哀歌


 定年退職
                2008.4.1

「見えないものを見るのが/詩人の仕事なら」(田村隆一)
見えないものを
見えるようにして教えるのが
養護学校の理科教師である僕の仕事と考えてきた

養護学校にだって
理科好きな生徒が、たまにはいるのだ
定年退職が迫って片づけをしている僕に
春休みの宿題をせがまれたと
担任からの依頼
夏休みに、はじめてねだられ
彼用の宿題を渡したら
「スペッシャル バージョンやな」と
あんなに喜んでいたから
宿題を出すのはいいけれど
だれがその宿題を回収するの?
だれがその宿題を採点するの?
と、つっこんでみたくなる
でも、嬉しかった
僕の定年後を明るくしようとして
そんな宿題をせがんできたのか

賢治の妹トシが
いまわの際、
一椀の雪をねだったように

僕はうきうきと
宿題を作る作業に取りかかったさ
何だか先にのぞみが見えてきたような気分でね


  松林で
              2008.6.1

まだ幼いころ
冬、父について里山にのぼった
松の落ち葉を集めて
風呂の焚きつけにするのだ
笹を刈る父から離れて
私はひとり
身の丈もある笹生(ささふ)の中に踏みこんだ
森閑とした山の空気が私を取りまき不安がおそってきた
私は弱気をふりはらうようについと後ろ向きに笹生の上に倒れこんだ
不意に父の視線から消えた私は
笹の撓りが下支えしてくれたのか
ふわっと松葉の上に横たわっていた
笹生に身体の形そのままの穴ぼこがあいていた
見あげると
遙かかなたの松の梢で
木枯らしが恐ろしい叫びをあげていた
そのときの、別世界を見あげているようなふしぎな感覚は
私の中で、いまだに色あせてはいない

還暦を過ぎて
最近しきりに松林が恋しくて
冬のある日
近つ飛鳥風土記の丘の
以前の持ち山のあたりに入りこんだ
笹は腰の丈
風はなかった
そこに仰向けに寝ころんでみる
身体がふわりと笹生に沈み込んだひょうしに
ぽっかりと中原中也の詩句が浮かんできた
「死の時は私が仰向かんことを!」
落ち葉の朽ちた臭いが鼻をつく
この笹生の穴ぼこの中で
消えてしまうのが
死ぬということだとすれば……
しばらくすると笹はおのずと身を起こし
やがて穴ぼこは、あとかたもなくなるだろう
そこで消え去った私は
いったいこの穴ぼこの底から
どこに抜け出るのだろうか
私は立ちあがり
足許にまといつく笹を蹴とばしてみた
そしてだれにともなく負け惜しみをつぶやいた
「私には会いたい人がいる。
だから、死ぬのはこわくない。
……多分!」


 順を生きる
                2008.7.1

自閉症のT君を詠んだ拙作

心閉ざす自傷の終(つい)に打ちつけし額の傷よ百毫(びゃくごう)の位置

彼らは、視線が合わなかったり
反響言語があったり
誤解されることも多いが
深く本質を生きているということが
今にして分かる
時間割が変更されるだけでパニックをおこすのも
百年分のカレンダーを脳裏に抱えて瞬時にめくれるのも
ことばをくりかえすのも
すべて順へのこだわりの深さゆえ
順を生きるのは
それが本質を生きることだから

生きてゆくには
順がすべて
それこそが唯一、生の真実
今にして分かる
生き死に、にもそれはある
それが狂えば
パニックにもなろう
息子をなくしたとき
私は
順が守られなかったことにパニックを起こして
見えない壁に額を打ちつけた
T君のように額の傷はないけれど……

守られてこそ意味があるもの
そこから時間を刻みだし
DNAをなぞって生命を生みだすもの
世界を統(す)べているものといえば

これをおいてほかに何があろうか

それこそは守られねばならないもの
だれにおいても
私においても

   (注:「百毫」というのは、仏の額の白毛)


 いのちの穂先で
                2008.7.1

「だれでもよかった」と言って人を刺殺する事件が増えている
人はいのちをみちづれに生きているので
いのちをみちづれに生きられなかったから
いのちをみちづれに死んでゆきたいのか

人はいのちをみちづれに生きているので
死ぬときは一人でゆけるのではないか
いのちのみちづれに、死んでみせようがために

あるいは
人はいのちをみちづれに生きているので
残されたものの想いが深ければ
死は、いのちをみちづれにしないともかぎらない
だから、もう手を放せばいいのだ
さよなら、と
そして、お星さまになったんだと
子どものように、口ずさんでみる
(この言いぐさ、なめんじゃねぇぞ)
死ぬってことは……
いまわのきわに
細りゆくいのちの穂先で
おのが天球に穴を穿つこと
そんな気がしないか?


  追悼論文集
               2008.8.1

恩師二人によって編まれた追悼論文集をいただく
ハードカバーのものが二冊
息子の嫁と私たち夫婦がそれぞれ一冊ずつ
布表紙の手触りを確かめて
遺影に供える
後日、ソフトカバーのものが届けられる
関係者に寄贈されたものの残部、十数冊

「死んだ人は、みんな言葉になる」
というのは寺山の妻の言葉だったか?
息子の言葉は、さしずめ論文
これも言葉にはちがいないが、むずかしい
私たち「遺族」の慰みのためにも、と編まれたのでもあるが
残念なことに、私に研究のことはわからない
家族のこれからを支える誇りとも
息子をしのぶ縁(よすが)ともなるべきものなのに。
私にできるのは、ただ遺影の前に座ること
そうして耳をすませているとおのずからのざわめき
これらの論文についやされた息子の人生のひととき、
すなわち命そのもの、の息吹か
その吹きかえしか
そうだ
その息吹もそえて
彼の友人たちにこの本を贈ろう


 人さりて長月の
              2008.10.1

人さりて長月の、なお癒えぬかなしみ

縁側の椅子に午後を呆けていても
座敷の遺影と視線をあわせることはほとんどなく
ただ気まぐれに想念を追うのみ

風吹けば
前栽の庭石にとまれる木漏れ日、
蝶と見まがうばかりにひかりをはばたかす
その蝶と私と、いったいどちらがほんとうに生きているのだろうか?

木々が蔭を濃くするとみるまに
開かれた本の上はすでに暗く
ふと目をあげれば
ほのかに色づいた西空に鳥の群
一斉に舞い上がり、翻って向きを変える
かなしみをおおっていたうすぎぬのベールが
夕風にふわりと吹き上げられ
一瞬の爽快に身をよじるかのよう

前栽の老梅になお鳴き続ける蝉よ
いまは声をおさめよ
おのがさだめを知ってか知らずか
生きいそぐなかれ
もはやたそがれ
昼の喧噪はすでに遠のき
夜のさやぎは未だしのいま
その静謐の中にこそ
みじかいいのちも熟るるを

近くの小川からくぐもった水音
気のせいか、仄かな水の香さえも
そうだ
わがかなしみは
碧(みどり)なす深き淵
静かに静かに流れしめよ
茫々たる闇の底に
水の香だけを流れのあかしとして

人さりて長月の、なお癒えぬかなしみ


  

「(私の魂)といふことは言へない」と
伊東静雄は書いているが……
そうだろうか
私の経験は、こうだ

魂は熱をともなって来る
魂は発熱する
魂は発熱素材
魂は体温をもったチェロ

熱をもちて訪ないくるもの

こうも言えようか
魂は生のこだま
心の海 暗く
夢の深みに口をあけた洞窟
そこにいつまでも反響している生のこだま
洞窟は
ときとしてこだまを吐き出す
夢の泡
そう、夢のあぶく
……………
あれ以来ずっと私は息子の現れる夢を記録し続けている

あるいは
偶然を意味あるものに変えるマジシャン
「タネモシカケモチョトアルヨ」※
信じられるか、信じられないか
微妙な位置にしかけられた魂という罠(?)
それとも、何らかの機微(?)
……………
そのタネも心の深淵に埋め込まれてあるのだろうか?

魂は
まなことして残る
私も見られている気配を感じてきた
その視線を意識して襟をただすことだってあるのだ
……………
エリザベス・キュブラー・ロスのいう死の瞬間
蛹を破って飛びたつ蝶
その羽根にうかびあがる擬態、目の紋様

それでも「(私の魂)といふことは言へない」のか

   (※ゼンジー北京のセリフ)


  パスワード

息子がなくなってまもなくの法事の席で
「Yくんは差別をしない人やった」
という声をふと耳にとどめた
末席からのつぶやきの断片で、文脈はわからないながら
私もその評言に妙に納得させられるところがあった

そのことばが、ずっと心のどこかにひっかかっていたのが
三回忌を済ませたころ
へんな話だがひょんな連想から
これがたいへんなほめことばだということに気がついた

キーワードは常不軽菩薩さま
法華経に登場するこの菩薩さまを介すると
このことばが
たいへんな広がりをもつのだ
まず、宮沢賢治
「われ敢えて汝等を軽しめず」
(=「差別しない」)と
人々を礼拝するこの菩薩さまを
デクノボーと呼び理想像とした
良寛もまたこの菩薩の信奉者であり
「南無帰命常不軽」の偈(げ)がある

親がいうと身びいきに聞こえるかもしれないが
息子もまた、「だれをも軽んじない性格」だった
法事の席での評言は
その性格を見抜いての一言だったわけで
彼にはたいへん名誉なことばだと収受したい

四十九日の法事の前に
息子夫婦が住んでいた
東京のマンションを片づけにいった
郵便受けに手書きの名前が貼り付けてあり
それを指でなぞって妻が泣いた
玄関に脱いだ靴がみだれていて
つい先ほど誰かがかえってきたかのような気配があった
調度のひとつひとつにまだかすかな体温が残っていた
パソコンが二台、机の上下で複雑に線がからまって
唯一よそよそしかった

三回忌を過ぎて
倉庫にしまい込んでいたパソコンを取りだして
スイッチを入れたが、開くことができない
パスワードがかかっているのだ
思いつくことばをためしてみるが
すべてはねつけられる
息子の技術はそんなに甘くはない
半日をいろんなパスワードを打ち込んで過ごしてしまった
パスワードを想像するために
息子のことをいろいろ考えた
こんなに息子のことだけを
息子の性格や生活をつきつめてじっくり考えたことが
この二年あっただろうか

しかし、人はわからないものだ
親子であっても
そのことに変わりはない
そして、わからないままに
人はこうして内奥にパスワードをかけて去っていくものなのか
残されたものに、それを解くヒントを与えることもなく

私はいまも時々キーボードにむかって
当てずっぽうにパスワードを打ち込んでみる
もちろん、まぐれあたりなどありはしない
そんなある日、ふと気がついた
もしかしたら
「差別しない人」というのが息子のパスワードなのかもしれないと


  お経の噺

命日には
仏壇の前でお経をあげる
まず
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……」
で、おもむろに
「ブッセツマカハンニャハラミタシンギョウ
……カンジザイボサツ ギョウジンハンニャハラミタジ……」
と、はじまり
最後は
「ギャテイ ギャテイ ハラギャテイ ハラソウギャテイ ボジソワカ
……ハンニャシンギョウ」
さらに
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……」

お詣りをお願いしている若い住職は
私の般若心経を納得してはおられないようだ
あらわにはおっしゃらないが
さりげなく
「浄土真宗では、般若心経を唱えません」
と言われたことがある
住職のお念仏は、正信偈
浄土真宗で般若心経を唱えることが
どれほど非常識なことなのか
それがわからない

母が亡くなったとき
毎日、般若心経を唱えていて
自然におぼえた
父が亡くなったときも唱えた
息子がブラジルで亡くなったときは
おとむらいで般若心経をあげた
「息子のために覚えたのではなかった」
と、悔やみながら
般若心経には、これまでの因縁があるのです
同じ仏教で、真宗門徒が般若心経をあげることの違和感がわからない


彼岸花
              2010.10.1

今年の猛暑が
彼岸花の開花を遅らせている
お彼岸になっても
わが家の庭に
天界の花は現れない
例年だと
ある朝ふいと
地に挿したマジシャンの杖が変じたように
あざやかにすっくと立っているのだが
今年はそんなけぶりさえない
無聊(ぶりょう)ゆえに
日ごろは待たない花さえ待つようになったのかと自嘲しつつも
彼岸花の咲かないお彼岸は
何かおぼつかない

その彼岸明けの朝方
亡くなった息子の夢を見た
息子が漕ぐ自転車の後ろに乗って
夜店のアイスクリームを食べに行く途中から
ふいに夢がはじまる
−−もう、いいかげんに将来のことを考えたらどうや
と後ろからことばをかける
息子は顔をクシャクシャにして
困ったという表情をした
事故から癒えて再出発、という夢の状況に
ふんわりとのっかっている
後ろに乗っていてどうして息子の顔が見えたのかはわからないが
クシャクシャという表現が、はがされてゆく夢の痕跡として残る
死んでしまっているのに
「将来のことを考えろ」と言われた息子は困ったろうと
目覚めた後、少しおかしい

夢の朝、新聞を取りに出て
いつも彼岸花が咲く前栽の一隅に目をやると
茎が伸びてすでに赤い蕾をつけている
少し遅れたが今年も咲いてくれたか

ついでに横っちょの
金木犀の葉をわけてのぞいてみると
小さい緑の花芽がいくつも枝にこびりついている
咲くのはまだまだ先のことだろうが
ふとあの香りが過ぎったような気がする
−−いつ咲くのかな
と口中、問いかけてみる

亡くなった息子を夢中に諭すのと
金木犀に花時を問うのと
どちらが甲斐あることなの

反句
彼岸花待たれぬ花を待つ無聊
供華(くげ)二輪四周忌すぎて秋思なほ


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