「哀歌」拾遺


 夢のなぞなぞ
                2011.3.1

息子が九歳の頃です。
ある朝、起き抜けに私のところにやってきて、
まじめな顔で質問をしたのです。
「お父さん、夢でかけられたなぞなぞはとけるのかな」
当時、彼はなぞなぞに凝っていました。
私がどんなふうに答えたのかは覚えていないのですが、
なぞなぞが分からないと解けないとか、
そんな理屈を言ったろうことは想像できます。
凡庸たるものの悲しさです。

息子は、自身の夢を実現して科学者になりましたが、
これからという二十八歳で逝ってしまいました。
夢でしか会えない人になったのです。
だから待つしかない。
夢を待つともなく待ちながら
いや、ただ日々をやり過ごしながら、
私は考え続けてきました。
どうしてこんなことになってしまったのか。

息子は、
夢でかけられたなぞなぞを解けると信じて
科学者になったのか、
夢のなぞなぞから自然の謎への道程は
どんなふうであったのか。

それから五年目の先日、私はひさしぶりに、
夢の残像を見送った気分で目覚めました。
夢そのものは見ていたのかどうかもはっきりしなくて、
夢の布がすうっと向こうに引っ張られていくように
剥がれて消えてしまったのですが、
入れかわりに、
むかしの息子とのあの会話が、
夢うつつの隙間からふわっと浮かび上がってきたのです。
「お父さん 夢でかけられたなぞなぞはとけるのかな」
その瞬間、私は理解したのです。
夢の中でなぞなぞをかけられたのは私であることを、
なぞなぞをかけたのはもちろん息子、……。


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