朗読劇「3・11 宮沢賢治インタビュー」
       −地震、津波、原発について−
                           2013.10.1
【まえがき】
この朗読劇は、「賢治先生がやってきた」の「うずのしゅげ通信」に掲載した二つの文章、 「東日本大震災について(宮沢賢治にインタビュー)」(2011.4.1) と「宮沢賢治からの手紙」(2011.6.1)をもとにしています。
演出のやり方としては、一幕だけの上演でもいいし、一幕、二幕の連続上演でもいいと思います。
最初に、東日本大震災の映像を流すといったやり方も考えられます。
朗読だけで観客を惹きつけられるかどうか。さらに工夫が必要かもしれません。
宮沢賢治と風野又三郎、インタビュアーの三人朗読?(あるいは三人芝居)にするやり方も考えられます。
そこは、工夫次第ではないでしょうか。……。
では、「3・11 宮沢賢治インタビュー」のはじまり、はじまり。

【一幕】(めくりに「三月二十五日」の表示)
このたびの東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)は、東北から関東にかけての広い地域を襲いました。
宮沢賢治のふるさとである岩手県もまた多大な被害を被りました。
この大震災について賢治さんのご意見をお聞きして「うずのしゅげ通信」の載せるために、 編集長兼記者である私は、震災からまもなくの3月25日、銀河鉄道地球ステーションを訪ねて、 直撃インタビューを試みました。
私が訪ねあてた車掌室には、賢治さんとともにあの童話の風野又三郎さんもおられて、 いっしょにインタビューに応じていただきました。

−− 「宮澤賢治さん、よろしくお願いします。『うずのしゅげ通信』編集長の−−と申します。 『うずのしゅげ通信』というのは、学校演劇の月刊誌でして、読者は、まあ演劇部の生徒さんや先生ですが、 およそ、いや実際のところはわかりませんが、せいぜいで十数人ではないでしょうか。 しかし、まあ小誌ではありますが、もう十三年ばかり続いております。 ということで、宮澤賢治さん、えっ? 賢治でいいですか、では、賢治さん。 あなたの故郷の岩手県がひどいことになっています。まず、そのあたりから……」
賢治 「はい、そのことで、私も心を痛めています。地震、津波、そして原発……、 私が生まれる半年ばかり前にも地震があって、その津波でたくさんの人々が犠牲になりました。 また、私が亡くなる少し前にも同じように地震があって、津波で犠牲者が出ました。」
−− 「そうですね。年譜を調べていておどろきました。たまたまそうだったというだけの話ですが、 ふしぎな感じがします。その昭和八年の地震の四日後、あなたは、 詩人の大木実さんあてのはがきに『被害は津波によるもの数多く海岸は実に悲惨です』(※1)と 書いておられます。花巻の実家で自宅療養中のあなたのもとにも、津波の悲惨さは充分届いていたのですね。 ……それにしても、あなたの作品の中に地震や津波がまったく登場しないのはどうしてなのでしょうか。 冷害や飢饉といった自然災害は取り上げられていますが……。」
賢治 「そうですか……、そうかもしれません。自分の全集は見たことがないので、……」
−− 「今回の災害については、どこで知られたのですか?」
賢治 「地震と津波は、風野又三郎が知らせにきてくれました。」
−− 「又三郎さんが、……」
又三郎 「はい、賢治先生のふるさとがたいへんなことになったのでとんできました。」
−− 「又三郎さんは、どうしてお知りになったのですか?」
又三郎 「そのとき、僕はタスカロラ海床(※2)の上空で遊んでいました。」
−− 「タスカロラ海床……。」
賢治 「タスカロラ海床というのは、三陸沖合の日本海溝のあたりで、今回の震源はそのあたりです。」
又三郎 「僕たちは、冬は大抵シベリアに行って、そこから南にさがってきます。 日本が近づいて少し温かくなってきたので、気分がうきうきして、 上空からぐるぐると螺旋を描いて降りてくるサイクルホールの遊びをしていたときです。 一瞬、海が湖のように静かになりました。波がならされてつるっとしてひかっていました。 そして、突然海がゴーという音を出しながら、盛り上がってきたのです。 凪いだような一枚の海面が 膨れあがってきたのです。しばらくすると海の色が緑から白っぽく変わり、沸きたつように海面が泡立ってきました。 僕はすぐに地震だと気がつきました。いままでに見たことがないほどすごい地震だ。体がぶるぶると震えました。 とっさに津波という言葉がうかびました。上空から見下ろすと、 盛り上がっていた海面がへこみはじめています。そして、また底から盛り上がってきます。 僕は陸地に向けて馳けました。馳けて馳けて、やっと三陸の海岸にたどりつきました。」
賢治 「そこは、あとで詳しく聞いてみるとどうも石巻のあたりだったらしい。 あの町は、私もいったことがある。きれいな町だ。」
又三郎 「僕には、街並みを見下ろしている暇なんてなかった。 津波は、僕と同じくらいの速さで追いかけてきた。いや、僕より速かったかも知れない。 僕は夢中で叫んだ。『つなみが来るぞー、つなみが来るぞー』、声の限り叫んだ。叫んでまわった。 でも、僕の声は、津波の轟音にかき消されて、下のみんなには聞こえなかった。 たくさんの人たちが逃げまどっていた。車が浮いて流され、家も根こそぎに倒されていきました。 僕は涙もでなかった。喉がかれて、声が出なくなるまで叫んだがむなしかった。 たくさんの人々が津波にのみこまれていった。」
(又三郎さんはそこまで説明して、鼠色のマントで顔を隠して嗚咽をもらしました。)
賢治 「又三郎は、そんなふうに私に報告してくれて、その日は、泣いて泣いて、泣き明かしました。 私たちは自然の前では、まったく無力だ。又三郎の話を聞きながら、私はそのことを考えていました。」
又三郎 「津波にくらべて風なんてやさしいものだ。風野姓の乱暴者が二百十日あたりに たまに暴れることもあるが、 津波ほどの狼藉はしない。 津波はすごい、水に浸かった町全体が巨人の箒でかき回されたようにぐちゃぐちゃに破戒されてしまった。」
−− 「そうですか、又三郎さんは、空から、あの津波を見ておられたのですね。 そして、賢治さんに報告を……。でも、今回の災害はそれだけでは ありません。原発のこともあります。」
賢治 「たしかにそうだ。福島の原発が地震と津波のために故障してたいへんなことになっている。」
−− 「はい、おそろしいことです。地震と津波に誘発された原発のトラブルというのは前代未聞です。 そもそも、原発など賢治さんの時代にはなかったものだ。賢治さんは、原発の事故はどうして知られたのですか?」
賢治 「私は、銀河鉄道の土星駅から、コイン式の双眼鏡を覗いていて、原発の事故を知りました。 原子炉の熾き火が燃えているのが見えたのです。」
−− 「原子炉の熾き火が……そんなことがあるんでしょうか?」
賢治 「ほんとうです。銀河鉄道は単線なのですれ違いのために土星駅で停車するのですが、 その待ち時間、退屈なので放射線双眼鏡をのぞいていると、……プラットホームの端にコイン式のやつがあるんです、 それに硬貨を入れてね、のぞいていたら、おどろきました。 福島の原発から原子炉の熾き火が火の粉を散らしているのがはっきりと見えたのです。夢中で覗いていると、三分なんてアッという間 ですね。カシャンとシャッターが閉まって、硬貨がなかったので、もうどうしようもなかった。…… まったくの偶然ですが、おなじ土星駅で……もう半世紀にもなるでしょうか、いや、それ以上になりますか、 まっくらな地球がピカッと小さいひかりを発したのを 目にしたこともあります。そのときは何のひかりかわかりませんでしたが、業務連絡で 原爆の閃光だと知りました。そして、二日置いてもう一度、(※3)…… そうです、おなじ土星駅のコイン式双眼鏡でした。 ……あのときも悲しかったが、今回の原発の熾き火も悲しいきらめきでした。 それから毎日、土星駅で時間待ちをするたびに双眼鏡をのぞいていますが、原子炉の熾き火はなかなか消えないようです。 多くのグスコーブドリが身を犠牲にして働いてはいるが、原発をなだめるのはむずかしい。 原発の建物から火の粉を散らし、排水はどこかから海に漏れ出ている。 火の粉はさらにどうしようもなく広がるかもしれない、もし、そんなことになれば、散らかった放射性物質は 気が遠くなるほどの永さ、放射線を出し続けるでしょう。……」
−− 「それでも、未来はあるのでしょうか?」
賢治 「原爆をうけてなお復興したヒロシマやナガサキの人々もおられるんですから、空襲の焼け野原から 立ちあがった人々の子や孫なんですから、…… どうにかなるだろう、と信じてはいますが、……」
−− 「たくさんの人が亡くなられました。身内の人の多くがつらい思いをしておられます。」
賢治 「悲しみに身を苛まれている人もたくさんいる、それはたしかです。 避難所の通路を歩いていてもふわふわと現実感がない、泣きたくても涙もでない、 カンパネルラの父親のように(※4)……、 しかし、そんな日々もやがて気がつくと少しずつ踏みしめられるようになっている。 日にち薬ということばもあるように、 むりやりにでも日々の暮らしにまぎらせて、 悲しみの時をやりすごす、それしかありません。 私が妹のトシを亡くしてわかったことは、人は悲しみをかかえても生きていける ということです。」
−− 「それは、私も、息子を亡くしたあとしばらくして、そんなふうに気づきました。 五年前のことです……、 一時は、うろたえてしまって、どうすればこころを保つことができるのかも わかりませんでした。呆然とした一時期がすぎて、……やはり人は時間の癒しに待つしかないのかもしれませんね。 しばらくして、やっと本が読めるようになったとき、私の心を慰めてくれたのは、 あなたが妹のトシさんを亡くしたときに書かれた一群の詩でした。 それを読むことでどうにか最初の危機を乗り切れたのかもしれないという思いが しています。そのことで、私はあなたにたいへん感謝しています。」
賢治 「ひとりをうしなった悲しみは、その人に親しんだ人しか持ち続けることができません。 そのためにも生きてほしい。 悲しみはやがて懐かしい悲しみになります。…… いや、悲しい懐かしさというほうがいいかもしれませんが、ともかくそんなものになる、 というか、そこにもっていくのです……」
−− 「わかるような気がします。」
賢治 「また、復興も大切です。私が、妹を亡くしたあと、 その面影と出会ったのが『柳沢洋服店のガラスの前』(※5)でした。 亡くなった人の面影は、やはりかつてその人の生きた風景が似つかわしい。 だから、なんとか美しい街並みを、村を、復興しなければならないと、そんなふうに考えて……」
賢治さんは、そこで一つ吐息をついて、遠くを見るような目をしました。
−− 「……まだ、その段階ではないとは思いますが、 賢治さんは、これからの復興について、原発の存廃について、どのように考えておられますか……。」
賢治 「私には、何もできません。何もできないものが、何かを言うべきではないでしょう。 ただ、私が作品にこめたメッセージの一つでも被災者のこころに届くものが あればと、それだけを願っています。……いまは正直言って、 このたびの震災をどうとらえればいいのかといったふうなことは、まだまだ考えあぐねています。 ただ、……みなさんが、東北の復興に心を添わせてくれることを祈っています。 被災者たちには、とても長い苦難の旅路になるでしょう。他の地方のみなさん達には、 自分たちの生活レベルを犠牲にしてでも、被災した人々を支えていってほしいと思います。」
賢治さんは、そこで、ちょっとことばを詰まらせて、苦しそうな表情を浮かべました。 車掌室のどこかでベルがチンと鳴りました。
賢治 「もう、時間です。銀河鉄道の発車時刻ですので、申し訳ありませんが、 インタビューはここまでということに……。では、また。」
賢治さんは、車掌の帽子を被ってから私に軽く敬礼しました。そして、 どこか思い詰めたようなきびしい横顔を見せて車掌室を出ていきました。
又三郎さんもそそくさと立ちあがりました。
−− 「又三郎さん、最後に何か……」
又三郎 「えっ、僕? えーと、僕はいま、震災にあった子どもたちや 家族を亡くした子どもたちがたくさんいるでしょう、そんな子どもたちの 耳もとにどんな風のささやきをとどければいいのかなあって、悩んでいて…… 賢治先生に聞くわけにもいかないし、そんなとこ。 ……じゃあ、僕は、えーと、避難所は朝晩寒さに凍えているというし、そろそろ春の風を吹かせて来……」
しゃべりおわらないうちに、もう又三郎の姿がふっと消えてしまいました。 そして、賢治さんが開けっ放した扉から一陣の風が吹き抜けていきました。
暗転

【二幕】(めくりをめくると「五月中旬」の表示)
半月くらい前のことです。芍薬の花を見に出たついでに郵便受けを覗いてみるとその手紙が入っていたのです。
航空便用の薄っぺらな封筒に、癖のある字で私の名前が宛名書きされており、 見たこともない鉄道の切手が貼ってあります。 切手には「銀河郵便」と印刷されていて、白鳥駅郵便局の消印が捺してあります。 私は胸がどきどきしてきました。もしかして……とあわてて裏返してみると、差出人のところに小さく 「宮澤賢治」とあったのです。 封筒を持つ手に思わず力が入りました。手紙が来るなど思いもよらないことでした。 そもそも手紙の遣り取りができるなど想像もできませんでしたから、 私からは先日のインタビューの礼状も出していなかったのです。 だから、この手紙は、まったくの先制パンチを 食らったようなものでした。 私は急いで居間に戻って、震える鋏で封を切りました。 中には四つ折りされた奇妙な手触りの便箋が五枚入っていて、 万年筆でびっしりと書き込まれた小さい字が所々裏にまで滲んでいます。

「先日、銀河鉄道地球ステーションにお訪ねの節はさっぱりお構いもいたしませず、 いろいろ失礼いたしました。(※6)
せっかくのインタビューでしたが、震災後間もなくで、充分考えが煮詰まっていなくて、 残念なものになってしまいました。大いに反省しております。
それにしましても、千年に一度といわれる津波の被害はたいへんなものですね。あれ以後、 銀河鉄道が地球に接近するたびに、どうしても東日本のあたりに目がいってしまうのですが、 おどろくべきことに、列車の窓から三陸海岸の津波被害がそれとわかるのです。
第一印象は、色彩が失われたことです。 昼なら海岸線が何かくすんだ色に見えます。夜は灯りがほとんどなくて、 日本列島が浸食を受けたようなおびえさえ感じます。
たくさんの人々が亡くなりました。二ヶ月経ったいまも多くの人々がまだ行方不明のままです。
大切な人を亡くすと住む世界がかわったような感じに囚われるものです。すくなくとも私の経験はそんなでした。 これは、あなたにもお分かりいただけることと思います。 妹を亡くしたとき、これまで住んでいた巨大な世界のページがバタンとめくれて、 違う世界に紛れ込んでしまったような気がしました。 「妹のトシがいないこんな世界に自分はいたくない」、そんなふうに私は、半分パニックに陥りながら、 新しい世界を拒もうとしました。 しかし、どうしてももう一度ページを戻すことはできませんでした。 私は違和感に苛まれながら、一月、二月、……いや一年、二年とただ耐えるしかありませんでした。
大切な人を亡くされた多くの人にも似たような思いがあるのではないでしょうか。
今回の震災でいったい何枚のページがめくられたことか、そのことを想像すると心が痛みます。
そして気がかりなのは、その人たちはどんなふうに 海と和解するのだろうか、ということです。内陸育ちの私には分からないのです。 そもそも和解はありえるのか、ないのか、 そのあたり先人の知恵はどうだったのか、一度調べてみたいと思います。

被災地の復旧がなかなか進みませんが、遅れているのは、 原発がまだ不穏な気配をただよわせてうずくまっているからです。
津波と違って、こちらは先人の経験など思いもよらないことだし、 そもそも決して和解できるようなしろものではない。
原発がこの先どうなっていくのか、不透明なままです。電力会社だけが、悪者にされていますが、それで済むものでは ないように思います。
私の成長は、電気の輸入といっしょでした。今の東電、東京電燈有限会社が事業をはじめたのが明治十六年、 最初は火力による発電でした。岩手県に盛岡電気が創業されたのが、私が九歳のときでした。(※7)
それから徐々に電気の利用が広がり、花巻でも電灯、電車、電話などが生活に根を下ろしていきました。 私が発電所を見学して、 その感激を「発電所」という詩に書き上げたのもそのころですが、新しもの好きの私だからということではなく、 電気そのものが、現代では考えられないほど新鮮な輝きを纏っていたのです。 それこそ、電気の時代のはじまりでした。
私は、地球に帰還する度に、銀河鉄道の車窓から、電気時代の変遷をつぶさに眺めてきました。 夜になると電気のひかりが日本列島の海岸線をなぞるのです。
大正時代は、電灯などほんのわずかなものでしたが、昭和にはいると街灯なども増えはじめます。 それでもまだたかが知れています。都市部が少し明るくなりだしたころから、戦争の暗雲が垂れ込め、 戦時中は灯火管制などもあって、また暗さがもどったようでした。しかし、戦争が終わって、 復興がなされていくにつれて日本列島はじょじょに明るくなっていきました。
『グスコーブドリの伝記』にこんな描写があります。
「潮汐(ちょうせき)発電所は、イーハトーブの海岸に沿って、 二百も配置されました。」
イーハトーブにおけるこの状況は、現実にあてはめると昭和の三、四十年頃と一致しているように思います。
イーハトーブの海岸というのは、岩手県の三陸海岸を指しています。
まるで、銀河鉄道から眺めたような描写になっているのがわれながらおかしいですね。
昭和の終わり頃になると それこそ爛熟期にはいったようで深夜になっても灯りが消えることがありませんでした。日本列島は、 不夜城になり、他の地域にもまして、電光によって縁取られていきました。
それにつれて、電気の需要はぐんぐん増えていったにちがいありません。
このころになると、水力発電や火力発電では、電気をまかなえなくなります。 すると私が想定したような潮汐発電所に替わって 「原子力発電所が、イーハトーブの海岸に沿って、何基も配置される」という状況になったのです。 そういう選択をしてしまったのですね。 銀河鉄道の車窓からその風景を眺めながら、私は危惧していました。 すでに、人間の欲望がある一線を超えたことは明瞭でした。 どれだけ超えたかという目安が、原子力の発電量です。 原発の担っている割合が、欲望の過剰分ではないかと思うほどです。 もう一度、電気消費を、昭和の三、四十年代に引き戻したらどうかと私は願います。 なぜなら、そのあたりが、温暖化から言っても持続可能なぎりぎりのレベルだからです。 それでも充分幸福に過ごせるはずなのです。
原発を放棄して、『グスコーブドリの伝記』にあるように自然エネルギーの範囲に収めるべきです。 欲望の指標とも言える電力利用に枷をはめておくのです。くびきをつけないで放っておくと、 際限なく欲望を膨らませていくのが、 人間の悲しい性なのですから。
原発はあまりに人間のコントロールを超えています。放射能という目に見えない悪意を振りまきながら 何万年もかけて崩壊してゆく決して人になつかない怪物、 そんな怪物をなだめすかしなだめすかしして利用できるほど人間の知力も忍耐力も すぐれているとは思えないからです。
先にページがめくれるという私の経験に触れましたが、 被災した人々は、程度の差はあるにしても、 ふと違う世界に迷い込んだような感じに陥るときがあるのではないでしょうか。 しばらくはしっくりこないかもしれませんが、やがて、 その迷い込んだ世界こそが自分の新しい舞台だということになじんできます。
直接は被災しなかったあなたがたもおなじです。今は、そんなふうに意識していないだけで、 すでに新しい世界に移っているのです。すでにページはめくられているのです。
そして、その新しい世界に原発の入り込む余地はないと私は考えるのですが、 あなたはどう思われますか。
長く書いてしまいました。読み返してみるとあまりに悲観的な気がしますが、このまま投函することにします。 ご意見をお聞かせください。
乱筆、ご寛恕をいただきます。
またお目にかかれる日があることを期しております。
梅雨の砌(みぎ)り、あなた様にも折角おからだお大切に願い上げます。」(※8)

便箋を折りたたんで封筒にしまってから、私はその封筒をピアノの上に立てかけた息子の遺影の前に置きました。
なぜそんなことをしたのかはわかりませんが、何か祈りたいような気持になっていたのです。
私が宮沢賢治さんを本気で読むようになったのは、息子を亡くしてからのように思います。
息子は、五年前の9月21日、ブラジルで遭難して命をおとしました。
ホテルに遺されていた遺品の中に『銀河鉄道の夜』の文庫本があって、それをパラパラと繰っているとき、 後ろの年譜に目がいって、その日が宮沢賢治の命日だということに気がつきました。
どういう因縁なのでしょうか。ただただふしぎな気がしました。
それにしても、長男はどんなつもりでこの文庫本を持参したのでしょうか。 ブラジルまでの長い旅路、暇にまかせて、父が好きだという賢治作品を一度読んでみようとでも 思ったのか。
たしかに、それまでも私は宮沢賢治に嵌っていましたが、 息子のことがあってから、ますますのめり込むようになりました。
賢治も妹トシを亡くしており、その痛手をいくつかの詩に詠んでいます。私はそれらの詩に救われたのです。 また、『銀河鉄道の夜』もまた、私の喪失感をいくぶん浄化してくれたようにも思います。
そんなふうに深まってきた賢治との心の交流が、今回の震災を機に、インタビューとして結実し、また、 この手紙をいただくまでになったのです。ありがたいことで、賢治さんには重ね重ね感謝するしかありません。
私自身が震災後を生きてゆく参考にしたいと思います。

                              【完】

【補注】
※1、朝日新聞(2011.4.5)の記事「雨ニモマケズ 響く」より引用
上記の記事によって、昭和八年の津波に触れたはがきの存在を初めて知りました。 ちくま文庫版の全集には、載っていないように思います(?)。それにともない、 この文章の一部を修正しました。
※2、「風野又三郎」(ちくま文庫「宮沢賢治全集5」)
※3、二人芝居 「地球でクラムボンが二度ひかったよ」、短篇戯曲「人の目、鳥の目、宇宙の目」
※4、「銀河鉄道の夜」(ちくま文庫「宮沢賢治全集7」)
※5、『春と修羅』補遺「青森挽歌」(ちくま文庫「宮沢賢治全集1」)
※6 母木光あての手紙(昭和七年六月十九日付け)の書き出しに倣う。
※7 原子朗編著「宮澤賢治語彙辞典」(東京書籍)の「電気」の項を参照させていただきました。
※8 堀内正己あて手紙(昭和五年八月二十五日付け)の最後に倣う。


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