百年


 せっかくの遠足だというのに、天気が悪くて、空はどんよりした黒い雲に覆われていました。花しょうぶ園までの坂道は、新緑の木々が両側に鬱蒼とせまって、ほとんど暗いトンネルのようでした。心臓の悪い教師が遅れがちになるのを、生徒の一人が杖らしきものを見つけてきて、ひっぱりあげていました。
 高等部三年生は、総勢で五十人足らず、行き先は室生寺からそんなに遠くないところの花しょうぶ園です。鬱陶しい天気ではあるのですが、遠くの低い空は変に明るくて、どうにか持ちこたえてくれるかもしれないという淡い期待もありました。
 花しょうぶ園の前はすこし広場になっていましたが、平日ということもあって、 ほとんど他の客はいないようでした。
 中に入ってみると、花しょうぶはまだ咲いていないということが分かりました。 紫陽花もまだ。てっせんの花だけが、閑散とした園の中で生徒たちを迎えてくれたのです。 おそらくはこの村のおばさんたちが、日雇いしごとで、花しょうぶの手入れをしていました。 二、三年前、この近くから来ていた卒業生が、ここの花しょうぶ園に 就職したはずなのでどうしているか聞いてみました。
「あのお人は雨が降ると休むから、きょうもお休みかもしれんで......」
 あまりなじんでいないのかな、と感じさせるような無愛想な返事でした。
 見るものといえば、てっせんだけでした。それでもいろんな種類のてっせんは、 変化があってそれなりに見応えがあったのです。
 花しょうぶ園を一回りしたあと、私は、クラスの生徒といっしょに休憩所で休んでいました。 杉材で組んだ屋根だけの吹きさらしの休憩所で、周りが見渡せるようになっているのです。 近くの牧場の搾りたての牛乳を頼みました。こくがあってたしかにおいしかったのです。 しばらくして若いウェイトレスが、カップを集めに来てくれました。
「おさげしてよろしかったでしょうか?」
 ウェイトレスは近くにいた私に声をかけました。
私は、ちょっととまどいましたが、すぐに意味が理解できて、 「おねがいします」と返事しました。
「はじめは意味が分かりませんでした」
 ウェイトレスが片づけていったあと、担任のM先生に話しかけました。 私はこのクラスの副担任なのです。若いM先生はちょっと楽しそうでした。
「あの言い方でしょう」と、いたずらっぽく笑いました。
「先生は知らないんですか? このあいだ新聞にも載っていましたよ。 若い人の中にあんな言葉遣いをする人もいるらしいんですね」
「未来と過去がまじりあっていますね。」と、私はおそらく眉間に皺を刻んで言いました。
「まだ『おさげ』もしていないのに、それを『よろしかったかどうか』と過去形でいうのはおかしいよね」
「A先生、えらくこだわりますね」
「未来と過去がごっちゃにまじりあってるような......」
「そんなおおげさなことじゃなくて、たんに若い人のはやりですよ」
 私はあいかわらず考え込んでいました。
 対面の丘の斜面に植わっている紫陽花を見に行こうということになって、 私たちのクラスは早めに出発しました。 坂を下りながら、私はまだ先ほどの言い回しに拘っていました。
 未来のことを過去形で表現するなど、どう考えてもおかしいじゃないか、 と憤慨せずにはおれませんでした。これをどんなふうに説明できるのかと、 堂堂巡りのもの思いにとらわれているとき、ふと声がして我に引き戻されたのです。
「百年たったら、また会おう......」
 最初は何が聞こえたのか分かりませんでした。叫び声は、 かすかにこだまをともなって谷に響きました。
 花しょうぶの棚田を抜けて、丘にさしかかったところでした。 見上げると、まだ休憩所には他のクラスの生徒がたむろしていました。 逆光で黒い顔の生徒たちです。
「二百年たったらまた会おう」
 私と前後して歩いていた女生徒が突然振り返って叫びを返しました。
 花しょうぶの棚田を隔てた別の亭にも手を振る生徒たちが見えました。
 私は、内心ちょっとおどろいていました。
 その挨拶が不意打ちのように新鮮に聞こえたのです。
「ああ、いい響きだ。生徒によく似合っている」
 その叫びを聞いた瞬間にそう思いました。ほんとうに生徒たちに相応しい挨拶だと感じ入りました。「百年たったら......、二百年たったら......」というのが、 いかにも自然なものに聞こえたのです。
 どうしてこんな挨拶が出てきたのかは分かりません。おそらくは、宮崎駿のアニメにでもあって、それをまねているだけかもしれないという気もしました。 でも、それだけではないようにも思うのです。
「この挨拶は、うちの生徒たちになんてよく似合っているんだろう」
 そんなふうに考えている内に、ふと文化祭の劇のことに連想がいったのです。
 昨年の文化祭で、私が脚本を書いて、この学年全員で『賢治先生がやってきた』という劇をやったのです。宮沢賢治が養護学校の先生としてよみがえるという想定の劇でした。劇の最後のあたり、生徒たちが、見てはいけないと禁止されていた理科室を覗いて、賢治先生が実は銀河鉄道の車掌をしているという秘密をかいま見てしまいます。秘密を知られたからには、賢治先生は、学校に居続けることはできません。賢治先生は生徒たちに見送られながら銀河鉄道でふたたび去っていきます。
その場面での生徒の台詞にこれがぴったりだということに思い当たったのです。 私の脚本ではこんなふうになっています。

 生徒 あっ、銀河鉄道が発車していくぞ。
 生徒 賢治先生と又三郎くんはきっとあれに乗って
    るな。
 生徒たち 賢治先生、賢治先生。(と叫ぶ)
    又三郎、又三郎。(と叫ぶ)
 生徒 賢治先生、ぼくもまた銀河鉄道に乗せてくだ
    さい。
 (耳をすますと、遠くから「いいぞ」という声がき
  聞こえる)
 生徒 天の川まで連れて行ってください。
 (「いいぞ」)
 生徒たち 賢治先生、銀河鉄道に乗せてください。
 (「いいぞ」)
「いいぞ」と応えているのは、銀河鉄道で去っていく賢治先生です。
 そこで、脚本に「百年たったら、また会おう」という台詞をこんなふうに付け加えたら、 どんな感じに なるのでしょうか。

 生徒 賢治先生、ぼくもまた銀河鉄道に乗せてくだ
    さい。
 (耳をすますと、遠くから「いいぞ」という声が聞
  こえる)
 生徒 天の川まで連れて行ってください。
 (「いいぞ」)
 生徒たち みんないっしょでいいですか。
 (「いいぞ」)
 生徒 賢治先生、百年たったら、また会いましょう。
 (「よーし、いいぞー、百年たったらまた会おう
   ......」)
 生徒たち 約束ですよー。賢治先生。
 (「いいぞ」)

文化祭の場面を思い浮かべながら、そんなふうに生徒の台詞を反芻しているとき、また不意の叫びが私を現実に引き戻しました。
「五百年たったら、また会おう」
 向こうの丘から、不意にまた生徒の叫びが聞こえました。
今回もすこしこだまが尾を引きました。
「千年たったら、また会おう」
 先ほどの女生徒が間髪を入れずに答えました。
 休憩が終わって歩きはじめたとき、私はさっき呼びかけに応えた女生徒と並んで歩きながら、「百年たったら、また会おう」という台詞のでどこを知っているかどうかを聞き出そうとしました。 しかし、どうもはっきりしないのです。知らないのかもしれません。 それともわたしが聞いている意味が分からなかったのか。 私は追求をあきらめて彼女の側を離れました。みんなはいちじくの植わっている 丘を登りはじめました。
「百年たったら、また会おう」
 私は、口の中でつぶやきながら、斜面を一歩一歩踏みしめて登っていきました。
 宮崎駿あたりのアニメにあった台詞ではないか、というあてずっぽうは真実なのかどうか。しかし、もしそれが真実なら、劇中で使うと盗用ということになるのかな、 そんなたわいもない疑問がふと浮かびました。養護学校の劇で台詞として使ったとしても誰が訴えるというのでしょうか、私は笑いをこらえて考えました。
 しかし、「百年たったら、また会おう」というこの台詞が本当に似合うのは彼らをおいてはない、という思いはますます確信になっていました。もっとも相応しい状況で相応しい人によって発せられたのです。時間を超越したような生徒たち......。そして、考えてみると、 この挨拶は生徒にだけではなく、宮沢賢治にもぴったりの台詞だということが分かります。 なぜなら『賢治先生がやってきた』を上演したのは、賢治の生誕百年の年だったからです。 賢治は百年たって、よみがえって、またまた「百年たったら、また会おう」という約束を叫びながら銀河鉄道で去っていくという想定だからです。
 丘を登りきると、ちょっとした平地になっていて、そこから生徒たちに先導されて生け垣の 迷路のようなところに入っていきました。
「百年たったら、また会おう」
 私は、坂道を上ったなごりで息をはずませながら、もう一度つぶやいてみました。
 小さく口にした途端に、ちょっと眩暈の前兆のような浮遊感にとらわれました。
「百年たったら......、私は......」
 そんなふうにつぶやいて、貧血かもしれないと考えながら、側の木立につかまっていました。ふと気づくと、生け垣の迷路の中で私だけが取り残されていました。
 どのくらい立ちつくしていたのか分かりません。時間の感覚が失われています。時間の迷路に迷い込んだようなのです。
「百年たちました。あなたの一生をおさげしてよろしかったでしょうか?」
 そんな声がどこからか聞こえたような気がしました。何か血の気が引いていくような感覚に襲われていました。
 そのとき、不意にぱらぱらと雨が降りかかってきて、私は我に返りました。 生け垣の葉っぱがさーっという雨音に揺らいでいました。迷路を風が通り抜けていきました。空を見上げると雲の一郭が割れて、白っぽい青空がのぞいています。
 そばえ、きつねの嫁入りでした。
                      〈完〉


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