狂言風「猪突」
−おのれ、憎(にっく)き原発屋敷−
          2014.2.25


【はじめに】
この劇は、狂言風にはじまり、狂言風に終わりますが、中身は原発をテーマにした現代劇です。
野の動物たちは、原発事故の被害を一方的に受けるものですが、彼らからだと、今回の災害は どのように見えるのかを狂言風に仕立ててみました。
猪(いのこ)大名が、ドンキホーテのように、原発に猪突してゆくという筋になっています。
お楽しみいただければ幸いです。
【登場人物】
猪(いのこ)大名:狂言の大名ものの主人公、猪の絵を帯の輪に貼り付けたお面を頭に被っている。
         折烏帽子、素袍(すおう)上下等それらしき衣装。
         劇の格調は、いつに大名の風格に依る。
猪(い)太郎冠者:大名の召使、猪のお面
猪(い)次郎冠者:大名の召使、猪のお面
猪(い)三郎冠者:大名の召使、猪のお面
淵沢小十郎   :宮沢賢治の童話「なめとこ山の熊」に登場する熊捕りの名人
         蓬髪、毛皮の衣装、山刀、鉄砲を持っている。

【では、はじまり、はじまりー】
猪(いのこ)大名 「まかり出でたるものは、このあたりに隠れもない猪(いのこ)大名でござる。 近頃天変地異があなたこなたで起こるめぐりとなり、不安なことでござる。そのせいか、 わが領地から村人どもが逃げ出したという噂を聞いた。 あのずうずうしい村人どもがどうして自分たちの家や田畑(でんばた)を放り出して逃げてゆくのか、 わけが知りたい。 ぜんたいふしぎなことでござる。まず猪(い)太郎冠者を呼び出だし、調べさそうと存ずる。 ヤイヤイ猪太郎冠者、あるかやい。」
猪(い)太郎冠者 (離れて立って)「ハアー」
猪大名 「おるか、おるか」
猪太郎冠者 (前に出てくる)「ハアー」
猪大名 「いたか」
猪太郎冠者 (猪大名の前に膝をついて)「お前に」
猪大名 「念のう早かった。まず立て」
猪太郎冠者 「かしこまってござる」(と立つ)
猪大名 「汝を呼び出すは、別なることでもない。近頃わが領地から村人どもがこぞって逃げ出しているという噂を聞いた。 ふしぎなことよのう。大切な田畑を放り出して逃げ出すようなことがあってたまろうか。 そのわけを調べてきてほしいのだが、何とあろうぞ」
猪太郎冠者 「ご命令がなければ、申し上げようと思っておりましたので、 それは一段とようござりましょう」
猪大名 「それならばよろしく頼むぞ」
猪太郎冠者 「ただ、私の頼っているお方様の領地は山あり川あり平地ありで、 広うござりまするゆえ、 一人では隈なく回れませんので、他のものと分担して調べようとぞんじまするが……」
猪大名 「もっともなことだ。しからばあと二人の者を呼び出だし、調べさそうと存ずる。 ヤイヤイ、猪(い)次郎冠者に猪(い)三郎冠者、あるかやい」
(猪次郎冠者、猪三郎冠者、登場)
猪次郎冠者猪三郎冠者 (立って)「ハアー」
猪大名 「おるか、おるか」
猪次郎冠者猪三郎冠者 (前に出てくる)「ハアー」
猪大名 「いたか」
猪次郎冠者猪三郎冠者 (跪いて)「二人ともに、お前に」
猪大名 「念のう早かった。まず立て」
猪次郎冠者猪三郎冠者 (立つ)「畏まってござる」
猪大名 「汝らを呼び出だすは、別なることではない。 いま猪太郎冠者とも談合いたしておったところじゃが、近頃わが領地の村人がいなくなってしまったと 聞いている。そのわけが知りたい。一人で巡るには領地が広すぎると申すゆえ、三人で 分担して調べてきてはくれまいか」
猪次郎冠者猪三郎冠者 「承知いたしました」(と礼をする)
猪太郎冠者 「それにしてもふしぎなことよのう。わが国には年貢の取立てが度を越したときに、 村人がそろって逃げ出す逃散というものがあったやに聞きおりますが、豊かな現代のみ世には、 あるはずもないこと。 遠つ国の歴史を見れば、神が約束した土地を求めて人々が大移動をしたという話を 伺ったことがありますが、そのほかには、人々がこぞって故郷を捨てていなくなるなど、 聞いたことがありません。人間と いういきものは、ひとたび住み着くとけっして移動するなどということはせぬものでございますから」
猪大名 「そこじゃ、そこじゃ。わしもそう思うゆえに、今回のことは何か不安を感じて しまうのだ。 わが領の猪たちに類が及ばなければと祈るばかりじゃ。何にしてもわけが知りたい、 お前たち、しっかり頼むぞ」
猪太郎冠者 「しからば、私はご領地の山々を調べてまいりましょう」
猪次郎冠者「しからば、私はご領地の谷々を調べてまいりましょう」
猪三郎冠者「私は棚田から村々方にいけるところまで行ってみましょう」

(背景が夕日に染まって紅くなる)
(猪次郎冠者がもどってくる。)
猪次郎冠者 「ただいまもどりました」
猪大名 「おー、ようもどった。いかがなものじゃ?」
猪次郎冠者 「私はまず谷筋を川下に向かって下ってゆきました。しばらくゆくと烏に会いました。」
猪大名 「烏とな。どんな烏じゃ。」
猪次郎冠者 「あのだみ声の美魔女烏でございます。」
猪大名 「オーオー、たしかドロテーアとかいう名前の……」
猪次郎冠者 「よくご存知で。で、ちょっとべんちゃらを言いまして、 お美しくて、頭の切れるドロテーアさんにお聞きしたいのですが、と申しました」
猪大名 「オー、それはよう申した。で、何かしゃべってくれたか」
猪次郎冠者 「はい、最近、このあたりで何か奇妙なことが起こっていませんか、と聞くと、 堰をきったように話してくれました。(と、ここからは烏をまねた仕方話で)
あの地震は、電信柱の揺れで知りました。横木に止まっていたのです。 不意に電信柱が揺れだして、電線がビュンビュンと鳴って、千切れるものもあったので、 これは尋常のことではないと感じました。私は飛び立って、大きい揺れが収まったところで、 また先ほどの横木にもどりました。そこから人がうろたえて動き回るのを見下ろしていました。 しばらくすると一山超えて、冷たい海風がサーと吹いてきて、私の耳に「津波がくるぞう」という 叫びを残していってしまいました。さあ大変、叫びを聞いたものは、森の動物たちにも 知らせなければなりません。聞いたものの義務です。私は思いっきり警告音を発しました。 声を限りに「カアカア」と鳴きました。 するとさすがに野生の動物たちは不安を感じとって、山の上の方向に移動を始めました。 木の枝や笹の葉の揺れでわかりました。しかし、人間というやからの何たる鈍感さ、 私の叫びを聞いても動こうとはしません。いや、大きな揺れにうろたえて、 烏の声など耳に入っていなかったのかもしれません。そのとき、私の叫びなどかき消して 、サイレンが鳴り響きました。さすがに、サイレンの音は 耳に入ったらしく、人間たちが慌てふためいて避難しはじめるのが見えました。 私は、それを確かめて海の方向に飛んでいきました。そして、津波が来るのを、高い鉄塔の上から 見ていました。津波は、どんどん、どんどん押し寄せましたが、私の村に達するまでには息切れして、 引き返していきました。それを見て、私はまた村に戻りました。 動物たちは、すでに元の住処にもどっていました。しかし、村の人たちは、もどってこなかったのです。 それでも、二、三日は、顔見知りの人に会うこともあったのですが、 そのうちにほとんど見かけなくなってしまいました。 どこにいってしまったのか、私にはわかりません。
猪大名 「わしも、そのころ、サツマイモを盗みにいった猪から、 村人が神隠しにあったようにいなくなってしまった、という 報告を受けた。」
猪次郎冠者 「どうしていなくなったか、美魔女烏は想像もできませんでした。 そのころになると、村人と入れ替わるようにして、白い服を着た男たちを時々見かけるようになりました。 地震の二、三日後、私が浜どおりまで遠出をしたことがあります。海は、もう穏やかな海に 戻っていました。しばらく松林で遊んで、帰ろうと飛び立った瞬間、 浜辺に並んでいる白い建物の真ん中のが爆発するのを目にしました。 遠かったので、爆風というようなものは感じませんでしたが、大きな音がして、 白い煙があがるのが見えました。 それから、また二、三日したころ、けたたましい音が聞こえるので、浜どおりのあたりに 行ってみると、真上で羽を回して飛ぶ騒々しい鳥が飛んでいて、 立ち上っている煙を鎮めるように、空から水を撒きました。 恥ずかしい話、烏も飛びながらおしっこを撒き散らしたりすることはありますが、 その奇妙な鳥は、正体不明の水を撒き散らしてどこかに飛んでいきました。 それから後も、白い建物のあたりに行くことはありましたが、海水が噴きあがっていたり、 白い服がうろちょろしているだけで、 もうあの鳥をみかけることはありませんでした。 その年の夏のことです。私のいとこの勘九郎烏が、白い建物の見物に行きました。 彼は、長く飛んだのでのどが渇いていましたが、近くに川や池はありません。 ちょうどタンクがたくさん並んでいるところに水溜りをみつけました。 勘九郎は、飛んでいってそこの水を飲んだのだそうです。 彼は、その日の夜から下痢が止まらなくなりました。 血便まででるようになって、一週間ばかりしてあっさりと死んでしまいました。美魔女烏には、 勘九郎の今わの際に言った『どうもあの水に当たったのかもしれない』という言葉が残っている そうでござる。
ということで、私が聞いてきたのは、以上のようなことであります。」
猪大名 「なるほど、白い建物が爆発して、その近くの水がおかしくなった、というのじゃな。 でかした、でかした。 人間がいなくなった原因は、そこらあたり、水の異変といったところにあるのやもしれん。 水がなければ、生きてはいけんからのう。ようやった。まあ、休め」
猪次郎冠者 「ははー」(舞台少し奥まったところに控える)

(猪三郎冠者がもどってくる。)
猪三郎冠者 「ただいまもどりました。」
猪大名 「おー、ようもどった。村の様子はいかがなものじゃ?」
猪三郎冠者 「私はまず棚田のあたりから、村に向かって下ってゆきました。」
猪大名 「なんぞ、変わったことはあったか?」
猪三郎冠者 「地震があって、その後海岸近くでは大きな津波がきましたが、私がおりていった村には津波はこなかったようです。家がそのまま残っていました」
猪大名 「そんなことはわかっておる。村人はどうなっているのかを知りたいのじゃ。」
猪三郎冠者 「やはり、村人は一人もおりません。家や納屋はいつものままで、 人が一人もいないというのは、ふぎしなものでございます。軽トラも一台もみかけませんでした。 不安になるような静かさといったようなものです。 牛たちだけが『モウモウ』と鳴きながら、群れをなして道路をのし歩いておりました。 そのリーダーらしい牛を捕らまえて話を聞くことができました。 みずからウシナンテと名乗りまして、斑(ぶち)の牛でございます。 彼の申すには、牧場主たちの中には、 地震のあとすぐに戻ってきて、彼らの頚木を解いて、どこかに去っていったものが 多いらしゅうございます。それ以来一度も主の顔を見かけたことはないそうです。
(ここからは牛をまねた仕方話となる)
牛舎の中に閉じ込められたままで、餓死しそうになっていたら、白い服の男が現れて、 頚木をはずしてもらった、という牛もいるそうでござあいます」
猪大名 「またしても白い服が現れおったか、……きやつらはいったい何者なのか、 知りたいものじゃ」
猪三郎冠者 「ふしぎな白い紙の服、ふしぎな振る舞い、なぞでござりまするな。 いったい勝手に頚木をはずすなどとというのは、ありえないことでございます。 もう帰らないということなのか。それでも、牛たちは、ちかごろまれなことであると、 まずは『モーモー』と喜びの声をあげて、わがもの顔で道路を互いに押し合いへしあいしながら、 あちこち自由を謳歌しておりましたが、やがて このままでは飢えてしまうのではないかと思い当たって、いまはおびえておるそうでございます。 ウシナンテの申しますには、とりあえずは草を食んで飢えを凌ぎ、小川の水で渇きを癒しておるそうです。 ただ、塩がないのがつらいと申します。残飯でも何でも、とりあえずは、 塩気のあるものを舐めて塩分の補給をしているとのことでございます。 それでも絶対的に栄養不足で、牛たちはみんな哀れなほどに痩せさらばえておりました。 この国であんなにやせた牛は金輪際お目にかかったことがございません。 『それでも、今はまだ耐えられるが、もうすこしして冬がきたら、食べる草もなくなるので、ほんとうに 飢え死にしてしまうかもしれない、』と悲惨な訴えをしておりました。 われらのように何でも食べればいいのだ。土を掘ればミミズもいる、と教えてやりましたが、 お前たちのように強い鼻をもっているわけではないので、土を掘れない、ミミズも食えないと、 まるでこちらのせいのように声を荒らげるので、もうそれ以上言うのはやめました。」
猪大名 「人に飼われると偏食になってしまうでのう。いかに楽じゃというて、 人には飼われたくないものじゃて。」
猪三郎冠者 「御意にございます。わたしもそう思いました。さて、 その後、サンチョとか申す犬に出会いました。そやつもやせさらばえてうろうろしておりました。 首輪をつけておりましたが、野犬そのものでした。 私にうるさく吼えてまといつきましたが、飼われていた素性が残っているのでしょうか、 まことの野犬のようには凶暴ではございませなんだ。吠えても所詮負け犬の遠吠え程度です。 彼と別れて山に帰る途中、夕闇のなかあちこちから遠吠えが聞こえるのは哀れにございました」
猪大名 「なるほどさもあろうのう。ごくろう、ごくろう。ようやった。まあ、休め」
猪三郎冠者 「ははー」(舞台少し奥まったところに、猪次郎冠者と並んで控える)

(そこに、猪太郎冠者がもどる。伴ってきた熊撃ちの淵沢小十郎は奥に控える)
猪太郎冠者 「ただいまもどりました。」
猪大名 「おー、ようもどった。で、首尾はどうであった?」
猪太郎冠者 「はい、浜辺に出る獣道をたどっていきますと、突然、鉄砲で撃たれました。 ピシッと近くのくぬぎの幹に玉が食い込んで、もう一寸進んでいたら、危うく命を落とすところでした」
猪大名 「それは危ういことであった、それでどうしたのじゃ」
猪太郎冠者 「はい、こんなところで、怪我でもしたら、頼りにしているお方の ご用を果たせないと、 ハンカチを笹竹に結んで白旗を掲げました。 すると、あの熊捕りの淵沢小十郎殿がのっしのっしと姿を現したのでござります」
猪大名 「あの名人と言われた淵沢小十郎殿か? 熊と話ができるという噂の……」
猪太郎冠者 「さようでございます。名前を聞いて、わたしも驚きました。そして、 熊と話ができる小十郎殿なら、猪の言うこともわかってくれるかもしれないと考えたのです。 私は、必死に彼を口説きました。いま私を仕留めたところで、 村にも町にも人がいないのだから、肉は売れないぞ、とそれらしい理屈を捏ね回しました。
小十郎どのも、すでに村人がいないことを知っておられて、もっともだと思われたのでしょう、 鉄砲をわきに置きました。私は、ようやくほっとして、ご主人さまからおおせつかったご用の旨を お尋ね申しました。 小十郎殿は、風体はこんなにもさもさしておられますが、さすがに人間でござりまするから、 われわれ猪のうかがい知れない事情を知っておられる ようで、いろいろ話してくだされました。聞いていて、これは私の口伝えではなく、 ご主人さまに直接聞いていただいたほうがいいと考えて、丁重にお願いして、 伴ってきていただきました。いま控えの間にお待ちいただいております」
猪大名 「なんと、熊撃ちの小十郎殿が、それはでかした。待たせては失礼、 さっそくこちらに来てもらいなさい」
猪太郎冠者 「小十郎殿、お入りください」
小十郎 「淵沢小十郎でござる。お見知りおきを願いたい」
猪太郎冠者 「小十郎殿、ささ、もそっとこちらに」
猪大名 「おお、熊捕り名人の淵沢小十郎殿、よくまいられた。 猪大名でござる。まあ、こちらに来られい」
小十郎 「ありがとうございまする。先ほど、猪太郎冠者殿にも申したが、 そなたさまが熊捕り名人と仰せられたは間違いでござる。近頃はとんと熊が取れぬゆえ、もっぱら猪を 撃ってござるほどに、今では猪(しし)捕りの小十郎と言われておる」
猪大名 「猪捕りとは、おだやかでないが、この際でござれば停戦ということにいたそう。 突然にズドンとやられてはかなわんからのう」
小十郎 「そんな不意打ちはいたしませぬ。太郎冠者殿も言われましたように、今は 猪を撃っても売りもできませんから自分で食べるだけでござる」
猪太郎冠者 「するとさきほど私が撃たれたのは、小十郎殿が食べるための猟でござるか?」
小十郎 「さようでござる。それにしても、あの距離で狙いをはずすとは、 小十郎も腕がなまったものでござるよ」
猪太郎冠者 「おかげで、命拾いをいたしました。もし犬でもいたら、追い詰めれて、定めて 狙い撃ちされていたでござろう」
小十郎 「仰せのとおり、わしも昔は黄いろな狩猟犬を伴っておったが、 犬が死んでからは一人で狩をしております次第……」
猪太郎冠者 「間一髪でござりました。危うく小十郎殿に食べられるところでござった」
小十郎 「はは、鉄砲をはずしたおかげで、猪が白旗を掲げるのははじめてお目にかかりもうした」
猪太郎冠者 「赤面のいたりでござる。これ以上おからかいになりますと、ほんとうに 消えてしまいまするゆえ、その話はこれで収めいただいて、先ほどちょっと伺いましたところの 村の様子をもそっと詳しくご主人さまにお聞かせ願いたい」
猪大名 「おー、聞かせてくれい、聞かせてくれい」
小十郎 「さあ、そのことでござるよ、あの日から村人が消えてしまったわけ、 そのことは山に入ってからもずっと考えていたことでござる。順を追ってお話いたそう。
(ここからは仕方話になる)
あの地震は、狩の最中に揺った。ちょうど鉄砲で野うさぎを狙っていたときだった。ぐらっときて、 空に向けてズドンとやって、その反動でしりもちをついた。 もちろん尋常の揺れでないことはわかったが、 わしにとっての地震はそれだけだった。そのまま笹原の中に仰向けに寝転んでいると、頭上の枝で鳥が騒ぐのが聞こえた。松のてっぺんを吹いてゆく風がヒューと悲鳴みたいな声を出した。 どのくらい寝転んでいたがわからんが、しばらくすると、 妙などよもすような声が聞こえてきた。わしはあわてて立ち上がって、海を見下ろせる崖に出た。 そこから海の方角を眺めると、なんと津波の壁が押し寄せてくるのが見えた。
家にいる婆さまの顔が浮かんだ。小さいころ聞いた「津波てんでんこ」という言葉が口をついて出てきた。 なめとこ山のふもとに散らばっている自分の村が思い浮かんだ。『大丈夫だ、大丈夫だ』 とつぶやきながら、わしはそこからずっと津波を見下ろしていた。 津波が押し寄せて、引いてゆくまでの一部始終をじっと見ていたのじゃ」
猪太郎冠者 「その気持ちはわかるぞ」
小十郎 「津波の様子から自分の村は無事だということがわかった。 津波に襲われた町では食べるものがいるだろうからと、そのまま猟を続けた。 次の日もてるだけの獲物を身に着けて、家にたどり着くと、村中もぬけの殻、 そこにはもうだれもいなかった。 婆さまもいなかった。どこにいったのか、人っ子一人いないんだから、だれに聞くこともできない。 またの地震をおそれて、どこかに避難でもしているのだろうと、のんきに構えて獲物の始末をしていると、 白い服の男がやってきた。マスクをしていたが、知らない顔だ」
猪大名 「またしても白い服の男か? 神出鬼没……それにしても正体がわからんのう」
小十郎 「はい、正体はわかりませんが、敵ではなさそうでござった。 白い服の男は、ここは危険だから、町の避難所に入れとしつこく勧めたからです。 婆さまもそこにいるらしいが、町の避難所と聞いては、わしは行きたくなかった。 わしには山しかない。山から離れた小十郎というのは、陸にあがった魚とおんなじだ。 ここは危ないと白い服は言うが、そのわけがわからん。『げんぱつ』とかなんとかが危ないのだと 繰り返すが、何のことやらわからんから、絶対にいやだと言ってやった。何度も押し問答をした末に、 白い服は、困った顔をして帰っていった。 諦めたのかと思っていたら、次の日また違う白い服の男がやってきた。 その白服は、危ないわけをわしにもわかるように話してくれた」
猪大名 「何か危険が迫っているということなんじゃな」
小十郎 「そうらしい。まず、最初に納得がいったら、この村を出てゆくという約束をさせられた。 ならばというて、はじめたのがつぎのような話じゃ。
浜どおりの岸辺に白い建物が建っているのを知っているか? そこの山からでも見えるだろうが、 あの建物が建ってからもう四十年もたつそうだ。わしも猟の途中で休むとき、木の間から眺めたことは ある。何の建物か、以前からふしぎに思っていたが、白い服の男が言うには、 あれは忍者屋敷じゃそうな」
猪大名 「忍者屋敷とな、ふーん、あの白い建物がのう」
小十郎 「げんぱつ屋敷と呼ぶものもいるそうな」
猪大名 「げんぱつ屋敷という忍者屋敷か、そうだったか…… つぎつぎに建って、今は白い建物六つもあるぞ」
小十郎 「わたしもおなじことを聞いた。すると、忍者にもいろいろ流派がござるときた。 たとえば伊賀、たとえば甲賀、そんなこんなで六流派がござって、六つの白い忍者屋敷が建った。 忍者屋敷というからには、忍者がいっぱいおって、手裏剣もいっぱいある」
猪大名 「そりゃ、あたりまえやでござろう。忍者屋敷なれば、当然、忍者もおるし、 手裏剣もある」
小十郎 「これまでは、手裏剣が外に飛んで出るというような不始末はなかったが、 あの地震で六つのうち三つの忍者屋敷が爆発した」
猪大名 「美魔女烏の言うとった、爆発じゃな。で、爆発してどうなった?」
小十郎 「爆発して建物も壊れて、煙が立ち上りました」
猪大名 「その煙を見たというとったが、それでどうなった?」
小十郎 「建物が壊れて、手裏剣も飛び出てくるし、 中に閉じこめられとった悪い忍者が外に出てきよったというのです」
猪大名 「悪い忍者??? それはどんなやつだ?」
小十郎 「たとえば、煙の中の悪(わる)は名前を毒の雲えもんという」
猪太郎冠者 「毒の雲えもん、いかにも悪そうな名前でござるな」
小十郎 「さよう、壊れた建物から雲みたいにモクモクと立ちのぼったらしい」
猪太郎冠者 「煙が雲のように流れたということですか?」
小十郎 「その煙の中からどろどろと雲えもんが現れて、 この雲えもんは手裏剣の使い手でな、 手裏剣を四方八方に飛ばすようじゃ」
猪太郎冠者 「どのような手裏剣でござろうか」
小十郎 「白い服が言うには、その手裏剣は 薄うて透きとおっておって、ものすごいはやさで飛んでくるらしい、そのために 目に見えない。見えないけれどもピューと飛んできて、スーっと体を通り抜けてゆくようじゃな」
猪太郎冠者 「痛うはござらぬか?」
小十郎 「いや、それが白い服の男が言うには、痛うも痒くもないらしい、 ないけれどもスーと通り抜けるときに 体の中を傷つけていくというのだ」
猪太郎冠者 「おっそろしい手裏剣でござるな。それで血は出るのですかな?」
小十郎 「それそれ、体の中で血が出ることもあるな。…… それであんまりたくさんの手裏剣がいっぺんに 体をつらぬいていくと、内臓がグサグサになって、死んでしまうこともある」
猪大名 「怖いもんであるな、その見えない手裏剣いうやつは……」
小十郎 「そうでござる、見えないだけに、よけい怖い。……この手裏剣のことを、えーと、 巡礼にご報謝せんといかんとか、何とか言うらしいんじゃが。わしにはわからんかった」
そのほかにも毒の水べえとかいうヤツもいるらしい。これは火を消すために建物に水をかけた、 その水に混じって出て来るらしい」
猪次郎冠者 「やはりいんけんに手裏剣を飛ばしよるのでござるか?」
小十郎 「そのようでござる。その他にもな、 忍者屋敷が爆発したとき手裏剣使いの悪い忍者がいっぱい外に出てきたからたいへんなんじゃと。 悪い忍者がうようよ出てきて、手裏剣がいっぱい飛んでいて危なっかしくて、 住んでいることができないというので、 人々が恐れて逃げ出したらしい」
猪太郎冠者 「村には人っ子一人いないらしいです」
猪三郎冠者 「たしかに誰もおりませんでした。幽霊村のようでござった」
猪大名 「おのれにっくきは原発屋敷、毒の雲えもんに毒の水べえ、 われらが村の領民を追い出しおって、許せん。 これまでサツマイモやとうもろこし、ヤマノイモなど数え上げればきりがない、いろんなものを 食べさせてもらった恩義、けっしてわすれておるわけではござらん。 その忍者屋敷とやらに討ち入ろうとぞんずる。小十郎どのいかが……」
小十郎 「わしにはもとより依存があろうはずはござらん。ともに討ち入ろうとぞんじる」
猪大名 「猪次郎冠者、槍を持て、猪三郎冠者、鎧を持て。(と命じる。 彼らが槍と鎧を持ってくると 後ろ向きになって鎧を着し、槍を手にする) 小十郎殿、いざ出かけようぞ」
小十郎 「猪(しし)撃ちが猪(いのこ)大名殿と一緒に討ち入りをしようなど 思いもよらなかったが、ご一緒いたす」
猪大名 「いざ、猪太郎冠者、馬引けい」
猪太郎冠者 「馬でござりまするか、……それはいかがいたしましょう。 すぐに馬とおっしゃっても、 わが家には馬はおりませんが」
猪大名 「馬がおらんと、(ちょっと考える)なんと融通のきかんやつじゃ。 馬はいるではないか」
猪太郎冠者 「はぁー? どこにおりまする?」
猪大名 「そこにおるではないか、前脚と後足が、 猪次郎冠者、お前が前足、猪三郎冠者、お前が後ろ足をやれ」
猪次郎冠者 「馬の前足でござるか、なんと人使いの荒い」
猪三郎冠者 「わしは後ろ足か」
猪大名 「そうじゃ、そうじゃ。これで万事がうまくいく。さあ行くぞ (と二人の馬に跨る。)猪太郎冠者 おぬしにお供を命じる」
猪太郎冠者 「あいや、しばらくお待ちを、ちょっと思い出したことがござります。 父の遺言のことでござる。それがこのあたりにひっかかってござる。(と、頭を指す)」
猪大名 「この際になんのことだ。遺言になんとあったのじゃ?」
猪太郎冠者 「しゅりょう犬としゅり犬には注意するようにということでござった」
小十郎 「狩猟犬と申せば、昔、わしは黄色な犬を連れて……」
猪太郎冠者 「そのころの小十郎殿には会いとうないものじゃ。 狩猟犬は怖いものとすり込まれておりまするが、それにしても、親父の言う しゅり犬とはどんな犬ぞやと長年思案しておったところが、今あきらかになり申した。 しゅり犬とは、この手裏剣のことであった。(と、左の掌を右掌ですって、手裏剣を飛ばすしぐさをする) よって、手裏剣には近づきとうないものだ」
猪大名 「何と、父親の遺言で、手裏剣には近づきとうないと、そんな遺言があろうものか、 猪太郎冠者、この期に及んで、おじけづいたか? (と、槍で猪太郎冠者の尻をつつく)さあ、まいろうぞ、忍者屋敷に突撃じゃ。 猪突猛進あるのみ、獅子奮迅を見せてくりょう」
小十郎 「いざ出陣でござるな。まいりましょう、まいりましょう」
猪大名 「さあ、まいろうぞ、さあ、まいろうぞ」
猪太郎冠者 (槍でつつかれなが、)「許してくだされ、親の遺言ですぞ、許してくだされ」
猪大名 「聞かぬ、聞こえぬ、さあ、まいろうぞ、さあ、まいろうぞ」
(猪太郎冠者を猪大名が追い込む)

                       【完】
【補注】
淵沢小十郎は、宮沢賢治の童話「なめとこ山の熊」の主人公です。


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