吉田 純 ワークショップ
<写真の本質は記録である>
その記録の核になるのは、その人の人生観、世界観である。

写真集「イザイホー」より
講師 吉田 純
1935年北海道 函館生れ。 1945年 第2次世界大戦の最中、強制疎開により知床に移住。
1953年 道立斜里高校卒業。 1957年 中央大学法学部中退。 1959年 報道写真に進む。
写真展 1968年 『顔』 銀座ヨコヤマ画廊、1975年 『日本及び日本人』 銀座ニコンサロン。
<現代写真教室> 1977年開設。
写真集『イザイホー』 1993年出版。
写真展 『イザイホー』 沖縄市民ギャラリー、キャノンサロン福岡、名古屋、東京、札幌 1993年。
* このページの後半にワークショップで取りあげた作家についての小論を掲載しています。
『存在感のある写真だ。何のケレンミも、作為もなく、まともに対象に向っていく、
彼の姿勢がいい。男の胸板を感じる。その厚みが、一枚一枚の存在感を呼応する。』
吉田 純ポートレート作品についての「岡本太郎氏」評。
1959年のマグナム写真展で私は一枚の写真と出会い、写真の道に入ることを決意した。
それは第二次世界大戦が終戦をむえるフランスを記録した.
マグナムの創立者ロバート・キャパの一枚の写真であった。
画面の奥に三色旗が見え、道は右に傾いている。
子供を抱え、裏切り者として丸坊主にされた女性とベレー帽を被り袋を背負い大股で歩く亭主らしき男。
ヨーロッパの歴史を感じさせる石畳の道から溢れるほどの群集が、ナチへの裏切り者を罵っている写真である。
『ナチへの裏切り者も、その周りを取り囲む多勢の罵る者達も、全ての人間という生き物は
哀れで、悲しく、弱い存在であると作者は云っている』 私はそう読み取った。
今、私達は20世紀を駆け抜け、21世紀を走り始めている。
カメラは勿論のこと、他の映像の分野も機材の氾濫とイメージの混沌の中にある。
デジタル化された機材は、それを使う人間の想像を遥かに超えた上層と下層に存在しているからだ。
云い換えるなら、上層とは個々の人間が持っている肉体的な才能の上限を超えている、
また下層とは個々の感性表現を一律化してしまう文明の極限世界に入ろうとしているともいえる。
アナログが可視光線でデジタルが不可視光線(赤外線、紫外線)と言い換えてもいいだろう。
デジタル化された情報は個々の人間にとって、収納が不可能な仮想現実として現実化されている。
地球上に存在するる70億の人間の悲しみや苦悩は、自らがけっして経験しない火星旅行と同次元の
ことのように他人事と感じている。と同時に自分の身の回りで起こっている事件も、同位現象として
捉えられないという心の平衡感覚のずれが起きている。
100年後の人類や地球を容易にイメージすることを私達は出来ない。
私達が生き抜いているこの時代の労苦を、後の世紀に少しでも役立てるために、
正確におこりえた記録していかなければならない、と私は考えている。
芸術まがいの写真には時代を記録する写真を決して越えることは出来ない。
風景や花々をどれほど綺麗に撮っても、ヌード写真にトライしても
絵画や彫刻を超えることは無い。
写真が持っている本質は記録である、記録の核になるものは己の人生観、世界観である。
SEBASTIAO SALGADO(1944〜)
今回取り上げたのはセバスチャン・サルガード『人間の大地 労働』(岩波書店版)である。
この写真集には企業側の要望による撮影、報道の仕事と自主的な取材等が混在しているように見受けられる。
しかし日本の場合、報道関係の企業ですらリスクを負うことを極力さけることを第一に考える。このような取材は
ほとんど成立しない。あるいは彼の場合でも同じであったかも知れないが、命がけの取材対象でも敢然と立ち
向かっていく彼の取材姿勢は驚異的である。
勿論、私たちの場合でも命がけの取材が無いわけでもない、が彼の取材対象は汚れ役の最前線に限られている。
本当は誰も望んで働きたくない場所や止むに止まれず働かなければならない状況の世界に住んでいる私達の
労働の現場写真である。
この作家は貧困の中でただ生きる為に働いている労働者達を、彼等の想いや願いとは別の次元で、
第三者の眼で捉え、彼の映像の世界に向けシャッターを切っている、一枚一枚の写真の構図は力強い手法のものが多い。
労働の対価として、まっとうに生活が出来ているとは思えない顔が並ぶが、どれも此れも力強い構図に納められている。
疑問は何故この人達の生活を、家族の人達やその食卓風景まで彼は描かなかったのか、
もしこれらを撮影しているならこの作家はどう描くのだろうかと私は思った。
私の好きな写真はブラジルの金鉱掘のシリーズである。
金鉱のすり鉢状の中に蟻地獄が出現している様は、例えようも無く凄い記録だと思う。
その中に、白人の兵隊蟻が向ける銃の筒先を握って対峙する若き働き蟻の写真を、私は素晴らしいと思う。
このヘラクレスのような若者の必死な姿勢は兵士の世界(経営者側)を圧倒しているが、白人の兵士も
黒人の金鉱堀の若者も共に貧しく、互いの立場を主張するたびに悲しみの深さが増す。
本書の献辞の中に、労働者への賛歌とうたわれているが、これは人間の悲劇の歴史を記録した写真
として捉えるべきだ、と私は思う。これを賛歌と捉える神経は私には無い。
太古の昔から、底辺にいる無数の労働者達、奴隷制度の犠牲によって栄えてきた人間の歴史を、
20世紀の記録として描いていると見るべきだろう。
21世紀に時代が変わっても、中東の石油利権略奪戦争の前線で双方の多くの市民が傷を負い、生命を絶たれている。
一部先進国の武器商人は政治家と結託して次々と戦争の火をつけていく。
いつの時代でも一部の欲深い人間達によって大勢の人々が犠牲になっている。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教などの一神教の争いに、さらに民族間の紛争が絡み合ってくる。
私達、島国の日本列島には大勢の神々が存在していた筈である。
しかし私達日本人の現在は、神の存在を認識するすべを失っている。
それぞれの正義が語られ正義が遂行される。しかし、私達はそのことに大きな疑問を持っている。
この写真集に記録された数多くの人々の地平には一体何が見えるのだろうか。 2004.7.1
EUGENE ATGET(1857〜1927)
ユージェヌ・アッジェの3冊の写真集を読んだ。(岩波版、淡交社版、リブロポート版)
久しぶりにアッジェの作品と出会い、写真の原点の大事な事を再確認した。
アッジェの作品はパリとその周辺という限られた地域を撮している。
彼が写真を始める前に志していた世界は演劇と絵画という芸術の世界であった。
しかし、その分野で彼は才能を伸ばす事が出来ず、写真に方向転換をした。
アッジェの写真は時折優しい表情を見せてくれるが、おおむねストイックで無表情な物が多い。
彼は決して上手な写真家ではなく、不器用で実直、飽く事の無い正直さが画面に滲み出ている。
アジェが写真を始めたのは30才を過ぎてからである。当時はまだ写真の草創期である。
アッジェの使ったカメラはレンズの部分から黒い蛇腹を伸び縮みさせながら後部のピントガラスに映像を写す、
像は天地、左右逆さまに見える。
曇りガラスの面に像のピントが合った時、ガラス乾板(フィルム)の入った木枠を曇りガラスの前にはめ込む。
引き伸ばし機のない時代は撮影したガラス乾板を直接印画紙と密着させて写真を作った。
シャッターはレンズキャップの取り外しか、少し新しくなってソロントンシャッター(手でゴム球を握ると1幕が
走りシャッターが開き、握りを緩めると2幕が落ちてシャッターが落ちる木製手動式)で露出を決めていた。
当然露出計も無ければカメラ自体が明るさを測るなどの今のような設計にはなっていない。
すべては経験と感ににたよるしかない時代。
フィルムの感度も低く、硬軟も自分が持っている化学の知識次第だった。
ガラス乾板に光線が入らないよう設計された木製のケースのことを撮り枠(ホルダー)という。
それをカメラのピントグラスのところに装填する。
ソロントンシャッターの右側に着いているネジを巻き上げる、2幕そして1幕と巻き上がってシヤッターのセットが完了する。
快晴、晴れ、曇りなど露出は手にしているゴムの球を握って放す加減でネガの出来上がりの良し悪しが決まり、
暗室での現像には相当の習熟が求められた。
一枚の写真が出来上がるまで、現代の私達が考えられないほど想像を超える大変な時代であった。
重い大きな機材と三脚、フィルムの入っている木枠が詰まった大きなかばんを携えて、エレベーターの無い時代に
アジェはアパートの6階から降りて取材に行き、疲れた足取りで6階まで戻る。取材先までまでも歩いていったに違いない。
暗室仕事は危険な薬品を微妙に調合しなければならない。
現代から考えると取材も撮影技術も、暗室の仕事も化学に精通していることが必須であった。
モノクロームは光と影だけで立体と時間(4次元の世界)を印画紙に定着させることは今も同じである。
アッジェは19世紀後半から20世紀初頭のパリの古い街区とパリ市内への入り口に当たる周辺部のほとんどを
パリ市からの依頼と画家たちの要望に沿って記録していたと思われる。
彼の写真の特質を分類すると、風景はパンフォーカス(写っている物全てにピントがあっている状態)を多用している。
同時にレンズをチルト(普通のカメラでは建物の上方が狭く写るので、建物の垂直の線を平行に見せる為、
フィルム面にレンズを平行に上方へ移動させる技法)させている。
そのため上の両隅が丸く暗くなっている写真がある。それはレンズの限界(イメージサークル=レンズは丸い像を
フィルムの外側まで写しているが、その映像の中心部の長方形を普通のカメラは使っている。)
を超えてまで、彼はカメラを地面に水平に置いてレンズ部分をチルトさせているからである。
印画の上下の中心線に消失点がある時は道路が平らである事を表現している。
上り坂を表現する時消失点は上に移動し、下り坂は下方に消失点が移動する。
アッジェは彼の視点から見える全ての物を、克明に写そうとしている。
それは彼の眼前に展開している世界の全ての物を、平等に表現しようとしていることになる。
全画面にピントが合っているのは、そこに存在しているものが互いの存在を認め合う事によって、
世界が調和しているとアッジェは言っているのだ。
構図も特殊なものを除いてほとんど飽くことなく淡々と正面から進めている。
ジプシーや物売りの人々の写真はさほど多くは無いが、多分その事はアッジェの写真をベースにして
画家達は絵を描いたと思われる
ただ彼自身も旅回りの一座にいたことがあるので、好奇の目では捉えていない、さりげないポーズを取ってもらっている。
物売りたちは写真の真中に据え大事にされている。
これらの写真では被写体の動きを止めるため、比較的早いシャッターを切っている。
当然レンズの絞りは開放に近くなり背景はボケている。
彼がわれわれの時代に生きているなら、現代の撮影技術について一層、無口になっただろう。
そして彼は写真を二度と続けようとはしなかったと推察できる。。
若い頃、舞台俳優とか画家の世界を目指していたアジェは最終的に写真が好きになったのだろうか。
その疑問は私の想いから消え去らない。それとも最後まで生活の糧として撮り進めてきたのだろうか。
撮影や暗室作業に時々楽しさを感じることもあったと思うが、ネガごと写真を売る時に、捨て去るように
売り渡している事を考えると、自分の写真にはそれほどの執着をもっていなかったと私は推測する。
彼の作品の中でどの写真が優れ、どの写真がそれほどではない、と区分けして論じる事は出来ない事も無い
しかし事実を彼は撮ろうとしたのだが、彼の生き方や真摯な撮影態度が真実を記録する結果になった、と私は考えたい。
その膨大な数のネガや印画は画家達の資料として、また公的な機構が買い上げていたが、
原材料と彼の労力に見合うだけの報酬が支払われていたのだろうか。
写真材料を買う為だけで、夫婦二人の生活には余裕がなかったと思う。
生涯、彼は写真を芸術とは認めていなかった上に、写真がそれほど好きでなかった。
写真が他の表現分野と異なり、その価値をより多く発揮できるのは「記録」の世界である。
〈記録写真〉は誰が写しても同じには写らない。
それは価値観の違いによるものである。写す人の感性と思想によって時代の記録は大きな違いを見せる。
アングル、季節、時間、気候、レンズの選び方、シャターチャンス、もっと細かく言うなら、絞り値、シャッタースピード、
フィルムの選び方等々も事実ではないもの、いわゆる<真実の記録>にとっておおいに重要な要素になる。
現代ではモノクロームの写真であっても、カラー写真と同じ様に現実の被写体よりも遥かに綺麗に写るものである。
時代が進むにつれ,粒状性、諧調、幻想性などの技術が開発され、より高度に被写体とかけ離れた美しい映像表現が
出来上がり、現実味の無い映像になってきた。
アッジェの時代と現代の写真との違いは機材によるものも大きい。
現実味は薄れ、まるで幻想に近い映像を私達は現実のものと認識してしまう。
絵画と競うような風潮があった時代にアジェは写真から芸術性を排除している。
アッジェの写真が高く評価されるのは、その記録性である。
諧調や粒状性等は原画を見ていないので良く判からないが、写真集から推察すると彼の写真が
その時代の真実をより正確に記録しているように思われる。
写真科学が発展途上にあったことが、彼自身の心的な状況と上手く調和し、現代にいたるまで私達の心に響いてくる。
彼の写真が素晴らしいのは一枚一枚に溢れる真実が詰め込まれていることである。