哀しみの火矢
                              2007.3.25

     かなしみの 火矢こそするどく
      わずかに 銀色にひらめいてつんざいていく
           八木重吉『哀しみの 火矢』より

  
演出をしている間中、「そんなものじゃなかった」という思いが胸にありました。 役者さんの演じ方に不満があるのか、それとも自分の書いた脚本が気に入らないのか、 両方なのかそれは分かりませんが、ずっとそういう思いというか不満、 苛立ちがくすぶり続けているのを自覚していました。 今日練習していたのは、賢治の妹トシが死んでゆく場面でした。 そこのところ、脚本はこんなふうになっています。

 (舞台に雪が降って、ほのかに雪明かり。トシを囲んで、賢治、父政次郎、母イチ、 弟清六がいる。能舞台の周りで影のように控えるコーラスが詩を朗読する)
 コーラス こんなにみんなにみまもられながら
  おまえはまだここでくるしまなければならないか
 賢治 トシ、しっかりしろ。兄さんだ。
 イチ 死んでいくものも聞く力は最後までのこっているものです。もっと呼び掛けてあげなさい。
 コーラス きょうのうちに
  遠くへいってしまうわたしの妹よ
  みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ
  (雪が降りつのる)
 トシ あめゆじゅとてちてけんじゃ
 (賢治、トシのことばに聴き入っていたが、舞台から跳び降りて消える)
 政次郎 トシはなにをいったんかな?
 清六 雪をとってきてほしいって。
 政次郎 それで賢治は走っていきよったんか。
 コーラス うすあかくいっそう陰惨な雲から
  みぞれはびちょびちょふってくる
 トシ あめゆじゅとてちてけんじゃ
 イチ ふたつのかけたお椀に
  おまえがたべるあめゆきをとろうとして
  賢治はまがったてっぽうだまのように
  このくらいみぞれのなかに飛び出していったよ。
  (イチがトシの耳に口をあてて、話す)
  (賢治が椀に雪を盛ってもどってくる。手でトシの口に食べさせる)
 トシ あっ、松葉がまじってる、ほっぺたがちくっと……気持ちいい、松林の痛さ……。
 賢治 おまえの頬の、けれども、なんというきょうのうつくしさよ。
 コーラス 鉛いろの暗い雲から
  みぞれはびちょびちょ沈んでくる
  ああとし子
  死ぬといういまごろになって
  わたくしをいっしょうあかるくするために
  こんなさっぱりした雪のひとわんを
  おまえはわたくしにたのんだのだ
  ありがとうわたくしのけなげないもうとよ
 トシ あめゆじゅとてちてけんじゃ
  (賢治ふたたび椀をもって走る)
 イチ トシ、あなたはまだ年端もいかないけれど、立派に死んでみせるのですよ。
  耳はまだ聞こえているはず、耳はまだ……。(と、虚脱したようにつぶやく)
 コーラス はげしいはげしい熱やあえぎのあいだから
  おまえはわたくしにたのんだのだ
  そらからおちた雪のさいごのひとわんを
 トシ 兄さん、あめゆじゅ……
  (上半身を起こそうとして事切れる。)
  (イチ、清六、何か叫んで、泣き崩れる。)
 政次郎 トシ、トシ、しっかりしろ。(どなるが、反応なし)
  こんなむごい思いをするだけなら、こんど生まれてくるときは、人間になんかなるな。
  (賢治、椀に雪を盛ってあらわれるが、トシが死んだことを知って、 押入の中に頭を突っ込んで号泣する。)

ここの政次郎のセリフが特に気に染まなかったのです。トシが死んだその瞬間にもかかわらず、 本間の言い方では説明になってしまっていました。
一番の不満は、その点にあったのですが、他にも、例えば加藤君が演じる静六の、 何か叫ぶというだけの演じ方も気に染まなかったのです。 鋭さがなくて、本当の悲しみがその叫びに込められていないように思われたのです。
私は、政次郎役の本間さんと加藤君に厳しく注文をつけたのです。
「もう少し気持ちを入れてください。これはとても大切なセリフで、説明になってはいけない。 続く賢治の号泣、そして号泣し尽くして立ち上がった瞬間、舞台の世界ががらっと変わって しまうんです。彼ら一家は、違う世界に入っていきます。実際に舞台の様子が変わるわけ ではありませんが、トシが生きていた世界から、トシが死んでいなくなってしまった世界 に場面転換するんです」
そう、一人の人間が亡くなるということは、世界が変わることなのだ、と私は心の中で 反芻していました。それがみんなにうまく伝わっていないのです。 自分でもイライラしているのがわかりました。それがあきらかに劇団のみんなにも伝染して、 うまくまとまらなかったのです。 政次郎役の本間さんと賢治役の島田さんにヒントを出して、 演じ方をいろいろやり直してもらったのですが、しっくりとはこないのです。 いつも「そんなものじゃないだろう」というつぶやきがどこかから皮肉に響いてくるのです。 「そんなもの」といっても何が「そんなもの」なのかははっきりしないのですが。
私は、しばらく考えていて、あることに思い当たったのです。
「そんなものじゃない」というつぶやきは自分の脚本に対する違和感なのではないのか ということです。この場所にこのセリフ、そこにムリがあるのではないか、 そのことに思い当たったのです。この「『銀河鉄道の夜』のことなら美しい」 という脚本を書いたのは、もうかなり以前で、もちろん長男を亡くす前です。 それまでに「死なれた」という経験は、両親に「死なれた」というだけでした。 脚本は両親の死を踏まえています。浅はかなことでした。賢治は二十一歳の妹を亡くしたのです。 推し量ることなどできるはずができなかったのです。私は昨年、二十八歳の息子を亡くしました。 そして、思い知らされたのです。両親の場合と息子の場合は、根本的に辛さがちがうということを。 賢治の場合もまた私の場合と違っているはずなのです。私が実際に発せられるセリフに抱く違和感、 「そんなものじゃない」という感じは、そこから来ているのではないか、そんな疑問が萌していました。 その疑問を考えるために、私は、練習を始めてまだ時間はあまりたっていなかったのですが、 少し休憩することにしました。
「もう一度、脚本を読んで、どんなふうにやったらいいのか考えてみてください。 実は私も自分の脚本について考えてみたいことがあるのに気がつきました。 すこし時間をください。ちょっと考えてみます」
団員の中にフーという嘆息が聞こえた。外部から演出に来てもらっているということで、 緊張感もあるし、遠慮もあるのだろう。嘆息はそのことをあらわしていた。
私は、一人になるためにリハーサル室から出て行った。

「『銀河鉄道の夜』のことなら美しい」という奇妙な題のこの劇は、 もちろん宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を踏まえています。 賢治の妹トシが亡くなる場面が、無声慟哭などの詩にあって、それらをコラージュして、 トシが亡くなり、そのトシの魂が賢治とともに銀河鉄道で星の世界に去っていくという筋立てになっています。
先ほどの言い方に倣えば、この脚本は、長男がまだいた世界で書き上げたもので、 賢治の詩によって表現された妹トシの死を下敷きに、 身近なものの死を考えるというテーマになっています。 自分が勤務する高等養護学校の生徒たちに死というものを考えてほしいという思いで書き上げたものです。 書き上げたものの上演する機会がなくて、脚本のホームページに上梓したままになっていました。 それが、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』をテーマにした劇をやりたいという劇団の目に留まったのです。 もちろん、上演は初めてのことです。しかし、実際に練習をはじめて、 脚本に現実の息吹が注ぎ込まれたとき、その弱点が露わになってきたのです。 脚本を書き上げた時点では、妹トシの死について、賢治がどのような邀撃をうけたか、 本当のところは分かっていなかったのです。長男の死は、死によってがらっと世界が 変わってしまうような経験でした。私自身、しばらくは違う世界に紛れ込んでしまったような 感じで過ごしてきたのです。賢治もまたそうであったかもしれない。 そういった世界が変わるほどの経験をしたいま、この脚本がどれだけのリアリティを持っているのか、 自分でも自信がもてなくなってしまったのです。未だにこの世界はまだまだ自分にはどうにも なじめない気分を持ち続けている自分がいて、新しい世界の何もかもが気に入らなくて、 いつも何かに憤懣がくすぶっていて、なぜか悲しい。そんな世界にいる自分に、 この劇はそのリアリティでもって力を与えてくれるだろうか、 私は、タバコを吸いながらそんなことを考えていました。 抽象的に考えるのではなく、実際にどうなのかを知りたくて、私は脚本のその部分をもう一度読んでみました。 トシが死ぬこの場面に、このセリフを置くことにムリはないのか?  賢治の号泣が止まったとき世界がめくれるという思いは、観客に伝わるのだろうか?  そんなことを私は考え続けていました。
しかし、ここで脚本家兼演出家である私が揺らいでは劇の組み立てそのものが揺らいでしまう。 そこは厳しくやらなければならない。自分の主張を正直に押し通すしかない。
「本間さんと加藤君に、もう一度、やってもらおう。政次郎の叫びはやはり祈りの域に達しないと……」
私は、タバコを吸いながらそんなふうに一人で結論づけたのです。
私が市民劇団にかかわるのははじめての経験です。これまで養護学校で生徒たちが 文化祭で演じる劇を自分の脚本で、自分で演出してというやり方でやってきたのですが、 学校と市民劇団では雲泥の差がある、ということが、最初の頃に思い知らされました。 市民劇団というのはいろんな個性的な人が集まっている、それだけでも学生集団とは違います。 言い換えれば、そこにおもしろさもあるのです。劇が好きと言うだけで、 年齢、経歴などほんとうに多種多様の人たちが寄り集まって手弁当で一つの劇を 作り上げようとしているのです。ちなみに島田さんは、市の職員、演劇好きが嵩じて、 劇団を主宰するようになったそうです。本間さんは、自動車の塗装工、彼の色合わせは名人芸だそうで、 島田さんも、車をこすったときなど、お世話になっているようです。トシ役の清水さんは、主婦。 そして、プロデューサーの庵野さん、プロプロデューサーといえば聞こえはいいが、 要するにパンフレットを作ったりする世話係、その庵野さんは市の広報係。 ……そんなふうにいろんな職歴の人が集まって劇団を構成しています。
そもそも私がこの劇団に関わるようになったのは、私の勤める養護学校の卒業生である 加藤君がこの劇団に入っているというので、見学にいったことが切っ掛けになっています。
加藤君は、二、三年生と私が副担任をしていたクラスの生徒だったのです。 両親が離婚していて母親と一緒にくらしていました。離婚しているといっても、 いまだに父親とは行き来があるらしいと聞いていました。母親が劇が好きで、 その関係で劇団に参加するようになったということです。もちろん、母親の影響で加藤君も劇は好きで、 高等部の二年生のとき、私が書いた『賢治先生がやってきた』という劇で、 主人公の賢治先生を演じてくれました。右半身の少し麻痺がありますが、努力家で、 三十ばかりあった賢治先生のセリフを全部おぼえてくれたのです。 卒業後父親の関係している会社に就職したのですが、時間的に余裕があって、 それならばと母親の勧めで市民劇団に入ったということを聞いています。 私は、そのことを担任から聞いて、わざわざ劇団の練習を見せてもらいにいったのです。 そのとき、劇団を率いている島田さんや本間さんに話を伺って、 市民劇団のおもしろさというものに目覚めたのです。そのとき印象に残ったのは、 島田さんのつぎのような話です。
「障害を持っている加藤君が入ることで、劇団の空気が変わりました。 それはふしぎなほどでしたが、なんか、ありがたいというか、行き詰まりを感じていたのが、 突破できたというか、そんな思いを持っています。」
私は、そんなものかもしれないと奇妙に納得するところもありました。
その後、養護学校で上演した劇や、その他、上演の当てのない脚本やらを集めた本を 自費出版したとき劇団にも一冊送ったのです。しばらくすると今度宮澤賢治をテーマにした 芝居をやりたいので相談に乗ってくれませんか、という依頼が島田さんから私にあって、 相談している内にトントン拍子で私の賢治ものの一つである「『銀河鉄道の夜』のことなら美しい」 の上演が決まったのです。
「ついては、演出も一緒にお願いできませんか。……加藤君にも聞きましたが、 あなたは学校で何度も演出されていますね。自分の脚本だから、一番よくわかっている」
そんな依頼だったのです。
「『銀河鉄道の夜』のことなら美しい」は、賢治の妹トシの死と、それを賢治がどのように 受け止めたかをテーマにした劇です。目新しい説ではありませんが、 賢治が妹トシの魂を送るために銀河鉄道を構想する、といった筋になっています。
その劇を仕上げて9月の市民劇場や学校で公演するという企画なのです。 願ってもないありがたい話でしたが、私は、前の年に長男を亡くして落ち込んでいました。 演出する元気などどこをさがしてもないような状態だったのですが、もしかして劇にかかわることで、 幾分かなりと気分を紛らせることができるかもしれない、元気が湧いてくるかもしれないと、 演出まで含めた申し出を引き受けたのです。
最初から考えていたのは、加藤君は、賢治の弟の静六さんの役にしようということです。 静六さんは当時まだ学生です。だから若い加藤君にぴったりです。
劇団の練習は原則は日曜の午後、差し迫ってくると土曜と日曜の練習もあるということで、 普段の一週間に一度ならば、そんなに負担になることもないだろうと踏んだのです。

灰皿にタバコを押しつぶして消したところに、賢治役の島田が近づいて来ました。 いつもの人なつっこい微笑みを浮かべて話しかけてきました。
「なかなか難しいですね。本間君も悩んでいますよ」
「あのセリフはね、難しいです。祈りにならないと……、あの叫びは、 信心深い政次郎の祈りの言葉ですからね」
「祈りね、……確かに、それに一番大切なセリフでもある」
「そうですね。……まあ、がんばってみるって言ってますから、乞う、ご期待ですね」
島田は一人で頷いている。
「そういえば、話は変わりますが、加藤君ね、彼、成長しましたよ。 ……以前にも話したと思いますが、加藤君が劇団に入ってくれることで、 劇団が変わったんですよ。どう変わったか、説明するのはちょっと難しいんですがね、 何というか、劇団の幅が広がったとでもいうか、よくなったんですよ。 もちろん彼には俳優としての素質があるとかいうこととは別問題ですが、……以前、 おっしゃっていたように彼は学校の劇で賢治先生をやった経験があるってだけで、 素質とかはわかりませんが、そんなことじゃなくて、彼の存在は貴重なんだな」
「そういってもらえるとありがたいですが……」
「でもね、最近、彼、悩んでいるようなんです。」
「どんなことで悩んでいるのですか?」
「それが、どうもはっきりしなくて、……先生、一度話を聞いといてもらえませんか」
私は「分かりました」と約束した。ロビーを見回したが、先ほどまで外を眺めていた 加藤君が消えていた。どこへいったのか、練習が始まる前に、 演技のことでちょっと話しておきたいことがあった。私はぶらぶらと探して回った。 そして、もしかしたらホールにいるかもしれないと思い当たった。庵野さんの話では、 今日ホールでは2週間後に迫った公演にむけて照明の調整が行われているはずだった。
私がホールに入っていくと、暗い舞台に推察していた通り、加藤君がいました。
「オレは演技が下手だー、オレは演技が下手だー」
私が、来たのにも気がつかないふうに彼は大きな声で叫んでいました。
「オーイ、かとちゃん、そんなじぎゃく言っとらんと舞台から降りてくれる。 先生が来られたんで照明のテストをするから、……」
客席にいた松本さんが、加藤君に呼びかけた。彼はこのホールの装置の責任者だった。
「ギャグなんか言ってませんよ」
加藤君が不満そうな叫びを返してきた。私と松本さんは顔を見合わせて笑った。
「ギャグじゃなくて、じぎゃく、自分をいじめることば……」
ちょっと体を傾かせて歩いて寄ってきた加藤君に説明した。
「先生、ちょっと見てもらえませんか」
彼は私に声をかけてきた。
「銀河鉄道のバックなんですが、いろいろ試してみたんですが、こんなものでどうですかね」
三場では、賢治とトシが銀河鉄道に乗って旅立っていくのです。その場面で、 舞台背景を照らす幻想的な照明の調整をしているところでした。薄い水色とも薄緑ともつかない 色彩のまだら模様が流れて、その中に、星を表しているのでしょうか、光があちこちで ぴかぴかと点滅しています。舞台に立つとその光線がまぶしく目を射抜いてきます。
私は、鋭い光を浴びてとっさに射すくめられたように立ちつくしてしまいました。
「あっ、このひかりは……」
私の記憶は一瞬フラッシュバックしたのです。耳には飛行機のエンジンの音が響いていました。 私は頭がくらくらとしました。
ブラジルで、早朝、マセイオからサンパウロに向かう飛行機の窓から見た光景が 鮮やかによみがえってきたのです。
長男の遺体を火葬するためにマセイオからサンパウロに移送することになったのです。 折衝してやっと認められた飛行機での移送でしたが、それと平行して私たちも飛行機で移動したのです。 その早朝、私は飛行機の窓から見た光があざやかによみがえってきたのです。 きらきらと飛行機の窓を指し貫いてくる反射光。
マセイオを飛び立ったのは午前五時、朝日が顔を出し始めていました。 朝焼けが地平線に広がってゆきました。
「この朝焼けは決して忘れないだろうな」
私の脳裏にそのあかね色はくっきりと刻まれました。
飛び立ってから三時間、サンパウロに近づくにつれて飛行機は高度をさげていました。 眼下には見渡すかぎり小さな起伏が広がっていました。その起伏の間を縫って細い川が 蛇行して流れています。所々に蛇行から切り離されたような三日月型の池が散在しています。 川や池の水面が朝日を反射しているのです。反射した光の矢がキラッ、 キラッと飛行機の窓を射抜いているのです。 私はその時、今別便で同じようにサンパウロに向かって飛行している息子のことを思っていました。 その息子からの光の信号のような気がしていました。もちろん、単に川面が朝の光を反射して光っている、 それだけのことなのは分かっていたし、それ以上の意味を付与おうとは思いませんでしたが、 なぜか強くその光が意味をおびて印象に残りました。私は絶対にこのきらめきを 忘れないだろうと考えながら、飛行機の窓にしがみつくようにして、その光の乱射にじっと見とれていました。 そのときの光景が浮かんできて、私をいつもの無力感に落とし込んでいくようでした。
こんなふうではとても演出などできないと、私は、頭を劇のことに切り換えました。 加藤君と一緒にホールを出て、リハーサル室にもどってみると、ほとんどの団員がすでにそろっていました。
「もう一度、二場から始めましょうか、さっきのトシの死ぬ場面、 説明じゃなく叫びといったふうにお願いします。あそこで、世界がパタンとめくれて、 トシが死んでしまった世界に移ります」
俳優が、それぞれの場所についた。トシ役の神田さんが、 能舞台のように並べられた台の上に敷かれた布団に寝た。
月夜のでんしんばしらが電柱のかぶり物をつけて居並ぶ(もちろん、練習ではつけていないが)。 彼らは、二場の後半ではコーラスとして賢治の詩を朗読する。
脚本では、劇の始まりのあたりはこうなっています。

(舞台が明るくなると、一場の続きで、妹のトシが能舞台中央の布団に寝ている。 月夜のでんしんばしら1から6が歌いながら行進して登場)
 月夜のでんしんばしら1〜6
  ドツテテドツテテドツテテド
  でんしんばしらのぐんたいは
  はやさせかいにたぐいなし
  ドツテテドツテテドツテテド
  でんしんばしらのぐんたいは
  きりつせかいにならびなし
 でんしんばしら1 おれたちは賢治先生がかいた童話から抜け出してきた月夜のでんしんばしら。
 でんしんばしら2 そら電報だ、ツー、トツー(と、電報を見せびらかす。)、 お父さんから東京にいる賢治さんに電報だ。何がなんでもいそげ、いそげ、ツー、トツー、 ほら、東京までたのむ。(電報用紙を手渡す、以下、その電報用紙があちこちに行き交う。)
 でんしんばしら3 電話がなければ電報しかないツートツー、それいそげいそげ。
 でんしんばしら4 トツー、トコロデいったいなんの電報だ?
 でんしんばしら5 どれどれ、読んでみよう、ツー、ツート。
 でんしんばしら6 それは個人の秘密でまずいんじゃないすか? ト、トツー、トンデモナイ (決して吃音のふうでなく。)
 でんしんばしら5 うるさい。じゃあ、おまえは聞くなトツーツー。
 でんしんばしら6 いや、聞く聞く、聞くツーてんの。
 でんしんばしら5 トシ キトク スグカエレ チチ。
 でんしんばしら1 そりゃたいへんだ。賢治さんの妹のトシさんが危篤だとトトト。
 でんしんばしら2 その危篤ってなんだ。
 でんしんばしら1 危篤、それはつまり……ツー、ツー、つまりようわからん、秀才のあいつにきいてみろよ。
 でんしんばしら3 きとく、死にかけてるということ。結核で死にかけているんだ。
 でんしんばしら1 そりゃたいへんだ、いそげ、いそげ、東京へいそげ、東京へいそげ。
 (また、電報用紙が手渡されて行き交う。)
 でんしんばしら4 賢治をさがせ、賢治をさがせ、いそげ、いそげ、ツーことだ。
 でんしんばしら5 東京へいそげ、東京へいそげ、トツー、トツー下車なし。
 でんしんばしら1〜6
  ドツテテドツテテドツテテド
  でんしんばしらのでんぽうは
  はやさせかいにたぐいなし

 でんしんばしら6 そら、電報で−す、賢治さん、電報でーす、トツー。(と、舞台奥にむかって叫ぶ。)
 (暗転)
 (しばらくして賢治の叫びが聞こえる。)
 賢治 トシ、いまかえったぞ、トシ。
  (舞台が明るくなる。賢治が橋がかりから大きいトランクをもって現れる。 母イチと弟の清六がついてくる。)
 賢治 トシ 大丈夫か、血をはいたんだって。両手にあふれるくらいの。
 トシ 兄さん、もどってきてくれたの。(上半身を起こす。)
 イチ トシ、寝ていなさい。
 トシ 大丈夫、兄さんの顔をみたら、すこうし元気が出てきた。山羊の乳よりきくみたい。
  (賢治、大きなトランクを置く。)
 清六 その大きいトランクの中身は何ですか?
 賢治 童話だ。東京で書いてきた。童話やら詩やらいっぱいあふれてくるんだ、一月で原稿用紙三千枚。
 清六 ヒェー、三千枚。
  (トランクを開いて中の原稿を清六やトシに見せたあと、蓋を閉めて脇の見えない場所におく。)
 トシ その童話を読んで聞かせて。
 賢治 少し休ませてくれ。慌てることはない。みんなおまえのために書いたものだ。
 イチ つもる話はあるだろうけど、賢治さんも疲れているだろうから、 後にしたら。食事の準備をしましょう。清六さん、お医者さんにいって薬をもらってきて。
 清六 そうだった。忘れていた。おれいってくるよ。
  (イチと清六去る。賢治とトシが残される。しばらく沈黙。)

 そして、トシの死の場面がそれに続く。

 コーラス(電信柱のかぶり物をすでにはずしている)
  はげしいはげしい熱やあえぎのあいだから
  おまえはわたくしにたのんだのだ
  そらからおちた雪のさいごのひとわんを
 トシ 兄さん、あめゆじゅ……
  (上半身を起こそうとして事切れる。)
 (静六役の加藤の「姉さん」という叫びが聞こえて、ワーと泣き崩れる。)
 政次郎 トシ、トシ、しっかりしろ。(どなるが、反応なし)
  (政次郎、呆然と佇む。そして、つぎのセリフ)
 政次郎 こんなむごい思いをするだけなら、こんど生まれてくるときは、人間になんかなるな。

先ほどは茫然自失の体で力無くつぶやいただけだったのが、今回は合掌して、 静かな語りかけの中に秘めた怒りを感じさせるような口調だった。
そこに賢治が、椀に雪を盛ってあらわれるが、トシが死んだことを知って、 政次郎の後ろで呆然と立ちつくす。と、突然、賢治は、トシの枕元に突っ伏して泣き崩れ、 さらにそのままの姿勢で押入に頭を突っ込むようにして泣き叫び続ける。
そして、しばらくして賢治は押入から頭をだして、立ち上がる。島田さんの表情は、 いままで泣いていたそぶりもない。冷静なしずかな表情で空をみあげる。

「はい、ここまでにしておきましょう。とてもよくなりました。政次郎のセリフも、 何だか、祈りの中に、怒りの力が秘められているようで、先ほどより数段よくなりました。 賢治もそれでいいと思います。世界がめくれたことを感じさせます。これで、行きましょう。」
政次郎役の本間さんが「ふー」とため息を漏らすのが聞こえた。
「島田さんも、それで……、涙のけぶりもないしずかな顔でお願いします」

私は、みんなの出来に及第点をあたえてもいいと考えていました。本間さんも島田さんも いろいろと考えられたに違いないのです。加藤君には、まだまだ要求できそうです。
一応は、思ったようにできあがりつつあるように思うのですが、しかし、心の底には、 それでも「そんなものじゃない」という思いは残滓のようにこびりついてはなれませんでした。 しかし、これは不可能な要求のようにも思えます。
「では、きょうはおしまい。明日は二場からやりますので、よろしく」
時計を見ると、まだ、早めでしたが、今日の練習を切り上げることにしました。

私が鞄に脚本をしまっていると、加藤君がそばを通りかかりました。
「加藤くん、よかったらコーヒーでも飲んでいかない。」
「いいですけど、……『ブラジル』ですか?」
「うん、……あそこしかないね」
つい先ほど、ブラジルのことを思い出した後なので、ちょっとどきっとしたのですが、 他に適当な店がないのです。
リハーサル室を二人そろって出ました。ハイビジョンシアターで何か催し物があって、 それがちょうどはねたらしく、ロビーには人があふれていました。人混みを抜けて、 玄関から外に出ました。夕闇がせまり、すでに前庭の池の水に街灯が映っていました。 国道に沿って駅の方に歩いていくと、角っこに、その喫茶店があります。 コーヒーを注文して、ウエイトレスが去ると、さっそく単刀直入に聞いてみました。
「どうしたの?練習に集中できないようやけど……何か悩みでもあるの?」
「どうしてそんなこと聞くんですか」
加藤君は片麻痺の左腕を曲げてテーブルにのせるようなかっこうで身をのりだしてきた。
「べつにこれってことはないんやけどな、なんかそんな気がして……」
「難しいんです。」
「君は、だれか家族を亡くした経験がある?」
「いえ、お母さんも元気だし、離婚はしているけど、父もまだいるから……」
彼の両親は、彼が小さい頃に離婚していたから、そのさびしさを知っているが、家族に死なれたことはないのだ。
「ぼくは、昨年、子どもに死なれてしまった。ブラジルで……、事故でね。」
「島田さんから、聞きました。」
「亡くしたのは長男なんだけど、連絡が来て、ぼくと次男がブラジルまで行ってきた。 その時、最初に遺体確認をしたんやけど、……」
加藤君は、それがどうしたのか?といった怪訝な表情で見返してきた。
「次男と二人で遺体の確認をした。舞台と似たような状況だった。……だから、 言うんやけど、きょうのあの演技、あれではあかんで……」
加藤君は、ふと目をそらせた。自分がうまく演技できないことにいらだっていて、不満の表情に表れていた。
「では、どうしたらええんですか?」
「それは、自分で考えないと……」
加藤くんは、すがるような顔で私を見た。彼は、いわば高等養護学校の私の教え子だった。
「妹トシがなくなったとき賢治は農学校の先生してたんや、君の役の静六さんは、 まだ学生、そして姉のトシが死んだ。どんなふうな反応をするかな。どんな気持ちか、 っていうことじゃないよ。気持ちなんて持っている余裕なんてないと思うんだ」
死ぬということは、断崖絶壁から、下の見えない暗闇に飛び込んでいくようなものだろう、 と私は、そんな比喩で説明した。その谷底を、静六は、身を乗り出してのぞき込んでいる。
「気持ちなんかないよ。絶対の怖さで叫ぶだけ、というか、おなじことだけど、腹が立って叫ぶだけ、 そんなふうじゃないかな、それを君は気持ちを込めようとしているような気がするな」
「気持ちではダメですか?」
「そう、気持ちを入れようとすると、間延びしてしまう」
また、静六が叫んで泣き崩れるその崩れ方も気に入らなかったのです。
「と書き」で(イチ、清六泣き崩れる。)と注されているところです。おそらく彼は気持ちを入れて、 それから泣き崩れているのです。
私は、長男の遺体に対面したときのことを思い浮かべていました。 案内された部屋の寝台に遺体が横たえられていました。私は遺体のそばに屈んで、布をめくり、 顔を見ました。息子の頬に指で触れてみました。冷たかった。 私はそのときふりしぼるような遠い叫びを聞きました。私の意識から離れたその叫びは一体誰のものだったのか、 私にも分かりませんでした。錯乱していた。私自身の声だったのかもしれないし、また背後にいた次男のものかもしれません。 それとも、二人の叫びが重なったのか。 その声の衝撃だけが今も耳底に残っています。 誰が叫んだのか分からないくらいだから、その叫ばれた言葉はもちろん分かりません。 響きだけが、衝撃だけが真実なものとして残っているのです。言葉などは問題ではなかった、 そう言うべきだと思います。
ところが、加藤君は、「姉さん」とか、何かそんなことを叫んで、 その叫びの中に意味をねじ込もうとしている。そのことに私はいらだっていたのです。 しかし、そのときのことは言いませんでした。
「と書きには『泣き崩れる』って書いてあるけれど、『何か言葉を叫ぶ』なんて書いてないやろう」
「じゃあ、どんなふうにすればいいんですか?」
「むずかしいけどね。そんなときの叫び声は猿の鳴き声に似てるって昔からいわれてきた。 「ギャー」とかそんなのかな。つまり、言葉はいらないってことかな、間延びしてしまうからね。 でも叫びたい。静六は人間であって、猿じゃないんだから……、で、どうするか、どんなふうに叫ぶか、 それは加藤君が自分で考えるしかないねぇ……」
加藤は誰かに『死なれる』といった経験をまだしたことがない。 だから、その不合理などうしようもなさが十分わからないに違いないのです。 しかし、私はそれ以上助言することは控えました。彼のためにならないと考えたからです。 加藤は、腑に落ちないような表情で黙っていました。
「家族に死なれると、世界が変わってしまう。むずかしいけどね、 いままで住んでいた世界と違うような感じがするもんやな」
私は、それだけ言って、話題を変えることにしました。
「森下さんとはどう?うまくいってる?」
加藤が森下とつきあっているという噂は私に耳にも入っていた。
「知ってたんですか」
「そりゃあそうだよ」
私は誰から聞いたかは言いませんでした。彼も追求は遠慮したようです。
「どこで、知りあったん?」
「卒業生がよく行くアロームっていう喫茶店があるでしょう。あそこで……」
「ふーん、あそこで知り合ったというのが多いよな……、で、うまくいってるの?」
「それが、僕は結婚したいんですが、お母さんが反対してるんです。」
「ふーん、どうして?」
「二人だけでは、まだ生活できないって……」
「生活費は大丈夫なんかな」
「ぼくも働いてるし、彼女も働いてるから、いけるやろうって、お父さんはいってるんですよ」
「お父さんにも話をしてるんだ。それで反対じゃないんだ」
「でもお母さんには反対されて、彼女がそれで苦しくて、リストカットするんです」
「ふーん、リストカットね、学校時代もあったからなあ、 あんまり深刻に考えない方がいいかもしれないね、ようく話し合ったら……でも、 かとちゃんはそれが気になって、練習に集中できない?」
「そんなことはないんですけど……」
「もし、ほんとうに困ってしまって、ぼくにできることがあるんなら言ってくれたら、 ……お母さんと話し合ってもいいし……」
「分かりました」
それ以上踏み込むべきではないと考えて話を打ち切った。
喫茶店を出ると、すでに黄昏れていた。 空は深い藍色をたたえていた。星は数個しか見えなかった。 彼はJRで帰る加藤君と別れて、近鉄の駅に向かった。
電車の方に歩いていくと、向こうから酔っぱらいが酎ハイの缶を持ってふらふらと近寄ってきた。 前を歩いていた高校生の女の子の方にフラフラと寄っていった。酎ハイがこぼれている。 彼女らは「きゃー」と叫んで、横町に逃げ込んでいった。私は立ち止まってしまった。 酔っぱらいも立ち止まって、お互いを眺めあった。さて、どうするかなと、私は考えていた。 避けるのも腹立たしかった。立ったままじーと様子を見ていた男が私の方によろよろとなびいてきた。 酔っぱらいの酎ハイを持った手が体に向かってきたとき、私は、思わず彼を突き飛ばしていました。 それは、まったく反射的な反応でした。酔っぱらいは簡単に倒れてしまいました。 倒れてなお、酎ハイを捧げ持ちながら、私に向けて悪態をついています。 私は、憤懣がこみ上げてくるのを意識していましたが、冷静なところもあって、 男がけがをしていないことを確認して、そのまま脇をすり抜けて駅舎の方に歩いていきました。 男は倒れ込んだまま、何かぶつくさ言いながら私の方をにらみつけていました。 私はふきあげてきた憤懣をもてあましていました。 持って行きどころのない腹立たしさが無骨な手触りをもって動いているのです。 しかし、私は、そのとき気がついたのです。この腹立たしさは、 今、あの酔っぱらいによって掻き出されたものではないことに。 リハーサル室で演出している間中胸の中でうごめいていた「そんなものじゃなかった」という思いは、 実はこの腹立ちだったのです。劇団の人たちには遠慮があって、 ぶつけられなかった怒りが酔っぱらいをきっかけにあふれでてきたようなのです。 何か叫んでむちゃくちゃに蹴飛ばしたいような衝動を抑えながら、階段を上がっていくと、 プラットホームではちょうど電車が発射する間際でした。
私は、あわてて扉に駆け込みました。電車はがら明きで、 いつもより黄色いひかりが灯っているのですが、深紅色のシートには暗さが漂っていました。 酔っぱらいが追いかけて来ないか階段のあたりを眺めていると、 いつのまにか電車はごとごとごとと動き始めていました。座席に座って見回すと、 最近はほどんと見なくなった古い型の電車でした。天井には丸いカバーの電灯が灯り、 扉を収納する壁はワニスを塗ったもので、真鍮の鋲が並んでいます。 車内を見回しながらも、私は、自分の中の苛立ちをもてあましていました。 窓に丸い電灯が映っていて、外の明かりがそのぼんやりした明かりの上を流れていました。 その二重の明かりが交錯するさまをぼんやりと眺めていました。 そんなふうに苛立ちをやり過ごすしかなかったのです。 その苛立ちから意識を逸らせるために、意識して、つい一時間前まで工夫を凝らしていた 演出のことに頭を切り換えようとしました。と、その時ふと、
 ――息子が行方不明、という知らせを受けたとき、私は、カンパネルラのお父さんのように気丈にはゆかなかった
という思いが浮上してきました。それで分かったのです。私をいらだたせていたのは、 息子のことと脚本との隔たりだったのです。そのことを分かってもらえない 団員の演技に苛立っていたのです。だから、苛立ちから意識を逸らせるために、 演出のことを考えるというのは、実は堂々巡りであったのです。 しかし、一旦よみがえった思いを押さえ込むことはできません。 私は、思いをなすがままにまかせました。
『銀河鉄道の夜』では、そのことを知らされたときのジョバンニをこんなふうに表現しています。
「ジョバンニはなぜかさあっと胸がつめたくなったやうに思ひました。」
私も、そのことを妻からの電話で伝えられたとき、そんなふうな感じだったのです。 この表現には賢治がトシを亡くしたときの苦痛が生かされているように思います。 そういった箇所だけではなく、『銀河鉄道の夜』には、トシへの思い、またトシを亡くして考えたこと、 それらのすべてが塗り込められているはずです。もう一度読み直してみなければならない、 それも息子の遺品の中にあった文庫本で読んでみようと、私は考えていました。

長男が宿泊していたホテルで手渡された遺品のボストンバッグを整理していると、 その中から『銀河鉄道の夜』の文庫本が出てきました。 私が賢治が好きで、童話をもとにいくつかの劇を養護学校で上演していることを知っていて、 それを自費出版する手はずを整えてくれたのも彼でした。その本が出来上がってきたのは、 すでに彼が逝った後でした。彼が、私の『銀河鉄道の夜』をモチーフにした 脚本を読んでいたかどうかは分かりません。一部を走り読みした程度だったのではないでしょうか。 元々は理科系の研究者だったのですが、小説は好きでかなり読んでいたようです。 しかし、さすがの彼も養護学校生徒のための劇の脚本を敢えて読もうとはしませんでした。 だから、遺品の中に研究発表にかかわる論文やその他の本に混じって、 『銀河鉄道の夜』があったということは驚きでした。 ブラジルまでの行き帰りに飛行機の中で退屈しないようにとたくさんの本を持って行った 中の一冊でした。自費出版するために私の原稿をデジタルデータ化していた過程で 賢治に興味をもったのかもしれません。 しかし、私が胸を突かれたのは、そのためだけではなかったのです。 『銀河鉄道の夜』では、副主人公であるカンパネルラが祭りの夜、河で溺れて死んでしまいます。 そして、そのことをしらないジョバンニと一緒に銀河鉄道の旅をしていくといった筋立てになっています。 そのカンパネルラと長男が重なってイメージされて、そのことに胸をつかれたのです。 もし長男が文庫本を読んでいたら、カンパネルラの悲劇を知っていたはずです。 そして、みずからも同じように遭難することになるのです。単なる偶然かも知れません。 しかし、私は何か運命的とでもいったものをそのとき感じてしまいました。 後で、知ったことですが、長男の遭難したのが、賢治の命日であったことも、何か意味ありげで、 とても偶然とは思えませんでした。
 ――ブラジルのホテルでちょっと外に出て、サウザンクロスを見てくればよかった。 残念だった、銀河鉄道の天上駅だったのに……
窓外に目をやりながら、そんなことを考えているうちに、 抑えようもなかった憤懣がいつのまにか悲しみに形を変えて私の中に沈澱し始めていました。 電車の中でしたが、涙があふれて来るのをとどめようもありませんでした。
                        【完】


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