二人の朗読劇「被災写真」
(45分、一幕一場)
−被災の手記・朗読と一人芝居・ボランティア聞き語り−
                    2011.12.12

【まえがき】
一人芝居と朗読という構成になっていますが、実際は二人で朗読する方が演じやすいと思います。
ただ、脚本のト書きなどは、一人芝居と朗読を想定した形にしてあります。

一人芝居の主人公は六十過ぎの花村幸介。大阪からボランティアにやってきて、 写真が趣味であることから、被災写真の陳列を手伝うようになったようです。
今日も、陳列場所になっている生涯学習センターで、 作業机に向かって(むこう向きで)写真の分類や手入れに余念がありません。
そこに、被災した人が津波で流された写真を探しにやってきます。彼は、作業を中断して、(正面向きで) 被災写真の展示について説明します。
この劇にはもう一人、被災者の手記を朗読する人物が登場します。 彼は、一人芝居の主人公・花村からそんなに離れていない位置に腰掛けています。 一人芝居が演じられているあいだは主人公にスポットライトが当たり、朗読者は光からはずれていますが、 朗読がはじまれば当然そこにスポットライトが移動します。
また、朗読の内容について、一人芝居の役者が、作業から振り返り、相づちを打ったり、 口を挟んだりすることがあってもかまいません。
二人の朗読という形をとる場合は、朗読者の一人が手記を読み、 もう一人が一人芝居の脚本を読みながら演じます。 動作も、朗読とは言え可能なかぎり、芝居のト書きに沿ってつけた方が分かりやすいかもしれません。
朗読される手記1〜5は、演出する方の裁量で、時間も考慮して選んでください。
こういう設定ですので、この脚本の半分はつねに未完ということになります。
演出家の手によって、五編の手記と合体させられたとき、はじめて脚本が完成するわけです。
完成がいつになるか分かりませんが、取り敢えずは半分の一人芝居をお目にかけることにします。

【では、はじまりはじまり】
舞台中央、生涯学習センターの看板が見える部屋に、長机が置かれていて、 その上に雑然と写真やアルバム、洗面器などが置かれている。掲示板にも写真が貼られている。 掲示板から脚立に張られた何本ものロープには洗濯ばさみで挟んだ写真がつなげて干してある。

主人公は花村幸介。
幕が開くと、幸介は、長机に向かって一人で作業をしている。汚れたアルバムから写真を取り出して 洗面器の湯に浸したり、そこから写真を取りだして刷毛でこすったり、 ガーゼで拭ったり……。
そんな幸介がふと手を止める。今アルバムから取りだした一枚の古い写真に興味を惹かれたようだ。

幸介 「うーん、これはどういう写真なのかなあ、 (と布で拭いていた写真を手で掲げて見る。立ちあがって正面向きになり)白黒の戦争中の写真やな。 学校かな(と、眼鏡を取って目を近づけて見入る)、何とか女学校って書いてあるから、 並んでるのは先生方やな。『祝南京占領』と墨で書いたのぼりを持ってるから、 昭和12年か、……13年やったか。 みんな謹厳実直って感じだな。先生方の前に置いてあるのは、張りぼての南京みたいやな、 棒を通してあるから南京の御輿か。日の丸を持った人もいるから、……なるほど南京を取ったということで、 みんなで『ナンキンとった』とかいうて、担いでまわったということか、おもしろい写真やな。 (と、机の上のアルバムをのぞき込んで他の写真を取りだしてくる) こっちには、兵隊さんが凧揚げしてる写真がある。凧に『和平』って書いてある。 南京あたりやろうか。おなじようなところに貼り付けてあるから、旦那は兵隊さんで中国戦線に、 奥さんは女学校の先生か、そうかもしれんな……(と、呟きながら、写真を洗面器に浸けているところに、 写真を探しに人が来た様子。正面を振り返り)
いらっしゃいませ(と、突然声を張り上げて、立ちあがる)。よくお出でいただきました。 写真を探しておられるんですね。たくさんありますよ。 もう探すのがしんどいくらいいっぱいありますけど、 がんばって探してみてください。ご遠慮なく、アルバムなんかはめくっていただいても、 剥がしていただいてもかまいません。ご自由にご覧ください。どうぞ、どうぞ…… あっ、その前に、よろしければそこにある受付表に名前を書いていただけませんか? あとで、 もし持ち主の分かる写真が見つかったりしたときに連絡したいのでね、お願いできますか。……(しばらく間)、 住所は、はい、避難所でけっこうです。…… どうも、ありがとうございました。……え、ならべてある写真に何か順序があるかって? そうですね、 ざっとですが見つかった 場所ごとに分けてありますから、……、まあ、どこで見つかったか分からない写真の方が 多いかもしれませんが、分からないのは、そこから向こうに、はい、置いてますから、 ゆっくし探してみてください。アルバムには見つかった場所の付箋を付けていますが、 適当に付けたものも多いから、そのつもりであんまり信用しないで見ていってくだされば……。 まあ、何しろ自衛隊やら警察やら消防団やらから、それに一般の人からボランティアから、 もう毎日運び込まれていますから、とても整理できないものもいっぱいありますので……。 (と、それだけ言って作業机の前に座って、写真を拭く作業に戻るが、ふと思い出して振り返って) アルバムは、適当な所で開いてありますが、 他のページも自由に見ていただいてもかまいませんから……」(と、それだけ言ってむこうを向く)

朗読者 (家は流されたが家族は無事だった人の手記1を読む。 朗読の内容と一人芝居の台詞は、あきらかな矛盾がなければ、相互に関係がなくてもよい。 朗読者が手記を読んでいる間、芝居を演じる人は作業を続けている)

幸介 「えー、何ですか(と、話しかけられた様子で、振り返って返事をして、立ってくる)、 やっぱり、見つかりませんでしたか。 家が流されて何もかもみんな持って行かれた?……。そうですか、大変でしたね。 それで、せめて写真があればというので、噂を聞いて来てくださったのですか。 でも、見つかりませんか? 残念ですね。写真は同じものをもう一度、というわけにはいきかせんからね。 はい、一枚でも見つかればいいんですが、…… お宅では、写真はどんなふうに整理しておられましたか? アルバムに貼っておられました? そうですか、 貼ったのもあるし、お菓子の缶の中にいっしょくたにいれてあったのもある。まあ、そうでしょうね。 小さい頃の写真が一枚もなくては、将来子どもができたとき、自分がどんな顔をした子どもだったのか 説明することもできませんからね。ご両親はもう亡くなっておられるんですか? そうですか、 だったら、写真を探してきて、孫におじいちゃん、おばあちゃんの顔も覚えてもらわなくてはね。 自分のこれまでがいっさいがっさい失われたような気持……まあ、そうでしょうね。 根無し草みたいな感じですか? お父さんやお母さんの写真もねぇ、みんなですからね。 親戚も被災していて、写真を探そうにも探せない、そうでしょうね。それにスナップ写真なんか、 親戚にも配ってませんからね。まあ、暇なときに根気よく探すしかないでしょうね。 遺影もなにもないとなると、ほんとうに思いだすてだても奪われたようで、……、 はい、どんなご両親でしたか? うーん、漁師をしておられて……牡蠣の養殖ですか。 二人で……どんな写真がありますかね。孫と撮した写真、お孫さんは、女のお孫さんで、 今年で三歳、分かりました。私も気をつけておきますが、なにしろ この地方はお孫さんとの同居が多いですから、そういった構図の写真が普通ですからね。
えっ? 私ですか? 私は大阪から来ています。ボランティア……、まあ、そうです。最初はバスで来て、 瓦礫処理のお手伝いをしてたんです。津波の映像を見てたら、つらくてね。じっとしておれなくて、 ……一週間くらいで帰る予定だったのですが、被災写真の管理という仕事があるって小耳に挟んでね。 私は写真が趣味なもので、それじゃあ、この歳だし、え? もう62歳ですよ。 三年前までは養護学校の教師をしていました。それが退職したら、 暇でね。暇を持てあまして、というか……それで、土掻きの作業をするよりも、 そちらの方がお手伝いできるかなって、市街にボロアパートを借りてね。 本格的に被災写真の展示ボランティアというやつをはじめたんです。
(そこに、自衛隊員が、写真を運んできたようす)
やあ、篠田さん(と、相手の敬礼にたいして、敬礼を返す)、ご苦労さんであります。……また、 写真ですか? ありがとうございます。今日はどのあたりですか? はい、6号線の変電所の近辺、 わかりました。そんなふうに表示します。たくさんありますね、はい、そこに置いといて下さい。 なかなか手が回らなくて、……昨日の分は、今ここで進行形、 もうちょっとであらかたできるかなってとこです。 段ボール箱の日用品はまだそこにあるでしょう。 鋭意努力しておりますが……はい、ありがとうございます。 自衛隊も辛いお勤めですよね。行方不明者の捜索だけでも大変なのに、原発にも動員されてるし、 瓦礫処理もあるでしょう。……、 えっ? 泥まみれの写真を拾ってると、いろいろ考えてしまいますよね…… 津波の前にここにあった普通の暮らしの証拠の品みたいなもの? まあ、そうでしょうね、 それを少しでも持ち主に返したい、そういった気持をエネルギーにして、どうかよろしくお願いします。 (と敬礼する。いったん直るが、もう一度今度は遠くに向けて敬礼を返す)

ああ、失礼しました。こんなふうに毎日持ってきてくれるんですよ。今は不明者の捜索が中心だそうです。 そこで、写真が見つかったら、まとめてここに運び込んで来られるんです。
あなたのご家族の写真も見つかればいいのですが、……偶然を待つしかないですからね。 ほんとうに今届いたこの段ボールの中にあるかもしれないし、……毎日どこかから 持ち込まれてきますから、望みを持って、 また暇なときにでも立ち寄ってみてください。この近くの分はほとんどここに集まってきますから、 はい、いつかは出会えるかも知れません。そうなってほしいですよね。はい、じゃあどうもごくろうさま でした。失礼します」
(と、再び作業に戻る)

朗読者 (被災した方の手記2を読む)

幸介 (作業机から振り返って、立ちあがる)
  「いらっしゃいませ、ご夫婦で……、そうなんです、写真とか思い出の品がね、そう、 そこいら中いっぱいです。写真ですか? そこの壁に沿って出てきた地区ごとに……、はい、探してみてください。 お住まいはどちらでした? はあ、小学校の……、そうですか。それでお母さんの写真をお探しなんですか、 えー、まだ見つかっていないけど、遺影の写真もない、たしかにそうでしょうね。 親戚に聞いてみたけども、昔の若いころの写真だったらないこともないけれど、 年とってからのはない。そうでしょうね。年とったらそんなに写真を撮りませんからね。 お嫌いだったんですか? そういう方もおられますね。じゃあ、写真は少ないんでしょうね。…… えっ、はい、出てきた地区ごとにあらかた分類されていますから、 お宅は小学校の近くとおっしゃっていたから、そこですね、そこらあたりから探してみてください。 はい、その衝立の向こうあたりから……」(再び作業に戻る)

朗読者 (家を流されて、母親を亡くしたという娘さんの手記3を読む)

幸介 「えっ、あったんですか(と、突然立ちあがる)。本当ですか? 今日はじめてですよ。 よかった、それはよかったですね。写真のとこじゃなくて、あ、そうですか、 日用品の段ボールの蓋が開いていて、中身が見えた。そんなところにありましたか。 見逃したんですね。あなたはその缶缶に見覚えがあって、そうですか……とにかく見つかってよかったです。 中は汚れていましたか? 缶缶の蓋が歪んではずれかけていて水が入っていた。 え? 水じゃなくて、泥ですか、泥が入ってますか。でも、もう乾いている……。 はい、拭きましょうか。少し傷んでますね。中身が写真だと分かっていれば、取りだして 洗っておいたのに……ちょっと待ってください。湯につけて泥をふやけさせてから、 こういうふうに刷毛でそっと洗い流せばいいんです。 (と、作業をやってみせる)ほら、大丈夫ですよ。少し変色したり傷んだりもあるけれど、丁寧にやれば 充分使えますよ。傷が気になるようならパソコンに読み込めば修正できます。 スキャナー使えますか。はい、じゃあ、大丈夫ですね。もし分からないところがあったら私がやりますので、 また明日でも持ってきてください。
写真というのは、とっても大切なんですよね。私も分かります。
大きな写真があると、何かその人の気配がそこにいるように感じられるときがありますから……。 まあ言えば、写真に誘われて、たましいが自分の近くに寄ってくるようなものです。 写真がなければ、そんなこともないわけだから……。 遺影を飾るのもそんなふうな理由があるんですよ、きっと。
写真が普及しはじめた明治の初め頃は、写真を撮すとたましいを抜き取られて、 死んでしまうといって怖れられたそうですが、一部真実ですよ。 写真はたましいの呼び水みたいなものですからね。、 写真がある場合とない場合は大違いです。はい、というわけで…… どうもご苦労様でした。よかった、よかった。ご苦労様でした。……
あっ、いらっしゃいませ(そこに新しいお客が来たようす)。 写真をお探しですか? えっ? 今の方ですか? はい、そうです。写真が見つかったんです。 というか、家族写真の缶缶を自分で見つけられたんです。それも日用品のコーナーで、ですよ。 少し泥が入り込んでいましたが、 それでもあんまり傷んでいなくてね、……今日最初の発見です。幸先がいいです。 あなた方のも見つかりますように……。はい、写真は見つかった場所ごとにならべてあります。 ですが、さきほどのこともありますし、まあ、とりあえずあちこちとご覧になってください」 (と、作業に戻る)

朗読者 (家を流され、子どもを亡くしたという父親の手記4を読む)

幸介 (作業机から振り返り)「見つかりませんでしたか……(と立ちあがってくる)、残念ですね。 えっ、賢治の石碑の写真がありました? ああ、あの『雨ニモマケズ』の詩が彫り込まれたやつですね。 そう、これこれ、これはあなたが撮された? そうじゃないけれども、はい、家族で見にいかれたことがある。 なるほどね。お子さんといっしょに……、亡くなられた。それは、それは残念でした。……おかけする 言葉もありません(と、言いよどむ)。まだまだお辛いでしょう。…… それで家族旅行が懐かしくて……そうですか。いっしょにね。 あの石碑はのこったらしいですね。えっ? それはないでしょう。その写真が岩手県から流れてきたなんてね。 ここいらの人があそこに行って撮ってきたんでしょう。まあ、それはともかく賢治さんは見直されているようで、 渡辺謙が『雨ニモマケズ』を朗読しているらしいですね。あの詩で元気づけられている人も多いと聞きますが、 ……しかし、私の場合はちょっと違いました。実は私も五年前ですが、長男を亡くしているんです。 そのときは、『雨ニモマケズ』ではなくて、賢治さんの詩に救われたんですよ。 この本ですよ。(と、詩集『春と修羅』を手渡す)ボランティアに来るときこの一冊を持ってきたんです。 なにしろ、これに救われたんですからね。……いまだにね……
あっ、いらっしゃいませ。(そこに、また新客が来たようす)写真をお探しですか? どうぞご自由に 探してください。 えっ、こちらさんのお知り合いですか? そうですか……、今、お子さんの話をお聞きして、 たいへんお辛いだろうと……それで宮沢賢治さんの話をしていたんですよ。 えっ? あなたは、奥さんを亡くされたんですか……、船を沖に出して帰ったら、家が流されて、 奥さんも……そうですか。辛いですよね。そう、いまも話していたのですが、 じつは私も息子を亡くしているのでね、その辛さはわかります。二十八歳でしたが、…… 海で亡くしたのでね、今回の津波の映像を見るといたたまれなくて、…… なぜか息子のことが思い浮かんで消えないんです。息子の友人や知り合いも同じだったって、 そんな話も聞きましたよ。私が経験したのとおなじようなつらさにいま耐えている人が たくさんおられる思うだけで、落ち着かないんですよ。息子が亡くなったころのことを思い出してね。
それで? そうですか……、家といっしょに何もかも流されて、写真も一枚もないのですか。 どうぞ、ねぇ、奥さんの写真がみつかりますように、 探してみてください。あなたも、もう一度探されますか。はい、どうぞ、もう一度お二人で探してみてください」
(と、作業に戻る)

朗読者 (妻を亡くした人の手記5を読む)

幸介 (拭いていた大ぶりの写真を洗濯ばさみに挟んで、ゆっくり立ちあがる) 「お二人ともにやっぱり見つかりませんでしたか……ほんとうに残念です。 せめて一枚でも見つかったらね、少しは心が安らぐと思うのですが……、 写真が一枚でもあればね……でも、私は、あの日から息子の写真を見られなくなったんです。 いまだにアルバムを開くことができません。 ……でも、あって見ないこととないことは違いますからね。諦めないで探し続けてください。とても大切な ものですからね。…… えっ、私のことですか、私のことを聞きたいとおっしゃるんですか?  自分のことをしゃべるのは禁じ手なんですけどね。 ここへ来るまえにボランティア講習会で言われたんですよ。
ついついしゃべりたくなっても、それは禁止だからって…… でもね、私も子どもを亡くしているっていう、そこのところであなた方と心がつながるかもしれませんからね。 ……まあ、聞いてもらいましょうか。

私がこのような写真を探すお手伝いをはじめたのは、自分の趣味が写真を撮したり現像したりということで、 泥で汚れたりした写真を修復したりすることもできるんじゃないかと考えたのと、それに もう一つ、長男を亡くしてから写真の大切さというものを感じてきたからねぇ、それもあるんですよ。
もう五年も経っているのに息子の写真を見ると、息子が立ち現れてくるのです。
息子の気配がそこらに満ちる、……息づかいとか、笑ったときの雰囲気、声、 体温の暖かさまでリアルにね、感じ取れるのです。それを何と言えばいいのでしょうか。
私は、息子が亡くなってからずっと息子のたましいというものを探し求めてきたように思います。 いくつかふしぎなこともあったからね、……偶然は偶然だろうけれど、 そこに何か意味が感じられる偶然というか、たましいというものを考えないと説明できないというか、 まあ、そんなこと……、で、たましいというのは、実際のところあるんだろうかって、 ずーと考えてきたような、ね、そのとき私の道案内をしてくれたのはやはり賢治さんでした。 宮沢賢治。福島の隣りの隣りの岩手県の生まれですよね。 今、賢治の『雨ニモマケズ』が被災されたみなさんを励ましているようですが、 茫然としていた私を道案内してくれたのも賢治さん、まあもっと言えば賢治さんの詩でした。

五年前、長男を亡くしたとき、私は自分の生きてきた世界がパタンとめくれて、 まったく知らない世界が立ち現れ、そこに一人取り残されて茫然としている、そんな感じでした。
賢治の表現をつかえば『たれだってみんなぐるぐるする』(注1)というようなひどい状態です。 何も手につかない。足下も踏みしめることができなくてふわふわしている。 譬喩なんかじゃなくて、実際ふわふわしているんですよ。 時間の感覚も失われていました。何をするにも手がかりがない。何も読めない。 何も観ることができない。そんな状態がしばらく続きました。 まあ、いわばテレビの白い画面に向かい合ってただずーと見続けていたような感じでした。
賢治さんはこう言っています。(と、詩集を開いて読む)

とし子の死んだことならば
いまわたくしがそれを夢でないと考へて
あたらしくぎくつとしなければならないほどの
あんまりひどいげんじつなのだ(注2)

私にとっても『あんまりひどいげんじつ』でした。あなた方にとってもそうだと思います。 『だれだったみんなぐるぐるする』ような『げんじつ』ですよね。 今から思うと、そんな『げんじつ』に茫然としてふらふらとよろめきながら賢治さんについていったら、 いつのまにかもっともひどい辛さを乗り越えていた、まあそんなふうでしたね。
息子はブラジルで遭難したのですが、……突然ブラジルといってもおどろかれますよね。 息子は仕事でブラジルのマセイオっていう大西洋に突き出た突端のような州に滞在していて、 そこの海で亡くなったんです。遭難したと連絡がはいったときは、さっきも言ったように、 目の前がまっ白ですよ。何にも考えられない、座っておれない、じっとしておれない、 ただうろうろしているだけ。遺体が見つかったっていう連絡が来て、ブラジルに行くことになっても、 パスポートの申請をするためにでかけても、電車の中で踏ん張れない……、 ターミナルの街並みや歩いている人たちはまったくかかわりのない色落ちしたような風景になって、 自分を避けているように、音も気配も微妙に遠い……。 デジカメの記録用のマイクロチップを買いにいっても、百貨店を床を踏みしめることができない。 ふわふわと雲の上を歩いてる感じ……。ところかまわずに涙があふれて来るしね。
ブラジル旅行は一泊五日でした。この意味わかりますか、マセイオのホテルで3時間くらい仮眠しただけで、 行って帰るまで五日間ほとんど機中泊で過ごしたということです。 さすがに帰る途中サンパウロでダウンしてしまいましたが……。同行していた次男に助けられて、どうにか 家に帰り着いたときの感想は、『嘆き疲れた』、ただそれだけでした。 次男もそんなふうなことをポロッと漏らしたから、期せずして同じような思いであったのでしょう。 飛行機の長旅の間もずっとぼんやりと息子のことを考え続けていましたからね。 余談ですが、後に、ふと手にした旧約聖書の詩篇に 『わたしは嘆き疲れました』という言葉を見つけたときは驚きましたよ。
マセイオのホテルに息子の遺品が保管されていました。その中に賢治の『銀河鉄道の夜』の文庫本が あったのです。どうして、その本をわざわざ携えていったのでしょうか。私が宮沢賢治が好きで、賢治童話を 劇にして文化祭で上演したりもしていて、彼にも賢治を読むように勧めていたからでしょうか。 ブラジルまでの長い飛行機の中で読もうと考えたのかもしれません。ブラジルからの帰途、飛行機の中で、 ぼんやりとではりますが、そんなことに繰り返し思いを巡らしていました。 しかし、遺品から取りだしても、その文庫本を読む気力はありませんでした。 息子の手触りが残るその文庫本をただペラペラと繰っているだけでした。そのうちにふと年譜が目に留まって、 息子が亡くなった九月二十一日が、賢治の命日だということに気付いたのです。 地球の裏側のことだから同じ日といっても日付変更線の関係があって、 厳密にいうとどうなるのかわかりませんけどね。 まあいまにして思えば、そういう生き死にに絡んでくるとふしぎな偶然というのがあるんですよ。 残されたものは、それについつい意味を与えたがるんですよね。 もちろん私もそうですよ。でも、どうだかいまだにわかりませんけれど……。
禁を破ってまで、こんな話をするのは、あなたもおなじような状態におられるように思うからなんです。 どうでしょうか。あの3.11から一月、もう少しは心が落ち着いてきたでしょうか。 まだまだ辛さの真っ最中ですよね。すみません。分かってはいるのですが……。
私はそのころ教師をしていましたが、一月を過ぎても人の中に交わるのが怖いというかイヤでイヤで、 そのあとで離人症の症状というのを読んだことがありますが、まさにそんな感じだったのです。 事情を知っている人たちと会いたくない、一人でいたい。不幸だと思いたくないけれど、悲しくて、つらくて、 この喪失感を癒す方法はないものかと、いろいろと考えてみる。 しかし、そんなものありはしないのはわかっているのです。 仏さまも神さまも助けてくれるわけではない。といって、悲しみから逃げようとしているのではない。 悲しむのは当然だし、充分悲しんでやりたい。しかし、つらい。そんな引き裂かれるような日々でしたが、 ある日、ふと賢治の詩が読めるということに気がついたのです。賢治が妹のトシさんを亡くしたとき書いた 一連の詩が『春と修羅』の中にたくさん収められています。 その詩を読むことができる、それは発見でした。まさに日にち薬、 いつのまにかそこまで回復していたということでしょうか。
『無声慟哭』や『オホーツク挽歌』、 ……私は、それらの詩をむさぼるように読みました。妹のとし子を思う詩が身に染みてくるのです。
詩が読めたとなると、つぎに遺品にあった『銀河鉄道の夜』も読んでみようという気になりました。 するとこれも読めるのです。最終章のあたりにカンパネルラのお父さんが登場します。 息子を亡くしたという点では、私と同じ立場です。ところがそのお父さん、実に冷静なのです。 息子のカンパネルラが亡くなってしまったのに、 あんなに冷静でいられるのはどうしてだろうという疑念が湧いて、そこに引っかかってしまいました。 その疑念がしばらく頭から離れませんでした。しかし、全体の展開からは、これまで読んだときとは 違ったふしぎな感銘もあったのです。
私は少しずつ知らない世界になじんでいったように思います。
少しずつですがね、でも……息子がいないという『げんじつ』に 慣れることはなかったですね。今だにそうですよ。不意にその『げんじつ』が信じられなくて、 ほんとうに頭を振って、振り払ってしまうことがありますよ。……
さっきも言いましたが、その間、私は、ずーとたましいの行方ということを考えていました。 その探求においても賢治さんが先達、道案内でした。
妹のとし子さんが、亡くなるときに『あめゆじゆとてちてけんじや』、外に行って、 雨雪をとってきて欲しいと頼んでいるんです。
そのときのことを賢治さんはこう書いています。これは、賢治さんの詩集『春と修羅』ですけどね。 (と、手提げから文庫本詩集を取り出し、付箋の付いたところを開いて)こんなふうな詩です。これも『永訣の朝』の一節ですよ。

(あめゆじゆとてきてけんじや)
蒼鉛いろの、鉛いろのということです、暗い雲から
みぞれはびちよびちよ沈んでくる
ああとし子
死ぬといふいまごろになつて
わたくしをいつしやうあかるくするために
こんなさつぱりした雪のひとわんを
おまへはわたくしにたのんだのだ
ありがたうわたくしのけなげないもうとよ
わたくしもまつすぐにすすんでいくから(注3)

死んでゆくとし子さんが、兄の賢治さんに、雨雪をとってきて欲しいと頼んだのは、 賢治さんを『いつしやうあかるくする』ためだというのです。 どうして『あかるくする』ことになるのかわかりませんが、それが二人の最後の共同作業であった というところにヒントがありそうです。とし子が死んだ後、賢治が雨雪を見るたびに、 いつもそこにとし子が寄り添うように立つからです。 それを、とし子のたましいが立ち現れるといってもいいと 思うのです。同じ日に『松の針』という詩があって、そこで賢治は 『わたくしにいつしよに行けとたのんでくれ』 と訴えているのですが、一緒に連れて行く代わりに、とし子は自分のたましいを残していったのです。
そう考えたとき、私はたましいというものが少しわかったような気がしたのです。
もう一つ読んでみます。

とし子とし子
野原へ来れば
また風の中に立てば
きつとおまへを思ひだす(注4)

とも歌っています。
また、こんなふうにも

二疋の大きな白い鳥が
鋭くかなしく啼きかはしながら
しめつた朝の日光を飛んでゐる
それはわたくしのいもうとだ
死んだわたくしのいもうとだ
兄が来たのであんなにかなしく啼いてゐる(注5)

たましいは、野原の風の中に、また鳥になって飛んでいるのです。
こうも言えるかもしれません。風が吹いてきたとき、鳥を見たとき、とし子のたましいが 賢治に立ち現れてくると。私は、そう考えたのです。
私にとっての現実がそうだったからです。息子を失った頃は、目にするものすべてが息子に繋がって、 哀しみをもたらしたからです。つまりそこでは何を見てもたましいが立ち現れてきたのです。
中でも特別なのが写真でした。先ほど言ったように、私は息子の写真を貼り付けたアルバムを 見ることができなくなりました。あれ以来一度も開いていません。 いまだに息子の遺影を見るたびに息子の気配が立ち現れてくるのです。 たましいが、ですよ。……これをたましいと呼ばなくて何をたましいと呼べるでしょうか。
賢治さんが、とし子の『死んだ次の十二月』の雪の日に、学校からの帰り道、 『まっ白になった柳沢洋服店のガラスの前』で会ったとし子の 幻、それもこんなふうなものだったんじゃないか、と思うのです。想像ですよ。……
写真を見たときに、そこに現れてくるあたたかい気配、 自然の中で何かをきっかけに立ち現れてくる懐かしさ、 そんなものを、それこそたましいと言ってもいいんじゃないでしょうか。人が亡くなったとき、 これまでの伝承なんかによると、たましいは近くの里山に返ってくると言われています。 その意味はこういうことではなかったのかと 気づいたのです。それは、思い出とも少し違います。思い出というのは、過去の向こうにあるものです。 たましいというのは、時間の向こう側ではなく、こちら側に、今、私に寄り添って 立ち現れるものだからです。
そういう意味で、写真というのはわたしにとってとても大切なものになったのです。 今風の言い方をすれば、写真はたましいを呼び起こす必須のアイテムだと思うのです。 自然の中で、街の中で、思い出とともにたましいに出会うということもあるでしょうが、 現在では写真がきっかけとしてとりわけ大切なものだと気が付いたのです。
そういうわけで、同じボランティアをするんなら、被災写真を探すお手伝いをさせてもらおうと 考えたのです。分かっていただけましたか。……いやあ、しかし、しゃべりすぎました。 自分のことばかりで、…… 一番やってはいけないことだって、ボランティア講習会で念を押されていたんですが、 やっぱり自分のことも聞いて欲しかったんですね。……
(しばらく沈黙)
えっ、どうされたんですか? あの写真ですか?(と、先ほど洗濯ばさみに挟んだ写真を取ってくる)。 この写真……、どうぞ(と、朗読者に渡す)、あなたの息子さん……、それは、それは…… (と、しばらく言葉を失っている)。こんなふうに見つかるなんてね。えっ、近所の園田写真館で撮された。 そうですか。昨日持ち込まれた写真で、ちゃんとした写真とか大判のが多かったから、 どこかの写真屋さんのが流されたんだろう って思ってたんですよ。ええ、よく撮れたからショーウィンドウに飾らせてくださいって言われて、そうですか、 たしかによく撮れていますもんね。フレームに入ってたんで、泥水が少し染みこんでましたけど、 写真はあまり傷んでなくて、ほんとうによかったです。…… それがこんなふうに見つかるなんてね。ふしぎですね。……偶然だけど、偶然すぎますね。…… まあ、人が亡くなったときこういった偶然はありがちですけれどね。 つい今しがた拭いて干したばかりなんですよ。他にないか、確認してください。 (と、長机の辺りいっしょに探す)写真屋さんの写真らしいのは、ここにあるだけですけどね。…… えっ、ありませんか。飾っていたものだから、一枚だけですかね。それにしてもふしぎだな。 偶然といっても何か感じてしまいますね。……そういう偶然というのはあるんですよ。きっと…… なぜか涙がでますよね。もらい泣きじゃないですよ。
お母さんに気づいてほしかったのかもしれませんね。子どもさんの遺志ですよ。そう考えられたら、 いいんじゃないでしょうか。お母さんにこの写真を残していきたいっていうね……。
もう一度、念のためにそのあたりと、それから足下の段ボールの中も探してみてください(と、長机の 下を指し示す)。 そのとき撮った他の写真があるかもしれませんから……

(と、そこに市役所の海野さんが現れたようす)海野さん、いらっしゃい(そっと涙を拭う)、めずらしいですね。 市役所の方がお忙しいのにここに来られるなんて、どうされたんですか? 息を切らして、 えっ、この地域が計画的避難地域? それは何ですか? はじめて耳にすることばですが、……、 え、計画的避難地域に指定されると、一月以内に避難しなければならないっていうんですか? それは、 どういうことですか? 放射能が地域的に高いので、一月以内に避難……、 それで計画的っていうわけ? じゃあ、ここの写真はどうなるんですか? 聞くまでもないですね。 もちろん引っ越しですか? どこか、探してみてくださいよ、…… とりあえずは住民の避難先を探すので手一杯なので、 写真はここに残して行くしかないって、そうですか、この生涯学習センターも閉鎖ということですね。 ……それは、しかたないことかもしれませんが、 しかし、住民もこの地域から追い出されるということですよね。そうすると、 どうなるんですか? 亡くなった人のたましいは、どこに立ち現れたらいいんですか? 夢の中だけに 閉じこめるんですか、……そうか、 たましいなんて突然言い出したんで、びっくりですよね。いや、いまあちらの方たちと話していたんです。 亡くなった人のたましいはまだまだこのあたりをさまよっていますよ。それが、写真もない、 遺品もない、子どもの頃遊んだ野山もない、商店もない、……そんなことになったら、 たましいに出てきてもらう道具立てが何にもないということではないですか。
(幸介、苦悩の表情で歩き回る)
この地域から人が消えてしまったら、たましいはどこにいけばいいんだ。 あのふしぎな偶然も何も起こらなくなってしまう。ふるさとの山や野原や街並みがなくなったら、 出てこれなくなってしまう。 ……海野さんにぼやいてもしょうがないですねどね。はい、分かりました。 明日からぼちぼちと準備をはじめますわ。えっ、やりますよ。ここで投げだしたりできませんから。 海野さんも行き先を確保してくださいよ。大切な写真なんですよ。ええ?、分かってるって。 じゃあ、お願いしますよ。忙しいのは分かっていますが、そこをなんとか……、頼みますよ。 ここが閉まる前にね。(と、立ち去る海野さんの背に呼びかける)
(先ほどの人たちが再び受付に戻ってきたようす)
ああ、他にも見つかりましたか? 見つからない。 そうですか。でも一枚なりと見つかってよかったですよね。もうお帰りになりますか。 お母さん大丈夫ですか? こちらのお父さんは、同じ避難所ですか? だったら、お願いしますよ。 一人で帰すのがちょっと心配ですよね。大丈夫? はい、お願いします。…… 今の話お聞きになりましたか? 計画的避難区域とかに指定されて、移転しなければならないらしいですよ。 この生涯学習センターも使えなくなるらしい。仕方ありませんね。 また、移転先が決まったら、市の広報か何かに載ると思いますので、覗いてみてください。 写真は毎日持ち込まれてきますからね。今日みたいなね、どんな偶然で見つかるか分かりませんから。 お待ちしていますよ。受付で名前を書いていただいているので、 もし何か手がかりがあれば連絡しますから……
えっ、さっきの市役所の海野さんの話ですか? そうなったら、 また避難所を変わらないといけないから連絡が取れるかどうか……、はあ、なるほどそうですね。 変わるんですかね……、今は、県立高校の体育館、 また移らないといけないとなると……、そうなりますか、まあ、そうなりますね。原発に振り回されて、…… 根無し草? そんな気持にもなりますね。はい、気持をたしかにもって、今日はほんとうにご苦労様でした。 お母さんも、たった一枚ですが、それでも見付けられてよかったです。ご主人、この方を頼みますよ。 はい、ご苦労様でした。
よかったなぁ、あんな偶然があるんだな。ふしぎだなあ。あー(と、伸びをする)、 今日はもう閉めるか……(と、腕時計を見る)、もう、こんな時間だ。片付けなくては、 ……それにしても、あの人たちどうするのか、また、避難所を移るとなると、それもたいへんだな。 どんどんふるさとから離れてゆく。いつかもどれるようになるんだろうか。 あの人たちがふるさとに帰れないとなったら、亡くなった方たちのたましいはどこにゆくのか? …… それが問題だ。

(片付けながら、ふと『故郷(ふるさと)』の歌が低く口をついて出てくる(アカペラで)。だんだん声が大きくなる。 途中、朗読者が立ちあがって、観客に唱和を促し、指揮をする。みんなで合唱)

兎追ひし かの山
小鮒(こぶな)釣りし かの川
夢は今も めぐりて
忘れがたき 故郷(ふるさと)

如何(いか)にいます 父母
恙(つつが)なしや 友がき
雨に風に つけても
思ひ出(い)づる 故郷

志(こころざし)を はたして
いつの日にか 帰らん
山はき 故郷
水はCき 故郷(注6)

(歌いおわったら、朗読者、観客のざわつきを制する。幸介、ハミングしながら、片付けを続けるが、 ふと動きを止めて、突然凶暴化して、「ウォー」と叫びながら、手にしていたタオルを床に投げつける)
ちくしょう、……こら、原発、これ以上俺たちからたましいの行き場を奪うな、…… ああ、くそー、奪わないでくれー」
(叫びが尾を引いて消えてから暗転)

                     【幕】

注1、詩集『春と修羅』の『オホーツク挽歌』の中の詩「青森挽歌」より
注2、詩集『春と修羅』の『オホーツク挽歌』の中の詩「青森挽歌」より
注3、詩集『春と修羅』の『無声慟哭』の中の詩「永訣の朝」より
注4、詩集『春と修羅』の『無声慟哭』の中の詩「風林」より
注5、詩集『春と修羅』の『無声慟哭』の中の詩「白い鳥」より
注6、唱歌「故郷(ふるさと)」(作詞・高野辰之 作曲・岡野貞一)


【後日談】
(下りかけた幕がもう一度上がり、退場した幸介がふたたび舞台下手から登場)
幸介 「すみません。いったんは幕が下りたのですが、じつは後日談があるのです。 もうしばらくお付き合い願えますか。……被災写真の展示ボランティアは、 延べ5ヶ月で終わりました。計画的避難区域から 内地の老人会館に移って3ヶ月、そのころには訪れる人も少なくなり開店休業状態になってしまいました。 しかたなく地域のボランティアに引き継いでもらって、私は大阪に帰ってきました。
しばらくは脱力したようにぼんやりしていましたが、そのうちにあの5ヶ月は何だったのかと考えるように なりました。私は、被災写真を探しに訪れた人たちに、自分の体験を何度か打ち明けました。 そう、ボランティアの禁じ手をやってしまったのです。 それがあって被災した人たちと共感できるようになったという面もあるし、 私もまた話すことによって癒されていたように思います。そんなことを振り返っていると、 無性にもう一度被災地に飛んでゆきたいような気持になりました。
しばらくたって不安定な状態が一段落してからも自分の考えを何度も反芻していました。 被災写真とたましいとの関係は、あのとき話したことが揺らぐことはありませんでした。
退職してから時間があるために、日課のようにして近くの風土記の丘まで散歩するのですが、歩きながら いつのまにか、被災写真や風景、そしてたましいといったことに思いを巡らしているのです。 これまで、息子のことがあってから考え続けてきた想いを、歩きながら矯めつ眇めつしているのです。
ここからは少し話が込み入るので分かりにくいかもしれませんが、とても大切なことなので、 ガマンしてお聞きください。
伊東静雄という詩人をご存じですか。戦前は大阪の住吉中学校、戦後は阿倍野高校に勤めながら、詩を書いていたのですが、 昭和28年肺結核のために亡くなりました。彼の代表作は『わがひとに与ふる哀歌』といって、 なかなか難解な詩集です。
この伊東静雄と宮沢賢治、二人の詩を並べることでおもしろいことになるということに、 散歩中に思いついたのです。大阪の詩人と岩手の詩人をドッキングさせるとどうなるか、 ということです、たましいの問題についてですよ……。
伊藤静雄の『わがひとに与ふる哀歌』の最後の近くに『鶯』という詩があります。
パンフレットに印刷してある詩です。ご覧ください。
その詩は、

(私の魂)といふことは言へない(注7)

という一行からはじまり、

しかも(私の魂)は記憶する(注8)

という最初の一行に対する受けの一行でほぼ終わるのです。この二行はゴチックで強調してありますね。 見てもらえば一目瞭然、『鶯』と題されたこの詩は 魂に言及したこの二行に挟まれているのです。 その二行の間に、鶯にかかわる君との思い出が語られています。 それが(私の魂)が記憶していた内容なのですね。
だから、伊東静雄にとってたましいというのは、 (私の魂)『といふことは言へない』もの、つまり(人の魂)とは言えるが、 (私の魂)とは言えないものだというのです。魂は常に他人のものなのだということです。 しかし、(私の魂)は、『記憶する』ことができるものらしいのです。 その記憶したものは、他人のためのものなのです。
『鶯』という詩の最後は『しかも(私の魂)は記憶する』という一行に続いて、次のように締めくくられます。

私はそれを君の老年のために
書きとめた(注9)

(私の魂)の記憶は、君のためのものなのです。

さて、これだけの枠組みを準備しておいて、宮沢賢治に移りましょう。
賢治が妹とし子との別れを描いた『永訣の朝』から先ほど引用した部分について考えてみます。
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)に挟まれた、『ああとし子』という呼びかけに始まる一節です。 ここも資料の詩の中で強調してあります。
ずっと以前に読んだとき、私が拘り迷ったのは、 そこにある『わたくしをいつしやうあかるくするために』という表現です。 死んでゆくとし子が『雪のひとわんを』頼んだことが、賢治を一生明るくするようなことなのでしょうか。 どうして『いつしやう』なのか、私は、永くそのことに引っかかっていたのです。
しかし、散歩している最中に、ふと、その疑問が、伊東静雄の詩と並べることによって、解ける ということに気づいたのです。
賢治はたましいということばを使っていませんが、敢えてたましいということばを補ってみると つぎのようになります。

わたくし(の魂)をいつしやうあかるくするために
おまえはわたくしにたのんだのだ

たましいというのは、いったい何なのか? 私の考えは被災写真を探しに来られた人たちに 話した内容とまったく変わっていません。それはこうです。ある人を想ったとき、 『私の傍らに立ち現れてくるもの』、それをその人のたましいと呼びたいと思うのです。
ある人を想ったとき、私の傍らに立ち現れてくるものですから、それは、(私の魂)とは言えません。 ある人の魂です。私は、(私の魂)には言及できないのです。 しかし、(私の魂)はある人にかかわることがらを『記憶する』ことはできると、伊東静雄はいうのです。
魂は記憶することができるのですから、賢治の魂は、とし子から『雪のひとわんを』 頼まれたということを一生記憶してゆきます。そのことを賢治は、 『いつしやうあかるくする』と表現したのではないか、と思うのです。 たましいが記憶することなので、たましいは忘れずはずがありませんから、 『いつしやう』というふうな強いことばを遣ったのではないでしょうか。
その記憶が魂に刻まれたがゆえに、 『わたくしもまつすぐにすすんでいくから』という一歩を踏み出すことができるのです。
亡くなった人のことが魂に刻まれることによって、魂があかるくなり、そのことで わずかながらも喪失から立ち直る決意を見せているのです。

ここには、喪失体験にかかわる大切な機微が表現されているように思います。
今回の震災でも多くの命が失われ、いまだに喪失の悲しみから立ち直れない人たちがおられます。 そこから一歩を踏み出すためには、魂に刻まれた亡くなった人の記憶が必要なのです。 その記憶が魂を『いつしやうあかるくする』という手助けがあって、その人の家族が、喪失の悲しみから 賢治のように『わたくしもまつすぐにすすんでいくから』 と一歩を踏み出すことができるのだというのです。
もちろん、この立ち直りは、震災被災者だけの問題ではありません。 これは、自分にも言い聞かせていることなのです。自分の立ち直りのために……。
宮沢賢治さんは、『雨ニモマケズ』だけでは済ますにはもったいない詩人です。 彼は、大切な人を喪った悲しみから立ち直るにはどうしたらよいかを、妹を悼む詩の中に 書き残してくれていたのです。
亡くなった人についてのたましいの深みに達するような思い出を 呼び起こすことで、『ありがたうわたしのたいせつなひとよ』/ 『わたくしもまつすぐにすすんでいくから』と、喪失の悲しみから一歩を踏み出してゆけるということを 言っていたのです。
散歩しながら思いついたことですが、私にも(私の魂)が記憶するような息子の思い出が いっぱいあります。その思い出は、『わたくしをいつしやうあかるくする』でしょうし、また そのことで『ありがたうわたしのたいせつなむすこよ』/『わたくしもまつすぐにすすんでいくから』 と前向きに生きようとする私の背中を押してくれるにちがいありません。
そして、できるならば被災され、大切な人を亡くされた人にも同じような記憶がいっぱいあって、 それに助けられて前向きに進んで行かれますように、祈っております。
長い間、私の繰り言を聞いていただきありがとうございました」
(幸介、深々と礼をしている中、幕が下りてくる)
                       【本当の幕】

注7、伊東静雄の詩集『わがひとに与ふる哀歌』の中の詩『鶯』より
注8、伊東静雄の詩集『わがひとに与ふる哀歌』の中の詩『鶯』より
注9、伊東静雄の詩集『わがひとに与ふる哀歌』の中の詩『鶯』より

【資料】
(一老人の詩)
           伊東静雄
(私の魂)といふことは言へない
その証拠を私は君に語らう
――幼かつた遠い昔 私の友が
或る深い山の縁(へり)に住んでゐた
私は稀にその家を訪うた
すると 彼は山懐に向つて
奇妙に鋭い口笛を吹き鳴らし
きつと一羽の鶯を誘つた
そして忘れ難いその美しい鳴き声で
私をもてなすのが常であつた
然し まもなく彼は医学枚に入るために
市(まち)に行き
山の家は見捨てられた
それからずつと――半世紀もの後に
私共は半白の人になつて
今は町医者の彼の診療所で
再会した
私はなほも覚えてゐた
あの鶯のことを彼に問うた
彼は微笑しながら
特別にはそれを思ひ出せないと答へた
それは多分
遠く消え去つた彼の幼時が
もつと多くの七面鳥や 蛇や 雀や
地虫や いろんな種類の家畜や
数へ切れない植物・気候のなかに
過ぎたからであつた
そしてあの鶯もまた
他のすべてと同じ程度に
多分 彼の日日であつたのだらう
しかも(私の魂)は記憶する
そして私さへ信じない一篇の詩が
私の唇にのぼつて来る
私はそれを君の老年のために 書きとめた


永訣の朝
         宮沢賢治
けふのうちに
とほくへいってしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)
うすあかくいっさう陰惨〔いんさん〕な雲から
みぞれはびちょびちょふってくる
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)
青い蓴菜〔じゅんさい〕のもやうのついた
これらふたつのかけた陶椀〔たうわん〕に
おまへがたべるあめゆきをとらうとして
わたくしはまがったてっぽうだまのやうに
このくらいみぞれのなかに飛びだした
   (あめゆじゅとてちてけんじゃ)
蒼鉛〔さうえん〕いろの暗い雲から
みぞれはびちょびちょ沈んでくる
ああとし子
死ぬといふいまごろになって
わたくしをいっしゃうあかるくするために
こんなさっぱりした雪のひとわんを
おまへはわたくしにたのんだのだ
ありがたうわたくしのけなげないもうとよ
わたくしもまっすぐにすすんでいくから

   (あめゆじゅとてちてけんじゃ)
はげしいはげしい熱やあえぎのあひだから
おまへはわたくしにたのんだのだ
 銀河や太陽、気圏などとよばれたせかいの
そらからおちた雪のさいごのひとわんを……
…ふたきれのみかげせきざいに
みぞれはさびしくたまってゐる
わたくしはそのうへにあぶなくたち
雪と水とのまっしろな二相系〔にさうけい〕をたもち
すきとほるつめたい雫にみちた
このつややかな松のえだから
わたくしのやさしいいもうとの
さいごのたべものをもらっていかう
わたしたちがいっしょにそだってきたあひだ
みなれたちゃわんのこの藍のもやうにも
もうけふおまへはわかれてしまふ
(Ora Orade Shitori egumo)
ほんたうにけふおまへはわかれてしまふ
あああのとざされた病室の
くらいびゃうぶやかやのなかに
やさしくあをじろく燃えてゐる
わたくしのけなげないもうとよ
この雪はどこをえらばうにも
あんまりどこもまっしろなのだ
あんなおそろしいみだれたそらから
このうつくしい雪がきたのだ
   (うまれでくるたて
    こんどはこたにわりやのごとばかりで
    くるしまなあよにうまれてくる)
おまへがたべるこのふたわんのゆきに
わたくしはいまこころからいのる
どうかこれが天上のアイスクリームになって
おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに
わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ

【演出について】
二人の朗読という形で演じるとしてもむずかしい劇になってしまいました。
あらかじめ宮沢賢治や伊東静雄の詩を配布しておくといった工夫も必要かと思います。
後日談は、あとで付け加えたもので、劇としてのバランスを損なってしまったような気がしますが、 どうしてもここまで書ききりたいといった思いを抑えることができなかったのです。
演じるよりも読む脚本になってしまったかもしれませんが、筆者にとってはどうしても書きたかった テーマでした。ご容赦ください。
ここに至るまで長々とお読みいただきありがとうございました。



追補
この脚本を使われる場合は、必ず前もって作者(浅田洋)(yotaro@opal.plala.or.jp)まで ご連絡ください。



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