ミュンヘンの想い出

1989年、門脇が平成元年度の文化庁海外派遣員としてミュンヘンに留学が決まりましたので、私も一緒に行くことにしました。でも二人ともドイツ語はあまり話せなかったので、不安で一杯でした。

この1年は私達にとって今は素晴らしい想い出だけしか残っていません。その第一は門脇の師であるエルンスト・ギール氏です。エルンスト・ギール氏はバイエルン放送響のバス・トロンボーン奏者です。門脇が普通の学生よりずっと年上で、日本ではオーケストラに所属しているということで一目置いて下さったていたので、先生と生徒というよりは半分「仲間」という感じで接して下さっていました。しかもドイツ語が全くダメなので、単語1つ言うと、先生の方でセンテンスを作って下さいました。「なんでわかるんでしょう?」と聞いた時には「頭がいいから!」と答えられました。

レッスンだけでなく、よく一緒に飲みにも連れて行ってもらいました。よく「来週の月曜はワインシュトューベ(先生が毎週仲間達で集まるワインのお店です)でレッスン、楽器無しで!」なんておっしゃったそうです。ミュンヘン・フィルの金管の方達にもここで紹介していただきました。先生が「聴きに来ていい」と言って下さって、ステージ・マネージャーさんにまで紹介して下さいましたので、バイエルン放送響の練習も全部聴かせていただきました。演奏会も全部聴きました。本当に素晴らしいオーケストラです。そして今思い返してエルンスト・ギール氏のお陰で素晴らしい留学生活を送れたんだなと、つくづく感じています。

オクトバーフェストも先生と待ち合わせて連れて行ってもらいました。門脇賀智志の部屋のプロフィールの中にも写真があります。日本に帰る直前でしたが、先生は毎年バイロイト音楽祭に参加していらっしゃるので、門脇を呼んでくれてピットの中で演奏を聴かせてくれました。

先生の50才の誕生日にはお宅に招待されて伺ったら、ミュンヘン中の金管奏者がみんな来ていました。ドイツでは日本の還暦のように、50才のお誕生日を祝います。でも主催は本人です。庭にテントを張って大パーティでした。最後の方では昔ギール氏が所属していらしたアマチュアのバンドが民俗衣装を着て町を練り歩いてから先生のお宅の前でしばし演奏してくれました。ご近所の方達も外に出て来て聞いていらっしゃいました。文化が違うなあ、と肌で感じた一瞬でした。

私のバイオリンの先生はその当時バイエルン放送響でコンサートマスターをしていらした、エルネ・セベスチャン氏です。厳しいレッスンでした。先生のお仕事のご都合で、4日後にレッスン、と言われた時には気狂いのように練習しないと間に合いません。何日後がレッスンでもやらなければいけないことは同じだったからです。演奏旅行でいらっしゃらない時だけ多少余裕がありました。

門脇の学校の練習室は夜には比較的空いているので、学生でもないのに毎日のように練習しに行きました。バイエルン放送響の練習と演奏会とミュンヘン・フィルの演奏会、オペラもありますし、本当に忙しいけれど充実した毎日でした。学校で練習した後は、学校の裏にある日本人の仲間でギリシャ屋と呼んでいたレストランに行ってビールを一杯。

オーケストラ・アカデミー・フュア・ミュンヘンというオーディションがありまして、これに合格すると、ミュンヘンのオーケストラやオペラなどで仕事をすることができます。ギール氏が「こういうのがある」と薦めて下さって門脇はこのオーディションを受けました。合格することができまして、バイエルンのシュターツオパーやバイエルン放送響にものることができました。合格した時に学校の関係者に、話のついでで私の事を話したとのことでしたが、後日 私にもオーケストラのお話が来ました。2回目にこのオーケストラの仕事をいただいた時にたまたまバイエルン放送響の2nd.バイオリンのエキストラ係の方が私のすぐ前の席でした。練習もよく見せてもらいに行っていたので、顔を覚えていて下さっていたらしく少しお話ししたのですが、最後に「うちのオーケストラで弾く気はないか?」と聞かれました。嬉しいなんてものではなかったです。夢だと思っていましたから。それが3月でしたが、それから帰国するまで約半年間、たくさんお仕事をいただきました。その時の音楽監督だった、サー・コリン・デイビス氏、ザンデルリンク氏、ラインズドルフ氏、マルケビッチの息子のカエターニ氏、等など、指揮者も素晴らしかったですが、なんと言ってもバイエルン放送響の中で弾くことができたのはオーケストラで演奏するものにとってはなによりの勉強でした。でも困ったことがありました。ドイツ語があまりよくわからない事が一番の元なのですが、指揮者のジョークが皆目見当がつかないこと、わかっても日本人にはおかしくない事(私がわからなさそうにしていたので隣の方が説明してくれたのですがおかしくないんです。ドイツのジョークってドイツ人しか笑わないものありますよね?)、その中で指揮者が最後の落ちをイタリア語で言った時には???でした。でもこの時ばかりはオーケストラの人たちも半分位しか笑わなかったのでよかったんですけど。

ボストンの想い出に書きましたが、バーンスタインが2回バイエルン放送響を振りに来ました。1回目はベルリンの壁がなくなった時、記念に壁の両側で第九の演奏会があった時です。これはビデオにもなっていますのでご存知の方も多いのではないでしょうか。母体がバイエルン放送響だったので練習はミュンヘンでした。素晴らしいの一言でした。第九ってこういう曲だったのか、ということと歓喜の歌だというのが実感として伝わってきました。決してきれいな棒でもないし、わかりやすい棒っていう訳でもないし、どちらかというと乱暴な感じがする棒だったのですが、出てくる音が違うんです。そろそろ4ヶ月くらいバイエルン放送響の音を聴き続けていた時でしたが、それまでの音と何かが違いました。オーケストラは生き物だなと感じました。

2回目は次の年、1990年の5月でした。モーツァルトのc-mollミサでした。この頃にはもうお仕事をいただいていたのですが、さすがに編成が小さくて団員の方にも降番がありましたのでエキストラの出番はありませんでした。その事を知った時には残念に思ったのですが、曲を聴いたら、この曲を聴けたんだから良かったんだと思いました。あんな音は今まで聴いた事がありませんでした。よくモーツァルトは天上の音楽と言われますが、きらきらと上から振ってくるとしか思えないような音がしました。きらきらというのは説明が難しいのですが、きらびやかなキラキラでなく、強いて言うならば星のまたたきのようなきらきらです。もうお身体の調子があまり良くなくて、練習も途中でできなくなって、続きをお弟子さんのような方がしていたんですが、魔法がとけたように音が変わってしまって驚いてしまいました。本番はお身体の調子が悪いのがわからないくらい素晴らしい演奏でした。そしてこの年の秋に亡くなられました。  

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