼のコンクール受賞作弦楽四重奏を聞いた。 バルトークの影響を強く受けていた。 助川敏弥さんは札幌の人、同郷の音楽家がバルトーク好きなことを知って私は驚いた。 その助川さんから岩城宏之さん、山本直純さんなど上野音大の仲間を紹介された。 黄色のカブトムシを乗り回していた髭の無い山本直純氏の記憶は薄い。 私が20才なので岩城さんは23才だったのだろう。彼は学生時代からN響の指揮をしていた。 何度かコンサートの招待券を頂戴していた この撮影は1998年である。40数年前の私は 法科の学生だったので写真家として対するのは勝手が違ったかもしれない。 体調も芳しくなかったに違いない。それでも二度にわたる撮影を快く受けてくれた。 金沢のオーケストラアンサンブルのこと、五島みどりのエピソードでの天才ぶりのことなどを話して若い目白時代の回想は少なかった。多くの友人達が散っていったことが淋しかったに違いない。一見、元気そうに見えたがフアインダーから見える岩城さんは自分に時間の無いことを感じていた。 私自身も間もなく倒れる前なので、私の撮影も二度とも冴えなかった。 自分ではもっと岩城宏之を捉えられると思っていたが、多分、昔日の想いだけで終わったのかもしれない。 下の写真はオーケストラの稽古中。 大井の体育館にて。 EOS−1 500mmF4 1/500秒 絞開放 D−76現像 上の写真は自宅の書斎にて HASSELBLAD 500C 150mm TRIX 絞F5.6 1/30秒 室内自然光 1990/11/5 撮影 吉田 純 |
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