腹話術
2013.8.13
出かける準備ができたところで、私はピアノの上に置かれた息子の写真にチラッと視線を走らせました。
今日の息子は、穏やかな笑みを浮かべています。私はちょっと安心して、足下の人形ケースを持ち上げました。
妻は、私が写真を見たのを気がつかないふりをして、「人形まちがってない?」と声をかけました。
腹話術人形は二体あって、今日は昭ちゃん人形の出番なのです。
「大丈夫」
私はケースをゆっくり上下に振ってから妻の目の前に捧げながら、「コラッ、目が回るやないか」と、
腹話術の声で叫びました。
「昭ちゃん、ごめんね」と妻は人形ケースに声をかけてから、自動車を誘導するために、
私の後ろについて出てきました。
「その調子で老人ホームの皆さんにも喜んでもらえたらいいわね」
「まあそうやな、ボランティアとはいっても、結局笑ってもらってなんぼの世界やからな」
そんなふうに返しながら、私は、車の後ろ座席に人形ケースと衣装のリュックを積み込みました。
「でもいくら芸人気分でも、運転中にセリフを繰るのはやめてちょうだいね。危ないから」と妻は、
運転席に乗り込んだ私に笑いながら言い添えました。
「セリフを繰るなんて言い方をいつ覚えたのかな」と不審に思いながら、
私は妻の誘導で車を駐車場から出して、軽く手を振って出発しました。
私は、少し気分がよかったのです。このボランティアを始めてから、
自分も元気をもらうとともに妻にも笑顔が戻ってきたような気がします。子どもを亡くして、
そのことが原因で壊れてゆく夫婦も多いと聞きますが、少なくとも私たちは破綻を免れたのかも知れない。
そんな思いから、私は運転しながら、小さく吐息をつきました。
「さあ、昭ちゃん、今日もがんばろな」と私は、公演の出前に行くときいつもそうするように
人形ケースの昭ちゃんに呼びかけました。すると「ケンジイちゃんの方こそしっかりやってや」と
昭ちゃんの声がいい間合いで応じました。今日は調子がいいようです。
昭ちゃんは、「がんばる」とは、言わないことになっています。
なぜなら、そこに「ば」があるからです。マ行、バ行、パ行は、つい唇が動くので、
腹話術をやるものにとっては鬼門、できるだけ避けたい音なのです。
今日の公演は隣町の老人ホーム「菜の花の里」です。私は、国道に出てから山に向かって車を走らせました。
正面の山は、若葉におおわれて柔らかな色を纏っています。
私は、公演で歌う予定の「男はつらいよ」の一節を口ずさみました。しばらく歌いながら走って、
国道から逸れました。山沿いの道をのぼって行くと、左側にいくつかの建物が山裾に棟を
寄せるように建っています。
「さあさあ、昭ちゃん、菜の花の里に到着したよ」と私は、後ろの座席に声をかけ、
「ああしんど、はよ出してんか」と昭ちゃんの声で応じました。
老人ホーム「菜の花の里」は、これまでにも何度か訪問しているので、要領は分かっています。
駐車場に車を止めて、後ろの座席から衣装のリュックを取ってまず背負い、
つぎに人形ケースをゆっくり持ち上げたとき、中で昭ちゃんがゴトンと動きました。
玄関を入って受付に声をかけると、顔見知りの樽本さんが、以前と同様二階のホール隣りの
研修室に入るように言って、「もうお二人さん、お見えになっているわよ」と付け加えました。
お茶の時間らしく、一階のロビーでうろうろしている人影は見あたりません。
二階にあがって控え室の扉を押すと、先着の二人がテーブルに向かって準備をしていました。
今日の公演は私の腹話術が前座で、次にゼンジー谷こと谷さんの奇術、
トリがすべっ亭しもう太こと佐藤さんの落語という順番になっています。
「やあ、こんにちは、お世話になります、よろしくおねがいします」と私は、二人に声をかけました。
演芸ボランティア協会の会員として上下関係はないものの、年齢が一番下ということと演芸の
品格というものを加味すれば、私の前座に文句はありません。
私は、テーブルの一郭に陣取って、まずケースを開いて立てかけ、中から昭ちゃんを取りだして、
ケースに据え付けの椅子に座らせました。
「はい、狭いところでおつかれさん」
「あーあ、しんどかった。谷さん、佐藤さん、こんにちは。よろしくおねがいしまーす」
演芸の世界で生きてゆくための礼儀は、昭ちゃんもわきまえています。
「ああ、よろしく……」
佐藤さんが気さくに応じ、谷さんはちょと眉を動かしただけでした。
昭ちゃんを自分の方に向かせて、私は簡単な扮装にとりかかりました。
私の場合、老人施設での公演は、パターンが決まっています。昭ちゃんは、
私の孫、昭和の昭ちゃんと呼ばれるほど昭和に詳しい小学生です。学校の夏休みの宿題で、
昭和の歌謡曲や映画について調べてきなさい、という課題が出たので、
昭ちゃんはケンジイのところに聞きに来ます。ケンジイは喜んで、歌を歌ったり、
映画のさわりを教えるという筋書きです。このパターンは、「変幻自在やなあ」と
演芸協会の先生も誉めてくれたものです。
役柄がそのままなので、ケンジイとしては、化粧はしません。ただバンダナを頭に巻いて、
藍染めの作務衣に着替えれば準備完了です。
「えらいはやいですな」と、佐藤さんが帯を締めながら声をかけてきました。
「今日も、昭和歌謡ですか?」
「いつものパターンです。まだ、使えるネタはこれしかないもので……」
「いやいや、何や、障害者施設にいかはったとか、誰か言うてましたけどな……」
佐藤さんの早耳には驚かされます。
「いやー、あれは失敗でした、新作やったんですけど、まだまだ舞台にかけるのはむりでしたわ」
「先生したはったあんさんでもそうやから、私らにはむつかしですわな。いっぺん寄せてもろうたときも、
奇術でも喜んでくれはるんやけど、何を喜んでくれてはるのかなぁて考えたら、ようわからんようなって、
やっぱり出しものがむずかしいと思いましたわ。お笑いでもおんなじことですやろうけど……」
と、谷さんがぼそぼそとつぶやきました。
「まあその点、この老人ホームちゅうとこはぜったいすべらんとこやから……、
このすべっ亭しもう太でさえすべらんのやから、昭ちゃんと二人で客席をしっかり温めといてくれはったら
助かりますわ、あとが、やりやすいから……」と、佐藤さん。
「ケンジイ、ハードルあげられたで、しっかりしぃや」と、昭ちゃんの声で突っ込みを入れた瞬間、
ホールの舞台に通じているドアがノックされました。谷さんが振り返って、「どうぞ」と応じると、
樽本さんがドレスアップした姿で顔を出し、「今日も司会をやらせていただきます。お手柔らかにどうぞ」と
殊勝ぶって挨拶をしました。
「そう言えば、この前、島倉千代子のヒット曲メロディーをやったとき、大ファンのおばあさんがいたでしょう。
後で自分の部屋に連れていかれて、昭和三十年代の歌謡雑誌を何冊も見せてくれはったんですわ」
私は、あわよくば今日も盛り上げ役を、と期待して尋ねました。
「ああ、世津さんのことね。あの方は、先月お亡くなりになりました。八十二歳でした」
「そうですか、……それは残念だな、島倉千代子ファンが、また一人……」
「そうですね。歌う行事は、さびしくなりました」
樽本さんは、そう言って姿を消しました。
暫くぶりにゆくと亡くなっているというのは、老人ホームの慰問ではよくあることです。
時計を見ると開演の予定時刻までまだ二十分ありましたが、トイレを済ませておこうと席を立ちました。
便器に向かいながら、私は、息子を亡くしてから年寄りの死にたいして冷淡になっているのかもしれない、
ふとそんな思いが脳裏を過ぎりました。
佐藤さんの話に出てきた障害者施設というのは、「馬酔木の郷」のことで、そこで公演したのは、
二週間ばかり前のことです。
老人ホームへの慰問ばかりで一年を過ぎた頃から、
私は、障害者施設にも行ってみたいと思うようになりました。そこには養護学校の卒業生もいるからです。
しかし、今の昭和歌謡のパターンでは若い障害者に合いません。私は、自分の持ちネタをあらたに作ることにしました。それで、友情をテーマにした「星にならなかったヨダカ」という脚本を書きあげて、インターネットで鳥の腹話術人形を購入しました。ボランティア仲間に内緒で練習を重ねて、どうにか公演できるレベルに達したかなと思えたとき、妻に手伝ってもらってデモ用のDVDを作りました。それを持って、教師時代の人脈を辿って心当たりの施設を回りました。いくつかあたって、やっと「馬酔木の郷」での公演にこぎつけたのです。出演者として、もう一人、活動弁士の松本さんを協会から依頼してもらいました。チャップリンの「キッド」の活弁を演じてもらうためです。チャップリンが彼らに受けるというのは、教師をしていたときに経験済みでした。
私は前座で、「星にならなかったヨダカ」を披露したのですが、初演ということで演技に強ばりがあり、あまり受けませんでした。そのために余計疲れたのか、公演が終わって控え室でぐったりとしていると、ドアがノックされました。
「どうぞ」と声をかけると扉が開いて、寺田さんと御神くんが立っていました。二人ともに私の教え子で、卒業して三、四年たっています。
「御神くんが今遅刻してきて、先生んとこに行きたい言うからいっしょに来ました」と、
寺田さんはまず訪ねてきたことの言い訳をしました。彼女がここに入所していることは知っていたのですが、
御神くんがいることは知りませんでした。寺田さんの話では、彼は卒業後通っていた作業所を辞めて、
昨年の四月に移ってきたらしいのです。
「御神くん、ここにいたのか、知らなかったよ」
私はこみ上げてくる感情を抑えながら、寺田さんの陰に隠れるように立っている御神くんを、
前に引っ張り出して握手しました。
彼は、以前のように「高井先生、……」と抑揚をつけて呼びかけて、
突然「『わたしは月夜のでんしんばしらであります。』やな」と思わぬことばを口にして、
へらへら笑いながら自信なげに敬礼しました。そのことばは予期しないものでしたが、
彼が高等部二年生の秋、文化祭で上演した『賢治先生がやってきた』のセリフだと私にはすぐにわかりました。
私が脚本を書き、演出も担当したからです。覚えてくれていたのです。御神くんの役は、
大きな額縁の中の月夜のでんしんばしら、セリフはその一言だけでした。
「そうやな、君のセリフはそうやったな、……そやけど、ぜんぜんじっとできんかった。
額縁の中の絵なんやから、ジッとしとれ言うのに、へらへら笑いが止まらんで、何回も怒られたな」
文化祭の練習風景が不意に浮かんで、私は思わず笑ってしまいました。
額縁の中でジッとしていて、突然一歩踏み出して敬礼すると、絵を見ていた生徒たちが、
「おー、絵が動いた」「すごい絵だ」と驚くのですが、御神くんはどうしてもその場面の意味が理解できなくて、
本番でもへらへら笑いを止めることができなかったのです。
そんな彼は、友だちや周りの人から「おんかみさん」と呼ばれて慇懃無礼にからかわれることも
多かったのですが、いつも笑っていて、怒った顔を見たことがありません。
久しぶりに見た御神くんの姿を思い浮かべ、廊下の窓から外を眺めていて、
ふと気がつくと十分前になっていました。私はあわてて控え室に戻りました。施設長の土居さんが来ていて、
二人と話をしていました。
「高井さん、どうもどうも、いつもありがとうございます」
「いいえ、こちらこそ、呼んでいただいてありがとうございます。……ところで、さっき聞いたんですが、
あの島倉千代子のおばあさん、亡くなられたそうですね」
「えーと、ああ、近藤世津さんのことかな。そうです、先月、脳梗塞でした」
世津さんの話をもう少し聞こうと身を乗り出したところに、ホールの扉から樽本さんが顔を出して
「そろそろ時間ですので、ご準備をお願いします」と声をかけました。
「じゃあ、出囃子をお願いします」と、私は、谷さんにCDを渡して、昭ちゃんを抱いて立ちあがりました。
つぎの出番のものが、扉の傍らにある操作盤で音響を操作するのです。
私は、出囃子に宮沢賢治の「星めぐりの歌」の替え歌を使っています。
吹き込んであるハーモニカの伴奏に合わせて、替え歌を歌いながら舞台に出て行くという趣向です。
「どんぐりまなこの昭ちゃん/くりくりかわいいぼっちゃん/「じいちゃん宿題教えて」(昭ちゃんの声で)
/昭和の歌や映画を/みんなで歌を歌おう/昭和の八十八年……」
そしていつものように昭ちゃんが「ケンジイちゃん、自由課題を手伝って」とやってきて、
私が昭和歌謡の話をはじめます。今日は、「男はつらいよ」の映画の話をしました。客席は大合唱になりました。
後半寅さんのものまねをする老人まで登場して大盛り上がりでした。
持ち時間の二十分はすぐにたってしまいました。
「じゃあ、昭ちゃん、遅くなったらパパやママが心配するから、もう帰った方がいいよ」
「そうやね。これで自由課題は片づいたし、後は寝て暮らそうか」
「それはないけど、また何か聞きたいことがあったら、いつでもお出で。
なかってもあることにしてまた来てくれたら嬉しいよ」
「じゃあ、ケンジイちゃん、さようなら」
昭ちゃんに客席の方へ手を振らせながら退場してくると、谷さんがグーサインで迎えてくれました。
「うまいこといきましたな。あたたまったというより熱うなってまっせ。
じゃあ、冷まさんようにがんばりますわ」
ゼンジー谷さんは、そんなことばを残して舞台に出ていきました。
佐藤さんが、デッキから取りだしたCDを私に返して、替わりに谷さんから託された「オリーブの首飾り」を
デッキに挿入しました。
「高井さん、腕あげてきましたね。落語もやらはったらどうです」
佐藤さんが、昭ちゃんをケースの椅子に坐らせている私に、後ろから声をかけました。
「いやあ、落語はとてもとても、……しもう太さんのように落研出身の方は慣れたはるでしょうが、
私らには、落語みたいに自分をもろにさらけだす芸はできませんわ」
私は、ペットボトルの水を飲みながら、そんなふうに返事して、椅子にドサッと座り込みました。
そして心を鎮めながら「オリーブの首飾り」を聞くともなく聞いていました。
長男が亡くなったのは二十八歳でした。当時息子は研究者として出発したばかりで、
研究所の助手が内定していました。学会がブラジルの地方の大学で開催され、
そこで発表するために出かけていって難にあったのです。
当時、私はまだ養護学校に勤めていました。息子が現地で行方不明になっているという一報が入り、
私の生きていた日常が一変しました。詳しい情報が分からないというところにわずかに望みを
つないでいたのですが、その望みを絶ちきるように遺体が見つかったという連絡が追って入り、
同僚の先生方、次男と私の四人でブラジルに出かけました。それは、私たちの意向もあって、
現地で簡単な葬儀を済ませて帰国するまでが一泊五日という強行日程になり、
途中で私が心労のために倒れそうになったほどです。そして遺骨とともに帰郷してしばらくしてのお別れ会、
……。その三週間ほどは、私の人生でまたとないつらい日々でした。
しかし、悲しんでばかりはおれません。しばらくして、私は、勇気をふりしぼって出勤することにしました。
まだまだ気持ちの持ちようがわからなくて不安に苛まれていました。復帰がうまくできないようなら、
定年まで二年を残して辞めるしかないとも考えていました。事情を知っている人に会いたくないといった
思いも強くありました。人中を歩いていても現実感が希薄で、風景にも精彩がなく、
以前に読んだ離人症を病んだ人の心象風景そのままでした。電車の中や職場で所かまわず
不意にこみ上げてくるつらさ、涙を見せることなくそのつらさをうまく紛らすことができるだろうか、
といった心配もありました。
生徒たちは、もちろん今回のことは知りません。私の落ち込みなどまったく気づいてはいません。
いつもどおりの生徒たちです。いつもどおりの明るさで、いつもどおりの遣り取り。
……普段の学校がそこにありました。私にとってはそれが救いでした。
校内で出会うといつも「高井先生……」と声をかけてくれる生徒がいます。御神くんです。
別に用事があるわけではないのですが、笑みを浮かべて、優しい抑揚で呼びかけてくれるのです。
出勤した最初の日の掃除時間、御神くんは、担当場所の体育館にやって来て、
そこで待っていた私にいつもどおり「高井先生……」と声をかけてきました。
私は、返事を返しながら、ふと心に浮かんだ思いつきを口にしました。
「高井先生なぁ、いまめっちゃ落ち込んでて、元気ないねん。御神くん、
『高井先生、元気出してください』って言ってくれないかな、そうしたらきっと元気出るから……」
彼はにっこり笑って、じつに素直に「高井先生、元気出してください」と言葉をかけてくれたのです。
私はあやうく涙が出そうになりました。涙ぐんでいたかもしれません。
私は、「ありがとう、ありがとう」と何度も繰り返し礼をいいました。
御神くんは、私がなぜ落ち込んでいるのか、自分の声かけをそんなにありがたがるのか、
そんなことには無頓着に、もう一度、「高井先生、元気出してください」と繰り返しました。
その呼びかけによって私は最初の日を乗り切ることができたのです。彼の声かけはその時だけでなく、
頼まなくてもその後しばらくは続きました。
私があのときの場面を思い出している間に、奇術が終わって谷さんが戻ってきました。
私はあわてて操作盤の前に陣取りました。佐藤さんから預かった「ずいずいずっころばし」の出囃子を
挿入したのですが、舞台で座布団をセットするのに手間取っているようです。「では、トリのご登場です。
すべっ亭しもう太師匠、よろしくお願いします」と、司会の樽本さんの声が聞こえ、
「ほんならいきまっせ、よろしゅうたのんます」と、しもう太さんは、私に目配せして、
すこし身をかがめるようにして舞台に出ていきました。彼が座布団に坐り扇をパチッと置くのを
切っ掛けに出囃子を止める、それで私の役目は終了です。
「すべっ亭しもう太と申します。しばらくお付き合いねがいます。
このすべっ亭しもう太という芸名ですが、よくまちがわれます。公演が終わって帰るときに、
また来てくださいね。すべっ亭下ネタさん、よかったわ、とかね、……」
会場がどっと沸きました。出だしは好調です。しもう太さんの今日の話は、「饅頭こわい」のようです。
話が進み出したので、私は自分の席に戻りました。
「しもう太さん、腕あげてきはりましたな」
と、谷さんが話しかけてきました。
テーブルに谷さんが奇術で使った小道具が散らばっています。
私は、その中に、一冊の文庫本を見つけました。一瞬、心臓が動悸をうちました。
「この文庫本、何に使わはるんですか?」
「何にて、マジックに使うたんや」
「へー、めずらしぃないですか?」
「どうやろな。お客さんを舞台に上げて、パラパラとやって栞を挟んでもろうたページをトランプで当てるんや。
普段はトランプを使うんやけど、ここらの人はうまいことパラパラとやれんでしょう、
それで今日はじめて本でやってみたんやけどな……」
「ふーん、新ネタですか?」
「いや、新ネタやのうて、トランプマジックの応用問題やな」
「そうなんですか」
「そうやで、マジックいうのは、ほとんどすべてが応用問題ばっかりや、いくつかネタがあって、
後はそれの応用や。目端が利くというのは応用能力があるいうことやな」
「谷さんは、すごいですね」
「何にもすごいことあらへんがな」
私は、話をしながら、文庫本を繰って最後のあたりに年譜を見つけました。
―やっぱりあのときの文庫本と同じやつや。
私の中にじわっと哀しみが滲んできます。
息子が泊まったホテルに残されていた鞄の中に、これと同じ文庫本の「銀河鉄道の夜」があったのです。
私はその夜ホテルの部屋で、息子がなぜこの本を持ってきたのだろうと考えながら、
文庫本をパラパラとめくっていました。そのうちに解説に添えられた年譜がふと目に飛びこんできたのです。
宮沢賢治の命日は九月二十一日となっています。息子が、遭難したのも九月二十一日、
現地の日付ははっきりしませんが、日本の日付ではたしかに二十一日だったのです。
私は、そのとき不思議な感じに襲われたのを覚えています。あの感覚は何だったのか、
すでに五年を経過したいまでもふしぎな感覚のふしぎ感はどこかに残っています。
そのふしぎな感覚の底から、じわっと哀しみが滲んでくるようです。
しかし、最近になって、その哀しみが懐かしさをともなっていることに気がつきました。
時の恵みによって、喪失の哀しみが、哀しいままに懐かしさにくるまれつつあるということなのでしょうか。
私はその懐かしさに浸りながら、ぼんやりと窓から外の景色を眺めていました。
桜が散って、目に染みるような葉桜が見えます。山は柔らかい若葉におおわれています。
煙るような淡い緑です。
私が緑に浸っている間にしもう太さんの咄は進んで、
「つぎは、おいしい淹れたてのお茶がこわい」というオチで、「饅頭こわい」が終わりました。
拍手歓声を背に佐藤さんが部屋にもどってきました。
「おつかれさんでした。よう受けてたね」 と谷さんが声をかけました。
「いやあ、お二人さんのおかげですわ。じゅうぶんにあたためといてもろたさかいにやりやすかったです」と、
しもう太さんは、謙虚にことばを返し、私にも「すみません」と出囃子のお礼を言い添えました。
「それでは、今日ご出演いただいたみなさんに、もう一度出て来ていただいて、
お礼の拍手を受けていただきましょか?」
樽本さんの声に促されて、私たちはそそくさと立ちあがりました。
私はもうすこしでテーブルの上に昭ちゃんを置き去りにするところでしたが、
谷さんに言われて胸に抱えました。会場は、笑いの余韻に包まれていました。
挨拶を終えて控え室に戻ると樽本さんがついてきて、礼を述べた後「お弁当を用意してますので、
食堂で食べていってください」と付け加えました。
片づけと着替えを終えて、三人揃って食堂に行くと隅っこの席が確保されていました。
私は持参した人形ケースを足下に置きました。すでに食べはじめていた人たちは、私たちに気づいたようで、
少しざわざわした雰囲気になりました。何人かの方が、私たちのテーブルに寄ってきて
大きな声で話しかけてきました。ぼんやりしていた私は、取り囲まれた瞬間、
彼らの中に御神くんや寺田さんがいるような思いにとらわれました。もちろん幻覚は一瞬だけのことでしたが、
私は気持の余裕を失って人垣の中からそっと一歩退きました。
佐藤さんは、握手責めにはじめは愛想よく応じていたのですが、
いつのまにか手を握られたままになり表情がぎこちなくなっています。
谷さんは疲れた様子で憮然と椅子に座り込んでしまいました。そこへ樽本さんが近づいて来て
「そんなことしてたら食事できないじゃないの、大切なお客さまなんだから、ゆっくり食べてもらいましょう」と、
みんなを押しやりました。
「ごめんなさいね。皆さん楽しかったものだから、つい……、それで、お願いがあるの、
こちら、お見舞いの方なんですが、同席させていただいてもいいかしら?」と彼女の
後ろに控えている男性を手で指し示しました。
「どうぞ、どうぞ」と、私は隣の椅子を勧めました。
「すいませんな。じゃあ、失礼します。……天野ともうします。さっき、かってに公演を見せていただきました。
あんなふうに心から笑ろうたんはひさしぶりですわ」
「ここは皆さんがもりあげてくださるので助かります」
「いやぁ、楽しかった。見舞いをほったらかしで……おふくろがね、痴呆が進んでいましてね。
今も部屋で寝てますわ」
デイサービスの利用者さんで急に来られない人があって、弁当を融通してもらったと説明しながら、
天野さんは、ポケットから栄養ドリンクを取りだして、卓上に置きました。
「これが手放せんのですわ、毎日一本……、出かける前にちょっと飲んで、
お茶飲んで、帰ってきたらまた飲んで、お茶飲んで、……病院に来る日は、もう一本……」
「それ依存症ちゃいますか?」と、佐藤さんが横から口を挟みました。
「そうですかな。……以前入院してた老人病院でおふくろが縛られてたんですわ。
それを見るのがつろうてね。つい、朝から元気づけに一本」
「縛られてるというのはよう聞く話ですけど、見てる方はつらいわな。で、今どんな具合です?」
「まあ、ここは縛りませんけどな、もう認知症状が進んで、息子の顔もわかりまへんわ」
彼は、どうせ見舞いにくるなら、少しでもヘルパーさんを助けたいと、
食事時をえらんで来るようにしているようです。ある日、彼がスプーンで流動食を食べさせていると、
そこへヘルパーさんがやってきて、「光枝さん、いいわね。息子さんに食べさせてもらって……」と、
話しかけました。すると、おふくろさんはふっと咀嚼を止めて、まじまじと彼の顔をみつめました。
そして、首を振ったのだそうです。
「おふくろはわたしのことを息子やと思てない。それでね、私の顔をまじまじと見たんでしょうな、
そしてボソッとね、『人間だもの』て言うたんですわ」
昔彼の家の玄関に、相田みつをの詩の額が懸けてあったそうです。
「どんな詩か覚えてないんですが、さび言うんですか、最後のところは、
『人間だもの』というんでしたわ。……おふくろはとつぜんそのさびのところを思い出したんですなぁ。
それが実にグッドタイミングやったんで、なんかおかしぃてね、ヘルパーさんも噴き出してしもうて、
二人で大笑い、おふくろはキョトンとしてましたけどな」
私たちも笑いました。笑いを潮にして、天野さんは、弁当殻とドリンクの瓶を片づけて、
丁重に礼を言って病室に帰っていきました。
「『人間だもの』か……」と谷さんがつぶやき、「そんなセリフ、オレには言われへんな。
……あんたやったら言えるんちゃうか」と佐藤さんに振りました。
「ムリムリ、ワテもムリですわ、まあ、昭ちゃんくらいやないですか言うておかしないのは……」と、
佐藤さんは私の足下のケースを見下ろしました。
「そら昭ちゃんは、高井はんの操り人形やからな」と、谷さんが混ぜ返すのを笑いながら聞いていて、
ふと私の脳裏に御神くんの顔が浮かびました。そして、あれ以来心にひっかかっていた疑問が、
その瞬間ジグソーパズルのピースのようにあるべき位置にぴたっと嵌ったような気がしたのです。
あのとき、御神くんは、私の願い通り「高井先生、元気出してください」と声をかけてくれたのですが、
彼は私の置かれていた状況や苦しさを分かっていたわけではないのです。
何も分からないままに素直に私の頼みに応じて声をかけてくれたのです。
しかし、私には、そのことにどこかで拘る気持がありました。ムリに言わせただけの無意味な
言葉かけだったのだろうかと。その拘りが、谷さんのことばを聞いた瞬間、氷解していったのです。
御神くんはけっしてあやつり人形なんかではなかったということがはっきりとわかったのです。
彼は額縁の絵の役をあてがわれてもじっとしておれなかったようにはっきりと自分の意志を持っている人間です。
そんな彼が私の頼みに応じてあの言葉をかけてくれたのです。彼は私が陥っていた
情況は分からなかったかもしれませんが、確かに私の苦しさを感じ取っていたのです。
その証拠に顔を見ながら「先生、元気出してください」ともう一度繰り返してくれました。
そしていま、あの繰り返しの後に一つの言葉が埋まっていたのではないかと気がついたのです。
彼は、もし言うことができるものなら、「人間だもの」と最後に付け加えたかっただろうと、
私の中に今そんなふうな確信が生まれていました。
私は、またいつか御神くんのいる「馬酔木の郷」に公演に行こう、 そして今度こそは、
腹話術を楽しんでいる彼の笑顔を見たいものだと考えていました。
「じゃあ、またご一緒できるのを楽しみにしてますわ」と私は二人に声をかけて、
足下の人形ケースを持って席を立ちました。
【完】
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