綾の鼓


 文化祭まで一週間を切って、劇の練習にも熱が入ってきました。こんな時期は、生徒たちも浮足だってしまい、ついトラブルになることがよくあるのです。
「石井くんが、北川先生を回し蹴りにしました」
 別の場所で練習していた女生徒が、あわただしく駆け込んできたとき、まず脳裏をかすめたのは、やっぱり来たなという思いでした。
「それで、北川先生、けがでもしたの?」
 私が演技を付けていた生徒たちが騒然となりました。
「静かに……」と生徒を制しながら、ダウン症で小柄な石井のことだから回し蹴りといってもたいしたことはないだろうと踏んでいたのです。
「先生は後ろにひっくりかえって、......頭からボタボタ血が出ています」
「血が出た」と聞いて、騒ぎの勢いが一瞬削がれました。生徒にすこし休憩しておくように言いおいて、北川たちが練習していた雨天作業場に駆けつけました。
 そこにたむろしていた生徒に聞くと、北川はすでに歩いて保健室に行ったと言うのです。石井も見当たりませんでした。セメントの床に血痕があったので、それを拭き取っておくように指示して、急いで保健室に行ってみました。扉を開けると、その勢いに驚いて北川が振り返りました。頭の傷を消毒してもらいながら、養護教諭に事情を説明していた様子です。傷口はたいしたことはなくて、雨天作業上に置かれていた木イスの角に頭をぶつけてちょっと切った程度でした。
 職員室に回ると、石井は別室で学年主任の小川に事情を訊かれているということでした。
 後で、北川に聞いたところでは、事件のあらましはつぎのようなことでした。
 ざしきぼっこに扮する生徒たちを集めて、歌と踊り、それに太鼓演奏の練習をしていたのですが、練習が一段落して休んでいたとき、石井が北川に踊りの個人レッスンをしてくれと迫ったのです。手をつかんだり、体を寄せてきたり、あまりのしつこさに、北川が彼の胸を押しやろうとしたとき、回し蹴りが腰のあたりに入ったのです。油断していたこともあるのでしょうが、それはみごとな回し蹴りだったそうです。彼は拳法部に入っていて、一見まねごとのような練習とはいえ、二年間で身についた少林寺の「型」が自然に出てしまったといったところでしょうか。もともと体の小さい石井の攻撃など、スポーツウーマンの北川にとって、身構えていれば、どうということもなかったはずなのですが、そのときはとっさのことで体をかわせなくて、後ろに尻餅をついて木イスに頭をぶつけてしまったのです。
 北川も驚いたようですが、一番驚いたのは石井でした。うろたえた表情で駆け寄った石井の手を、北川は邪慳に振り払いました。彼はひどく傷ついた様子で、茫然と立ちすくんでいたそうです。
 今回のことは、突発的というより起こるべくして起こった事件といった方がいいようです。石井は、入学して以来、北川を、それこそ一途に恋い焦がれてきたのです。友だちにも公言していたし、北川本人にも直に「告白」したこともあるそうです。それが最近は度を越して、生徒たちからも「ストーカーしている」とまで噂されていたのです。
 若い女性の先生というのも、われわれとはまた違った悩みがあるものだ、と私としては認識をあらたにすると同時に同情もしていたのです。それでも北川は石井の担任なので教室に行かざるをえません。第三者がいるとストーカー行為もやりにくいだろうということで、複数で教室に赴くことが多くなりました。
 同僚の女の先生が見かねて、助け船を出したりもしていたようです。
「北川先生は、もう婚約していて、その彼というのは警察官で柔道三段なのよ」
 そんなふうに言い含めても彼は取り合おうとはしませんでした。
「そんな婚約、とりけしたらええやん」
「新しい法律できたから、ストーカーしてたら逮捕されるかもしれへんで……」
 と、おどしても、分かっているのかいないのか、聞き入れなかったのです。子どもだましといえば、子どもだまし。そんな策謀に耐えきれなくなった北川が、自責の念からちょっとやさしい顔をすると、もう石井は掌を返したように有頂天になる、そんな気分の浮き沈みがこのところは毎日繰り返されていたのです。

 北川のケガについては、石井の母親からお詫びがあって、一応けりということになりました。そのことがあって石井も彼なりに自重したということでしょうか、以後さしたる問題もなく文化祭を迎えることができました。

 そして、文化祭当日。
 在校生、保護者、それに卒業生など優に三百人を越える観客で体育館は立ち見が出るほどでした。二年生の劇は『ぼくたちはざしきぼっこ』、私が脚本を書きました。五十歳を過ぎて生徒の感性との隔たりもあって、どうしようか悩んだのですが、好きなこともあって、結局引き受けてしまったのです。宮沢賢治の『ざしき童子のはなし』という短編にヒントを得ています。賢治先生も登場します。幕が開くと、ざしきぼっこが住まいしている座敷。こともあろうにその座敷で主の息子がバンド練習をしているところから劇がはじまります。あまりのやかましさに、ざしきぼっこは住み慣れた家を出てしまいます。もちろんその家はたちまちビンボーに。そんなとき彼は、賢治先生が養護学校に一日だけ帰ってくるという噂を耳にするのです。世の中全体が騒然として住み辛くなったこともあって、ざしきぼっこは地球に愛想を尽かしているのです。そこで、彼は、賢治先生に頼み込んで、銀河鉄道に乗せてもらって地球から脱出しようとたくらみます。でも、そんなことになったら地球がビンボーになってしまいます。生徒たちは、彼のたくらみを阻止しようと、助っ人を呼んで、力ずくで引き留めますが、すべて失敗、結局誰も彼に思いとどまらせることができません。最後に生徒たちはぼくたちも一緒に連れて行ってくれと頼みます。なぜなら彼らもまた地球のざしきぼっこだからです。でも、そんなことになったらそれこそ地球が滅びてしまいます。それが分かってやっとざしきぼっこは地球脱出をあきらめるのです。
 私は、劇の進行を見守るためとフットライトを操作するために、舞台正面下に陣取っていました。台詞に詰まる生徒に小声で助け船を出したりはしましたが、大きなトラブルもなく劇は順調に進み、いよいよ大団円を迎えます。ざしきぼっこが地球にとどまることになり、歓びの乱舞になります。ポリバケツにガムテープを張った太鼓を打ち鳴らし、ペットボトルのマラカスを振って、ラテンにアレンジされた『ぼくたちはざしきぼっこ』の歌を歌い踊ります。

  ぼくたちはざしきぼっこになる
  くらいざしきにいるだけで
  人をしあわせにする
  そんなざしきぼっこになる
  ひとりも知らない顔がない
  ふたりと同じ顔がない
  さんざん数えて一人多い
  数のマジシャン
  ざしきぼっこになる

  ぼくたちはざしきぼっこになる
  地球のざしきにいるだけで
  人をしあわせにする
  そんなざしきぼっこになる
  ひとりも知らない顔がない
  ふたりと同じ顔がない
  さんざん数えて一人多い
  地球マジシャン
  ざしきぼっこになる

 歌の最後、石井がトントト、トントト、トントトトンと太鼓を打って、「ヤッ」というみんなのかけ声で見得を切って歌が終わることになっていたのですが、そこでハプニングが起こったのです。石井が舞台正面に現れて、いざ太鼓を打とうとしたとき、その太鼓が鳴らなかったのです。
 気合いを込めた最初の一撃で、それまでの演奏で亀裂が入りかけていたガムテープが破れてしまったのです。気密性が保たれなくなった太鼓は、貧弱な気のぬけた音を発しただけでした。
 それでもみんなは「ヤッ」という叫びとポーズを決めて、大団円は終わりました。他のものはあまり気にもしていないようでしたが、石井の顔はみるみる歪んでいきました。そして、歌が終わると同時に「ウヮー」とほとんど声にもならない叫びをあげて、舞台の端からふわっと飛び降りたのです。客席は暗かったので、私は、彼が飛ぶ姿しか見えなかったし、また驚いていたためか着地するドンという音も聞かなかったのです。私は振り向いて、暗闇に消えた石井を追いかけるかどうか迷ったのですが、前で観ていた生徒指導部長の本田が立って行ってくれたので、とりあえずは、最後まで続けることにしました。観客は、すこしあざとい演出として見ていたようだし、舞台の生徒たちは、驚いた気配はあったものの、たいした混乱もなく劇を続けることができたのです。二年生全員で『賢治先生はふしぎな先生』の歌を合唱して、代表生徒の最後の挨拶がおわりました。
 私は、控室を通り抜けて、舞台に上がりました。生徒たちに自分の席にもどるように指示してから、背景や大道具を片づける仕事を北川や他の教師に頼んで、学年主任といっしょに、舞台上手の控室から、体育館の外に出て、石井を捜しに行きました。
 職員室に戻ったのですが、入口は閉まっていました。展示やバザーが準備されている二階に行ってみると、中央階段のあたりに生徒指導の篠田の姿が見えました。
「石井は、屋上に居てます」
 階段の吹き抜けに彼の声が少しうわずって響きました。
「鍵がかかっていたはずでしょう?」
 私はふしぎに思って聞き返しました。
「ガラスを割りよった……」
「ケガはしてないんでしょうか?」
「太鼓のバチで割ったらしいから......。それで、近よったら屋上から飛び降りる言うてます。いま、本田先生が説得してますけど、あんまりぎょうさん行かんほうがいいやろうということで、降りてきました」
 私と学年主任の小川は「ちょっと行ってみる」と三階の中央階段を上って、屋上への扉がある踊り場までたどりつきました。
 そこには事務長さんがいて、外の様子を窺っている様子で、私たちを見ると壁の向こう側を指差しました。小川はだまったまま頷いて、そっと扉に手をかけて屋上に踏み出したので、私もついていきました。
 空は低くまだらの雲が流れて、いつ雨が来てもおかしくない不穏な気配があり、冷たい風が吹き付けてきました。見回すと屋上の南の低い壁に片方の足をかけた石井がいて、四、五メートル離れて本田が座って話しかけていました。
「そーら、小川先生も来られたぞ。もーいいかげんにせんと、また怒られるで……。オマエ、高所恐怖症とちがうのんか? そんなとこにいたら怖いやろう。さあ、手を出し……、こっちへ引っ張ったるから……」
「近づいたら飛び降りるからな……。騙されへん、飛び降りたる」
「飛び降りたら死ぬで……、まさかドラゴンボールの孫悟空みたいに空を飛べるなんて思うてないやろうな……」
「……………」
 ドラゴンボールの孫悟空というのは、いましがたの劇の登場人物でもあり、本田は緊張をほぐそうとして言及したのでしょうが、効果はなく、石井はさらに体重を壁の方に移しただけのように見えました。
「何で、太鼓が鳴らなかったくらいで、そんなことするねん?……、どーってことないのに……」
学年主任の小川が少し離れたまま呼びかけました。
「北川先生を呼んできてください」
 石井は、ずーと考えていたらしくはっきりした口調で言いました。
「そりゃあ、来てもらってもいいけど……、いまは劇の後片づけしたはるわ。それで来られたらどうするの?」
「この太鼓、北川先生から渡されたんや……、舞台で」
「わざとしやはったとでも言うんかいな。それは考えすぎやで。練習中もガムテープが破れることなんか、何回もあったやないか。強うたたいてたら破れるもんや」
「この太鼓……」
「どうするんや? 北川先生を引っ張ってきて、その太鼓をたたかせたいとでも言うのか?」
「……………」
 石井は強く首を振りました。首を振りながら、右手で塀の上の太鼓をバチで打ちました。ガムテープはすでに破れていて、それにやけっぱちな打ち方でしたから、音が鳴るどころか塀の上の太鼓はたちまちバチにはじかれて下に落ちていきました。しかし、誰も太鼓の行方を追わなかったし、落ちる音も聞こえませんでした。
「石井、おかあさんが来られたぞ。分かるか?」
 篠田の声が階段の踊り場から響いてきました。バザーの準備をしていた母親を捜して連れてきたらしいのです。
「おかあさんなんか、関係あらへん」
 石井は一瞬ひるんだ自分を押し返すようにことばを強めました。と、同時に塀からさらに身を乗り出したので、自ずと下の景色が目に飛び込んできたのでしょうか、声が震えています。高所恐怖症が出てきたのです。私は母親と代わって、扉の中に入りました。
「マサト、やめなさい。そんなところにいたら危ないでしょう」
 背後から母親の叫びが聞こえました。そうたいしてせっぱ詰まっているふうにも思えない響きです。本気で飛び降りるつもりがないとみくびったような声です。
「あなたがいなくなったら、わたしはどうなるの? お父さんや尚子はどうするの? みんなに悲しい思いをさせてもいいの?」
 母親は泣き落としとも脅しとも取れる訴え方で言い募りました。
「そうだ、家族はどうなるんだ?」
「……………」

「オマエはやっぱり石井家のざしきぼっこやな。」
遠くのやりとりを聞きながら、私は、そんなふうに妙に納得するところがあったのです。もともとあの劇は生徒たちをざしきぼっこに見立ててあるのです。石井がほんとうに飛んだらどうなるのでしょうか? さっき舞台から飛び降りたように。
「そんなことをしたら、ほんまにこの世からおさらば、天国に行ってしまうで……」と皮肉な感想が頭のどこかにヤモリのようにへばりついていました。
「ざしきぼっこが地球を出ていったら、それこそ地球がビンボーになってしまう」
 劇の中のそんな台詞も浮かんできました。
 そして、ふと昔みた映画の一場面が鮮やかによみがえってきたのです。あれは、ダウン症の青年が主人公の……たしか『八日目』とかいう東欧のどこかの映画……。あの青年はチョコレートを腹一杯食べた後、屋上から飛んだ……。
 ふと足下から這いあがるような恐れ、そしてふたたびすべてが茶番劇でしかないという思い……、と同時に、劇の最中に太鼓のガムテープが破れたのはほんとうに偶然だったのだろうか、という疑惑もまた兆してくるのです。
「文化祭の本番で、体育館の中に響くくらい太鼓が打てたら、前から言っていたようにツーショットで写真を写してもいいわよ」
 機嫌のいいとき、北川が、練習中に冗談めかして石井にそんなふうに約束しなかったかどうか、そんなささやきをいつか聞いたような……、そして、もしオレが彼に共感できるところがあるとすれば……オレも、オマエといっしょだということか……、私は心の中でつぶやきました。そうやろう、北川先生に拒まれているのは、おんなじだよ。オレみたいな歳になると、相手にしてもらえない……、だったら、いっしょに飛び降りるしかないってことかね……、つぶやきはいつしか自嘲になっていました。
 もう一度、そっと屋上に出ようと扉のノブに手をかけたとき、不意にひび割れたガラスに雨の雫が斜めに振りかかりました。割れた個所から吹き込んだ雨が屈んでいた私の顔にまでかかりました。私は立ち上がって掌でごしごしと顔を擦り上げました。と、そのとき、太鼓の音が聞こえてきたのです。階段の吹き抜けを響かせて、トントト、トントト、トントトトンと、まさしく石井のリズムで……。

                      〈完〉


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