朗読劇(一人芝居)「竃猫にも被爆手帳を」
−−原爆をあびた猫−−
                                 2009.1.7

【あらすじ】
宮沢賢治の童話『猫の事務所』に登場する竃猫(かまねこ)が、広島で被爆します。 竈(かまど)の中で寝ていたおかげで一命は取りとめますが、 何が起こったのかわからないまま家をとびだした竃猫は、ひそかに好意を寄せている 臨時職員の玉さんが心配で、 事務所に駆けつけます。 途中の焼け野原で、彼が何を見て、何を考えたか。 そうして、ようやくたどり着いた事務所に猫影はなし。 早出していた玉さんは、どうなったのか。 裏庭では、ピカ・ドンを生きのびた蜘蛛があたらしい巣をかけています。 事務所に戻った彼に電信が届きます。 発信人は竃猫の生みの親、宮沢賢治先生。銀河鉄道の駅で望遠鏡を覗いていて、 地球がピカッとひかるのを見たというのです。何ごとが起こったのかと訊いてきたのです。 竃猫は賢治先生にどんな報告をしたのか。 また、彼らの運命はそれからどうなったのでしょうか?
詳しくは見てのお楽しみ。

追伸
この脚本の根底にあるのは、原子爆弾を絶対悪ととらえる考え方です。だから、当時の戦況も、 アメリカも出てきません。加害被害といった相対的な見方、あるいは命の数量化から 距離を取りたかったからです。
劇の中にも出てきますが、山川草木悉有仏性という言葉があるように、 生きとし生けるものはすべて仏性をもっているという考え方があります。原爆というのは、 それらすべてのものを傷つけ、滅ぼす悪以外の何者でもないと思うからです。

【では、はじまりはじまり】

登場人物は竃猫(かまねこ):汚らしい猫の扮装で登場

舞台に竈(かまど)が据えられ、上に釜(かま)がのっている。竈の反対側奥にスライドの映写幕が立てかけられてあり、 そこに原爆ドームや焼け野原の写真などが適宜映写される。小道具としては、蜘蛛の巣アンテナの模型。

(竃猫が舞台に登場して)
竃猫 「あーあ、まだ眠い眠い、夕べは蒸し暑くて寝苦しかったからな、まだ寝足りないな。…… ん?、真夏のこんな蒸し暑い夜になぜこんな竈の中で寝るのかって? それはね、私は、宮沢賢治先生の『猫の事務所』 に登場する竃猫だからであります。竈の中がとても好きなんです。 暗ーい竈の中にいるとなぜか安心できるんだな。…… 分かってもらえるかな。」
(と自己紹介する)
竃猫 「私の勤務している猫の事務所は、ご存じでしょうか、ヒロシマの路面電車、 あの比治山下停車場の近くにあります。われら猫社会の歴史と地理をしらべる、まあ、 いわば統計局といったところです。
私は、そこの書記をやっております。
書記といえば、みな、短い黒の繻子の服を着て、 大へんみんなに尊敬されていますからして、何らかの都合で書記をやめるものがあると、 あとがまをねらってわれもわれもと押し寄せます。 それはそうなんですが、実際問題としては、この事務所の書記はいつもただ四人と決まっていますから、 たくさんの中で一番字がうまく、また一番立派な詩を詠めるものがえらばれるのです。
事務所長は黒猫で、少々天然呆けの嫌いがあって、見かけは少し耄碌しているようですが、 そのまなこはキリッとしていて、中に銅線が何本も張ってあるかのように、 じつに立派にできておるのです。
事務員の、
一番書記は白猫です。
二番書記は虎猫です。
彼は、最近体調を崩して休んでいます。それで所長が、 臨時職員として玉さんに手伝いをお願いしたのです。玉さんは、所長の親戚筋の猫らしいのですが、 なかなか可愛い娘さんです。目元に愛嬌があって、私などまっすぐ見つめられると、つい目をそらしてしまうくらい……
と、いや、これは脱線、……失礼しました。
二番書記まで言いましたね。
三番書記は三毛猫です。
四番書記、これは、私ですが、みんなは竃猫と呼ぶんです。
竃猫というのは、アダナであり名前でもあるのですが、それは先ほど見られたように、 私が、夜、竈(かまど)の中にはいってねむる癖があって、 いつもからだがすすで汚れているからなんです。狸のようだとかも言われたしりて、まあ蔑称にちかいかもしれません。 それを甘んじて受けているのは、事実は事実だし、それに一番下っ端だからですが……。
猫の事務所は8時半にはじまります。少し前に出勤すればいいので、私がおきるのは7時過ぎ、えーと、今は何時かな? (と、腕時計を見る)まだ、5時前か、もう一寝入りできるな。二度寝はあまり好きじゃないが、もう少し眠っておかないと、 昼間の仕事にさしつかえるからな。ようやく少し涼しくなってきたようだ、おしっこをして、 どれもう一寝するか……」
(と、竃猫が竈の中に入る)
(竃猫のいびきが響き、それが静かになったところで、夜が明ける。鳥のさえずり。 遠くに爆音が聞こえる。突然、舞台にピカッと閃光が走り、ゴーという地響きのような 爆発音が轟きわたる。ガラガラと建物が崩れる音。
竃猫は、竈の中から跳びだして、途端に何かに頭をぶつけて、 背中を丸めてそちらの方をフーと威嚇する素振り。 動物の本能に支配された表情で一瞬客席をにらみつけ、身を翻して くるくると何度かまわって、ワッと跳びはねる。
そこまでが一人芝居風の演技で、ふっと演技から身を解きはなち、客席に向かって話しはじめる。 ここからは朗読劇となる。)
竃猫 「夜、竈の中で寝るというこの癖は、顔をすすで化粧したようだとか、 生きた猫のすす払いですかとか馬鹿にされる原因となったのですが、今回ばっかりは、 その性癖のおかげで命拾いをしたのです。
先ほど説明しましたが、事務所は8時半にはじまります。少し前に出勤すればいいので、 近頃は、私が起きるのは、7時過ぎということです。 朝餉の支度がありますから、以前なら竈のなかで寝てはいられなかったのですが、 最近は、世の中軒並み食糧不足、米や麦の配給もあまりないそうで、おまけに薪も手に入らない、 私にはありがたいことに、朝っぱらから竈に火が入ることはあまりないのです。 だから、ますます寝過ごしてしまうのです。
あの日、8月6日は、竈の中が暑苦しくてよく眠れなかったので、夜明けに一度目を覚ましたのですが、 それからまたウトウトと二度寝をして寝過ごしてしまったのです。それが幸いしたのですね。
もうおきなくてはとうつらうつら考えていると、突然、目の前がパッと閃き、何か衝撃が身を包みました。 閃光ともいえない、爆発音ともいえない、地響きするような衝撃でした。竈(かまど)の上の釜(かま)はふっとび、 竈の中にまでその衝撃は吹き込みました。何が起こったのかわからないまま、 私は、とっさに「シャー」と叫んで、背中を丸め毛を逆立て、何に向けてか威嚇をほとばしらせながら、 竈の中から跳び出していました。そして、地面に着地した途端に頭をしたたかにうってしまったのです。 何に頭をぶつけたのか。目を見開いてヒゲでさぐると、真っ暗闇の中に、 折れた柱が斜めに交叉して竈に覆い被さっています。 屋根の一部が崩れたようで、 土煙がもうもうとたちこめて、黴くさい土の匂いが濃く鼻をついてきます。 いや何ともしれないいやあな臭いもそこにまじっている。 ふだんならものがかもしだすかすかな風の流れの変化をヒゲで感じて、けっして頭をぶつけたりすることはないのですが、 そのときばかりはしっちゃかめっちゃかで感覚が混乱していて何が何だかわからなかったのです。
それでも私は、とっさに体勢を立て直し、口ひげをピンと立てて、交叉する梁の隙間を縫ってどうにか外に跳び出しました。 しかし、たしかに外へ出たはずなのに、外気は感じるのに、あいかわらず真っ暗闇。 目が見えていなかったのです。どれだけカッと見開いても何も見えません。 どうしてなのか、私はあてもなくぐるぐるとまわりました。ぐるぐると、ぐるぐると……、 意味もなく……、興奮の息をフーと吐いて、またぐるぐると……、 そのうちにようやくわずかに視力がもどってきました。
すると、紙切れがパラパラと降ってきたのです。土埃がたちこめる中に無数の紙切れやらゴミがふわふわと 漂っています。そして、その上の青空にキノコ雲がわきたっています。火のかたまりが降りそそいできそうで……、 私はとっさに逃げる姿勢で身がまえました。 まわりを見まわすと、 すぐちかくに使用人の江崎さんが髪の毛を焼かれて、うつぶせに倒れているのが目に入りました。 そばによって頸のあたりを舐めると、江崎さんは苦しそうに躰をよじって「頭をやられた」と呟きました。 猫だということもわかっていないようでした。よじった顔は紫色に焼かれていて、目から血がにじみ、 たしかに何も見てはいませんでした。
「民喜さんが家の中にいるけんね、……だれか、助けてくれ……、助けてくれ」
江崎さんは、だんだん声を大きくして、それだけ叫ぶとまたバタリと顔を伏せてしまいました。
私は何ごとが起こったのか、わからなかった。辺り一面にこれまで嗅いだことのないような臭いが漂っています。 何かおそろしい天変地異が起こったに違いありません。 それだけはわかりました。とてつもなく大きい爆弾が近くに落ちたのか。これまで、広島は大きな空襲がなく、 胸をなで下ろしていたのに、今回は何があったのか。私は、江崎さんの叫びからご主人の 弟である民喜さんが家の中におられることを知りました。 今年のはじめに東京から疎開してこられた居候です。 しかし、猫にはどうしようもありません。 私は、家をふり返りました。土煙がもうもうとたちこめる中に、 私が生まれてこの方、飼われて育った「家ハ壊レ 品物ハ飛散ル」 (原民喜「原爆被災時のノート」)無惨なありさまがうっすらと浮かび上がってきました。 すると、どこからか「ワー」という叫び声が聞こえてきました。民喜さんの声のようです。 縁側の突き当たりの便所のあたりのようです。妹の恭子さんのうろたえた声も まじっているようです。やがて、持ち逃げのカバンを肩にかけた民喜さんが、男物のズボンを はいた恭子さんといっしょに、倒れた楓の木を踏み越えて現れたのです。
江崎さんも、ようやく目が見えだしたようで、頭を抱えるようにして起きあがって、 民喜さんに、先ほどとおなじように「頭をやられた」と訴えています。
「おっ、竃猫も生きているな」という民喜さんのことばを背に聞いて、 私は、三人から離れると、何が起こったのかをたしかめるために、 いつもの散策のルートを歩きはじめました。
ところがいつも歩いている隣の塀が崩れてこちらの敷地に倒れ、 隣家もまた半分ねじれるようにねじ曲がって壊れています。屋根の裾がすでに地面にまで届いています。
私は、倒れた楓の木を伝って、傾いた屋根に登っていきました。瓦はほとんど剥がれ落ちていて、土も崩れており、 屋根の骨組みが露わになっているところが多かったのです。大きな爆弾の衝撃と爆風が家をなぎ倒したのだ、 そう考えるしかないひどいありさまでした。
よく縁側からこちらを見ていた隣の三毛猫はどうしたのか、とふと気になって、 屋根を伝って、内庭に向いた縁側のあたりへ行ってみました。三毛猫が黒く焼けただれて、 放り出されていたのです。はじめての猫の死体……、いったい何ごとがおこったのでしょうか。 私は、獲物を狩るように、ヒゲを尖らせ、耳を立て、背中を丸くして、無性に腹を立てて歩きはじめました。
家々はなぎ倒されて、土煙が舞っていました。あちこちから煙が立ち始めています。
何が起こったのかと、私はいつもと違う風景を眺め回しました。
とてつもなく大きく、凶暴な火の台風が、町並みをなぎ倒していったようなありさまです。
私の頭にふと玉さんのことが浮かびました。今日、早出して、たまっている書類の整理をすると 言っていたのです。
−−玉さんは、大丈夫だろうか?
私は、事務所がある比治山の方角に向けて歩き始めました。
玉さんが、隣の三毛さんのように焼かれて苦しんでいる、といった悪い想像が頭に浮かんできます。 そんな思いを断ち切るように、私は、 道路沿いの溝にもぐりこみました。家が崩れて道路をふさいでいるために、 かえって溝の方が通りやすかったのです。もちろん、瓦礫で埋まっているところもありましたが。
途中、防火用水に沢山の人たちが頭を突っ込んで死んでいるのを見ました。 溝には、落ち込んでこときれている人もたくさんいましたが、 中にはほとんど虫の息で「水をくれ、水をくれ」と猫の私に声をかける人までいたのです。 おそらく動くものの気配を感じて、藁にもすがる思いで声をかけてきたのでしょう。
いつもみなれている私の狩り場の様子も一変していました。家々はほとんど破壊され、 煙を立てている家もあります。私のマーキングの目印もほとんどが倒れています。 電信柱だけが、所々線が切れたり折れたりしているものの、一部くろこげになって、 それでも並んでたっているのが不思議な感じでした。他に何もないので、 それがかなり向こうまで連なって見渡せました。おそろしい風景でした。
溝を伝って歩いて、医院があったあたりにさしかかりました。 この医院の飼い猫だったペルシャ猫に昔恋いこがれたことがありました。 あの猫はどうなったのかと考えていると、目を半分閉じたこころよさそうな彼女の表情がふと頭をよぎりました。 ところが、その洋館らしくしつらえた医院もグシャッと壊れています。彼女はどうなったのでしょうか。 ただガラス戸の一部ががれきの上に残っていて、何々医院という文字を読むことができただけです。 医者らしいひげ面の男が、庭らしいところでけが人の手当をしていたから、 彼女も助かったかもしれないと信じることにしました。
そこを少しすぎたところで、顔見知りの野良猫、三太に会いました。
彼は、ふらふらと蛇行して私に向かって歩いてきました。息も絶え絶えでした。
「大丈夫でしたか?」と声をかると、
「だいじなヒゲも体の毛も何もかも焼かれてしまった。舐めてもらうような傷はないが……、オマエは無事か?」
と、それでも他猫を気遣う余裕を見せました。
「竈の中で寝ていたので……」
「眉の間から血かでているぞ」
舌で舐めてみると、たしかに血の臭いがしました。柱にぶつけたときに切れたにちがいありません。
「広島はこれまでたいした空襲がなかった。だから安心していたのが、不意をつかれてしまったのう」
といかにも悔しそうです。
「あんまりしゃべらないほうがいいですよ」
「とんでもない爆弾じゃあ、これは……」
と、三太は顔をくしゃくしゃにして嘆息しました。
「見たのですか?」
「青い空に爆撃機が一機飛んでいて、ネズミの糞のような爆弾を一つ落としたのを見た」
「それが、爆発して……」
「そうだ、たかがネズミの糞のような……」
彼は、おそろしげに空を見あげました。
「俺たち猫族が、人間の戦争でこんな爆弾をあびなければならないいわれはないはずなのに……、 なあ、竃猫、こんな理不尽なことはないぞ、そう思わんか?」
三太は、憤懣やるかたないといった顔です。
私は、慰めるかわりに三太を一舐めして、彼から離れていきました。さらに歩いていくと、 道にはどこかから幽霊のような人々が湧きだしてきました。行き倒れている人々も多く目につくようになりました。
猫も同じように道路や溝の中やらで、黒く焼かれたり、またあるものは無傷のままで死んでいます。
私は、歩きながら、猫が死ぬ、人が死ぬ、ということを考えざるをえませんでした。
不遜な言い方になるかもしれませんが、人人人人人人猫、人人人人人人猫といったリズム。 猫は、己の死をさとることができる。そうするとものを食べなくなる。 さらに、おのれの死体を人目にさらさないように死に場所を選ぶ。 しかし、この惨状はどうしたことか。猫や犬があちこちで死んでいる。 犬は鎖につながれたまま焼かれたように倒れている。生きていたときの面影といったものはほとんどない。 また、猫は猫で、先ほど隣家の家猫が焼け死んでいたように敷地内で死んでいるものもいるし、 また、どぶ溝や、道の真ん中でこときれている猫もいるようだ。
猫もこんなふうに猫目や人目に死体をさらして死にたくはなかっただろう。
人もそうだ。こんなふうに死にたくはなかったにちがいない。 おおくの人に悼まれ、とむらわれ、火葬される、儀式につつまれての死、 それが人の死というものだろうと思うのだが、このざまは何だ。着ている被服は破れ、 あるいは燃え尽きて、あらわにされた肌は焼けただれ、皮膚がたれさがっている。 むらさきのまだらだ。どぶにむらがって死んでいる。それぞれの人の個性が消え去っている。 個人が壊れてしまっている。個人の死というものではない。袋の焼けただれた肉のかたまりのようになってしまっている。 それでも死体をもてたものはまだしも幸せだ。大変な高熱のかたまりがあって、 それに巻き込まれたものは溶けて消滅してしまったものもいるにちがいない。 それが人の死なのだろうか。それが猫の死なのだろうか。 物質の消滅とでも言うしかないのではないか。
昆虫やら鳥やらも、そんなふうにして空中で消滅したに違いない。彼らの命をどうしてくれるのだ。
道路を歩いていくと、路面電車の走っている大きな道路にでました。 橋のたもとに馬車が倒れ、馬が倒れたまま頸をもたげようとしてぶるぶると泡を吹いています。
建っている建物はほとんどありません。建物の瓦礫は、舗道を埋め尽くしています。 車道にはガラスや瓦が散乱しています。
私の目は、赤と緑をうっすらと見わけることができるのですが、あたりに緑はほとんどありません。 わずかの緑が焼かれてしまったのでしょうか、それとも緑を見る余裕がなかったのかもしれせん。 とにかく私の視野から緑が消え失せていました。それでも人の血ははっきりと見えました。 灰色の背景の中を血を滴らせて歩いている人を何人も見かけました。道に血が点々と続いています。 足許を抜き去ろうとしたとき、血が私の頭に垂れてきて驚かされるといったこともありました。
しばらく歩いて堤防に行き着くと、先ほどからは少し風向きがかわっていて、 事務所の方へなら行けそうな気配です。 私は猫の身軽さで、避難してくる人群の足許をすり抜けて比治山の方角に向かいました。
大通りを通って市街に入ると、町並みはことごとくなぎ倒され、道路には瓦礫や瓦、 ガラスが散乱しています。 細い路地は瓦礫のために消えうせ、電柱だけが道路に沿って並んでいます。 あちこちから火の手が上がっていて、 道路にも濃い煙がたちこめ、息をするのも苦しいくらいです。私は猫なので、鼻面が地面に近くまだしも 息がしやすいのかもしれません。
ガラスが皮膚一面に刺さったまま歩いている犬にも出会いました。いつもなら敵意を示す犬が、 今日はしっぽを巻いて、斜めに進むように歩いているのは何とも哀れなものでした。 さらに進んで行くと、牛が半狂乱になって、角を振りかざしながら走ってくるのに出くわしました。 牛にはねとばされた人が何人もいました。牛を見送りながら、 街に踏み込んだあたりから猫とあまり会わないのはどうしてだろうと、不安が萌してきました。 大通りをさらに歩いていくと路面電車が煙をあげています。中にお客さんはいませんでしたが、 車体が線路からかなりずれて、立って燃えています。
「どうしてこんなにずれてしまったのですか?」と、電車に訊ねてみたくなるほどずれているのです。 爆風のとてつもない大きさが想像されます。
ここまで来ると事務所までもう少しです。
夢中で駆けました。やがて、煙の中に事務所の建物が浮かんできました。 小さい事務所の建物は、うれしいことに、崩れかけていましたがまだかろうじて建っていたのです。 それこそ奇蹟のようでした。大きく見れば比治山のおかげ、近くで言えば 真横に建っているビルディングの影で爆風が和らげられたもののようです。 それでも扉の四角形が菱形になるくらいにはゆがめられています。少し扉が開いていました。 ヒゲをあててみるとちょうど入れる隙間があったので、事務所の中に入ってみました。 玉さんがいるかもしれないという淡い期待はあったのですが、事務所に猫影はありません。 いつものことだとすでに出勤しいるはずの所長の影もありません。 部屋の中は割れたガラスが散乱しています。ふと床を眺めていると、血が滴ったような黒い雫が 見えます。誰かが傷ついたのは確かなようです。玉さんなのか、所長なのか。 私は心臓が動悸を強めるのを感じました。 傷を負ってどこかに迷いでたのか、 深手で死に場所を探しにさまよっているのか、そんなにたいしたことがなくて家にもどったのか、 それはわかりませんが、動けないほどの傷を負ったのではないようです。
−−玉さん、無事でいてくれよ
私は心で念じました。事務所で死んだのではないことは確かです。 それはまだ望みがあると考えていいということかもしれません。
それにしてもと、私は考えました。もし所長が傷を負って、どこかに行ったとして、 あと二番書記は病欠、三番書記も来ていないようですから、 そうなると、事務所の業務がとれるのは四番書記の自分しかいないということになります。 私がこの事務所を守っていかなければならないということです。
私は、玉さんのことが気がかりでしたが、とりあえずは、自分がやらなければならないことが あることに気がつきました。まず電灯の紐をひっぱって点くかどうか試してみました。 もちろん停電です。 焼け野原に電信柱だけがぽつぽつと連なっている様子が浮かびました。 電柱は立ってはいましたが、もちろん電気は絶てれています。焼け野原に電柱だけが並んでいる風景、それほど痛ましいものはありません。
電気は来ていないようです。しかし、猫の事務所にはクモの巣アンテナと鉱石ラジオの無線受信機と電気火花発信器が設置されています。 これらは、電気がなくても備蓄されている電池で動くはずです。
さきほどちらっと見たところでは、クモの巣アンテナも倒れてはいませんでした。楢の木に張られた線が奇跡的に残っていました。
皆さんは、トン・ツーというモールス信号は知っていますか? 「イ」は、トン・ツー、 「ロ」はトン・ツー・トン・ツー、「ハ」はツー・トン・トン・トンというふうに決まっていて、 無線で言葉を送れるようになっている無線信号です。
私はクモの巣アンテナの点検に屋上に登っていきました。
蜘蛛の巣アンテナというのは、ちょっと見てもらいましょうか、こんなふうなものなんです。(と、模型を示す。)
ほんものはもっと大きいんだけどね、高い木に柱を立てて、 そこにこんなふうに電線を蜘蛛の巣みたいに張っていくんです。裏庭には大きな楢の木があってね、 だからクモの巣アンテナも、何メートルもある大きなものなんです。 これだったら、もう月や火星とだって通信できるって言われています。 ところがね、戦争でいろんなものが不足してくると、この楢の木を伐って 薪にしようという話も持ち上がってきて、でも、このアンテナが張ってあるおかげで、燃やされないできたんです。 屋上に上がってみると、葉の焼けこげた楢の木の枝からイチジクの枝に張りめぐらされた蜘蛛の巣アンテナは、すこしいびつになってはいましたが、無事なことがわかりました。私はほっとしました。
そして嬉しいことに、楢の下のザクロの木には、以前のように ほんとうの蜘蛛の巣が残っています。
蜘蛛の巣アンテナを点検しながら、蜘蛛の巣を観察すると、何とそれは新しく張られたもののようなのです。やっぱり生きていたのです。ここの蜘蛛は、 そんなにたやすく死んでしまうヤツではありませんでした。巣の真ん中あたりに、糸の毛布を被って寝ていたのです。やはり生きていてくれたかと、私は 今日ほど蜘蛛さんと挨拶できてうれしかったことはありません。
「どうした、蜘蛛さん、ぶじだったかい」と私は訊ねました。
「あれは、何だったのかな、あのピカと、ドンは……」
「私にも何が何だかわかりませんが……」
「あのピカの熱はオレがこの巣の真ん中に秘蔵していた虫やら何やらの食物を焼き尽くしたぞ。 見ていたわけじゃないが、ピカの熱線は、オレのギネスものの大きくてステキな巣糸を焼き切って、 ドンという爆風はそれを吹き飛ばしてしまったようだ。 ……さんざんだよ、ザクロの木も焼かれているし、……いま、ようやっとあたらしい巣を張りおわったところだよ」
と蜘蛛さんは疲れ切った顔です。
蜘蛛の表情が読めるのかって? えっ、人間にはよめないのですか?  みんな読めると思っていたのですが。
蜘蛛さんはとても憤慨しています。それは猫にもわかるのです。
「それにしてもひどいピカとドンだった。ありゃあホロコーストじゃ、みなごろし。 オレの餌食になるそこいらの虫たちは根こそぎ焼き尽くされたろう。 せっかくこうして巣を修理して待っていても、もちろん収穫はなし。 しばらく虫はたべられんぞ。……あのにくたらしいナメクジさんも焼かれて消えてしまったよ。何もかも消滅して……、 これじゃあ、飢える蜘蛛がでてくるかもしれない。おそろしいことがおこったものだ」
蜘蛛さんがため息をついたことは、おしりの動きでわかります。
「それにしても、よく助かったね」となぐさめると、
「そこの狸の信楽焼の中で、 小さい蜘蛛の巣を手入れしているときにピカ、ドンときたので助かった」
と、ちょっと嬉しそうです。
信楽焼の狸というのは、事務所長がペットに飼っていた狸が死んだので、その狸を偲んで所長が信楽で買ってきたものです。
蜘蛛は腹を立てて陶器の中に小さな蜘蛛の巣を張ったのです。
「たしかに、この狸の置物のおかげで命びろいをした。 身代わりに狸は粉々にわれてしまった。」
「私も竈の中にいて助かったから、似たようなものだな。」
私は、笑いそうになりましたが、笑えませんでした。
信楽焼の狸が置かれていたあたりに目をやると、たしかに陶片がうずたかく折り重なっています。
「これは、敵のアメリカさんの残酷非道なしわざというより、 人間というもののバカらしさの証明みたようなものだな、きやつらは山川草木悉有仏性 (さんせんそうもくしつうぶっしょう)ということをしらんのか、山にも川にも、草木にも、 生きものみんなに心があるというのに ……人間にだけは、仏の心がないのかもしれんぞ」
現実主義者の蜘蛛からこんな言葉を聞くとは思いませんでした。
感心しながら、 蜘蛛のご託を聞いていると、急に雨が降ってきました。陶片の上にも雨は降り注ぎました。 蜘蛛が今補修したという大きな巣糸にも雨が伝いました。それが驚いたことに黒い雨でした。 黒い雨が降ってきたのです。雨は私の毛並みを濡らしました。私の煤はそれで流されましたが、雨が黒いのか、 煤が黒いのか分かりませんでした。 私の毛に煤のかわりに黒いヌルヌルした雨がこびりつきました。黒い雨などというのは聞いたことがありません。 とても気持ち悪いものでした。
私は、躰をブルッと振ってしぶきをとばそうとしましたが、飛ばしきれませんでした。
黒い雨の滴が、蜘蛛さんの糸を伝って、中心にいる蜘蛛さんのあたりに集まってきました。 蜘蛛さんはあわてて、蜘蛛の巣をぶるんぶるんと揺すりました。水玉が幾分かは落とされましたが、 いくつもいくつも黒い水玉は続いて集まってくるのでした。
蜘蛛の巣アンテナも、黒い水玉を伝わせていました。中心の方にたくさん集まっていましたが、 そこに蜘蛛がいるわけではないのでそのままにして、私は屋上から退散しました。

事務所にもどって、椅子に腰掛けました。何もすることがありません。 それで今日のことを日録に書いておくことにしました。
何かの参考になるかもしれないという事務屋としての性根が出てきたのかもしれません。
しばらくすると何かカリカリとネズミが何かをひっかくようなかすかな音が聞こえてきたのです。 どこかに生きのびたネズミがいるのかと一瞬期待に胸をおどらせたのですが、 すぐに正体がわかりました。モールス信号の受信機につながれたレシーバーが、かすかな音をたてていたのです。 私は自分の耳を疑いました。こんな状況で機械が動いているのが奇蹟のように思われました。
何を問い合わせてきたのかと、レシーバーを耳に密着させて聞くと、
「ツートンツーツー、トンツートンツートン、ツーツートンツートン、トントン」 これを訳すると「ケンジ」という言葉が聞き取れたのです。
事務所の生みの親で、亡くなられた今は銀河鉄道に乗って宇宙を旅しておられる 賢治先生から電報が来たのです。おどろくと同時にうれしさがこみ上げてきました。 一人じゃなかったのです。こちらのことを心配している誰かがいる、それは救いでした。

どうして、賢治先生から問い合わせの電信が来たのか、それはふしぎな偶然とめぐりあわせの結果のようです。
賢治先生は、地球から数百億キロも離れたとある銀河鉄道の駅から望遠鏡で地球をのぞいていておられました。
そばには、よだかが控えていたそうです。
賢治先生が望遠鏡から目を離してこうおっしゃいました。
「なあ、よだかよ、おまえも見たか、あのひかりを。わたしはきょう望遠鏡を覗いていて、 偶然目にしたのだ。天の川の底の砂金の粒が揺れたような一瞬のかすかなきらめきを。 わたしが生まれた日本が宇宙に放ったひかりの一閃を。」
よだかは、こんなふうに答えました。
「はい、賢治先生、たしかに私もみました。弱々しく見逃しそうなかすかなひかりでしたが、 しかしどこか不吉な色合いをおびたあのピカを……。」
賢治先生 「地球は、水の惑星としてかがやいているが、みずからひかりを発しない惑星の宿命、 宇宙の闇のなかでは暗闇にまぎれてその位置すら分からないのだ。それがきょうピカッと輝いた。 ふしぎなひかりだった。あれはいったい何のひかりだったのか?  人間の持つどうしようもない邪悪な暗いものが一瞬触れあいショートしたような、 そんな……ピカッと冷たいひかり方だった。何があのひかりをもたらしたのか。 これだけ離れたところにあのピカが届くということは莫大なエネルギーの放出にはちがいない。 科学的には何なのだろうか? 地球で、日本で、いったい何がおこったのか?」 (『地球でクラムボンが二度ひかったよ』より)

それで、どこに聞けば事情が分かるかとよだかと相談されたようです。結局猫の事務所のことを賢治先生が思い出されて、 この問い合わせの電信が、月夜の電信柱経由で届いたらしいのです。

私がまず考えたのは、この期におよんでなおいかにも書記らしいというか、仕事の役割のことでした。 事務所の他の連中はどうしたのかわかりません。そんな状況で、外からの問い合わせにどう対処すれば いいのでしょうか。普段なら、外部への回答は所長決裁ということになっています。 実務は一番書記の役目。しかし彼がいないとなると、考えるまでもなく下っ端ではありますが、私が回答するしかありません。 所長には、後で決裁をもらうことにしてと、いいわけがましくつぶやいて、独断で状況報告を書き上げました。
今朝、私の家の便所で閃光をあびた居候の原民喜さんは、じつは詩人だそうです。 私の報告書は、彼が今日ヒロシマをさまよって記録したノートからの引用です。 それが一番、いまの状況をあらわすのにぴったりだと判断したのです。 書き写した文面を口に出して読んでみました。涙がこぼれてきました。涙をぬぐって電報を打ち始めました。
(ツートンツートンというモールス信号の音を背景に、朗読を先導するように、スクリーンに詩が一字一字打ち出される。 以下三編の詩においても同様)

 火ノナカデ
 電柱ハ
 蝋燭ノヨウニ
 モエアガリ トロケ
 ムコウ岸ノ火ノナカデ
 ケサカラ ツギツギニ
 ニンゲンノ目ノナカヲオドロキガ
 サケンデユク 火ノナカデ
 電柱ハ蝋燭ノヨウニ
 モエアガリ トロケ
  (原 民喜『火ノナカデ 電柱ハ』)」一部、改変

電信を伝えた月夜の電信柱から、賢治先生は、「電信柱のことではない。人間のことだ」
とひどくご立腹されたという配達報告がきました。
「電信柱も焼けただれて、災難をうけてるのに……」
私は、そんなふうに叫びました。
すると、カリカリとレシーバーが音をたてました。配達報告を追って、 賢治先生からも折り返し問い合わせが来たのです。
「人々ハドウナッタノダ? コンナ詩バカリデハ、ドウニモワカラン。」
「電報ですよ。電報。散文など長くてとても送れませんよ」
と、遠くの賢治先生にツッコミを入れるしかありませんでした。
賢治先生の苛立ちは電文からもピリピリと伝わってくるのですが、私に何ができるでしょうか。 いかに不興をこうむろうと、電報の詩を積み重ねていくしかありません。
「お許しください。……では、これならどうでしょうか」
と、はるかかなたの賢治先生に謝りながら、さらにつぎの電文をト・ツーと送信したのです。

 ギラギラノ破片ヤ
 灰白色ノ燃エガラガ
 ヒロビロトシタ パノラマノヨウニヒロガリ
 アカクヤケタダレタ ニンゲンヤネコノ死体ガナランデイル
 人人人人人人猫 人人人人人人犬 コノキミョウナリズム
 スベテアツタコトカ アリエルコトナノカ
 テンプクシタ電車ノワキノ
 馬ガ胴ヲフクラマセテ 死ンデイル
 ブスブストケムル電線ノニオイ
        (原 民喜『ギラギラノ破片ヤ』一部、改変)

その電信を見て、賢治先生からは、「人間モ猫モ死ンダトイウコトカ」と返事があったそうです。
それで、私は猫についての報告も付け加えました。

 コレガ猫ナノデス
 原子爆弾ニ依ル変化ヲゴラン下サイ
 肉体ガ恐ロシク膨張シ
 雄モ雌モスベテ一ツノカタマリニナリ
 オオ ソノ真黒焦ゲノ滅茶苦茶ノ
 爛レタ顔ノムクンダ唇カラ洩レテ来ル声ハ
 「ニャーゴ」
 ト カ細イ 静カナ鳴キ声
 コレガ コレガ猫ナノデス
 猫ノ最後ナノデス
 (原 民喜『コレガ人間ナノデス』パロディー)」
賢治先生からの電信は、以後入らなくなりました。レシーバーは無言のままです。
鉱石ラジオが壊れたのか、それとも電波の調子が悪いのか、 私はそれでも、賢治先生から返信が来るかと、 かすかな音も聞きのがすまいと耳を立て、耳を澄ませていました。
しかし、何の信号も入ってきません。まるで、ここ、ヒロシマが世界からまったく孤絶してしまったかのようなのです。 大きな爆弾が落ちたこの地域だけが、大日本帝国から切り離されて、浮島になって漂いはじめたような感じです。 そう、猫一匹、蜘蛛一匹の生き残りをのせて。
賢治先生はどうされたのでしょうか。絶望のあまり私たちを見はなして自ら連絡を絶たれたのか、 それとも地球にもどるために銀河鉄道に飛び乗られたのか。連絡は途絶えたまま、むだに時間だけが過ぎていきました。 その間、鉱石ラジオのレシーバーは カリッとも音をたてません。まるで、先ほど賢治先生とつながったのが、嘘のような気がしてきます。
どこでもいい、賢治先生でなくても、どこかと連絡がとれないか。私は「トントントン、ツーツーツー、トントントン」と 「SOS」を打ち続けました。

突然、事務所の扉が開きました。無線機に向かっていた私は、ビクッと驚いて振り返りました。 玉さんが入口に立っていました。
「あっ、竈猫さん、来ておられたんですか?」
玉さんは、びっくりしたような声で言いました。
「君こそ、どうしたの? 無事だったんだね。よかったよ」
私は、それだけ言って、玉さんを上から下まで眺め回しました。
「所長さんがケガをされて、……ガラスの破片が何ヶ所も背中に突き刺さって……それで 家の方までお連れしました。
奥さんに舐めてもらって、命には別状ないようです。」
「それはよかった。でも、君もケガをしているね。」
「私のは、ちょっとかすっただけです」
と玉さんはつぶやくように言って、私をしげしげと眺め回しました。
「竈猫さんは、無事だったんですね」
私は、ピカドンときたときの竈の様子を身振りを交えて説明しました。その様子がおかしかったのか、 玉さんはちょっと微笑みました。朝からずっと緊張していて、笑いを見たのははじめてでした。
二人で相談して、とりあえず、この事務所を守ることがとりあえずの自分たちの役目だと考えることにしました。 私は、鉱石ラジオのレシーバーを耳に、SOSの電信を打ち続けました。しかし、 まったく応答がなく、むなしさだけが残りました。 その間、玉さんは、部屋を片付けたりしていましたが、一段落したところで、ようやく 自分の姿を省みる余裕ができたらしく、鏡の破片を事務机に立てて、 前足で顔を洗うしぐさをしました。何回かそのしぐさを繰り返していて、ふっと手が止まったかと 思うと、「ミャー」と叫びをあげたのです。 玉さんの手に体の毛がごっそりとついているのです。 手で撫でると、黒い煤やら黒い雨やらがこびりついた毛が、ざくざくと抜けてくるのです。ヒトのように醜い顔の皮膚が見えています。
「顔を洗うのはやめなさい」
私は、玉さんに叫びました。
−−そういえば、人間も頭髪が抜けて丸坊主のヒトが歩いていた。あれと同じだ。
私は心の中でつぶやいて、玉さんをそっと抱きしめました。
そして、玉さんを抱いたまま、私もまた顔を洗うしぐさをしてみました。 しかし、私は毛は抜けてきません。
−−ああ、竈の中とであのピカをあびたからか、大丈夫なのか……。
私は、心の呟きを続けました。
「所長さんを家まで送っていく途中で、黒い雨が降ってきて、濡れてしまったの? その雨が、 この毛に着いているから、 ぬけてくるのかしら?」
「私もさっき裏庭で蜘蛛さんと話しているとき、黒い雨に濡れたけれど、……」
「ああ、竈猫さん、私、死んでしまうのでしょうか?……
ああ、猫の神様、私も天に召されるのでしょうか? ヒトだけじゃなく、 猫も蜘蛛も、生きものすべてがこの巨大な爆弾の犠牲になるのでしょうか。……」
玉さんは、泣きながら私に訴えました。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

8月6日、原爆が落ちた日の私の日録は玉さんのことばを最後に打ち切られています。
玉さんの大切な毛が抜け出して、 あまりのショックに日録を書き継ぐ気力が失せたのです。しかし、この日録を書いておいてよかった。 これが私と玉さんの被爆証明となったのです。
私は、いま猫にも被爆手帳をと要求して裁判をしています。 その証拠としてこの日録を提出するつもりです。
昭和二十年暮れまでには十四万人の人がなくなっています。 猫についての記述は、人間世界の統計にはありません。人以外については冷淡なものです。 もともとそれは猫の事務所の管轄だと思うのですが、所長が亡くなったこともあって、 やりおおせることができませんでした。後に猫の事務所が推計したところでは、 すくなくとも三千匹以上の猫が、 あの被災で亡くなっています。まったく自分たちに責任のないホロコーストで それだけの猫の命が奪われたのです。
猫にも被爆手帳を、それが私たちがいま訴えたいことなのです。私たちに続いて、 蜘蛛さんも、生きていれば……、そして事務所の内庭の楢の木も、信楽焼の狸さんも、阿武山も、比治山も声をあげてくれると信じています。
ただ、心残りなのは、ご主人方の居候で詩人の原民喜さんが、あれから五年すぎたころみずから逝ってしまわれたことです。 どんな事情があったのか、どんな悲しみをかかえこんでおられたのかはわかりませんが、残念でなりません。 生きておられたら、私たちを後押しし、また私のたしかな被爆証人になっていただけたはずなのに……。

蜘蛛さんが言っていたように山川草木悉有仏性(さんせんそうもくしつうぶっしょう)ということばがありますね。 草も木も動物も、それに山や川にさえも 心があります。そんな彼らが被爆したのですから、彼らみんなに被爆手帳を……、 それが私たちの運動のスローガンなのです。 ……そして、山、川、草、木、すべての生きものが二度とこんなふうに被爆することがないように 祈りましょう。…… 合蹠(がっしょ)」
                        [完]


【補注】  1、宮沢賢治『猫の事務所』『蜘蛛となめくぢと狸』から適宜引用させていただきました。 また原民喜『夏の花』の詩三篇を電文として使用し、その内の一遍『コレガ人間ナノデス』の 「人間」を「猫」に置き換えてパロディー化して使いました。 作品の意図を汲んでお許し願うしかあしません。
また、拙作『地球でクラムボンが二度ひかったよ』 と一部照応させたところもありますが、この作品だけでも自立しているはずです。
 2、「ネズミの糞のような爆弾」という表現は、『原爆被爆証言のページ』の宮田修二氏の証言にあるものです。
 3、猫の体についての情報は、『SWEETCAT』というホームページを 参考にさせていただきました。ご了承ください。
 4、演出の方法として、猫がしゃべっているということを認識してもらうために、 たとえば、「〜したにゃん」、「〜するにゃん」「〜にゃんす」等、猫語(?)とおぼしきしゃべりかたを、 耳ざわりでない程度に試みてもいいかもしれません。
 また、かなり長いので幾人かで分担して朗読するといったやり方もあると思います。
 5、朗読の傍らに猫のあやつり人形を登場させるといった演出も考えられます。
 最初の自己紹介の場面で、黒子があやつるマリオネットの猫も紹介するというのはどうでしょうか。 オシッコをして、竈の中に寝に入ります。しばらくして、ピカドンが来て、この猫が竈の中から飛び出してきます。 朗読が、竃猫の二つ目のセリフに移るところからは、 猫はひたすら歩き続けます。場面によっては、立ち止まってまわりを見まわしたり、 また座って作業をしたりします。
この朗読劇が猫の視点からなされているということを、観客につねに意識してもらうためだけの添え物 風の人形劇ですが、 黒子のスタッフがいるのなら、そんな演出を試みてもおもしろいと思います。


追補
この脚本を使われる場合は、必ず前もって作者(浅田洋)(yotaro@opal.plala.or.jp)まで ご連絡ください。



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